マカオ歴史散歩2004(10)大三巴牌

【ルート1】2004年11月28日

マカオ観光の定番、と言えばセナド広場から聖パウロ天主堂跡を歩くコースであろう。昔行ったことがあったが、最近このコースを歩くことは極めて稀である。この機会にもう一度初心に戻ろう?

1.大砲台(モンテの砦)とマカオ博物館

初心に戻ろうといいながら、聖パウロ天主堂からあの坂を登って大砲台に行くのは躊躇われる。バスも無い。散歩なのにも係わらず、行き成りフェリーターミナルからタクシーに乗る。5分で到着。20ドル掛かったが、何故か運転手は10ドルコインを受け取らない。マカオでは流通していないのか?

 

入り口前。既に多くの観光客が来ている。小さな入り口を潜るとそこは狭い階段。敵の侵入を最小限に止める配慮であろう。多くの大陸からの観光客もここではいっぺんに入れない?階段を登り切ると城壁に大砲のレプリカが並ぶ。モンテの砦、モンテの丘に1626年に築かれた砦。1623年にオランダの上陸を辛うじて阻んだポルトガルは防備を強化し、3門の大砲を備えたという。

確かにこの場所はマカオ半島の四方を一望出来る。砲台はタイパ島の方向(当時は目の前が海)を向いているが、反対側の中国サイドには向いていなかったと言う。1600年代のマカオはポルトガル人の居住が認められていたとはいえ、やはり中国であったのだ。

丘の上の広場の真ん中にはマカオ博物館がある。1998年建造。3階建てでモンテの砦から入るとエスカレーターで下がった所に入り口がある。入場料はHK$15。1階はマカオの歴史が紹介されており、日本語の解説もある。この解説を見るとマカオには明らかに香港より歴史がある。

 蓮峯廟の模型などもある。中2階にはマカオの家並みが再現されている。3階は改装中で入ることが出来なかったが、前回見た時は孫文関連の展示品があった。

 

 

 

2.瘋堂中斜巷

砲兵馬路を下りる。直ぐに古めかしい門構え。由緒正しい家であろうか?現在は取り壊されて門だけが残っている。更に下ると自動車修理工などが立ち並ぶ庶民的な場所となる。

 

そして右へ。右側に古めかしい建物が。社会工作局と書かれている。1925年と門に刻まれている。向こう側にももう1つ、その間に瘋堂中斜巷がある。中世ヨーロッパの趣があり、異彩を放つ。階段を下りると右側に仁慈堂の別邸がある。その先の馬忌士街はきれいに街並みが再現されており、政府が保存していることが分かる。(建物は表だけが残されているものがあり、中は既に壊されていたりする)

更に行くと教会がある。望徳聖母堂という由緒正しい教会だが、本日は聖ポール天主堂で年1回の聖餐会が催されることからミサは中止と張り紙があり、入り口も閉まっている。これは1800年代の建物のようである。

 

その向こう、斜め前はかなり古い建物がある。既に一部取り壊されているところもある。流石に保存にも限界があるのか、それともこれから修理して更に使うのか?兎に角この一帯は完全に100年前を再現しているのである。ガイドブックに載っているのだろうか?少なくとも私は初めてである。

3.聖ミゲル墳墓

馬忌士街を突き当たると西墳馬路に出る。そこに聖ミゲル墳墓の入り口がある。私が中に入ろうとした丁度その時、バスが到着し中から白装束の一団が登場した。もう1つのバンからは何と棺桶が。墓場であるから何も珍しいことではないが、この敷地内には教会があるようで、西洋式が似合っており、白装束には違和感あり。

私の思いなど関係なく、一団は葬儀屋?に先導されて中へ。そして門には墓守か、物乞いかという数人の男女が屯している。通り過ぎようとするとすかさずコップを差し出し金を催促するが、手を振ると何事もなかったように元の位置に戻る。

教会はこじんまりしているが、雰囲気が実に良い。ステンドグラスも鮮やかである。1875年ぐらいの建造か?ここのお墓の古いものが、丁度1870年代である。門に近い手前にはポルトガル人など西洋人の墓が多い。

しかしこの墓場は実に賑やかである。キリストやマリア像、十字架の他、死者自身の胸像が棺桶の上にあったりする。亡くなった方には申し訳ないが、墓石や飾りを見ているのは楽しい。奥の方は中国人の墓が多い。その墓石の多くに写真が埋め込まれている。永遠に死者を忘れない為のものであろうが、日本人には違和感がある。

1つの墓石が私を呼んでいるような気がしたのは、9歳でなくなった少女の墓。写真はそんなに古くない、と思ったが良く見ると彼女が亡くなったのは1942年。何かを語りかけてくるような感じがしたのは気のせいであろうか?

更には最近亡くなった7歳の男の子の墓石には鮮やかに熊のプーさんがプリントされていた。ぬいぐるみも置かれており、お墓とは思われない雰囲気であるが、生前彼が好きだったものなのだろう。あるいは病院で長い間闘病生活を送り殆ど外に出られなかったのでは?両親の心境はいかばかりか?我が家の子供達が全く普通に生活していることに感謝しなければ。

4.鏡湖医院

連勝街。お墓を後にして、緩やかな坂を登り切るとそこは五差路になっている。見ると斜め前に鏡湖医院の文字が見える。立派な建物である。1999年に建て替えられたこの病院はマカオ初の本格的医院として1873年に建造。

マカオの華僑が資金を集めて建設。漢方から始まり後には西洋医学も取り入れられる。現在ではマカオ有数の総合病院に発展している。尚この病院は若き日の孫文が勤務していたことで知られている歴史的な場所である。

5.大三巴牌

病院の前を聖パウロ方面に歩く。石畳が心地よいが、観光バスの群には興ざめする。大陸中国人が多く、北京語が飛び交う。5分ほど行くと到着。

但しこの日は1年に一度の聖餐会が催されており、聖パウロの前壁(ファサード)の前の階段は人で埋め尽くされ、回りも観光客に取り囲まれており、近づくことも難しい状況。こんな時は裏手の公園で静かに過ごそうと思ったが、そこも人で溢れていた。聖餐会は年1回、マカオ中の教徒が集うお祭りのようで、ポルトガル人と思われる司教が言葉を述べたり、賛美歌が歌われたりしていた。2時間ぐらいは行われていたようだ。

 

ところで聖パウロ天主堂であるが、1565年に現在の場所に小さな木造の小屋が作られ、キリスト教の布教が行われたのが始まり。その後1580年に修道院と小さな教会が建てられたが、1595年に火災で焼失。直ぐに再建された建物も1601年に再度焼失。

1602年より再建が始まり、現在のファサードは35年の年月を掛けて1637年に完成。イエズス会とポルトガル商人が中心となり資金が供出されたが、この壁の細工には日本人も大いに係わっていると言う。

1609年に徳川幕府はキリスト教禁令を発表し、1614年には多くの教徒が国外に追放された。その多くはマカオ、フィリピンに逃れ、その地で没している。天正の少年遣欧使節の一人、原マルチノもマカオにやって来てここで布教活動を行い1629年に亡くなっている。

尚少年遣欧使節はヨーロッパへの行き帰り、2度マカオに滞在しておりその滞在期間も合計1年に及んでいる。マルチノにとっても勝手知った土地であったのだ。日本に帰る直前マカオに立ち寄った際、4少年の教育係を勤めていたジョルジュ・ロヨラ(日本名は不明)がこの地で亡くなっていることも興味深い。

ファサードの細工の話に戻るが、日本から来た教徒の中には大工、石工、飾り職人なども含まれており、彼らはこの壁の建造の手助けをした。彼らの無償行為は建設資金の節約にもなったが、何よりも当時世界的に見ても高い水準にあった日本の技術がこの壁の魅力。次回よく目を凝らしてみると良いのでは?18世紀中頃ポルトガル本国でイエズス会が解散させられると、マカオでもイエズス会関係者の逮捕、財産の没収が行われる。聖パウロ天主堂も政府管理下に入り、軍の厨房として使われていた。1835年に出火、フォサードを残して焼失してしまう。

ファサードは大規模な修復工事が行われていたが、最近工事が終了。後ろ側から登ることが出来るようになった。高所恐怖症の私もトライしたが、階段が網の目のようになっており下が見えることから何とか壁の間から下を撮影し早々に退散した。尚ファサードの後ろ側には博物館があり、教会関係の遺品の他、遺骨が納められている。原マルチノの遺骨もあると言うが確認していない。更にこの場所とモンテの砦は地下トンネルで繋がっていたようだが、現在は全て封鎖されていると言う。

6.聖ドミンゴ教会

ファサード前の人ごみを何とか抜けると、今度は狭い路地に土産物屋が立ち並ぶ。『鋸記』で好物のたまごパン(お菓子)を買う。帰りにマカオフェリーに行くと実に何人かに一人は必ず鋸記の袋を持っている。それも大きな袋に目一杯買い込んでいる。香港人は何故鋸記が好きなのだろうか?美味しいからである。

雑踏の中に教会があった。バロック様式のファサードが美しい。聖ドミンゴ教会である。この教会も創建は古く1587年という。中に入ると一瞬にして静寂が訪れる。比較的明るい室内にはステンドグラスが輝く。広い室内の先の方に聖母像や聖人像が見える。

丁度その前で司祭と赤ちゃんを抱いた女性、それにその家族が立っていた。どうやら洗礼を行っているようである。非常に厳かな雰囲気に包まれる。座席は沢山あるが、座っている人は数えるほど。ポルトガル系とフィリピン系の顔立ちである。ここにも多くのアマさんがいるようだ。

 この教会には博物館が付設されている。2-4階まで。教会関係の遺品の他、ザビエルの像があったりする。フランシスコザビエルは日本ではキリスト教を伝えた人として知られているが、他の東南アジア、本国ではどんな評価になっているのであろうか?彼は1542年にインドに着てから、マラッカ、マカオ、日本と渡り、最後は中国入国を果たせず、現在の広東省、珠江デルタに浮かぶ上川島で亡くなった。

4階まで上がると床が軋む。10人以上登ってはいけないとある。マカオで初めて作られた青銅の鐘が午後の光を浴びて神秘的な雰囲気であった。

7.大堂(カテドラル)

広場から少し入った場所に大堂がどっしりと構えている。以前東南アジアの母体であったという。重厚な石造りの外観が周りを圧倒する。

入り口には見張り?のおじさんもおり、中に入りにくい雰囲気であったが、思い切って入ってみた。案に相違して中は和やかな雰囲気である。正面奥には十字架が掲げられ、ステンドグラスも鮮やか。

 

 先程の聖ドミンゴ教会は観光客の出入りなどもあるが、ここには祈りを捧げるためにやって来る地元の人々がいる。

 

 

 

 

8.仁慈堂

 セナド広場の一角に仁慈堂が建っている。当初は1569年に福祉施設として建てられた。現在の建物は18世紀後半のもの。現在1階は公証役場である。2階は博物館として開放されているとのことであったが、当日は生憎日曜日で休みであった。但し狭い入り口から中国人団体が出てきていたので、特別に開放することもあるらしい。残念。

 

仁慈堂は元々ポルトガルが世界各地に設けた慈善機構であり、ポルトガル皇后リナが1491年に創設したという。ここマカオの仁慈堂は初代マカオ司教、ドン・ベルキオール・カネイロによって設立されたという。博物館入り口のある小道を奥に進むと、突き当たりにカネイロの胸像が置かれている。この道もセナド広場の喧騒から一瞬離れたい時にお勧めである。

セナド広場は道の反対側に建つ民政総署の前の広場と言う意味。この広場からレトロな雰囲気の建物、ポルトガルから満持ち込んだ石畳、ヨーロッパ風の街並みが見える。また噴水の中には教皇境界線を示す地球儀がある。

 

 

 

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