マカオ歴史散歩2004(1)モンハの丘と孫文

【ルート5】2004年10月10日

香港歴史散歩を始めて1年になるが、実際に歴史的な建物が残っているケースが非常に少ないことに不満を持っていた。ある時ネットで『マカオ歴史散歩』なる本が日本で出たことを知る。入手してみるとこちらの方が歴史を感じさせる。元々カジノなど夜のマカオというイメージに違和感を持っていた私は『朝9時集合、マカオ歴史散歩』というテーマで歩いてみることにした。

(1) 観音堂

 

美副将大馬路。マカオ3大寺院の1つ。リスボア付近の喧騒とは無縁、静かな環境。正門の前には物乞いのおばあさんが3人、何故か楽しそうにおしゃべりしている。門を潜ると目の前に3つの堂が広がる。

1672年に建設されたこの観音堂には歴史的を感じさせる大木がある。堂に入ると手前に続いて中、奥と3つの建物がある。手前の2つには仏陀が、奥の部屋には美しい衣装を纏った観音様が祭られている。本堂には中国の十八賢人の像が並んでおり、その中には『東方見聞録』のマルコポーロといわれるものもある。各場所には大きな渦巻き線香が上から吊り下げされ焚かれている。お寺の人が和やかに談笑している。

 

これだけ大きな寺であるが、観光地とは無縁。広々とした中での静寂さが実に素晴らしい。堂の屋根には陶製の人物・動物の飾りが多く置かれており、日本の寺を思い出す。

またこの観音堂の裏庭は歴史的な場所でもある。1844年アヘン戦争に敗れた清は、イギリスとの南京条約に続いてアメリカと望廈条約を結ぶ。その条約締結の場所がこの裏庭。現在も石のテーブルと椅子が残されている。望廈とはこの堂の裏のモンハの丘のことである。高校の世界史の教科書で見た記憶があるが、マカオでの調印とは意外であった。

 

(2) 観音古廟
観音堂の道を北へ向かう。道の対面にはかなり古い建物がある。マカオは香港と異なり建物が残っている。歴史が感じられる。

モンハの丘に登る坂の所に観音古廟がある。小観音廟と呼ばれており、明代中期に起源がある。廟は非常に古く、中は狭い。実に庶民的な廟である。

 

(3) モンハの丘
観音古廟の横の道を登る。少し登ると学校の入り口が見える。間違ったのかなと一瞬思うがそのまま進む。観光学校、そしてホテルを横に見て、モンハ公園へ。更に急な階段を登るとそこに砲台入り口が見える。

 

アヘン戦争後、中国との関係が悪化したポルトガルはマカオが侵略されるのを恐れ、1849年ここに砲台を設置。大砲は中国大陸(珠海)の方を向いている。難攻不落と言われた要塞であったが、その後兵士の宿舎として使われ、1975年のポルトガル軍撤退に伴い、公園となった。現在はおじいちゃんが孫の手を引いて登ってくるほのぼのとした公園である。

(4) 蓮峰廟

公園の北側を降りると蓮峰廟がある。モンハの丘は南の観音古廟と北の蓮峰廟に守られた形になっている。丘が蓮の花の形をしていた。

1592年に創建された蓮峰廟はかなり広い敷地を持つ、マカオ一美しい仏教寺院。現在の建物は1875年のもの。庭には大きな木があり、安らぎを与えてくれる。寺の入り口には精巧な彫り物もある。

清代には商人の揉め事を審議する場所として使われた他、中国の役人の宿泊先として使われており、林則徐なども宿泊している。

敷地内にはそれを記念して1989年に石像が、1997年には林則徐記念館も建設されている。

1839年9月欽差大臣となった林則徐は広州よりマカオに入る。珠海との国境は現在の場所よりやや南に位置していた。直ぐに蓮峰廟に入り、マカオ駐在ポルトガル人よりアヘンの状況について尋ねている。

 

記念館の係りの女性に聞いてみた。『アヘン戦争の時にマカオでは戦争はありましたか?』『いいえ、ありません。マカオはポルトガル領でしたから。』ところが調べてみるとマカオには早くからイギリスの東インド会社が支店を作っており、大規模なアヘン売買を行っていた。林はアヘンを扱うイギリス商人をマカオから追放、1840年6月にはマカオ、中国の国境で戦闘が行われ、アヘン戦争の火蓋が切られている。

尚アヘン戦争後、イギリス他の侵略を恐れたポルトガルは従来の中国依存の統治を改め、海軍将校のアマナルをマカオ総督に送り込む。アマナルは華人を圧迫したため、1849年蓮峰廟にて、農民に刺殺される。現在もその石碑が残されているという。

(5) 紅街市

蓮峰廟の前の道を10分ほど歩いて行くと紅街市がある。風格を備えた赤レンガの建物。例えて言えば『マカオの築地』。市場は2階建て、野菜、果物、肉、魚何でも売っている。香港同様最近は大型スーパーに押されているのか、昼下がりの時間帯のせいか、人影は疎ら。

但し市場の西側の狭い路地には小売の屋台が軒を並べておりこちらは盛況。野菜の値段など香港と比べるとかなり安い。

(6) 龍華茶楼

紅街市の横に古ぼけた3階建ての建物がある。壁に龍華茶楼の文字が見える。ここがマカオで唯一残ったといわれている伝統的な茶楼である。階段を上がると懐かしい空間が広がる。高い天井、大きな扇風機、背もたれのある4人掛けの椅子、テーブルの上には年季の入った茶器。朝は鳥籠を持った老人が大勢い訪れるのであろう。しかし今は午後2時半、席に座ったものの店員は誰もこない。よく見るとお客もいない。

 

帳場にいるおじさんに聞くと『今日はもう終わった』という。『写真撮っていってもいいよ』と顔に似合わず優しい声。きっと写真を撮りに来る人が多いのだろう。最後に日本人だと告げると、笑顔になった。茶を飲まなくても十分堪能した。
尚点心の値段は1つ数元と格安。全てが昔のままなのであろう。

 

(7) 七賢

紅街市の横、高士徳大馬路を渡り横道に入る。群隊街、そこは街市の外マーケット。野菜、肉、魚、小売をしている。街市には人がいなかったが、ここは大勢の人々で賑わっている。昔懐かしい駄菓子のような物も売っており、子供が母親にねだっている姿が非常に懐かしい。道咩卑利士街を左に曲がるところに麺屋がある。腹が減る。鶏蛋麺、いい響き。10元。美味い。店の名前は七賢。何でこんな名前なのか?それは少し歩くとわかる。

 

 

左側に古びた門が見える。壁も古い。門には七賢とある。門を潜ると竹が茂る。そうか、竹林の七賢か。奥に進むと丁度坊さんが経をあげている。かなり賑やかである。祈ってもらっている親族が頭を下げている。ここは庭園としても整備されていて、小さいながら心地よい場所となっている。

(8) 盧廉若花園

盧利老馬路を行く。数分歩くと大きな、高い塀に囲まれた公園に出る。盧廉若花園(ロウ・リム・イオック庭園)である。伝統的な蘇州様式庭園。1870年に中国の豪商盧九がこの土地を購入。長男の盧廉若が庭園を完成させた。

その後一族は衰退し、豪商何賢が購入。1973年に庭園と邸宅は政府に売却された。庭園部分は政府により修復され公園として一般開放されている。邸宅部分は道の反対側で学校として使われている。(この学校の建物がまた趣がある)

庭園は大きな蓮池を中心にして竹山や東屋がある。蘇州で見た幾つかの庭園をかなり小型にした感じ。奥には中洋折衷の建物があり、中では山水画の展示会などが行われていた。

50年まには周りに高い建物が無く、かなりの遠くの松山辺りからもこの庭園が良く見えたというが、今では建物に囲まれている。

 

(9) 国父記念館
盧廉若花園から程なく、国父記念館、または孫文記念館がある。孫文はマカオで医者とした勤務した経験があり、それを記念して後に遺族が建てた物だと言う。1930年代の建築で北アフリカのムーア式。2階のベランダが非常に広く、独特。

1階には資料が展示されており、若き孫文が香港の西医学院で天下を語る4人組を形成していた頃の写真などがあり興味深い。2階は寝室、バスルームなどが残されている。

当日は10月10日。93回目の辛亥革命の記念日(双十節)である。当記念館でも午後1時から庭で記念式典が行われていた。庭には孫文の石像があり、青天白日旗を背後に張り、参加者全員が国民党的な3礼を行っているのには歴史を感じた。

 

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