マカオ歴史散歩2004(2)大三巴とモリソン教会

【ルート2】2004年11月7日

前回のマカオ散歩で『マカオの方が香港より歴史が感じられる』ことを実感した。何とか時間を作ってマカオを再訪した。

(1) 恋愛巷

マカオフェリーを降り、バス停へ。さて、今日は何処に行こうか?バス停から出ているバスで一番簡単に行ける所はリスボアホテルか新馬路であろう。新馬路のセナド広場へ。新馬路はマカオで最も賑やかな場所であり、セナド広場はその中心。今回はセナド広場の北側、大三巴街を起点に歩くことにする。石畳の道を歩いて行くと気分はヨーロッパ。そして聖パウロ天主堂跡の真横に恋愛巷がある。

その巷は恋愛とか恋人とか言う言葉はあまり似つかわしくない、何の変哲も無い10数メートルの路地である。建物は古いが特に特徴的でもない。普通の家として使われているようだ。

しかし少し上を見上げるとそこには空を覆うように聖パウロ天主堂が迫ってくる。この迫力は何であろうか?あの薄っぺらい、ファザードだけの聖パウロ。ところが横から見るとぜんぜん違って見えるから不思議である。

恋愛巷を登って行くと丁度ビデオ撮影が行われていた。私が下から写真を撮っているのを見てカメラマンは興味を示したようだ。じっとこちらを見つめていた。やはり魅力的なのだろうか?

(2) ナーチャ廟・旧城壁

聖ポール天主堂の横をそのまま抜けると、目の前に低い城壁が見えてくる。城壁というより村を囲む壁のようなものだ。1569年に明朝からの攻撃を防ぐ為にポルトガル人によって作られたもの。その後度々破壊された。実際出入り口になっている小さな潜り門を入ると何軒かの家が見える。そして直ぐに下り坂となり、天主堂の裏に抜けている。

その潜り門の前にナーチャ廟がある。かなり小さい廟である。中には那侘王子の像が安置されている。当日も老婆が2人、中でおしゃべりしていた。孫が中を覗きこんで何か騒いでいる。和やかな風景だ。

ナーチャは母親のお腹の中に3年半いたという伝説の子供。ナーチャ廟とは子供の神を祭る。1901年に建造され、現在世界遺産に申請中と言う。

(3) 聖アントニオ教会

大三巴街に戻り石畳を歩く。両側に古い住宅が並ぶ。5分ほど歩いて少し右に曲がるとそこに厳かな教会が見える。聖アントニオ教会。ポルトガル人が入植を始めた1558年頃この場所に小さな教会が建てられたのが、マカオの教会の始まりという。

現在の建物は1930年に大改修が行われたもの。建物の左端に1875年に再建されたことを示す石刻もある(1874年に台風による落雷で焼失)。石造りの建物は非常に落ち着いた印象を与える。この教会は『花王堂』と呼ばれている。聖アントニオは婚礼を司る聖人として崇められており、花嫁が頭に花王を被ることからこの名称が付いたとも言われている。

教会内はこじんまりしているが、なかなか雰囲気がある。日曜日の礼拝には多くの信者が訪れており、歴史が感じられる。きっと結婚式を挙げるカップルも多いのではないだろうか?(勿論信者のみで、ハワイの教会で式を挙げる日本人のようなわけにはいかないだろう)

(4) カモンエス公園

聖アントニオ教会を出ると前に木々が茂っており、公園の入り口が見える。ルイス・カモンエス、ポルトガルを代表する詩人。彼の名を冠した公園で1885年より政府の管理下に入っている。

カモンエスは1524年頃にリスボンで生まれ、早くから国王の賞賛を得ていたが、宮廷内で恋愛事件が発覚し追放される。その後アフリカ戦線に従軍したが、目を負傷。1552年にリスボンで戻るが殺傷事件を起こし入獄。出獄後1553年から1569年頃までアジアに滞在していたと言われており、叙事詩『ウス・ルジアダス』をアジアで書いたことはほぼ間違いない。公園の石碑にも1556年にマカオに滞在していたとなっている。1580年没。

公園を入り、噴水・モニュメントを越えて階段を上がる。左手を行くと羅漢松という名の見事な松がある。そこを更に登ると大きな岩のぽっかり空いた空間に1866年に建てられたカモンエスの胸像が置かれている。台座には彼の叙事詩が刻まれているようだが、当日は老女が数人、音楽をかけて踊りの練習をしていた為、近づくことが出来なかった。

 胸像のある場所の反対側には大きな岩があり、そこにはカモンエスについて刻まれている。ポルトガル語で書かれているものが多く、HO太(家内)がいればなあ、と思う。

この公園には見晴台のような高台もあり、木々も多く、快適。高台から降りると子供が遊ぶ空間がある。その横の芝生に石像が見える。金大建神父。韓国人初の神父で1837-42年にマカオに滞在。その後韓国に戻り、1846年に殉教した。(聖アントニオ教会内にも像が飾られている)

今ソウルを訪れると高速道路から十字架を掲げた教会を多く見ることが出来る。韓国のキリスト教もこのような殉教の歴史の上に成り立っていたのである。

 (5) カーサ庭園

カモンエス公園の隣に『東方基金会』と門に書かれた由緒正しい建物が見える。門を潜るときれいな庭がある。門番に入ってよいかと尋ねると『勿論』と笑顔で言われる。しかし中には誰もいない。何故だろう?こんなに静かで気持ちの良い場所なのに?

カーサ庭園は18世紀後半にイギリスの東インド会社がイギリスから庭師を呼び寄せ、アジア各地の植物を植えて、イギリス風庭園を造園。同社の船荷監督委員会本部を置いた。船荷監督者が住んだ邸宅が見の前に広がる。

1600年に設立された東インド会社は中国との貿易を希望していたが、1757年乾隆帝の時代に広州に限り年2回交易が認められた。広州交易会の始まりである。カーサ庭園に東インド会社が拠点を構えたのはそういう時代である。当初は中国茶の輸入が中心であったが、その後アヘンの密輸が主となり、やがてアヘン戦争に繋がって行く。

アヘン戦争後、香港が英国領となり、貿易の中心として繁栄して行くのと比例してマカオの地位は低下して行く。東インド会社は1835年にカーサ庭園から転出、同じ年に聖パウロ天主堂が火災で焼失している。

庭園は1885年に政府の管理下に入り、マカオ文化、歴史保存の為の援助金を管理する東方基金会が事務所として使用していた。現在は現代アートなどを展示する部屋がある。

(6) モリソン教会

カーサ庭園の横にマカオ唯一のプロテスタント教会、モリソン教会がある。1814年創立。かなり小さな教会の建物の前には、丁度日曜日の礼拝を終えた信者が紅茶を飲みながら立ち話しをしている。邪魔しないようにお墓の方に行く。

 教会の横の坂を降りると、裏庭のように墓地がある。上の段は花壇が整備され、整然と並んでいる。見ると1850年頃にマカオで亡くなった西洋人たちである。1850年というとポルトガルがマカオの植民地経営色を強めた頃である。関係があるのだろうか?

一番奥にイギリス人画家、ジョージ・シナリーの墓がある。かなり大きい。下の段には芝生が敷かれ、様々な墓石が置かれている。一番右の端にロバートモリソンとその家族の墓がある。モリソンは1782年にイギリスに生まれ、ロンドン伝道会により中国に派遣された。

モリソンと言えば日本史では何といっても『モリソン号事件』に名を留める。モリソンの名を冠したアメリカ商船は1837年日本人漂流民7人を乗せて浦賀沖に現れるが、異国船打ち払い令により砲撃を受けた。このモリソン号はマカオを出帆し、そしてマカオに帰港している。(因みにモリソンは乗船していない)

モリソン号事件はその後日本で蛮社の獄を引き起こすなど歴史に大きな影響を与える。高野長英、渡辺崋山はモリソンの名前を聞き及んでいたと言う。

尚モリソン号に乗船していた日本人漂流民達は何れも船が難破して漂流した者たちで帰国を心待ちにしていただけに祖国の仕打ちに絶望感を味わったと言う。尾張の国の住人、音吉、岩吉、久吉の三吉はモリソンの弟子、ギュラッツの指導で新約聖書の日本語訳をしたといわれている。

吉村昭の『アメリカ彦蔵』という小説では、岩吉は寧波に住み清国女性と結婚したが、清国人に殺されている。音吉は上海でイギリス商館の支配人をしており、インド人の妻を娶って裕福に暮らしている。久吉も上海で清国人と結婚、役所に勤めている。モリソン教会は白を基調とした爽やかな建物。この庭に立ち、歴史を思うのは実に楽しい。

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