マカオ歴史散歩2004(7)コロアン島

【ルート10】2005年1月2日

昨年末に広東省上川島を訪れ、ザビエルの棺桶と対面。その余勢を買って新年早々今度はコロアン島のザビエル教会に行ってみることにした。

(1) ロードストーズ・ベーカリー

1月1日を珠海で過ごし、2日にマカオに入った。国境はいつもの倍は込んでいたが、それでも大きな混乱は無く、通過。地下のバスターミナルに行くと、ここからは直接コロアン島に行くバスが出ている。(フェリー乗り場からの場合は、タイパ島で一度乗り換えなければならない)

30分も掛からず、コロアン島へ。媽祖文化村なるテーマパークがあるが、素通りする。この手のテーマパークに入って面白かった試しは無い。バスはコロアン島市街地で停車、観光客が降りる。彼らの最初のお目当てはロードストーズ・ベーカリー。探すまでも無く、既に人だかりが出来ている。

このお店、日本でも数年前に流行ったエッグタルト発祥の地、と言われているが、小さな普通のパン屋さんである。中では注文でサンドイッチなども作られている。西洋人の列の後に付き、エッグタルトを1つ買って食べてみる。これは香港で売っているエッグタルトではなく、ポルトガル風のナタである。大きめで濃厚なたまごの味わいがあり、なかなか美味しい。1つ5.5元。香港でもこれを売り出せば何時でも買えるのに。マカオはパンが美味しい。イギリス植民地の香港と異なり、ポルトガル植民地のマカオはパンにこだわっているのであろうか?

 

 

 

 

(2) ザビエル教会

ベーカリーから少し行くと海に出る。向かいは珠海である。ここから海沿いの道が整備されている。古い街並みも残しているようである。100mも歩くと教会が見える。聖フランシスコザビエル教会である、といっても何処にも書いていないし、看板も無い。

手前の広場には1910年に海賊を退治した記念碑が建っている。そういえば清朝時代、マカオは海賊の拠点であった。張保仔などの大物海賊が常に出入りしていたコロアン島は海賊の巣窟といわれていたが、教会関係者の子弟を誘拐するなどしたため、1910年教会とポルトガル領事館が軍を派遣し、海賊を撲滅した。

クリスマスのイベント用か、記念碑の後ろには大きな動物の風船が置かれているが、場所柄そぐわない印象。

教会はかなり小さい。マカオ半島にある荘厳なイメージの古い教会とはかなり趣が異なり、『天主堂』などと漢字が書かれていたりする。ちょっとイメージが違うな。中も50人も入れない小さな教堂である。確かにこの島の人口は左程多いとは思われず、これで十分なのかもしれない。壁にはザビエルの像があり、これが唯一ザビエル教会といえるものである。隣の建物は教会に付属する施設のようで子供達が何かで遊んでいる声がする。

この教会は1928年にザビエルを記念して建てられた。何故ここに建てられたのか?聖ジョゼフ教会にあるザビエルの骨は1978年まではここに保管されていたそうだから、骨を保管する目的であったかもしれない。(因みにこの骨は当初日本に送られたが、キリシタン禁令でマカオに送られ、聖パウロ教会に保管されたが、1835年の火災で天主堂が焼失した以降は、点々としていたらしい)

 

中の壁には中国語や日本語まで書かれており、不思議な感じ。天后聖母の絵まであり、地元に同化しようと努力しているのか?コンセプトは良く分からない。兎に角期待とは全く違う教会であった。

(3) 観音古廟と天后古廟

教会から南に歩く。ここは古い街並みを残しており、狭い路地になっている。少し行くと老婆が孫に支えられて横から出てくる。そして小さな潜りを入る。『観音古廟』とかかれている。この村にはザビエル教会よりもこの古廟が良く似合う。中はかなり狭いが地元民が数人お参りしている。例の渦巻き線香が外で焚かれており、そこから丸窓の壁を経て、微かに海が見える。

 

この廟の横の家は既に人が住んでいない廃墟であるが、その壁から芸術的な模様ともいえる木が生えていたのは、嬉しい発見。観音古廟を出ると天后古廟の方角を指す表示があった。更に内陸である。少し行くと城壁の残りのような壁があり、その上に古廟がある。以前はここまでが海であったのであろう。

階段を上がると狛犬が見える。元々は康熙16年(1678年)の建造というから古いが、現在までに何度も改修されているようで、中にはその歴史が綴られていた。現在のものは1963年建造。真ん中に天后聖母が静かに座っていた。人は全く居ない。この静寂は嬉しい。外で海を眺めるのも良い。狛犬も海を眺めている。昔は船がこの辺りに停泊していたのだろうか?

(4) 譚公廟

 

古廟の前の道はガジュマルの古い木が何本もある。その並木道を歩くと、木の幹に観音像が置かれているのが目にとまる。木の精と関係あるのだろうか?毎朝祈る老婆の姿が想像される。譚公廟には直ぐに着く。廟の隣に大きな岩があり、その割れ目から大きな木が生えている。これも由緒ありそうだが、謂れは良く分からない。廟はかなり小さいが地元民が多く訪れて祈りを捧げていた。中には海の方に向いて線香を捧げながら祈る女性も居た。ご主人は漁師なのだろうか?

この廟も古く、1862年建造。香港にある譚公廟と同様、海の神様としてその地位は健在。ここで道が行き止まりとなり、先には進めない。山側は墓地のようでこの辺りが古い街であることを物語っていた。

 

 

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