香港ショートステイ2018(2)上環から新界の村へ

セントラルには慣れているはずだったが、待ち合わせのFCCに辿り着くまでの坂が登れず時間を要してしまい、遅刻。ここは昔から私のお気に入りだが、以前は外国人特派員の会員しか入れなかったため、誰かに連れてきてもらうしかなかった。聞けば最近は一般(会員)にも開放されており、店内もとても明るくなっていて見違えた。ただウエーターの応対に特に変化はない。

 

Nさんと雑談。香港在住20年を超える先生で、私も以前かなりお世話になった。でも最近の香港はやはり息苦しくなっているようだ。それでも『日本よりはマシ』というのは、今や合言葉のようでおかしい。香港も残念な方向に変化しているが、日本はもっとすごい。そんな中で日本語を学び、日本で働く卒業生も多いので、彼らの心中はどうであろうか。

 

このレストランではやはりカレーが無難だという。一週間後にはインドへ向かう身でありながら、勧められればそれに従う。イギリスでも香港でも、インドカレーは人気である。期待にたがわず、なぜかうまいので、どんどん食べてしまう。膨れた腹を抱えながら、宿に戻る。

 

フェリーもアッパーデッキに乗る。10年ぶりか。料金もそれほど違わないのに、これは上流階級の乗り物だと思っていた。さっきは薄暗がりだったが、今度はくっきりとした夜景に満足した。フェリーを降りるともうあの人込みを歩くのは嫌だったからバスに乗っていく。だが停車しているバスはなかなか出発しない。ネーザンロードは未だ混んでおり、ノロノロ運転だ。

 

宿の横には廟街市場がある。腹を空かせるためにも歩くことにして、市場を覗いた。夜はかなり涼しい。9時過ぎた時間では、さほどのお客もおらず、皆あまりやる気もない様子だった。あの深夜特急の廟街の熱気はどこへ行ってしまったのだろうか。中国人観光客もここには興味はないのだろうか。

 

2月4日(日)
茶縁坊へ

翌朝は窓がないので明るくなったことも知らずに寝ていた。以前何度か窓がない部屋に寝たことがあるが、基本的によく眠れるのは、灯りのせいだけだろうか。まあ、お茶も飲んでいないので、良い。午前中は時間があるので周辺を少し散歩した。当たり前だが、この地域、再開発の対象である。特にハーバー沿いは見慣れぬ建物が増えており、数年のブランクを強く感じた。

 

またフェリー乗り場まで歩く。午前中それほど人込みはない。フェリーも休日は平日より料金が高いことに久しぶりに気が付く。やはりアッパーは贅沢だ、とローアーのいつもの位置に腰を下ろす。セントラル側では何やらコスプレイベントでもやっているのか。ちょっと不思議な人々を見る。

 

それから何気に日本領事館のあるビルを通り過ぎると、何とその前に慰安婦像が置かれていた。その近くは日曜日なのでフィリピンアマさんが、段ボールを敷き詰め、寒さ対策万全にして、皆で集まっておしゃべりしていた。一体この像を前にどんなリアクションをすればよいのか、かなり迷う。そしてあまりよく見ないで、通り過ぎてしまった。

 

上環の茶縁坊に着くと、既にYさんが来ていた。そしてお父さんがまた菜飯を作ってくれていた。私はこれを食べるのが一番好きだ。Oさんも加わって、皆で食べる。風邪気味のOさんだったが、完食した。こんなシンプルな食べ物がいい、ということかもしれない。張さんの鉄観音茶で温まる。

 

今日は上環でお茶の歴史について、色々と確認しようと思っていたのだが、何ということか、日曜日はこの辺休みだということを完全に忘れていた。何ということだ。前回も香港大学の図書館が休みで同じ目にあったのだが、まさか香港に長く住んでいたことも忘れてしまっているのだろうか。自分で自分が信じられない。

 

突然村のお祭りへ
風邪気味のOさんとはここで別れ、Yさんと向かったのは新界の村だった。ちょうどYさんの知り合いから、祭りを見に来ないか、と誘われ、それにノッた訳だ。西鉄に乗ると、昔を思い出す。初めての香港歴史散歩の会は天水圍で降りて行った村の祭りだった。その時の興奮は今でも忘れない。Yさんもそこから嵌ってしまい、今やその道の専門家になっている。

 

錦上路という駅で降りて、バスに乗り換えた。この辺は全てYさんにお任せだ。このバス停で待っている人々、よく見ると極めて多国籍だ。インドネシア系のメイドもいれば、中東系の女性達、インド系もいれば、アフリカ系と思われる男たちもいる。こんな田舎に何でこれらの人々がいるのか、それぞれ事情はあるだろうが、ある意味で今の香港を象徴していると思われる。

 

バスは結構混んでいた。2階に乗り込んだが15分位で目的地の村に着く。Yさんは降りる時もオクトパスカードをかざしていた。なんでと聞くと、『実は近距離で降りた場合、返金される制度がある』というのだ。こんなの初めて聞いた、というと、『香港人でも知らない人が多い』というではないか。さすが香港、情報通のみが得をする、という意識は健在だった。

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