香港歴史散歩2004(16)長沙湾

【九龍ルート12長沙湾】2004年10月24日

長沙湾は深水歩の西側、早くから軍営が置かれ、これを中心に発展してきた。地下鉄の駅の上には『東京街』という名の道がある。何故東京なのか?勿論北京、南京もあるのだから問題ないのだが、道の彼方此方に東京街の表示があるとドキッとする。

兎に角香港の市街地としては、道幅が広く、高い建物も少なく、非常に落ち着いた街並みで歩いていて気分が良い。長沙湾道の北側には、古い工場ビルが何棟もあり、既に2002年に政府が取り壊しを決定した旨の表示がある。但し今ではとても古くなったその工場には、ワンフロアーに何社もの工場が入っており、政府が軽工業を誘致した名残が感じられる。この立ち退きが終了すれば大規模な住宅開発が行われるのであろう。

 

(1) 深水歩警察署

茘枝角道と欽州街の交差点。1898年の新界租借後、1900年代には入り、深水歩の開拓が進み、街が発展。中国大陸から移民が多数流入し、治安維持のため警察署がここに設けられる。

1924年建造。洋風の造り、この辺りの中心といった風情を漂わせている。周辺には高い建物が少なく、道幅も広い。最近直ぐ横に西九龍中心(ドラゴンセンター)が造られている。建造当時の写真を見ると前面は湾、横には軍営の建物が点在するのみ。深水歩の外れ、といった感じが出ている。

(2) 深水歩集中営跡

現在の深水歩公園と麗閣邨。1927年建造。1941年の日本軍侵攻では、イギリス・カナダ軍を含む約7,000人が監禁され、虐待を受けたと言う。戦後は再び軍営として使われ、1977年に閉鎖。その跡地の一角に麗閣邨という名の巨大マンション群が建設される。

1984年には深水歩公園が建設される。89年に香港捕虜連会が記念碑を建て、91年にはカナダ退役軍人会も楓を植樹し、記念としている。尚一部はベトナム難民収容所に改築されるが、1989年には屯門に難民収容所が移転された。

公園内は木々に覆われ、多くの老人がベンチに座り、鳥籠を枝に掛け、太極拳を行い、また中国将棋を指すなどゆっくりとした時間を過ごしている。実に爽やかな午後であった。この場所の意味を知っているはずの老人達が何事も無かったように寛ぐ姿に安心する。

 

 

 麗閣邨は大きな住宅団地。駅からも近く、非常に便利。軍営跡という広大な敷地が無ければこのような場所にこのように大きな住宅は建設できない。古いとはいえ、住んでみたくなるような環境である。

 

 

 

(3) 李鄭屋漢墓

東京街。1955年8月にスラムを取り壊し、団地を建設するべく整地が行われた際、小さな丘の上で墳墓が発見される。香港大学教授の指揮下61個の陶器が掘り出される。墓は約2,000年前の後漢時代のものと考えられている。2,000年前ここは海との境であったようで海水に侵食されている。現在は埋め立てが進み、海まで約1kmある。

誰の墓かは分かっていない。貴金属や骨が発見されていないことから、南宋の楊大后の衣冠塚であるとか、戦死した軍人の墓である等とも言われている。それまで香港で考古学はあまり重視されていなかったが、この墳墓の発見以降研究が進んだと言う点で、香港考古学史上の画期的な発見と言える。

 

 

 1957年に一般公開され、無料で入場できる博物館となっている。出土した陶器や土偶が展示されており、また墓の内部の一部が切り出された形で公開されている。中は正方形のようで四方に穴が続いている。外から見ると古墳、円墳のようである。これは秦の中国統一後多くの漢民族が南下し、彼らの文化を伝えたのではないと考えられる。

香港にこのような古い遺跡があることを初めて知る。香港歴史散歩をやっていなければ訪れる機会も無かったであろう。『香港に歴史はあるのか?』という当初の問い掛けには、自信を持って『ある』と答えたい。

墳墓の周りは囲われているが、その外側は公園。そして閑静な住宅街。尚この墳墓の名称ともなっている李鄭屋邨は、1950年代に香港で最初の低家賃公共住宅として建設され、当時は月収900ドル以下の家庭が入居を許されていた。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です