【上海歴史散歩2009】 

【上海歴史散歩】 2009年4月26日(日)

23年前に留学した上海、その時の印象は決して良いものではなかった。留学生なのに生活に追われていた?こともあり、また上海側も歴史的な建造物、場所を保護しようともしていなかった。歴史散歩など思いもよらなかった。

2006年2月、2007年10月と上海を訪れ、少しずつ散歩した。今回は大先輩の思い出の場所、東湖賓館及び前日ワイン会でSさんが魯迅の孫に会った、と言ったことから、魯迅関連の場所を訪ねて見た。

1.東湖賓館

先日大手商社を退職されたMさん。1975年から中国ビジネスに関わっていたと言うベテラン中のベテラン商社マン。先日のミニ送別会の席で、『1980年に上海で東湖賓館を押さえたことが、一番の仕事だった』と振り返って言った。

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当時上海にはホテルが少なく、ホテルの部屋を予約するのが駐在員の一番の仕事。私が留学中の86-87年も事情は変わらなかったからその大変さが良く分かる。合弁ホテルなどはなかった。予約は実質出来なかった。予約しても、予約金を入れても当日党のエライさんでも来れば、常にキャンセルされた。

そんな時代に賓館(ホテル)を押さえたことは大きい。出張者は安心して出張できるし、恐らくは駐在員もそこに住んだだろう(当時はアパートもなく、ホテルの一室に住んでいた人が多い)。

陜西南路にある城市酒店を出発。南に下り、新楽路を右折。角には由緒正しそうな建物が。今はホテルであるが、1932年にフランス人のラファエット建築士が設計。上海暗黒街の大ボス杜月笙が設立した三?公司のオフィスであった。飾り窓とベランダ、外壁はきれいになっているが渋い外見を残している。

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尚現在日経新聞に連載中の高樹のぶ子の小説『甘苦上海』は正直一体何を言いたいのか分からないが、何故か私にとっては懐かしい地名が沢山出てくる。この三?公司の建物も小説の中では主人公が食事をするホテルのレストランとして登場する。

この新楽路、左右に古い民家が並ぶ。フランス租界特有の3階建てのちょっとお洒落な建物。東正教堂と言われる古い教会も残っている。1932-34年ロシア形式で建造。5つの玉葱型の尖塔に特徴がある。

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少し歩くと東湖賓館の裏側に出る。公寓も迎え側にある。道を回ると正面玄関へ。非常に感じの良い庭があり、お洒落な雰囲気が漂う。フロントで『お洒落なバーがあると聞いたのですが』と質問すると、それは道の反対側だという。

1920年代から40年代に掛けて建てられたというこのホテル、上海暗黒街のボス、杜月笙の邸宅として部下が建築したと聞く(実際には杜は住む機会がなかった)。由緒正しい5階建てのホテル(85年に従来の3階建てを改装)。主楼の前にはきれいな前庭、そしてそのまま別棟に続くアーチがある。かなり広いかと思っていくと直ぐに突き当たる。ここには2-3の建物があるだけである。

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道の反対側には何があるのか?見ると確かに6号楼という建物がある。1925年建造。特に古めかしいと言う感じはないが、エレベーターで2階に上がる。2階にはラビエラという名前のコーヒーショップがあった。中に入るとなかなか雰囲気がよさそう。ここがバーかと思ったが、夜もコーヒーショップだと言う。

ランチが38元と安かったので、ここで食事をする。ポテトサラダとカレー、コーヒー、デザートも付いていた。かなりお得。特にカレーはかなり美味しい。やはり北京とは違って、上海は質が良くて安い。

ここを出ると横に門がある。公園かなと思って眺めると、ここも東湖賓館であった。何と広いことか。入ると右側に建物がある。これはなかなか雰囲気がある。玄関には『大公館』と書かれた看板がある。中に入ると極めてクラシックな造り。昼間でも暗いが、趣があるスペース。1階の入って直ぐにバーもある。2階は個室とか。

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シガーバーもあった。奥にも怪しげな部屋??がいくつか。こんな所で昼から密会している人はいない。更に行くと庭が眺められる場所へ。結局誰一人食事をしている人はいなかった。よほど高級なのだろうか。写真禁止で残念。庭へ出るといくつか建物がある。全て人が住んでいる気配。別荘風戸建て。大きな庭を挟んで点在。こんな所に住めれば気持ちがよい。門を出て花屋の横に金洋バーと言う名前の店があった。ここも1階。今回ある方の要請で『東湖賓館の主楼以外の建物の2階にある雰囲気のあるバー』を探すと言う企画があったが、残念ながら果たせず。

2.虹口
(1)内山書店

東湖賓館から去り、地下鉄に乗って虹口へ。虹口足球場まで行く。上海の地下鉄は最近急速に増えたようで、何処を何線が走っているのか、テンで分からない。何とか1号線を人民広場で乗り換えて、8号線で向かった。

日曜日の昼下がりの地下鉄は予想外に空いていた。座席に腰掛けて本を読むのは無上の喜びだ。北京ではなかなかない場面。上海の交通整備振りが窺われた。

地下鉄を下りて足球場を過ぎ、魯迅公園の前を通る。魯迅公園は戦前の名称が新公園。私が留学した86-87年は虹口公園と呼ばれていたはず。88年に現在の名称へ。ここは前回も訪問しているので、中には入らず先に進む。

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目指すは旧内山書店。23年前の留学時には時折バスの中から、眺めた場所である。当時既に中国工商銀行の支店になっていたが、何となくここが内山書店と言う感覚はあったが、バスをおりて見ることは無かった(あの頃一度バスを下りると乗るのが大変だったなあ)。

今回訪ねてみると、銀行の壁に魯迅と店主であり魯迅を匿ったとされる内山完造の壁画が描かれていたり、いくつも文化記念地点の表示がなされていたりした。しかし2階を見学できると書いてあったガイドブックがあったが、何処から入るのかも分からない。

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取り敢えず隣の新華書店で上海市の地図を買い、気分を出す。手には『伝統の日中文化サロン 上海・内山書店』(太田尚樹著 平凡社新書)がある。この中でここ内山書店が果たし役割が如何に大きかったが読み取れる。

内山完造はよほど魅力的な人物だったらしい。貸し売り(代金後払い)と言う当時としてはリスクの高い商売をしていた。これは信用の上に成り立っている。中国人に対しても分け隔てなく、貸し売りをしていれば、必ず評判になり、口コミで人が集まったであろう。『いつ行っても老板がお茶を入れて歓迎してくれる』とは実に良い。

谷崎潤一郎、佐藤春夫、金子光春など日本の蒼々たる文人が訪れている。魯迅、郭沫若、田漢、郁達夫などの中国文化人とも交友があった。当時の文化人は同時に革命家でもあり、魯迅を庇った内山は常に危険に晒されたことだろう。

1929年にこの場所に移転してから、終戦まで。日本が軍国主義をひた走り、暴走し、そして自壊した、その中で内山とその書店は日中を繋いでいた。何と言えばよいのか。

(2)魯迅故居

内山書店から魯迅故居までは歩いて10分弱。非常に近い。現在の山陰路をカーブするとそこは戦前の日本人居留区を若干保っている。パラソルの下で野菜や果物を売っている。その上には布団が干されており、2階の窓がちょっとお洒落。

 

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魯迅故居の看板を見つける。その道の反対側には瞿秋白故居もあったが、こちらは看板だけで、中には入れない。と言うか、特に保護されている様子もない。魯迅と瞿秋白、生前頻繁に往来し、仲の良かった二人。瞿秋白夫妻は南側の2階に住んでいたと言う。このアパートは日本人が居住するため造られており、魯迅が内山完造に依頼して、借りてもらっていたと言う。

瞿秋白は30年頃には一時共産党の最高指導者の位置にもついた人物。文革で弾劾されるなど、魯迅とは違い死して尚評価が定まらなかったことが災いしたのだろうか??

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魯迅故居は里弄の中にあり、看板がなければ判らない場所にある。回りには普通の人々が昔ながらの生活をしている。洗濯物は物干し竿に掛けられ、外に突き出している。切符売り場に入る。入場料8元。売り場のおばさんが『日本人?』と聞いてくる。やはり日本人が多いようだ。

隣の建物に入ろうとすると警備のおじさんに遮られる。何で?ボランティアの若い女性が『今他の人が見学中』と言う。そんなに狭いのか?仕方なく、待つ間、その辺の写真を取り捲る。

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ようやくOKが出て、中へ。若いボランティアが付いてきて、ちゃんとした説明を始める。1階にはテーブルがあり、食事をした場所か。2階は魯迅の部屋、そして奥さんである許広平の寝室もある。またお茶好きの魯迅が使ったと言う茶碗なども食器棚に入っていた。『魯迅はどんなお茶を飲んでいたの?』などと意地の悪い質問をすると、後ろに控えているベテラン警備員が答えてくれるのが微笑ましかった。

3階は魯迅の息子周海嬰の部屋。日本人画家が描いたと言う子供向きの絵が架かっていた。魯迅の死亡後、太平洋戦争勃発と同時に日本軍の憲兵隊がこの家に押し入り、資料と許広平を連れ去ったと幼い海嬰が内山に電話したのはここからだろう。

因みにこの家も内山が内山書店店員の名義で借り、ラモスアパートから魯迅をここへ移したものらしい。3階の部屋と反対側には物干し用の屋上への出口もあった。魯迅はここから何度か逃げる用意をしただろう。外へ出ると、猫が一匹、大人しくこちらを見ていた。

(3)長春公寓

宝山路に出る。この辺りにも旧租界のムードが出ている。如何にも旧日本家屋と思われる平屋の建物も見える。この辺りの一部は60年以上変化していない。しかし周りは既に開発が進んでおり、高層マンションも見える。

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更に漂陽路に入ると雰囲気が一変。古い洋館が立ち並び、良い雰囲気が漂う。北側の道沿いを歩くと壁にこのあたりの古い建築物、革命に参加した人々などを紹介するプレートが数多くはめ込まれている。気分よく歩いていると、横道に立派な建物が目に入り、思わず曲がる。

長春路、この道の北側は20年代に建造された欧米近代風の長春公寓が建っている。『虹口地名志』(1989年)の‘長春公寓’の項を引用すると、元は北端公寓と呼ばれ、『1921年前後の建築、一度火災に遭い、1928年前後に再建 』とやや曖昧なところがある。現在の建物は従来の4階建てを1936年に2階付け足して6階建てに改装されている。

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また向かいの南側には沙遜楼群がある。先程見掛けたのはこちらの建物。イギリス風の重厚なレンガ建築。非常に良い佇まいで、思わず住んでみたくなる。オランダ風の装飾が施されていると解説されているが、どこであろうか?この地区は2004年に地元と華東師範大学が共同して、景観を保護。『以前のまま保護』する事を原則としている。

(4)横浜橋

四川北路に戻り、少し南下。すると道の西側に門が見えてくる。多倫路文化名人街とある。旧日本租界はこの辺りが中心であった。内山完造、ジャーナリスト松本重治、尾崎秀実、詩人の金子光春などが住んでいた。

現在は1998年にこの辺りが整備され、一大観光スポットとなっている。この日も天気がよく、多くの人が歩いており、小物、骨董などを見ている。雰囲気の良い場所をブラブラ歩くのは良いものだ。

 入り口近くには『公琲珈琲館遺跡』という看板が出ている。今はどう見ても珈琲館ではなく、写真屋か何か?突然コーヒーが飲みたくなる。租界時代にコーヒーを飲むことはステイタス、そんな記述が『懐旧的中国を歩く』にあった。租界が出来てコーヒーがもたらされた当初は上海人の生活とかかわりがなかったが、1920年代から30年代には多くの珈琲館が出来、進歩的な文化人が出入りし、珈琲館に座ること自体がステイタスみたいになったモダンな時代。50年代から60年代には珈琲館は時代にそぐわないものとして姿を消した。

鴻徳堂という屋根が中華風の教会(1928年建造)あり、有名な名人茶館(既に閉鎖された模様)あり、なかなか楽しめる散歩である。道は北上する(様々な商店や毛沢東記念館のようなものがあるらしい)が、私は南へ。目指すは横浜橋。

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横浜路へ出る。ここは昔の日本租界の雰囲気を伝えている。如何にも2階の窓から日本の布団を干しそうな風景がある。お洒落なべランダの付いた2階建てがある。上海市の歴史遺跡に認定されている。

そこから四川北路に戻ろうと行くと、河がある。既にきれいに改修された川辺から眺めると向こうに橋が見える。あれがお目当ての横浜橋。急いで橋の袂に。最近架け替えられてきれいになっている。ちょっと残念。

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更にビックリしたのが、この橋、横浜の地名から取ったと思い込んでいたが、違っていた。『浜』という字は『水路』の意味で、何と『横濱』とは意味が異なるばかりか、発音まで違うのである。『濱(bing)』と『浜(bang)』。確かに翌日市内の南西の方に『肇家浜路』という道があり、タクシーの運転手に『bang』と直されてしまった。とんだ横浜間違い、結構疲れてしまい、タクシーで新装なったガーデンブリッジを経由してホテルに戻ってしまった。

3.紅房子

ホテルから歩いて3分の所に紅房子があった。ここは留学中、珍しかった洋食を食べさせる店であり、留学生仲間とよく行った場所だ。今回その時の仲間、H君夫妻と22年ぶりに食事をしに行った。

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『懐旧的中国を歩く』(樋口裕子著 NHK出版)と言う本を読んでいたら、以下の記述あり。

『紅房子西菜館』は1930年オープン。租界で偶然出会ったオーストリア人とイタリア人の男女がガレージを改造した店舗で乏しい資金で始めた。文革中に他の西洋料理店が次々閉店する中、この店だけは中国人のコックに引き継がれて残った。北京から来た紅衛兵も記念に食事したと言う。

80年代のこの店の印象は薄暗かった。外国人は2階、中国人は1階との区別もあり、値段も違っていた。当時は高級レストランだった。その後一時店を移転し、ビルを建てた。現在の紅房子はビルの6階にある。正直あまりの変わりようにH君は『本当に行きますか?』と聞いたぐらいだ。

メニューも大幅に変わっていた。逆に昔からあるメニューに印が付いていた。きっと我々のように昔を懐かしむためにやって来る人があり、そのための配慮であろう。私の印象ではポテトサラダ(かなりマヨネーズがべったり)、オニオンスープ、ハマグリのガーリック焼き(かなりの油)があった。今回もそのメニューを頼む。味はお洒落になっていた。ハマグリを入れる器(真鍮か?)だけが昔の姿を留めており、懐かしさがこみ上げた。

正直に言うと店内もきれいになり、メニューも洗練され、自社名を入れたワインを置く紅房子にはもう用はない。ウエイトレスに歳を聞くと『1983年』との答えで、H君が初めてここで食事をした年であった。

4.新天地

その後H夫人(フクタン大学本科卒業の中国人で私の家庭教師)が新天地に連れて行ってくれた。ここは2001年に香港資本により開発された上海屈指のお洒落なスポット。元々は1920~30年代に建てられたモダンな雰囲気の「石庫門住宅」 を修復し、旧フランス租界の街並を再現した。「石庫門住宅」とは、洋中折衷様式で盛んに造られた集合住宅。ボロボロとなっていたタウンハウスを改造し、お洒落スポットに転換した所はさすが。

雰囲気は以前訪れた時少し変わっている。常に拡張し、マイナーチェンジをしているそうだ。本日も非常に多くの人が集まってきている。上海に来た地方の人々、外国人観光客、そして地元に住む人々。ここには不況は感じられない。

新天地の端を歩いていくと、倉庫のような所に出た。ここにはスポットは当たっていない。「中共一大会址記念館」とある。1921年7月に共産党の創立大会がここで行われた。毛沢東他13名が出席。歴史はここから始まった。今の新天地の姿を見たら、毛沢東も驚くだろう。因みに翌日ホテルの近くで「中共二大会址」を発見。1922年7月に開催された。きれいに整備された記念館となっていた。老成都北路7号。

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H夫人のお供で、ライブスポットへ。かなりの賑わい。H夫人はサルサを習っていたとかで、その先生たちのサルサを見せたかったようだが、夜10時でも彼らは姿を見せなかった。代わりに彼女の知り合いの高学歴、高収入の人々がサルサに熱中していた。日曜日の夜なのに、明日も仕事がないかのようなパワフルな人々。まるで日本のバブルを思い出す。新しい中国を見る思いがした。

5.錦江飯店

後日錦江飯店に行く機会を得る。ここは最も懐かしい場所。留学中の憧れの場所。広い敷地内の西楼に当時『ジェシカ』という小さな店があった。ここには日本または香港から輸入された商品が並べられており、我々の眼を奪ったもの。値段はカップ麺が600円ぐらいしたと思うので、かなり高級。

錦江飯店の前身、錦江川菜館は一人の女性が1935年に開いたもの。董竹君、上海の貧しい家に生まれ、12歳で妓楼にあがり、15歳で四川の軍関係者に見初められ、四川へ。その後分かれて、上海に戻り、四川暮らしで覚えた料理を出した。これが当たり、杜月笙などのサポートを得て、大きくなる。

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共産党の時代になり、キャセイマンション(和平飯店)を接収した政府に管理運営を委託され、最終的には錦江グループになる。錦江飯店北楼には留学当時四川料理屋があり、一度はあまりの辛さに腹を壊したこともよい思い出。錦江飯店中楼には一度泊まったが、ここは1972年にニクソン、田中角栄が相次いで泊まり、歴史的な外交を展開した。

現在北楼の11階に四川料理はなく(いや、部屋はあるので食事は食べられるか?)、24時間営業の夜上海と言う店が入っている。写真を撮ろうとしたがどうしても上手く撮れない。きっと昔の自分が悲しんで撮らせないのだろう、と諦めて去る。

6.  馬勒飯店 
最終日に少し時間が空いたので、気になっていた城市酒店の向かい側にある馬勒飯店を訪ねる。ちょうど改装中で、建物の外壁には竹の足場が出来ていたが、中は健在。門の所にホテルの従業員が立っており、笑顔で迎えてくれる。『どうぞ中を見学してください』と気持ちよく言われる。非常にリラックスできる。

中に入るとさすがに重厚な印象。向こうから女性服務員がやってきて、何か用かと聞く。見学したいと申し出ると快く部屋を案内してくれた。この辺は北京では味わえない感じ。更に日本人かと聞いてきて、何と少し日本語も話した。

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3階の部屋は僅か9室。スタンダードの部屋でも結構立派である。1936年建造時のままの内装、家具も骨董か。

更に一番よいお部屋にも入る。広いリビング、洒落たバスルーム。如何にもレトロな上海と言う感じ。説明によると現在の上海市長、韓正が共青団時代の執務室にしていたのが、この部屋とか。因みにホテルが開業した2002年以前は様々な使われ方をしていたようだ。

一昨年の陳宇良氏逮捕劇では何とのこのホテルに北京の公安が陣取り、隣の城市酒店を含めて100名以上で任務遂行に当たったとの話もある。まさに歴史的な建物である。2号楼は後から造られたのか、一般的な客室。ここなら何とか泊まれそうな値段である。客層はやはり西洋人中心か。

庭がまたいい。広い前には馬の像が。向こうにはレストランもある。思わず、ここでお茶を飲みながら時間を使おうか、と考えていたら、携帯がなり、私の上海レトロ旅は終わってしまった。

 

【上海歴史散歩2009】 」への1件のフィードバック

  1. 私の義父は上海で学生時代を過ごしています。東亜同文書院の卒業生で、卒業旅行して北京の方まで調査に出かけていたみたいです。標準語の中国語を話しますが、簡略化された新字の中国語は読めないみたいです。昔の上海の写真集を見せてあげると、シャキッと正気に戻ります。

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