マカオ歴史散歩2004(4)ザビエルと洋館2

3.台山
(1)台山

あまりにも寂しい上川島に泊まることを諦めて、フェリーに乗り元来た道を戻る。港に着くと、台山行きのバス以外に乗り物は無い。また同じ道を辿る。

台山に程近い場所に台山温泉と書かれた宿があった。確かこの辺に温泉があると聞いていたので、余程降りてみようかと思ったが、恐らくは水着で入るタイプであることから、パスした。水着を持っていないこともあるが、何よりもリラックスできない。大勢の観光客と一緒に風呂に入る気分でもない。

台山のバスターミナルに着く。台山には特に見るべきところも無いと思ったので、そのまま開平へ行こうとする。開平には80年ほど前の洋館が沢山あると聞いていたから。時刻は7時前、開平までは1時間も掛からないのに、何故か開平行きのバスは既に終わっていた。

途方に暮れる、それに上川島で荷物を持って1時間歩いたのが堪える。台山にホテルがあるかも分からない。ふとターミナルの上を見ると『Holiday Hotel』の文字。ここだ、と思い直ぐ飛び込む。まるで80年代中国各地を旅行した時のノリである。当時はホテルを見つけてもチェックインするまでに相当の交渉が必要であったが、今は値段を聞くだけである。

如何にも駅前ホテルといった狭いロビーの奥にフロントがあり、若い女性が二人座っていた。値段を聞くと豪華ツインが220元であるが、今日はクリスマスなので40%オフだという。そうだ、今日はクリスマスなのだ。上川島には全くと言っていいほど、クリスマスムードは無かった。

部屋はきれいとは言えないが、泊まるには十分。バスタブもある。階下のレストランに下りて行くと8時前なのに客はまばら。寂しいホテルだなあと思って注文をした後、客がどっと押し寄せる。今日はクリスマスディナーで8時から色々な物が食べられたらしい。予想に反して味が良く満足して眠りに着く。

(2)台山の朝

疲れた体を早めに休めた為、翌朝の目覚めは早かった。健康的。直ぐに開平に行ってもよいが、荷物を持って歩くのがイヤで、開平のホテルがチェックインできる時間まで台山で散歩することにした。

前日地図だけは買っておいた。眺めると古塔と革命記念公園が目に入る。幸いホテルからも近いので出掛ける。バスターミナルから西へ、直ぐに川がある。橋を渡りながらどこかで見たような風景だなあ、と思っていると潮州のことを思い出す。

潮州と台山、何の関係もないようではあるが、実は華僑の2大出身地なのである。地図には誇らしげに『台山出身の華僑は130万人』と書かれているが、実際はもっと多いのかもしれない。知り合いにも先祖が台山出身と言う人は多いし、香港には台山華僑協会などの看板を見かけることもある。マカオには台山という地名さえある。

橋から西に5分ほど行くと小さなバスターミナルがある。その道路の向かい側に、何と客家の村があった。城壁は無いが、例の四角く区切られて整然と家が並ぶあれである。家の中も手前に台所と納屋、奥にダイニング、寝室、作業場という典型的な構造であった。

人が住んでいる家はあまり多くないようである。もしかする近々取り壊されるのではないか、危惧される。昨日通過した市内でも、既に取り壊されて再開発されている場所を見たからだ。こういう場所を残していて欲しいというのはよそ者のエゴであろうか?横には大規模に開発された住居が立ち並んでいた。

少し南に歩くと台山市革命烈士陵園という公園がある。台山には抗日戦争中日本軍が侵攻、戦闘があり婦女子も含めて多くが戦ったようだが、詳しくは記載が無いので分からない。共産党の組織もあったようで、記念碑がある。

 

碑の後ろを更に行くと古塔がある。元々は1613年に建造された塔で、高さ37m、内側が9層、外側が7層の大きなものである。その後何度も改修が行われ、現在はきれいになっている。但し登ることは出来ない。

陵園から更に南に行く。デジカメの電池が切れてくる。充電器は持っているが差込が合わない。商店街があるので、プラグを買う。『香港から来たのか?それならこれ。』この辺りには香港人も多く来ているようだ。こういう小回りが利くのが良い所で楽しい。

その通りを歩いて行くと橋がある。その橋の向こう側に古い建物があり、かなりレトロな雰囲気の街がある。実際足を踏み入れるとそこには昔ながらの市場があり、市場を中心に軒並み歴史的な建物が連なっている。ここは清末から民国初期の趣がある。きっと香港映画やドラマのロケで使われていることだろう。特に何も変えることなく、使うことが出来る。

 

全く何の予備知識も無く、偶然時間が余って歩いた所にこんな風景が出現するから旅は面白い、やめられない。得した気分を味わいたい人は既成のパッケージツアーを早く卒業して欲しい。

(3) 開平

バスは開平に向かう。30分ぐらいの距離かと思ったが、1時間は掛かる。途中の田舎道では木々に覆われている所も多い。又所々に洋館が見え隠れする。

開平のバスターミナルは街中にあった。ここ開平は自らを小武漢と称している。武漢三鎮、武漢は川で隔てられた3つの街から成っている。開平も三埠、長沙、沙岡の3つ街から成っており、譚江と蒼江という2つの川で仕切られている。私が到着したのはその3つの街の間にある島なのである。

 ターミナルを出るとマクドナルドやケンタッキーが見える。午前11時であるが、人通りは少ない。さて、何処へ行こうかと思って、取り敢えず川べりへ。すると近くに華僑大廈がみえる。懐かしい、昔の中国旅行では、広東省や福建省でホテルに泊まると言えば先ずは華僑大廈であった。安いのと必ず泊めてくれるのが有難かった。しかし見るとこのビルはオフィスになっているようで泊まれそうに見えない。(実は泊まれたのであるが)

更に行くと開平大廈というビルがある。何となく入ってみるとフロントがある。愛想が良い女性が出てきて、部屋を見せてくれるという。10階に行くときれいに対岸が見えるフルリバービュー。ここも前日同様すごくきれいとは言えないが、清潔であったので泊まることにする。1泊180元。何しろ造りが80年代バージョンで懐かしい。今日の朝まで日本人数人が泊まっていたという。

フロントの女性はとても親切で、昼ごはんは直ぐ横の船の形をしたレストランで取るのが良いと言ってくれる。また洋館はここからバスで30分ぐらいのところにある立園へ行きなさい,と言う。その通りにする。

船上レストランはお洒落に出来ている。観光客目当てであったが、ウエイトレスが広東語しか使わないのには閉口した。きっと香港人や広東省の客が多いのであろう。

(4) 立園と自力村

バスターミナルに戻り、立園行きバスを探す。これまでバスに何回か乗ったが、何の問題も無かったのは必ず終点まで乗ったからだろう。今回は途中下車。車掌のおばさんが切符を売りに来たので安心していたら発車間際に降りてしまう。ワンマンバスである。

郊外に出ると時々洋館が見える。何処が立園か分からない。20分ぐらい行ったが誰も降りない。不安になって近くの若者に聞くと彼もそこで降りると言うので一安心。途中で大きな通りから道を曲がると洋館の数が増える。近づいていることが分かる。

 

漸く到着し下車。大きな門が見え、立園であることが分かるが、道も立派で観光地化している。その道を歩いて行くと突然前を歩いていた高校生ぐらいの女の子が振り返り『立園に行くのか?』と聞いてくる。同じバスに乗っていた子である。

彼女はこの村の住人であると言う。現在は開平の学校に行っている。どうして私に興味を持ったのかと聞くと『バスの中で北京語を話していたから』とのこと。この辺は勿論広東語圏であるが、開平方言もあり、北京語は珍しいのか?そう言えば周りの人が話している言葉は全く聞き取れなかった。

彼女に頼んで案内して貰おうかと思ったが、切符を買っている間にいなくなってしまった。残念なことをした。住人は通行証で直ぐに入れるのである。

立園はアメリカに渡った華僑の謝氏が1925年頃に造った壮大な庭園と洋館である。何故この地に洋館があるのか?案内によれば1920年代にこの付近は華僑からの送金で比較的裕福な土地柄であったが、盗賊が横行。自衛手段として華僑が海外の建物をここに建てたのだという。既に80年ぐらい経過しているが、この立園内の建物はきれいに修復されており、年代を感じさせない。

 別邸を含めて幾つもの洋館があり、庭園もあり、池もあり、木々も植えられている。素晴らしいところと言いたいが、何故か物足りない。観光地化し過ぎており、観光客がガイドの旗の下に見て回る、そういう光景を全く期待していなかったから?

折角チケットを買ったが、早々に退散する。チケットは25元。ここから4km離れた自力村との共通券45元を購入していたので、その村を目指す。横に出ると向こうに村が見える。そこに古い洋館があったので、刈り取りが終わった田んぼを突っ切って進む。

 

その村は小川で仕切られており、橋の向こうに大きな木がある。農作業をする人々が休んでいた。長閑な田舎である。村に入ると人が住む洋館が幾つもある。更に村の祖先の廟が非常に立派に建っている。写真を撮っていると近くにいたおばあさんが地元の言葉で何か言っている。孫が泣いているので写真を撮って機嫌を取りたいということらしい。

子供が4人いた。一番下の子が泣いていた。カメラを向けると泣き止む。おばあさんがあやす。写真を撮って見せると皆喜ぶ。おばあさんも満足の様子。こんな交流が私の期待した旅である。

 

尚この村の建物は古びてはいるが実に立派なものである。さぞや名のある村なのだろうが、調べるすべを知らない。それでも十分堪能した。

それから3kmをとぼとぼ歩く。道が分からなくなることを恐れてバスの通る広い道を行ったので、長閑な散歩とは行かないが、所々に洋館が見え、それなりに楽しめる。立園の切符売りのお姐さんは『タクシーかバイクタクシーで行きなさい、遠いんだから』と言っていたが、彼女にはこの楽しみは分かるまい。車ではあっという間で何の面白みもない。お金の問題ではないのである。

3km行くと、右に回る。曲がる所に何故か1本の木と牛に乗った少年の像があり、自力村の字が見える。何となく良い。そこから更に1km行くと洋館が見えてくる。案内板には日本語も書かれている。

 

ここも観光地には違いないが、管理は杜撰。普通の村であるから何処からでも入れる。切符を見せるのは3つの洋館に入るときのみ。その度にチケットを見せるのは面倒であった。洋館の中は何処も一緒で面白みも無いが、本当に田舎の田んぼの中に15の洋館が並ぶ光景はなかなか。

 

面白かったのは、ここには人が住んでおり、家畜として鶏が飼われていたが、洋館の写真を撮ろうとすると鶏もしっかり止まってポーズをとることである。またガチョウの養殖が行われており、一斉にお散歩に行く姿もなかなか壮観。

広州辺りから来たのか、高校生ぐらいの生徒が大勢でスケッチをしている姿も何となく様になっていた。その横を抜けて帰途に。さっきの少年と牛の像のところに戻り、道に座り込んでバスを待つ。田舎の何時来るか分からないバスを待つのもまた一興である。バスが来たので、手を上げて乗り込み開平に戻る。

(5) 開平の朝

 

夜はまたもや早く寝る。翌朝6時に起きて散歩へ。辺りはまだ暗い。橋を渡り三埠へ。周りが明るくなった頃、劇的な光景が目の前に。古びているが、しっかりした造りの街並みがそこにある。昨日の台山より又更に映画のセット向きかもしれない。

 

川べりには水上生活者の船も見える。その昔はこの川の交易で栄えたことが分かる。そしてこの川を下って多くの華僑が巣立って行ったはずだ。

橋を渡っていると向こうに立派な建物が見える。古びているが威厳がある。近づくとそこは何と風采中学という学校であった。守衛に写真を撮りたいと申し出ると何と『入るなら入場料3元』といわれる。中学校に入るのにお金を払ったのは初めてである。

 

中に入ると生徒が校庭でバスケットをしている。しかしその前にある建物は荘厳で規模もでかい。成功した華僑が故郷に学校を建てて地元の子弟の教育に当てたことが想像される。建物の中が又すごい。風采堂と名付けられた広い講堂がある。始業前のようで、多くの生徒がバドミントンと卓球に興じている。こんな建物で遊べるなんて。

2階に上ると外に出られる。見ると反対側で弁当を頬張る女の子が見える。朝ご飯を食べている。微笑ましい光景であるが、彼女からすれば変なおじさんがいる、という感じであったろう。但しここの生徒は私のことなど全く気にしていない。慣れている。

日本では学校に知らない人を入れるなど今では考えられない。直ぐにも事件が起こりそうである。しかしここには古きよき時代が残っている。但しチケットを買うが。

 

ここは歴史的な場所であるかもしれない。校庭の外側の川沿いには城壁の跡の様なものが残っている。そこに碑が刻まれており、感豊5年(1855年)の文字が見える。

 

中学を離れる。次の橋の袂にやはり古い一角がある。見てみようとするが何と入り口がない。ここはそうは見えないが、実は城壁に囲まれていたのである。入り口は1つでそこには管理人が立っている。迂闊には入れない場所である。そんな所がまだあるのである。

更にもう1つ橋を渡る。そこはこの街の別世界。1戸建ての高級住宅街である。犬を連れて散歩する女性がいる。大型のベンツで出掛ける人がいる。どうなっているのか?これは華僑の生活なのであろうか?

その突端にホテルがある。譚江半島酒店、7年前に出来た高級ホテル。ここに入った瞬間、80年代の中国を思い出す。その頃は極一部の高級ホテルだけが資本主義であった。入るだけで嬉しい場所である。パンやケーキを売っているだけで心がウキウキする。
ここは開平におけるそんなホテルである。但し私の心はウキウキはしない。何しろ今の中国は究極の資本主義国になっているのだから。

(6) 珠海へ

いよいよ珠海へ戻る。急いでチェックアウトしてバスターミナルへ。ところが時間を間違えていて、バスは40分後の出発であった。本を読んで待っていると突然大声で男が怒鳴りだす。どうやらバスに乗り遅れたらしい。おばさん相手に毒づいている。しかし中国のおばさんは決して負けない。反対に激しく言い返す。久しぶりに中国の喧嘩を見た。いい所は決して手を出さないこと。その点では安心して見ていられる。

バスは珠海まで3時間かかると言う。しかし珠海―台山が2時間で50元なのに、開平―珠海は3時間で40元。先ずは座席の広さが違う。狭いのである。そして距離はそんなに違わないのに、何故時間が掛かるのか、それは乗ってみて分かる。最初殆ど乗客がなかったが、何と開平郊外の2つのバスターミナルに寄るのである。そこで客を拾い、江門市方面へ出発。新会の街から南に崖門水道沿いに南下、川を渡り珠海へ。

しかしこのバス、冷房が効いている。皆寒いはずなのに?崖門でトイレ休憩したが、皆トイレに駆け込む。そして漸く珠海に着いた時、膝は凍えて動かない。思わず走って脚マッサージ屋に駆け込んだ。

今回もまた予想外の旅になった。それが私の旅である。ザビエルについてはその後フロイスの日本史やザビエルの生涯などの本を読んで勉強してみたが、かなり奥が深いことが分かった。今後の研究課題としたい。

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