マカオ歴史散歩2004(9)新馬路

【ルート4】2004年11月7日

マカオの中心は新馬路。何度も歩いたこの道であるが、実はあまりよく知らない。きっと新たな発見がある、そう信じて歩いてみる。

(1) サン・フランシスコ砦跡

リスボアホテルの北側、高架道路の上から見ると砲台跡があるのが分かる。下は石垣が続いている。石垣を南湾街に沿って回り切ると斜めに登る道が見える。登ってみる。兵営斜巷、登ってよいのか迷う。

登りきると砦跡の砲台が見えると思っていたが、2階建ての兵舎のような建物が並ぶ。今でもマカオ保安部隊事務局として使われているようだ。右端の建物は中が見える。展示品がある。誰でも入れるので、見てみる。昔の軍、警備用品が多い。

 この場所は元々1580年にスペインの修道士により修道院が建設される。その後1622年オランダのマカオ上陸(最終的には撃退)を経て、1629年に修道院横に砲台が設置される。アヘン戦争後ポルトガルはマカオ防衛力を強化、マカオ総督の指示により1861年に修道院は壊され、砲台が改修される。現在の軍営は1937年に建設。

この砦の南側、即ちリスボアのある辺りは1920-30年代以降埋め立てが行われた場所であり、以前は海岸であった。昔の写真、絵を見るとこの高台の砦から紺碧の海を見渡す風景が多い。

 

尚建物の横には高低2段に分かれるサンフランシスコ公園があり、かなり古い木々に覆われている。低い方には大樹の下にカモンエスの詩が書かれた碑がある。高い方には円形の建物があるが、何に使われているのか分からない。

(2) マカオ陸軍倶楽部

南湾街と兵営斜巷の角に立派な建物がある。マカオ陸軍倶楽部(ミリタリークラブ)である。建物正面にくっきりと1870年建造と記されている。この辺り一帯はポルトガル軍の軍司令部が置かれており、倶楽部も1975年のポルトガル軍撤退までは軍人専用であった。

建物はポルトガル洋式で中国的な装飾があり、いかにもマカオらしい。太い柱に囲まれた正面玄関を入ると丁度改装中。係りの女性が親切に説明してくれる。レストランは一般にも開放されているが、12月まではやはり改修中とのことで食事を味わうことが出来なかった。一度ここで午後の一時を過ごしてみたい気分になる。反対側には会員専用のラウンジがある。見せてもらったが、なかなか豪華。2階は事務所とのことであった。

(3) 八角亭

倶楽部の前の道を歩いて行くとやがて八角形2階建ての建物がある。八角亭という。1920年代に建造され、当初は酒が売られビリヤード場として使われていたが、1948年に中華商会の何賢が買い取り書籍・雑誌などを寄贈。現在マカオ唯一の公開図書室になっている。

図書室は午前中のみの公開となっており、朝訪れると老人が新聞を広げている姿が見られる。

(4) 民政総署

亜美打利庇盧大馬路はマカオの目抜き通り。通称、新馬路。南湾街の大西洋銀行の建物(頑丈そうなアーチ型の柱が特徴)の所で交わる。大西洋銀行マカオ支店は1902年の開設、1905年にはマカオで最初のパタカ紙幣を発行。現在の建物は1925年に完成。

右側を歩くと直ぐに大きな郵便局がある。この建物は1929年建造、ヨーロッパ風。東京中央郵便局を思い出す。当日は改修工事中であった。

郵便局の横がセナド広場、いつも沢山の観光客を見掛ける。広場の道の反対側が民政総署。外壁は完全修理中で覆われており、中も工事中であったが、建物を抜けると気持ちの良さそうな裏庭があり、花壇が整備されている。ベンチに腰掛けて本を読む人の姿が見られた。

建物の中のプレートには1633年という文字も見えることから相当に古くからある建物と思われる。

(5) 同善堂

セナド広場の前を歩いて行くと両側共に商店が立ち並ぶ。貴金属、服、食品を扱う店が多いが、最近は店構えを新しくした所が多い。香港からの買い物客は多いが、昔の風情には乏しい。

庇山耶街を右に曲がると直ぐに緑の3階建ての建物が目を引く。同善堂と書かれている。東洋医学の医院。2階にはアーチ型のバルコニーが見られるが、1階は中国的で天井の高い造りとなっている。

門を入ると中には大勢の患者が広い吹き抜けの待合室で椅子に座って順番を待っている。ここは歴史的な遺物ではなく現役なのである。患者は大半がお年寄り。お互い顔見知りらしく話し込んでいる。

 待合室を抜けると創立者の胸像が飾られている。一人はマカオのカジノ王と呼ばれた高可寧、もう一人は中華系の豪商であろうか?同善堂の前にはかなり古い薬局があり、漢方薬を処方している。歴史が感じられる。

(6) 徳成按

同善堂から更に少し行くと文化会館がある。3階建ての建物で土産物を売っている。その建物がレトロである。3階には中国茶を飲むスペースもあり、畳に掘り炬燵まであるのは行き過ぎか?

1階のレジの横を覗くと昔の質屋のセットがある。HK$5の入場料を支払い中へ。質屋のイメージはどうしても格子越し。ここでは格子の内側から見ることが出来る。更に奥に入ると裏の建物に。薄暗い中に金庫や秤がある。

中2階には質草を預かる箪笥?がある。一体どんなものが入っていたのだろうか?2階には小さな窓が厳重な囲いの中にある。現在は観光用に照明がされているが、昔はどんなだったろうか?

マカオの質屋は清末には存在しており、政府は1903年に質屋規定を制定している。徳成按は1917年に開業。第二次大戦中、大陸などから避難民が押し寄せ、人口は15万人から50万人に激増。食糧確保などを目的として多くの人々が質屋で換金を行い、質屋業の全盛期となる。その後70-80年代に高度成長を迎えると銀行などに押されて衰退し、最近廃業する所が相次いでいる。マカオと言えばカジノ、カジノといえば質屋といったイメージは無くなりつつある。

尚質屋には三種類ある。一番規模が大きく、期間も長く(3年)、金利も低いのが『當』。規模が小さく、期間も6ヶ月までと短いものが『押』(カジノで負けた人々が行くようなところ)。そして徳成按の『按』は當と押の中間。期間は1-2年というが、ここの看板には期間は6ヶ月で満期、と書かれていた。

(7) 福隆新街

徳成按の道の向かいは賑やかな小道である。炉石塘巷である。ここは東京で言えばアメ横の一部のような場所で、路上で客引きをしている店が多い。マカオ名物杏仁餅の他、牛、猪、鳥肉を甘辛く炙った物を客に振舞う。何処の店でも店先で作っている。たまごボーロが私のお気に入りである。

 

福隆新街の角にぶつかる。レトロな旅館が見える。新華大旅店、こじんまりしている。泊まれるようだ。周りには東京酒店や東方酒店などという名のホテルもある。この地区はその昔マカオ一の遊郭だったというが。

又アヘン戦争前、香港がまだ発展していなかった頃、マカオは中国貿易の一大拠点であった。この辺りに大きな茶商があり繁栄を謳歌していたが、その後廃れ、この跡地を福建籍の王禄親子が買い取り、今の街を形成した。1875年にはマカオ最古の劇場、清平劇院も作られた。どうやら政府はこの地区を保存しているようだ。土産物屋とレトロな建物。人が賑わう訳だ。

『福栄里』、福隆新街の長屋のような建物が続く道を少し戻ると門がある。その門を潜るとこれまでの喧騒が嘘のように静けさが訪れる。洗濯物が乾され、老人が静かに籐の椅子に座っていたりする。しかしその昔ここは通称火街と呼ばれ、遊女が多くいた場所である。また恐らくアヘン屈も多くあり、中毒患者が多数屯していたのではなかろうか?今は嘘のように静まり返っているが。

(8) 杏和堂

福栄里の前の道を歩いて行くと、新馬路に戻る。その手前に薬局杏和堂がある。如何にも老舗といった風情で建っている。80年以上の歴史があるといわれており、店の中にも歴史が感じられる。壁に薬箱が上までビッチリ。

店はおじさんとおばさんがやっているようだが、手持ち無沙汰に近所の人と話し込む。店の脇に細い階段がある。恐らく2階に住まいがあるのだろう。

 杏和堂の横には先程の福栄里と同様の門が見える。『福隆新街』と書かれており、門のところではおじさんが野外レストランを営んでいる。これが美味しそう。マカオには繁華街の直ぐ近くにも歴史が息づいている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です