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《深夜特急の旅2003-マカオ編》

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

今回はマカオ編。(『深夜特急1』)

1.2003年10月 マカオへ(P127)

上環のマカオフェリー乗り場からマカオへ。今も昔もイベントでもない限り、直ぐにチケットが買える。沢木氏と同じ水中翼船(ジェットホイール)でマカオへ。チケットは今ある一番早い時間のものを売ってくれるが、更に早い時間の船に乗りたければウエーティングの列に並び、席があれば乗れる。実に合理的なやり方だ。実際時間通り乗っているのは観光客で香港市民は早いものに乗ってさっさと行ってしまう。

尚沢木氏が帰りに乗ったという『普通のフェリーのデッキ』なるものは今や存在しない。デッキとは甲板で朝4時に出て2時間半、沢木氏はかなり寒い思いをしたようだが、そんな体験はもう出来ない。

マカオまでは水中翼船で約1時間。船は殆ど揺れない。外部から見ると海の上をすべるようにして走る。船内では早くもカジノ気分でインスタントくじなどを販売している(最近廃止されたようだ)。船窓から見る景色は香港の陸地が見えており、次第に海が広がるものの、大海原を走る感じは無い。

マカオは中国の珠海と陸を接している。右手に珠海が、左手にはマカオ空港に繋がる大橋が目に入るとマカオ到着である。空港は1995年に開港、台湾と大陸を繋ぐ等一定の役割を果たしてきたが、直行便が飛ぶようになるとどうなることか?沢木氏の頃の風景はかなり違ったものであったろう。

2.マカオパレス(P139-150、171-191)

到着するとイミグレを簡単に抜ける。沢木氏はここで観光ビザ(HK$25)を取得したとあるが、現在は要らない。

今の港は最近出来たもので、以前はもう少し西側にあった。今そこにはマカオパレスと言うカジノが建っている。沢木氏はこのカジノでマカオ滞在の大半を過ごしている。

マカオパレスは以前半島の反対側にあり、当時は庶民の行くカジノであった。私も1987年に初めてマカオに行った時、タクシーの中から陸地に繋がれた船に『澳門皇宮』の看板を掲げたこのカジノを見た記憶がある。所謂船上カジノである。確かに買い物籠を下げたおばさんがカジノに入って行く姿があった。何とも不思議に思ったことを覚えている。

マカオパレスに入る。かなり綺麗な入り口があり、金属探知機もあり警備も万全。カジノは2階のようだ。階段を上がるとこじんまりした空間がある。人はまばら。スロットマシンが並んでいる。あとは大小とバカラ。

大小では沢木氏が発見した法則を確認したが、3回の音では判断できなかった。それはそうだろう、もし沢木氏の発見が正しかったとしても30年前のことである。当然直しているはずだ。又素人のお客を誘いある程度勝たせてから巻き上げるといったボーイも当然ながら居ない。兎に角熱気は無い。

しかしカジノで物を尋ねるのは意外と難しい。『ここに何時移転したのか?』とこんな簡単な質問を従業員にしても、何を聞いているのだろうといった冷たい視線が帰ってくるのみ。確かにカジノでその由来を尋ねる人など居ないのだろう。カジノは博打をする所なのだから。尚2004年5月にこのカジノの直ぐ近くに大型カジノがオープン。実に40年振りの新規出店とあって初日は大混雑であったそうだ。残念ながらマカオパレスの前途はかなり暗いと言わざるを得ない。

3.リスボア(P151-152、159-165、192-199)

沢木氏は埠頭から、黄色い大きな建物を見つけ、真っ直ぐ西に行く。それがリスボアホテルである。勿論今は埠頭からリスボアが見えるわけではない。リスボアはマカオの象徴。誰もが一度はリスボアを目指す。

リスボアはホテル部分とショッピングモール、多くのレストラン、そして広大なカジノがある巨大な建物である。最初に行って迷わない人はいないだろうと思われる。香港に遅れること2年、1999年12月マカオはポルトガルから中国に返還されたが、その返還前にはカジノの利権その他を巡る黒社会(暴力団)同士、中国系と地場系の抗争が相当あり、このホテルの周りでも銃撃戦があったと聞く。一時はあまりに物騒でマカオに行く観光客が激減した。今では無事に返還が済み、表面上は平穏である。

私が最初にマカオを訪れたのは1987年2月、沢木氏と同様何気なく、全く予定外に香港からやってきた。夜リスボアに行こうということになり、カジノに一歩足を踏み入れて驚いた。以下『昔の旅』より。

『食後リスボアホテルのカジノへ。観光名所なので見学に行ったが、その活気には驚いた。平日だと言うのに多くの人がカジノにいた。香港から来たと思われる広東語を話す人も多い。彼らは平常何をしている人なのだろう?取り敢えず何をしてよいか分からず、スロットマシンへ。これは香港ドルのコインをそのまま使えるので挑戦。何回目かでかなりのコインが出てきたが、何が当たったのかも分からない。夢中で全部使ってしまった。内側の会場ではブラックジャック、ルーレットなどが行われていたが、何よりも見慣れない『大小』と言う遊びが大人気。ようはサイコロを3つ転がして、10以下なら小、11以上なら大。簡単な遊びだが、これがなかなか奥が深く、連続して勝てない。最初は恐る恐るやっていたが、その内面倒になり、千香港ドル札を大に賭けたら、大当たり。2千ドルになった(お姐さんが100ドルをチップとして取り上げて返してきた。)ので、もう一度2千ドルを賭けたら、また大当たり。4千ドルになり、そこでやめた。当時の4千香港ドルは中国で半年は暮らせる金額。

気が付いて時計を見ると既に午前2時。実にカジノとは恐ろしいところ、時間を忘れせる。ホテルの外に出るとこんな時間に人がウロウロしている。たいした金額を稼いだわけではないが、何だか襲われるような気分になり、直ぐ近くの第一ホテルまでタクシーで帰った。』

今回カジノに足を踏み入れるとやはり熱気は変わらなかったが、客層が変わっていた。1つは観光客の多さ。但し観光客といっても今では中国系が主流。彼らは一目で分かる。もう1つは香港人の身なりがかなり良くなっており、昔の庶民のイメージが無い。

中国大陸から来た人々は凄い。私が大小の研究をしようと聞き耳を立てていると後ろから2-3人の男が割り込んできて行き成りポケットから札束を取り出す。丁度場では大が続いていた。彼らは迷わず大に向かい、札の束を叩きつける。その札が香港バンクの千ドル札である。燦然と輝くこのお札を束にしている。よく見ると横の女性が男から札を貰ってやはり大に賭けている。

その時女性ディーラーが猛然と何か言い始めた。どうやらこの台では1万香港ドル以上は賭けられないこと、又他人に依頼して分散して賭けてはいけないルールのようだ。しかし中国人は全く納得せずに喚きたてている。ディーラーは彼らの札束を数え始める。

とうとう男が怒鳴りながらディーラーに手を出そうとした。流石に周りは凍りついた。ガードマンが数人なだれ込んできて男を抑える。そこに賭けの終了を伝える鐘の音。彼らのお金は1万ドルに減らされて場に残る。

蓋を開けると『大』であった。さあ大変。中国人は怒り狂い遂に退場処分となる。しかしどうやらディーラーには今回が大であることが分かっていたようだ。もし小ならそのまま流していたかもしれない。結構恐ろしいもの見てしまった。どちらにしても何らかの法則で大小を区別することは私には出来なかった。(出来ていたら今頃大金持ち?)兎に角リスボア内では北京語が氾濫しており、今やマカオは北京語が普通に通じる街になっている。

4.ポルトガルレストラン(P153-158)

沢木氏はリスボアで賭博中に腹が減り、南湾街のレストランに入っている。ここは恐らく『ソルマー』であろう。1961年開業の老舗であり、昔私も偶に行った場所である。今は店も綺麗になっているが、当時は『しっとりとしたたたずまい』と表現されている。

ここでアフリカンチキン、いわしの焼き魚を食べれば大抵の日本人は満足する。現在でも値段はそう高くない。勿論2階もある。沢木氏はここでウエーターに日本語で話しかけられている。彼の母親は日本人だが、3歳の時に日本に帰ってしまい以後消息が分からない。

マカオには16世紀以降多くの日本人がやってきている。最初はキリシタン迫害を逃れた人々、又は商人。その後は鎖国時代の漂流民。そして戦前は所謂『からゆきさん』。私はふと、彼の母親も何らかの事情でマカオに流れ着き、戦後日本に戻ったからゆきさんではないかと思ってしまった。住所の群馬県渋川も戦前それ程豊かな場所ではなかっただろう。生糸の輸出と関係が?日本とマカオの交流は様々な形で我々の想像を遥かに超えた深いものがあると思う。今後その辺を調べてみたい。

全く余談であるが、私は小学生の時に『天正の少年遣欧使節』という本を読んだことがある。それは400年前の戦後時代にローマ教皇に謁見した4人の日本人少年の話であるが、その中の一人、原マルチノは帰国後キリシタン迫害にあい、マカオに逃れて死んでいる。恐らく私がマカオという地名を最初に認識したのはこの時であった。

更に余談を続けると400年前のヨーロッパは決して先進国ではなかった。何しろ食べ物は手で食べていたのだから。逆に当時の日本は非常に高い文化水準を持ち、茶の湯などは宣教師を大いに驚かせたようだ。その日本人がマカオにも住み着いたのであるから、文化的にも何がしかの寄与をしたと思うのだが、現在その痕跡を探すことは難しい。

5.聖パウロ教会(P137-138)

南湾街から新馬路に入るとそこはマカオ一の繁華街。沢木氏が地図を購入した本屋などは既に無く、時計屋、食品、レストランなど観光客向けの店が並んでいる。そして道の中ほどにはセナド広場がある。ここは昔の建物を保存し、コロニアル風のたたずまいを残している。クリスマスのライトアップなどは非常に綺麗で夜訪れると良いかもしれない。

この広場から登って行くと、聖パウロ(セントポール)教会が見える。リスボアと並ぶマカオの象徴である。17世紀初頭にイエズス会が建てた教会で日本を追われたキリシンタンも建造に加わったという。1835年の大火で現存する正面の壁面以外を消失してしまう。壁面にはマリア像やキリスト少年像などが残っている。

ここの階段は中国人観光客でごった返していた。写真を撮る人々が多く、1枚撮るのに時間を掛けるのでラッシュアワーのようになってしまう。確かにポルトガル風の建物は中国国内にはあまり無いが、それにしても今も昔も中国人は写真好きである。

壁の裏側に回ると確かに抜け道のようなものがある。抜けて登って行くとモンテの砦に着く。ここもイエズス会の協力で作られ、何と侵攻してきたオランダ軍を撃退したというから凄い。正に宗教が戦争であった時代である。

6.ベラビスタホテル

沢木氏はリスボアから海沿いを歩いて美しい洋館に辿り着く。そこがベラビスタホテルである。現在はどうなっているか?夕暮れの道を歩いて行くと、以前とは異なり人工湖が見える。マカオタワーという高い塔もある。湖にはライトアップがあり、噴水ショーがあったりする。マカオもお洒落になったものだ。綺麗にライトアップされた総督府を通り過ぎると並木道のベンチにカップルが座っていたりする。

山側に綺麗な建物が見える。急いで登るとかなり急な坂道である。西洋人が数人楽しそうに降りてくる。胸が高まる。あの素晴らしい建物、バルコニー、風景を持つベラビスタが近づいた感じである。

ホテルには海に面する部屋があり、バルコニーも見える。しかし、しかし何故か名前は『リッツ』である。中に入りベテランのマネージャーと思しき男性に尋ねる。彼は丁寧に『ああ、ベラビスタはうちの斜め向かいだよ。但し数年前に閉館したけど。』という。

慌てて外へ出て言われた方に行くと確かに薄暗い中にかなり古めかしい建物が見えた。一体何に使われているのだろう?微かに窓から明かりが漏れる。人が住んでいる気配はある。覗き込んでいるとガードマンが居る。どうやらこれ以上見ているのは良くないように思えたので、退散する。

後で地図を見ると何と『ポルトガル領事公邸』とある。納得する。しかし一度でいいからベラビスタに泊まって見たかった。今ここからは正面にマカオタワーが見えるに違いない。

7.ポルサダデサンチアゴ

ベラビスタを考えているとどうしてももう1つのホテル、ポルサダデサンチアゴを思い出す。ここはヨーロッパのお城(又は館)に見えるが、実は17世紀に建てられた要塞を改造してホテルにしたもの。入り口は石段のトンネルになっており、登ると直ぐ外に出られる。気持ちの良いオープンカフェがそこにある。非常にゆったりとした時間が過ごせる場所である。カジノの喧騒とここの静寂、マカオの2面性を表している。

10年以上前に未だ2歳だった長男を連れて親子3人このホテルに泊まったことがある。実はマカオは子供にとってはそれ程面白い場所ではない。ドックレースに連れて行こうとしてもギャンブル場は入場禁止だ。仕方なくホテルでゆっくりしようと思い、夜もホテルのメインダイニングで取る事にした。事前に電話で子供連れOKの確認を取っていたが、行ってみるとそこはマカオの上流階級が集まる場所といったお洒落な所で蝶ネクタイやイブニングドレスが似合うレストランであった。長男はテーブルに置かれたキャンドルの火に大興奮して即座に自主退場となった。辛うじてオーダーした料理は全てルームサービスになって運ばれてきた。

朝はバルコニーに朝食を運び実に優雅な食事が楽しめる。海が一望できた。小さなプールもあり、リゾート気分になれる。

ホテルの外壁の片隅に『1911年』と掘り込まれたプレートがある。そしてその横に『民国街』という道がある。これは何を意味するのか?1911年は辛亥革命の年。孫文はそれ以前にマカオに滞在したことはある。故郷にも近い。辛亥革命の年に何かがあったということか?民国街を上って行くと、かなり古い建物が住人も無く放置されたように建っている。更に行くと木々に囲まれた一角があるが、その道の前で大きな犬が大の字で寝ていた。近づくとむっくり起き上がり、睨んでから一声吼えた。来るなという意味に聞こえた。孫文の番犬か?ここは一体何があるのだろうか?旧国民党と関係があるのだろうか?

8.余談

沢木氏はマカオ半島以外には行っていない。というより殆どをカジノですごして去っている。しかしマカオにはタイパやコロアン島もある。私は偶々タイパ島に行く機会があった。

そこに香港人が良く行くレストランがあるという。六棉酒店、何と中華レストランである。香港人にとってマカオはポルトガルを味わう所ではない。安くて美味しい中華を食べ、香港で出来ないギャンブルを楽しむ所なのである。

その横に茶屋があった。なかなか雰囲気の良さそうな店構え。中に入ると喫茶が出来るスペースもありかなり広い。主人はマカオ人で自ら茶葉を仕入れに行くという。何人かでちょっと休むには良い場所かもしれない。

9.国境

私は今回の旅で最初にマカオを訪れた際、フェリーターミナルからバスでリスボアへ向かおうと思い、何と反対に珠海との国境に着いてしまった。大陸に引き寄せられてしまうのだろうか?

国境までは僅か10分、以前はそれ程でもなかったが、今では国境を行き来する人の数も相当数に上り、付近は人が多い。タクシーも数年前に比べ多くが客待ちしており、車体も新しい。国境の建物から吐き出される人々はタクシー、バスにどんどん乗り込み機能的に動いている。行き来に慣れている人が多いということ。

以前台湾人にここの国境を夜遅く越えるときは気を付ける様にいわれたことがある。台湾人は現金を持って往復することが多く、強盗の標的となり易い。強盗はわざと台湾語で話し掛け振り返ると襲うとも言う。中国大陸からの送金が簡単でない現実では、彼らの現金決済も続いて行くことだろう。

先日台湾の友人がマカオ・珠海を視察した。狙いは2つ。一つはマカオで貿易会社を設立し、税金の優遇を得る事。二つ目は香港・マカオ・珠海大橋の建設を今から睨んでのマンション投資。

中国に飲み込まれそうなマカオであるが、それなりに手を打って来ている。香港は生き残れるのであろうか?老後のロングスティ先にマカオも選択肢に入ってきそうだ。