香港歴史散歩2004(19)錦田、天水圍

【番外編3―錦田、天水圍】2004年12月3日

大学時代の先輩Nさんが香港に来るという。昔から人とは違う感性を持っている女性であったが、今回はご主人Wさんの趣味と合わせて、一味違う香港旅行にしたいということでお声が掛かる。Nさんの興味はお茶、Wさんは鉄道。この日はWさんの趣味を入れてMTR、軽便鉄道、KCR西鉄に乗るため新界へ。尚Nさん、Ho太(家内)、私は大学時代同じクラブということで、珍しくHo太が同行。

(1) 三棟屋博物館

シェラトンホテルで待ち合わせ後、MTRで終点の荃湾へ。この街のイメージはベッドタウン。駅の北東には多数の大型団地があり、駅には各団地のシャトルバスが停まっている。その数には正直ビックリ。

MTRを降りる時、既に博物館の文字が見えていた。一番手前の出口を出て左に真っ直ぐ4-5分歩くと三棟屋博物館が見えてくる。ここ荃湾には200年ほど前から新界の5大客家の陳氏が移住してきており、大きな集落をなしていた。

陳氏の祖先は福建省から広東省に移住、1786年に荃湾に移り住み、開墾し農業を行った。3つの棟割長屋風の造りからその家屋は三棟屋と呼ばれている。1970年代の地下鉄開業で再開発が行われ、村は取り壊され、人々は他に移住した。1987年に伝統的な客家の家と祠堂が再現されて博物館となった。白い城壁で囲まれた中には碁盤の目のように配置された家々が整然と並ぶ。

家の1つに入ると三房両庁の間取りがきっちりされている。手前が厨房や農作業場、奥が居間、寝室、物置場といった所。2階もある。正面入り口から真っ直ぐ進めば、奥には祠堂があり、歴代当主の位牌が飾られる場所がある。

両サイドには横屋が連なっている。各横屋にはそれぞれの産業の歴史が展示されている。保険のコーナーには戦前の東京海上のポスターがあるなど、なかなか面白い。

(2) 吉慶圍

荃湾の駅に戻り、錦田行きのバスを探す。意外と分かり難い。駅舎を跨いで反対側に51番のバス停はあった。しかし周りに人は誰もいない。何時来るとも知れないバスを待つには時間が無く、丁度来たタクシーを停める。

運転手は女性であった。赤い車体の九龍タクシー。錦田の場所が分からない。ガイドブックではバスで20分となっていたので、軽く考えていたが、それは山越えの道のりであった。錦田行きのバスの番号51番をバス停ごとに確認しながら進む。W夫妻には香港にも自然があることを認識して貰う良い機会になったかもしれない。

20分ほどして漸く下りに。錦田公路という道に出る。錦田市内へ。市内といっても田舎の街である。それ程大きくはない。少し行くと軍の施設などが見える。石崗軍営である。かなりゆったりとした庭の中に建物が続く。そういえば人民解放軍が1997年に進駐してきた場所がこの辺りではなかったか?更に小さいが飛行場が目に入ってくる。こうなると本格的である。香港にもこのような場所があることを再認識する。

運転手がまだ着かないと心配した時、城壁のような場所を通り過ぎた。ここだ、と車を停める。正に城壁に囲まれた街が目の前にある。しかし意外だったのは、城壁の中の家が近代的に見えたこと。ここは観光地として保存していると思っていたが、全く普通の住宅が中にあったのである。

 

入り口はどこか?おばあさんが3人座っていた。近づくと一人が客家の帽子を被る。どうやらガイドブックに書いてあったおばあさんか?写真を撮ると10ドル取られると言う。小さな入り口を潜ろうとするとおばあさんが1ドルと言うので差し出すと何と城壁に空いている穴に入れろと言う。不思議な感じ。

 

城壁の中は家が所狭しと並んでいる。殆どの家が既に普通の家になっており、生活感が出ている。テレビのアンテナが立てられており、普通に生活している人々が家に出入りしている。門から真っ直ぐ進んだ一番奥に宋祠があるのが唯一歴史を感じさせた。正直言って何だ、という感じ。外から見ている方が良い。しかし逆に言えば昔からここに住んでいる人はどう思っているのだろうか?

(3) 樹屋

吉慶園を後にする。通りに出てさて、バスに乗って元朗に行こうかと思っているとNさんが突然『Tree Houseって面白そう』と言う。何のことかと道路脇の表示を見ると確かに樹屋(Tree House)、二帝書院などの文字が見える。しかしガイドブックにも何も無く、地図を見ても見当たらない。

特に急ぐ旅でもなし、皆で矢印の方向に歩き出す。道を渡り、北に向かい細い道に入る。古びた家屋が並ぶ。直ぐに前に何も遮るものが無くなる。広くてきれいな道が現れる。地下道を通る。何だか不思議な感じ。日本の田舎に時々ある光景ではあるが。

左を見るとKCRの高架が見える。広々としている。道の向こう側には村があった。別荘、と書かれた少し古びた戸建があったりする。その先に小さな川があり、橋があった。そのたもとに立て札が。『午後10時から翌朝7時まで村人以外入るべからず』とある??江戸時代かと思った。理由は分からない。勿論城壁があるわけではない。うーん。特にお金持ちの村と思えないが・・?

村に入るところには日本でいう同祖神が必ずある。香港では小さな囲いの中に七福神の置物だったりする。毎日誰かが線香や花を供えている。伝統的な村の姿である。村は低層の建物が続く、静かな所であった。北圍村、それが名前である。二帝書院は直ぐに見つかった。由緒正しいしっかりした建物であったが、残念ながら本日は休みで中を見ることは出来なかった。

 

周りにも歴史のありそうな建物が幾つかあり、客家の家らしい所も見える。非常に静かで香港らしからぬ所に紛れ込んだと言う印象。更に歩いて行くと家が焼け落ちており、その残った壁に木が生えていたりする。

ミニバスが走り過ぎる。元朗に行くようだ。我々もこれに乗ろうと、村外れに向かう。外れには天后廟があったが、これも閉まっており入れなかった。村の公会所があり、バスを待つことも出来るようだが、横に池がある。なかなか良い眺めと見ていると何と水牛がいるではないか

 

バスに乗ろうかと思っていると、最後の表示が。樹屋、100m。とうとう来た。その木は小さな囲いの中に。大きな安定感のある樹である。きっと香港の樹、ベストテンに入っているだろうと思われる。

近づいて更に驚く。この大きな樹には煉瓦が絡み付いているのである。いや、そうではなく元々レンガ造りの家があったのだ。その家が崩れた所に樹が生え続けている。何ということだ、それで名前が樹屋。1周回ってみると、玄関の跡や窓の跡がくっきり見えている。こんな樹は、いや廃墟は見たことが無い。素晴らしい、実に素晴らしい樹である。

その樹の横のベンチに座っていると、爽やかな風が吹き抜ける。秋の柔らかい日差しが我々を包む。香港にいることを完全に忘れてしまう。実にいい。

(4) 天水圍へ

この村には唯一ミニバスが走っている。5元で元朗へ。Wさんは今回元朗から軽便鉄道に乗るのを楽しみにしていた。バスは村を1周してKCR西鉄の駅へ。その後元朗駅へ向かう。元朗に着くと直ぐに軽便鉄道の始発駅が見える。

昼食はその辺の飲茶へ。ところが元朗には沢山の老婆餅屋があるが、ちょっとしたレストランが見つからない。漸く見つけて入る、安い。香港でもこんなに物価が違うのか、香港島の半分ぐらいか?

軽便鉄道はユニークな電車である。何しろ改札も無く、車掌もいない。東京の都電と同じだが、正直香港人が皆キチンと料金を払うのかには興味がある。駅の入り口でオクトパスをかざすだけではあるが。線が何本か分かれており、意外と分かりにくい。取り敢えず天水圍へ行きそうな電車に乗る。

この電車は日本のメーカーが車両を提供している。快適に街中を抜ける。香港にはトラムがあるが、トラムよりスピードがあり香港人向きの気がする。しかしKCR西鉄が開通して以来乗客が減っているのではと心配。今後も走り続けて欲しい。

 

天水圍が近づき、ふと見ると我々が目指している廟らしきものが見え、駅より前で下車。先日は10年に一度のお祭りで廈村を訪れたが、実は本当の天水圍は駅近くにあるらしいと聞いていた。

 

駐車場を突っ切って行くと、坑尾村。そこに観廷書室があった。丁度中学生が歴史の授業で訪れており、先に洪聖宮に行くことに。洪聖宮はかなり古く、こじんまりしていた。1767年に建造されたが、現在のものは1866年に再建。屋根との間に香を焚く天井裏があり、日が差し込む。

この辺りは客家の鄧氏の村。12世紀には早くもこの辺りに定住したという。現在は天水圍駅前から約1kmに渡り、屏山文物パスとして1993年に整備された。尚洪聖宮向かいのレストランは建物の間から木が生えており、非常に珍しい光景となっている。

先程通った観廷書室は1870年の建造。当初は一族の子弟の教育を目的として、科挙を受けさせるなど、高等教育を施していた。一族の繁栄の為の施策である。戦後は青年の図書室となっていた。最近は特に使われていないようで、当日も鍵が掛かっていた。

 

鄧氏宋祠は香港最大の祠の1つであり、既に700年の歴史を有する。典型的な三進両院式建築で奥には鄧氏先祖の位牌がある。かなりの規模である。隣には愈喬二公祠もある。これも同様な規模を誇り、鄧氏の11世と16世を特に祭っているようである。

 

 
更に北に向かって歩くと住民の住居があり、その外れに楊候古廟がある。既に100年の歴史を有しているというが、現在の建物は1991年に改修され、非常に新しく感じられる。ここは住民が日常お参りする場所と思われる。元々は宋末の忠臣、楊亮節を祭ったものである。

 

少し戻り左に曲がると古井戸がある。200年以上前から使われていたという。現在は人が落ちないように蓋がされており、言われなければ気が付かないかもしれない。

鄧氏の分家が住む上璋圍に着く。古い城壁に囲まれており、典型的な客家の集落である。中は既に一部取り壊されているが未だに住人が住んでおり、我々は中に入りにくい雰囲気。ここはほぼ駅前であり、こんな一等地を香港人が掘っておくはずがない。果たして保存できるのであろうか?それとも早晩取り壊されるのか?

 

この村の外れに社檀がある。昔は何処の村の入り口にもあったものと思われるが、村の神様を祭り、外部の侵入者から村を守る役目を担っている。ここの社檀は実に見事である。

最後に駅前まで歩いてくると衆星楼が見える。この六角形の3重の建物は落ち着きがあり、非常に好感が持てる。当初は600年前に建てられたそうだ。風水なども十分織り込まれてここに建てられている。まさに守り神的存在。

 因みにこの楼の横には奇妙なものがある。『千葉フリーマーケット』と書かれた大きな看板がある。招き猫が飾られている。一体どんな所であろうか?しかし何故千葉なのか?不可思議である。今度ここが開いている時に一度訪れてみたいもの。

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