香港歴史散歩2004(18)廈村

【番外編2―廈村】2004年11月20日

これまで黙々と個人で歴史散歩をしてきたが、ガイドブックとして使っている『香港市区文化の旅』という本をメルマガ読者に紹介をしたところ、購入申し込みが10冊以上来て驚いた。香港に歴史はあるのか、これをテーマに参加したい人を集めて『香港歴史散歩』の会を立ち上げて見たいと思った。

講師にはKさんしかいない、ということでお願いした所快諾を得た。そして1回目、無難に上環を選定し、皆さんに案内を出した。ところがその後Kさんより、『新界で10年に一度のお祭りがあります。どうせならそちらに行きませんか?』との誘いが入る。

人間というものは『10年に一度』などという言葉には弱い。それは私だけではなかったようで?何と最終参加者は講師を含めて28名。小学5年生から50代の方まで。男性13名、女性15名。会社員、学生、主婦、実に様々な人々が参加してくれた。感謝、感激。私からすれば空前の歴史散歩である。

(1) 天水圍へ

今回の目的地はKCR西鉄天水圍駅。この線は最近開通したばかりであり、私も乗ったことが無い。どうやって行くのか?主催者自身行き方が分からない、それが私の歴史散歩スタイルであるが、こんなことでよいのであろうか??セントラルから東涌線で南昌駅まで行き、そこで西鉄に乗り換えるのが速いと聞く。それでも1時間は掛かると言われる。

当日はセントラルに1時半集合。20名がここに集まる(残りは天水圍)。しかし時間通りに皆来るのだろうか?1名が遅れたが自力で後から来るという。19名は1時半にきちっと集合している。やはり日本人だな、と思う。幹事としては有難い。

取り敢えず天水圍までの道順を説明。その後は『人が何千人か、何万人いるか分からない為、自己責任で行動』するようお願いする。何しろ先週の新聞でもメイン会場は七千人収容とある。天水圍駅で既に人が溢れている可能性すらある。不測の事態に備えなければならない。全員の携帯番号を確認する。南昌駅で乗り換える。実に便利で直ぐに西鉄ホームへ。但しオクトパスを持っていなかった人は大回りする羽目になったが。

KCR西鉄は新しいだけあって、非常にきれいでゆったりしている。ホームにあまり人影が無い。どの駅も同じで人影が無い。相当な投資をしたはずであるが、採算があっている感じはしない。車両もきれい。車窓からは香港の田舎の景色と、マンション群が交互に出現する不思議な線である。

しかし天水圍に近づいているというのに、乗車している客は極僅か。何万人の祭り客は何処にいるのか?

そして天水圍駅。やはり人影は疎ら。講師すら来ていない。日を間違えたのか?
やがて参加者全員が集まり、記念写真などを撮る。いよいよ出発。駅を出るが人はいない。バス停にも人がパラパラ。一体どうなるのだろうか?こんなに多くの参加者に来てもらって、何にも無い祭りだったら、地元の人しかいなかったら、不安が過ぎる。

(2) 鄧氏宋祠

無料バスもあるようだったが、散歩の名の通り歩いて廈村に向かう。駅前の通りを西に向って歩き出す。歩いているのは我々だけ。通り抜けるバスを見ると満員の客が乗っている。やはり祭りはあるのだと確信。

駅前のマンション群を眺め、少し行くとトラックやコンテナ車が多く行き交うようになる。やがて川を越える。すると右側の向こうの方に巨大な建物が見えてきた。メイン会場だ。大きな看板もある。これは本当に大きなイベントであることが分かってくる。

  

更に行くと『太平清醮』と書かれ、2匹の龍をあしらった大きく派手な看板が道の横に立てられている。のぼりも見えてくる。祭りのムードが高まる。しかしその横には大きなコンテナが沢山積まれていたり、反対側には何故か屋根の上に壊れたヘリコプターの残骸があったりする。かなり分かりにくい土地柄だ。

そして遂に村に到着。ここまで徒歩15分。廈村郷と書かれた祭り会場が見える。しかしここまで来ても人は疎ら。参加者は思い思いに散策。講師に言われて、ここが廈村の鄧氏宋祠であることが分かる。中に入ってみるとかなり歴史がある建物である。

今回講師のKさんはこの散歩の為に、6ページに渡る詳細な資料を用意してくれた。その資料に寄れば、廈村鄧氏は973年に現在の錦田に移住してきた鄧氏の流れを汲み、14世紀に登場。現在も圧倒的に鄧氏姓が多い。鄧氏宋祠は1751年に完成、その後19837年と1883年に改修された。『三進両院式』の構造で、友恭堂と名付けられている。

 

青煉瓦の壁は豊かさの象徴、奥には歴代の宗家の位牌が置かれている。香港人でも外から来た人には珍しいと見えて盛んにシャッターを切る。香港人にしてもここは未知の場所であるようだ。決して観光地ではない、隠れた名所であろう。

(3) 太平清醮

太平清醮とは、複数の異性の氏族が共同で行う祭祀で、道士や僧侶が鬼神と交信する大規模な祭り。太平とは平穏無事を保つということ。10年に一度行われ、準備は1年も前から開始される。費用も最近は300万香港㌦程掛かっている。これを村人と海外に移住した華僑が賄うという。

道を進むとど派手な看板が道に並ぶ。そしてメイン会場近く、初めて多くの人々がいるのを見る。この人たちはどうやってきたのだろうか?龍舞を盛んに動かしている一団がいる。獅子舞が踊る。祭りである。

  

メイン会場に入ろうとすると、中には既に多くの人がいた。鉦や太鼓が打ち鳴らされ、龍や獅子が踊っている。漸く中に入ると大きな会場の前には各地の参加者が書かれた巨大な看板が置かれる。祭壇も置かれ、供養の食べ物も出される。饅頭もあるが、長州島の饅頭祭りほどの量ではない。

午後3時半、庭の真ん中には村民の代表として儀式を司る『縁首』と呼ばれる人々が龍に目を入れようとしている。本日のメインイベントの一つである。龍が輪の真ん中に近づく。歓声が上がる。テレビカメラが入る。非常に素朴な感じがする。祭りらしい感じがする。何故であろうか?祭りに関わる人が皆シンプルなTシャツを着ているからか?

(4)イベント会場

メインイベント会場に一足先に入る。中は非常に大きく、天井も高いが、何と竹で組まれている。中国的。この竹組みの会場をギネスブックに登録する動きがあるとか。確かにこれだけ巨大な竹で出来た施設は無いかもしれない。しかしこの会場は10年に一度の祭りの為に造られたもので、12月に粤劇が開かれるそうだが、その後保存する気があるのだろうか?それとも幻のギネス登録遺産となるのだろうか?

入り口から赤いじゅうたんが敷かれており、奥のほうに客席が、更に先にひな壇がある。ひな壇の後方には道教の神様が祭られている。本日はここでオープニングセレモニーが、そして12月にはここで粤劇が開かれる。

左後方には紙で出来た精巧な祭壇がある。各神様の名前が書かれており、中にはその神に纏わる伝承が紙人形などで再現される。先日お葬式に行った際に葬儀場で見た紙の人形、車、家などを思い出す。ここに飾られているものも最終日には全て燃やされるに違いない。

我々は式典が始まるのをじっと待っている。先程龍舞が会場に入り、勇壮な踊りを披露しながら段々と静かに一本の龍になり、その体を横たえた。その長さは数十メートル。よくもこのようなものを作ったものだ。何処に仕舞っておくのだろうか?との声が出たが、恐らくは紙人形同様最終日に燃やされるのだろう。何しろ10年に一度なのだから。

表では引き続き龍舞が行われ、獅子舞も賑やか。村の代表者も外で何かを待つ。神の到来を待つのか?残念ながら本日の主賓である民政長官の到着が遅れているとのこと。散歩メンバーからは『テレビのように早送りできないかなあ、足が痛い。』などの声が聞こえ出す。無理も無い、既に2時間以上立っている。

しかし普段せっかちなはずの私は、何故かこういう場合至極冷静、かつ時間が気にならなくなる。『日本人はいいとこ取りしようとし過ぎです。本物を見ようとする人は時間を気にしないものです。』などと自分らしくない言葉が口から出る。

4時50分、民政長官が到着。就任以来どんどん太っていると噂の人物が巨体を揺らしてくる。式典が始まる。前の方は貴賓席、しかし何故か西洋人が座っていたりする。訳が分かっていない観光客かなと思うが、この村からは大勢のオランダ移民が出ている。当然彼らはこの祭りの為に多大な寄付をしているはずである。それと何関係があるのではないか?

我々は後ろの方で立って見ている。村人が北京語で『何処から来たのか?』と話し掛けて来る。Sさんが日本人と答えると、嬉しそうに祭りのパンフレットをくれる。非常に素朴な人々である。

開会宣言、挨拶などが終わり、皆がメイン会場の反対側に設けられた祭壇に向かう。香を手向けるためだ。いよいよ本日のクライマックスが近づく。

(5)爆竹

香港では1967年の香港暴動以来、爆竹を鳴らすことが禁止されている。今回は実に37年ぶりに民間で爆竹を鳴らすことが許可されたということで注目が集まっていた。しかし爆竹は一体何処にあるのだろうか?

表に出ると左側に大きな紙人形が飾られている。その横に何故か大きな垂れ幕があり、電話番号が書かれている。花火屋さんの宣伝のようだが、どうやらその横に爆竹が仕掛けられているようだ。既に多くの人がその垂れ幕近くに集合していた。カメラマンが位置取りしている。間違いない。

『香港暴動』とは何か?『香港領事、佐々淳行』という本によれば、1967年に起こった中国の文化大革命に呼応した反英武装闘争であった。香港に戒厳令が敷かれ、爆弾騒ぎも相次いだ。その中で紛らわしい爆竹も禁止されたのだろう。

5時半を過ぎて辺りは暗くなり始める。香を手向けていた人の輪が緩む。人の輪が左側に傾く。すると突然爆竹付近の下から煙が。と思うと轟音と共に爆竹が炸裂。シャッターを切る手が震えるほど。そしてどんどん爆竹の線が上に上がり、十数秒後には音が止んだ。あっと言う間の出来事であった。写真が撮れなかったと悔やんだ人もいた。

翌日の新聞を見ると1面に『37年ぶりに爆竹、電子爆竹で』とあった。そうか、あれは危険を避ける為に電子制御された爆竹だったのか。長さ6m、200個の爆竹がセットされていた。1つ3万香港㌦。今後これを売り出し、爆竹を復活させるつもりらしい。尚本日の人出は八千人ということで、何万人ではなかったが多くの人が参加していたことがわかる。

今回の旅は昔の日本の祭りを思い出させる、実に不思議なものであった。参加者も多くが、1人では行けない場所に行けたこと、事前資料で多くのことが学べたこと、などから好評だったと思う。次回も続けられるかな??

 

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