香港歴史散歩2004(7)ケネディタウン

【香港ルート17】2004年5月30日

朝起きると晴れていた。何となく散歩に出るとバスに乗って海に行きたくなる。レパルスベイ行きバスを待つがなかなか来ない。そこへケネディタウン行きバスが来たのでつい乗ってしまう。このバス(No.10)は北角からケネディタウンまで僅かHK$3.4で行ける。もしかすると香港のクーラー付きバスとしては最も安いのでは?

(1) 東華痘局アーチ型門と奠基石

天后から約50分、ケネディタウンのバスターミナルに到着。そこは招商局の倉庫などがある海辺である。そのターミナルの端っこに東華痘局アーチ型門と奠基石がある。小さな、小さな公園のようになっているその場所は公衆トイレに訪れる人でも滅多に見ないのでないかと言うほどひっそりしている。

ここは香港島の西の外れ、19世紀末にケネディ総督によって開拓が進めたれたことからその名が付いた。島の外れと言うことで屠殺場やゴミ捨て場として使われた。伝染病病院の建設もそんな関係で1910年に落成したのだろう。(政府の病院となったのは1938年)

しかし日本の占領時代に取り壊され、その後再建されることは無く、今ではアーチ型の門と定礎石が残っているのみ。そのアーチの形が何故か非常に物悲しい。想像するに昔は伝染病の流行が良くあり、多くの人が亡くなった。その名残だろうか?

(2) ビクトリア市境界石

バスターミナルから数百メートル西へ行くと、青少年がサッカーなどに興じているグランドが目に入る。グランドの向こう側には海が見える。ここから見る海は非常に青い。小さな島が2つ、くっきり見える。釣りをしている人々もいる。何と海パン姿で海に入っている老人までいる。

 

公園内を歩き回るが、お目当ての境界石は見当たらない。そんなに広くないのに。グランドでサッカーの試合をする子供を応援する母親がベンチに座っている。その昔子供の頃少年野球をしていた頃、母親が見に来ると嬉しかったのを思い出す。その後ろを通ると何とそこに小さな石がある。そこには『City Boundary 1903』とのみ書かれている。実にシンプル。100年前にはビクトリア市と言う呼び名があり、ここが境界線だった。ということはここから西は市外地。番外地と言ったイメージか?

(3) 摩星嶺要塞

ガイドブックによれば、境界石を見た後はそこからタクシーに乗れとある。これは珍しい。普通は歴史散歩であるから歩きなのである。次の場所は当然交通機関が無く、又かなり険しい登りの様だ。

 

タクシーは細い小道を上がって行く。右側に時折、海が見える。眺めは良い。歩いている人は殆どいない。10分ほど行くとタクシーが停まる。左側にユースホステルがある。若者が何人かいる。

更にそこから急な階段を登りきると右側に砲台跡と思われる場所に出る。ほぼ破壊されており、瓦礫が残っていると言った感じ。そこから左手に公園を見て歩いて行くと、その先には兵舎、貯蔵庫等の建物が今も残っている。こんな所にと思うが、この山は1912年に要塞が建てられた軍事上の重要拠点。

1941年の日本軍上陸に際しては、この拠点は最大の攻撃目標とされ、イギリス軍は撤退の折に自ら要塞を破壊したと言う。その後再建されることは無く、現在は荒れ放題。周りには草が茫々に生えており、何となく芭蕉の『夏草やつわものどもが夢の跡』と言う句を思い出す。

近くには通信会社の無線塔が建てられており、丁度修理が行われていた。やはりこの場所は重要なのだろう。

(4) 域多利道奠基石

山道を歩いて降りる。暑いが山道は気持ちが良い。最近は強盗事件もあり、一人で山道を歩くのは危険であると言われるが、流石に日曜日の午前中、しかも車も通る道ではそんな気配はまるで無い。

所々に砲台や兵舎(見張り小屋?)の跡と見られる残骸がある。その横に綺麗な休憩場所があったりして面白い。要は見晴らしが良い場所は軍事上も価値があると言うことだ。

 

降りきって域多利道に出る。数十メートル戻ると摩星嶺道との交差点がある。そこに奠基石がある。1897年に域多利道の建設記念として起点に置かれたものを1977年に現在の場所に移転した。1897年、1977年共に地下にタイムカプセルが埋められたという。タイムカプセルと言えば、先日世界1周の途中でお会いしたTさんが『世界1周の動機は16年前タイムカプセルに入れた自分への手紙』と言っていたのを思い出してしまう。この下にはどんなものが入っているのだろう?

(5) 銀禧砲台跡

1938年に建造された砲台。当時は3つ砲座と地下室の弾薬庫があったが、1941年の日本軍上陸の際、イギリス軍は砲台施設を破壊して撤退。その後再建されることは無かった。

その残骸は域多利道から下に降りるとある。殆どそれとは分からない。更に下に行くと海に出る。見晴らしの良い場所である。岩に立って釣りをしている人が居る。

(6) 海辺の廃村

砲台傍の海辺には1951年に大陸から貧しい移民が押し寄せ小屋を建てて住み始めた。大陸で共産党が政権を握ったことと関係があるのだろう。

しかし1983年の台風で村はほぼ全壊。翌年には村は全て撤去され、住民は別の場所に移り住んだと言う。香港でしかもこんなに近い過去にこのようなことがあったとは信じ難い。今村があったと思われる場所は立ち入りが出来ないようだ。

因みに砲台の直ぐ近くに古びた建物があった。『Oriental Hotel』と看板があったが、既に廃業しており、その土地は政府に差し押さえられているようであった。この海辺のホテルは何となく趣があったのではないかと思うが、どうだろう?

廃村の横に立つ廃業ホテル。ここが香港だとは思えない。

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