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関釜フェリーで行く韓国2023(2)プサンに上陸して

3月27日(月)プサンに上陸して

午前6時前には起き上がった。すると少しして船が停止した。何ともうプサン港に着いたのだ。だが下船時間は8時。そうか、港職員はまだ来ておらず、手続きできないので待っているのだ。『プサン港に入れない』。今更風呂に入るわけにもいかず、韓国用シムと格闘して、何とか開通させる。そうこうするうちに下船が始まる。

ゆっくり降りていくと、すぐに入国審査がある。韓国人はさっさと抜けて行くが、外国人の窓口は一つしか開いておらず、進まない。韓国人は全て抜け終わると一斉に窓口が外国人に開放され、後から並んだ人々がどんどん追い抜いて行く悪のシステム。そのことを係官に指摘しようとしても、理解できないらしい。実に古い空港のシステムのようで、改善はない。

まずはウォンがいるので、ターミナルの銀行で両替する。レートは悪いが金がないと何もできないので仕方がない。予約した宿はターミナルから近いはずなので歩いて行く。何だか天気が良い。道も広い。清々しい朝だ。近くに見えたプサン駅だが、歩いてみると意外と遠い。更に駅を通り越して歩いて行くとようやく宿が見える。Googleで見るよりずっと遠かった。

キレイな宿に荷物を預けて外へ出た。意外と疲れていないので驚く。まずは朝ご飯でも食べようと思ったが、駅前の中華街はどこも閉まっていた。何となく以前行った市場のことが思い浮かぶ。あれは8年前の冬、寒風吹きすさぶ中で、食べ物を売っていたおばちゃんたちの姿だ。そこは駅前から3㎞ぐらい離れていたが、折角なので歩いて行ってみた。

途中に『40階段記念碑』があり、道から階段が伸びていた。ここは朝鮮戦争時の避難民の集結した場所であり、バラック小屋で生活しながら生き別れた家族を待ったところと聞く。この付近も1953年の大火で焼かれ、その面影は無くなっている。因みに辰野金吾が設計した旧ソウル駅もこの近所にあったが、その大火で焼失したとある。

ずっと行くとおしゃれな通りが出てきた。この付近は300₋400年前、龍頭山倭館が置かれた場所らしい。今やその面影は全く見られない。何とか国際市場付近まで来たが、その風情は随分と変わっていた。まだ朝なので多くの商店は開いていない。細い路地に行くと靴下などを売っている向こうに、おばちゃんたちが座って商売している場所を見つけた。

レーメン、などと日本語で声が掛かったが無視して進むと、『チャプチェ』と言われて立ち止まる。習性として『チャ』には必ず反応してしまうのは悲しい。座ってチャプチェを食べると旨い。スープも別に出してくれ、こちらも旨い。何だか気分が乗ってきた。3000ウォン。因みにチャプチェとは雑菜と書くらしい。朝鮮半島に入った中国料理、というのはやはり一度やってみたいが、韓国語が分からない。

何となく中途半端に食べたので余計に腹が減ってきた。確か港の方に焼き魚があったようだと思い出して行ってみる。だが食堂の焼き魚定食は皆2人前以上。一人で簡単には食べられない。おばさんに聞いてみると『あっちに行けばあるよ』と指をさした方に行くと、細い路地が市場になっている。かなり長く続くその市場を抜けて行くと、途中から食べ物屋が出てきた。

だが焼き魚はない。それでも旨そうな湯気が立ち、匂いがしている。思わず覗き込むと優しそうなお姉さんが、『食べていく?』という顔をしたので頷く。そして料理名を聞くとGoogle翻訳を示す。ソンジクッパ、牛の血を固めたものを煮込んでご飯にかけて食べるようだ。濃厚なスープに牛肉の筋などが入り、実に美味。これで6000ウォンは安い!因みにお姉さんは韓流ドラマに夢中で、会計できずに困る。

関釜フェリーで行く韓国2023(1)小倉でサクラ、食べ歩き

《関釜フェリーで行く韓国2023》  2023年3月25₋30日

2か月のタイ滞在を終えて東京に戻った。だがもうコロナ時代は終わったとばかり、次々に旅が予定されていた。1週間後には韓国に向けて旅立つ。今回は単にソウルの知り合いに会いに行くのが目的だが、飛行機の往復はつまらないと思い、前々から乗ってみたかった関釜フェリーを選択。そして久々の北朝鮮を眺める旅に出た。

3月25日(土)小倉へ

小雨の中、羽田空港に向かった。ここ数日天気が良くない。今回は実に久しぶりにスターフライヤーに乗る。ANAのマイレージ、国際線はサーチャージが高すぎて、使う気になれないが、北九州行のチャージは僅か470円。これなら安いと、年度末、春休みで込み合うフライトを抑えた。

ところが羽田に着くとスターフライヤーはANAと違い第1ターミナルなので、反対に行ってしまい、戸惑う。同じグループというわけでもないのだろうか。スターフライヤーは機体が格好良い。機内は満席だが、席は心持ち広くて快適な気分になれた。まあ、フライトは1時間半なので、あっという間に着いてしまう。

北九州空港で降りるとリムジンバスが待っている。710円、40分で小倉駅前まで行く。因みに小倉駅前といっても、新幹線口とバスターミナルがあり、ちょっと混乱。そこでお茶友達のNさんと合流し、彼女の案内で予約した宿へ荷物を置きに行く。そこは老舗ホテルで本館と新館があり、それはなぜか繋がっていなくて、また混乱。何だか日本では困惑が多い感じだ。

それから地元のうなぎの名店へ行ったが、外に行列が出来ていた。30分待ちの間に、カフェでアッサム茶200周年などのお茶話をする。戻るとちょうど順番が来て、席に着く。せいろ蒸しというのがあったので、それを注文する。肝焼きなども美味しかったが、せいろ蒸しのうなぎは柔らかく、極上。

それから駅前近く、Mさんのお店、ホーンへ行ってみる。本当は明日行く予定だったが、昼はお休みとのことで、急遽訪ねる。夜はバーで、お客さんが溢れていた。コロナが過ぎ去り、急激に客足が伸びているようだが、まだ常連客は完全に戻っていないという。バーで伊勢紅茶を味わいながら、Nさんとお茶談義。更には隣に一人で来ていた女性がいて、紅茶好きということで話す。これからはこんな紅茶の飲み方もありではないか。残念ながら大忙しのMさんとあまり話せなかった。

3月26日(日)小倉でお花見

昨晩は夜遅く戻ったので、朝風呂。さっぱりしたところで朝散歩。お城近くにサクラが咲いている。昨年2度の火事に見舞われた旦過市場はひっそりとしていた。後で調べたら日曜日は休業日らしい。どの程度賑わいが戻ってきているのだろうか。焼けた部分の修復、そして一部は残されていた。大正時代からある由緒ある市場は残っていくだろうか。

小倉駅でYさんと合流して、北九州のソウルフードとも呼ばれる『資さんうどん』に行ってみる。チェーン店ながら安定の味で、ひっきりなしに客が来ている。もつ鍋うどんを注文。確かにいい味になっている。デザートにぼたもちも頂く。今はかつ丼が売出し中だった。帰る頃には席待ちの人が外まで続いていた。

腹が一杯になり、雨も止んだので、小倉城に花見に行く。ほぼ満開でかなりきれいな状況だった。毎年日本のどこかでサクラが見られるのは何とも嬉しい。今日は日曜日だから花見客も多いが、それでも十分余裕をもって見られるのは尚よい。また小雨が降り出したので、辻利へ行って、あんみつを食べ、抹茶を頂く。何とも贅沢な午後。

その後Yさんと別れて下関に移動。JRに乗って行く。本当は駅のうどんが食べたかったが、腹に全く余裕なし。40分弱で下関駅に到着。昨年三泊もしたのに、駅の配置も忘れてしまい、道に迷いながらターミナルを目指す。実は歩道橋でかなり繋がっていることは後から知る。

佐原旅2022(2)成田で、そして電車遅延で

12月17日(土)成田へ

朝6時に起きたが、大浴場に行く気にはなれず、朝ご飯も頼んでいなかったので、部屋でボーっと過ごす。このご時世、体に異変があると困るので、取り敢えずジッとしておく。そして9時になったのでチェックアウトして、昨日の観光案内所へ行く。そこで残った旅行支援クーポンを美味しそうなご当地お菓子と交換する。

伊能忠敬記念館への思いが馳せたが、意を決して駅へ戻り、電車を待つ。結局佐原では歩きたいところへ行きつけず、後悔が残るが仕方がない。楽しみを次回に残したと思って、また来よう。駅舎からホームへ行くと、何とこの駅にはゼロ番線があるというアナウンス。ここを使う電車は鹿島神宮まで行くらしい。ちょうど電車がやってきて、こちらの電車に乗り換える。いつか鹿島神宮にも行ってみよう。

また昨日来た路線をただただ戻る。今日は土曜日だからなのか、乗客が多いが何とか座っていく。40分で成田駅へ戻る。今日は逆に京成駅へ行く。イオンモールへ行く電車があるのかと勘違いして駅で聞くと、前のバスに乗れ、と言われたので、そちらを向くと、既に結構な行列が出来ている。

このバスはイオンモール直通バス。最後の一人として何とか乗り込み、立っていく。道はそれほど遠くないはずだが、意外と時間が掛かる。20分で何とか到着。なぜここへ来たのか。それは先日知り合いのTさんと連絡を取り合い、久しぶりに会おうということになったのだが、何と彼は知らない内に成田に引っ越していた。折角なので都内にある彼の会社ではなく、成田へ来て見た(そのついでに佐原に寄った)というわけだ。

イオンモールは結構広いので会うのに手間取ったが何とか落ち合った。そしてモールの向かいにあるカフェでサンドイッチなどを頬張り、ゆっくりした時間を過ごす。すきっ腹のサンドイッチは何とも旨い。Tさんとは6年ぶりらしい。その間彼の周辺は激変し、彼は着々と日本定住を進めている。一方彼の両親の故郷である広東省にも、家を建て、そちらに両親を住まわせる計画もあった。私としてはその場所と茶に大いに関連があるため、準備が出来たところで、そちらに調査に行きたいと考えている。

因みに彼は私のIT周りをいつも手伝ってくれていた人。以前はPCの購入からソフトやデータの移設まで、全部やってもらっていた恩人だ。今回も何気なく『中国の決済システムが使えなくて』と話したところ、取り敢えず最低限の処置をしてくれた。実はこの時やってもらった処置がその後大きな意味を持つ。持つべきものは友、何とも有難いお知り合いだ。

3時間ほど話して、また成田駅へ向かった。それから昨日来たルートを淡々と戻っていく。ところが笹塚まで来た時、京王線で人身事故があったことが初めてアナウンスされる。明大前まで来ると、一度電車を下ろされる。振替輸送があるというので行列して駅員に尋ねると『Suicaでは振替できません。目的地を明確にするため、きっぷを買ってください』という。それも面倒だと思い、そこで駅そばを食べながら待つ。1時間で回復予定と出ていていたので、日本なら1時間以内に動き出すだろうと高を括っていた。1時間が近くづくと来た電車に乗り桜上水まで進んだ。

皆考えることは同じだ。復旧したら一番最寄りの駅ら乗るのが一番近道と。何と桜上水駅のホームは人で溢れていた。しかも動くはずの電車は全く来ず、後から後から乗客がここに送り込まれてきて、大混乱になる。もうアナウンスも当てにはならない。そしてこの日は非常に寒い。体感温度は零度に近いのではと思う中、約1時間吹きっさらしのホームに立たされていた。それでも文句を言う人がいないのはやはり日本人、すごいなと感心する。ようやく電車が動き出し、家に帰ると昨日の疲れがどっとぶり返し、本当に病気になりそうだったので、急いで寝入る。

佐原旅2022(1)初めて佐原へ

《佐原旅2022》  2022年12月16₋17日

日本に帰国し、茨城、静岡に行った後は、ずっと家にいた。そして毎日サッカーを見ていた。日本がこれだけやれるとは正直思っておらず、予想外に盛り上がったワールドカップだった。決勝戦後に今年最後の旅に出ようと思っていたが、その前にちょうど成田へ行くことになったので、ついでに前から興味のあった佐原へ行って見ることにした。

12月16日(金)佐原へ

まずは京王線、都営新宿線で本八幡へ行き、京成線に乗り換える。そして京成成田駅で降りる。これは久しく使っていない成田空港への一番安く行ける道である。何となく懐かしい。京成からJRに乗り換えるには数分歩かなければならない。JR成田駅まで来ると、乗る予定の電車が少し遅れているという。

それならばと近くでランチを探すと、駅の横に駅そばがあったので、何気なく入ってみる。そして何気なく普通にかき揚げそばを頼み、するすると食べて、外へ出た。そこには張り紙があった。『閉店のお知らせ』、その日付はまさに今日だった。初めて入った店が今日でお仕舞だ何て、何となく悲しいのだが、お客さんも従業員も、とても普通な雰囲気でちょっと不思議だった。まあ、10日後には新しいチェーン店がそのまま入って、何事もなかったように営業するらしい。

駅の前には観光案内所もあったので、成田山新勝寺の案内を貰う。そこで『ちょうどすぐ近くで歌舞伎浮世絵展やっています』と言われたので、トイレに行くついでに?ちょっと覗いてみることにした。市川團十郎が浮世絵に描かれており、新勝寺詣でをするなどの場面が展示されていた。

駅まで戻ると電車はそれほど遅れず、発車した。この時間帯に乗っているのは高校生。銚子行の電車は快調に走っていき、40分も乗ると佐原まで着いてしまう。何だかもっと遠い所へ行くつもりでいたので、少し拍子抜けする。

佐原で

佐原駅の駅舎は結構クラシックで様子が良い。駅前に出ると、さっそく郷土の偉人、伊能忠敬像が迎えてくれる。精緻な日本地図を作った男はここで生まれた。そして本日の宿は駅のすぐ横、まずは荷物を預かってもらうべく、そちらへ向かう。フロントの対応が実に親切で嬉しい。

外へ出て、観光案内所へ向かう。そこで説明を聞き、地図を貰う。その地図に沿って歩き出す。10分もしない内に、川へ出て、その両脇に古い店舗や倉庫が見えてくれる。川には遊覧船も浮かんでいる。この風景には既視感がある。私が育った栃木市も『蔵の街』として売り出しており、同じような風景を見てきた。もう長く行っていない栃木、今はどうなっているだろうか。

こちらの街並みでは、商店なども多く保存されており、今も店舗として活用されている。ただ12月の寒空、今日は日差しが暖かいと言っても、平日に歩いている観光客は多くはないのが、少し寂しい。ただゆったりと歩けるのは自分にとっては有難い。正上醤油店は何かの番組で取り上げられており、見た記憶があった。川から少し外れると川崎銀行佐原支店という洋風建築があり、中は観光案内所、展示スペースになっており、休息がてら勉強する。

勿論この街には中心がある。伊能忠敬である。その旧宅は開放されており、酒造業を営んだ家が残っている。忠敬は養子で、50歳まで家業を行い、隠居後全国を歩き始めた。全く環境や志は異なるものの、私も50歳で会社を辞め、本格的に茶旅を始めた。一方的に親近感を持っている。

伊能忠敬記念館に行けば、詳しい説明があるだろうと思っていたが、何故か急に疲れが出てしまい、集中力もなくなったので、ここは明日に回して帰ることにした。帰りは別の道を通り、諏訪神社の先の公園内にあった、もう一つの伊能忠敬像だけ見て帰る。こちらの像は駅前よりかなり大きく、佐原の街が以前より伊能忠敬に向けていた尊敬が伝わってきた。

宿に戻りチェックインする。まだ早い時間なのに、結構人が並んでいた。どうやら全国旅行支援でゆっくりしようという人々らしい。この宿には大浴場もあるし、ちょうどよいのかもしれない。私も早々に風呂に入ろうと考えたが、何とも疲労感がすごい。まさか病ではないだろうな、とちょっと心配になるほどだが、熱などの症状は全くない。

夕方になっても回復しない。腹だけが少し減ったので、近所の定食屋を探したが、残念ながら閉店していた。平日は開いていない店も多いらしい。仕方なく旅行支援クーポンをコンビニで使用して、食べ物を確保。部屋で食べた。そしてふっとベッドに入ると、何とそのまま朝まで寝込んでしまう。丸12時間、一度も起きずに寝ていることなど近年稀。本当に疲れがピークになっていたようだ。

横浜歴史旅2022(2)掃部山公園と音楽堂

中華街をよく見ながら歩くと、かなり古い建物が見られる。そういえば半年前に閉店した老舗の聘珍楼、既に店があったことも分からないようになっていた。賃料が高額で負担できなかったとの話もあるが、本日見る限りかなりの人出があり、コロナがもう少し早く収束していれば、あるいは生き残れたかもしれない。これも中華街の栄枯盛衰か。最近はレストランではなく、占いコーナーがすごく増えたと感じるが、これもまた世の流れだろうか。

お昼はお知り合いのKさんと食べる。Kさんが選んでくれた店は、まさかの東北料理。いや、これまで中華街のイメージは広東中心の南方系が主流だったが、最近は中国人のための中華ニーズからか、東北系の進出が目立っているようだ。午後1時頃でも店は満員。店員は勿論お客も中国人が多く、中国語がそこかしこで飛び交う。これもまた新たな中華街だろうか。中華街は食べ放題の店が増えてしまい、観光客向け。ここで働く人などの食事も必要だ。

そこからKさんと散歩がてら、桜木町駅方面へ向かう。横浜公園を通り掛かったので、横浜開港初期の功労者の一人、英国人土木技師ブラントンの胸像を紹介する。長く横浜界隈に住んでいても、公園を散歩することがあっても、この胸像には気が付かなかったと。歴史とはそういうものだろう。

桜木町駅でKさんと別れた。この駅の横に操車場?があり、その跡地で中国鉄道展が開かれ、30日間東京の王子から毎日バイトで駆り出されたのは、あれはちょうど40年前の夏休みだった。懐かしいというか、あれは何だったのだろうかと思ってしまう。初めて中国人民(運転手さん)と中国語で言葉を交わした思い出の地。

そこから少し坂を上っていくと、神奈川県立音楽堂がある。この付近に横浜の大茶商、大谷嘉兵衛の屋敷があったらしいが、今やその痕跡は全く見付けられない。音楽堂の裏は掃部山公園と書かれている。掃部山というぐらいだから、日米修好通商条約の井伊直弼ゆかりだろうか。直弼も幕末の大茶人だから、茶の歴史とは深い関係にあるが、今日はこの公園をパスした。因みにここは明治5年の鉄道開業に際して、外国人技師の官舎などが建てられていたらしい。今年は鉄道開業150年、何かしらの因縁を感じる。

更には立派な能楽堂という建物もある。ここは旧前田家の敷地だったらしい。その横に目的地の県立図書館があった。この図書館が出来た経緯なども知りたいと思い、入ってみたら、何と月に一度の特別休館日。何と間の悪い日に来てしまったのだろうか。後悔先に立たず、だな。

仕方なく市立図書館へ回ってみる。所在地は野毛山。戦前は原善三郎や茂木惣兵衛など、大物の屋敷があったと書かれている。今は動物園か。こちらは普通に開いていたので、調べ物をする。少しのつもりが意外と時間を取り、外へ出たら既に真っ暗。トボトボ桜木町駅方面へ歩いて行くと、その辺は野毛の飲み屋街。何だかなあ、と思いながら、電車ですぐに帰った。

ところが東横線で渋谷まで来るうちに、すごく腹が減ってしまい、渋谷で夕飯を探す。ふらふらと川沿いを歩いていると、『とん汁定食』という文字が見えたので、古い定食屋かと思い入ってみた。その文字とは裏腹に、かなりおしゃれなお店で、店員も若者、お客も若者という、イメージとは違う店だった。

何だか旨そうなアジフライもあるというので、セットにして食べる。豚汁は野菜がゴロゴロ入っており、意外といける。ご飯も選べるし、雰囲気も良い。何だかよくできているなあと思って調べてみたら、かつやの系列店だった。なるほどと妙に納得して帰路に着く。まあ1000円は決して安くはない。

横浜歴史旅2022(1)中華義荘から中華街へ

《横浜歴史旅2022》  2022年12月8日

これまでも横浜には何度も来た。中華街にも時々来ている。だが私は中華街がどのような過程で発展し、どのような経緯で華人が今日を迎えたのかをよく知らない。偶には港横浜で華人巡りをしてみようと思い立ち、珍しく?日帰りで出掛けた。

12月8日(木)

東横線で横浜駅まで来て、根岸線に乗り換えた。ところが電車が遅れているという。ホームに行くと電車は停まっており、表示では55分遅れとなっていた。どうしたものだろうかと考えていたところ、突然ホームのベルが鳴り、慌てて乗り込むと走り出した。約1時間止まっていた電車がちょうど動き出したところだったらしい。何という幸運。

山手、という駅で初めて降りる。山手と言えばユーミンの『山手のドルフィンは』ぐらいしか思いつかない。駅から目的地までGoogleで調べた通り歩き出すと、何とかなり急な坂道だった。更には道も入り組んでおり、意外と面倒な行程となる。何とか喘ぎながら到着したのは中華義荘というところ。

ここは横浜華人たちのお墓がある所だった。19世紀後半に出来た墓地、1892年に華人たちの手によって建てられた地蔵王廟もここにあり、立派な菩薩像も安置されている。華人たちがここを手に入れるまでも色々と苦労があったようだが、今やそれも良く分からない。近所で日向ぼっこしていた老婆もどこか華人の雰囲気があった。

裏手の墓地、墓石が整然と並ぶ。広東、福建、浙江など大陸各地の他、台湾などの地名が墓碑に刻まれている。墓の形、様子も年代により少しずつ異なっている。徐々に日本化しているのだろうか。奥の方には関東大震災で亡くなった華人の慰霊碑なども見られる。あの100年前の震災が横浜にどれだけの被害をもたらしたのか、その一端が分かるようだ。

お墓の横にはモダンな建物が建っている。中華会館。葬儀など、恐らく何かある時はここに集まるのだろう。館内には整備中の展示物があった。そこには中華学校など、華人の歴史のパネルが置かれていた。現在中華学校は二つあると言い、そこには歴史のみならず、外交問題なども絡んで複雑なようだが、取り敢えず私は初期の中華街の華人史を追いたい。

そこから20分ぐらい歩いてJR石川町駅前まで来た。さっきは登りだったが、今度はゆっくり下ったのでかなり楽に感じられた。この駅前にあるのが山手中華学校。2010年に山手からここに移転したらしい。幼稚園も併設されている。昔はこの駅からとぼとぼ歩いて中華街へ行ったなあ、などと思い出す。

そこから更に歩いて関帝廟まで。その横には横浜中華学院がある。ここは最近校舎が新築されたようで、非常に新しい。この周囲には中華会館など、各地の同郷会もあり、中華街の中心を感じさせる。付近は修学旅行生が大勢歩いている。そのまま歩いて行くと山下町公園に着く。

ここは明治初期、会芳亭という劇場があり、その後は中華民国総領事館があった場所だった。今は会芳亭と書かれた東屋が建っているが、それ以外で往時を偲ぶものはない。何と最近ラグビーワールドカップアが開かれたのを記念して、『日本で最初のラグビー発祥地』なる記念碑が建てられている。

そこから中華街を突き抜け、神奈川芸術劇場へ向かう。ここは山下居留地遺跡の発掘が行われた場所であり、基本的に欧米商会が軒を連ねたところ。ただ一軒だけ華人経営の印刷所があったと聞き、ここの店主が中華街の歴史に大きく関与していることを学ぶ。更にその裏側には居留地48番館の建物が少し残っており、その風情を感じさせる。

再び中華街へ戻ると、そこにはツタが絡まった古い工場が見えた。同發菓子工場、月餅などを作っていたのだろうか。同發と言えば、もう40年近く前、下宿先の家族に伴われて初めて中華街で食事をした場所だったような微かな記憶がある。福満園というレストランのビル、すごいY字路で見事。

茨城歴史旅2022(2)水戸散策

そこからお城へ入ろうとすると斉昭公の像が迎えてくれた。中に入ると光圀公が『大日本史』の編纂所とした彰考館跡がある。この辺に瞬水も関係しただろうか。水戸一高など学校が多くあり、学生が下校している。そこから今日の宿を目指して、線路を渡る。既に夕日がきれいだ。

今日の宿も川沿いにしてみたが、随分と寂しいリバーサイドで、かつすぐに暗くなると部屋の窓からは何も見えなかった。ただチェックインの際、『全国旅行支援』を選択していたらしく、何も分からず宿泊代は安く(東横インは他社と違って旅行支援の便乗値上げをしていなかった)、更に3000円のクーポンがもらえた。身分証と一緒にワクチン接種証明の提示を求められて、ちょっと慌てた。タイに行く時コピーした紙が、バッグの下からボロボロになって出てきたが、それでもOKだった。アジアでは使うことがなかった紙が、こんなところで活躍したのは皮肉なものだ。

折角全国旅行支援で3000円もらったので、今晩は豪勢な食事でもと思ったが、クーポンが使える食堂が見付からない。ふらふらしていると、レトロな食堂を発見、思わず入ると完全な昭和だった。和定食は立派なお膳で、刺身と天ぷら、小鉢が二品とボリュームがあり、天ぷらなどは懐かしい家庭の味、無料コーヒーまで付いて僅か650円。旅行支援は不要だった。帰りに駅前を通りかかると、既にクリスマスの飾りがきれいにできていた。ちょっと早すぎでは?

11月15日(火)水戸散策

東横インの朝ごはん、昔はおにぎりとみそ汁ぐらいだったと記憶しているが、今回の宿では豊富なおかずがあった。更に水戸と言えば納豆だったが、器は間に合っていなかったのか、茶碗はなく、プラスチック食器。まるでタイのぶっかけ飯のように納豆をかけて掻き込んだ。

今日は水戸を散策して帰ることにした。川沿いを歩き、最寄りのバス停まで行くと、雨が降り出した。ちょうどバスが来たので何とか濡れずに済んだが、いくつも来るバスの行き先が良く分からず困る。水戸駅を経由して、バスは更に進んでいく。雨が強くなる。30分ぐらい揺られ、更に10分ほど歩いて何とか歴史館に到着する。

中に入り、学芸員の方に『朱瞬水に関する展示』を尋ねると、それは誰、という顔をされて驚いた。そうか、水戸でも瞬水は知られていないんだ、と分かる。展示はいくつもあったのだが。また江戸時代、水戸藩でもお茶が作られていたことが書かれていて、興味深い。他にも色々と面白い展示があるのだが、よく見る時間が無かったのは残念だ。

敷地内には色づいた銀杏の木が鮮やか。その近くには立派な旧小学校校舎が残されていた。中には茨城の偉人の展示がある。木村安兵衛(木村屋のあんぱん)、山下りん(ロシアに留学した宗教画家)など、ちょっと調べてみたい。そこからまたバス停まで歩いて戻り、さらに郊外行のバスに乗る。

昨晩ネットで図書館を検索したら、インスタ映えする図書館が出てきたので、急に行って見たくなる。やはりバス停から15分ほど歩く羽目になったが、行って見ると確かに、内部がきれいな、面白い図書館だった。内部の写真を撮るための申請をして、何枚も写真を撮った。勿論参考資料も探せるので一挙両徳というわけだ。

またバスに乗り、駅前まで戻る。もう昼を過ぎていたので、ちょうどそこにあった居酒屋でランチを食べた。鯖塩焼き、チーズオムレツ、小鉢が付いて、600円。水戸は本当に定食が安くてボリュームもすごい。ここは生活費が安く上がるのだろうか。2年前来た時も家賃が安いと聞いていたが、ここに住むのも手かもしれない。

県立図書館にも行って見た。こちらは星野珈琲が1階に入っていて、おしゃれな感じだった。先ほどの市立図書館に比べて、やはり資料はこちらの方が多く、また手際よく集められて良かった。朱瞬水に関する資料を読むと、やはり彼の功績、影響は大きいと感じられた。

最後に黄門様関連の場所に行って見る。さっきバスから見た義公生誕地が駅の近くにあった。その前に道路沿いには黄門生誕の地という碑と、黄門像まであった。そこから横道に入ると、義公祠堂があった。水戸黄門神社とも書かれている。ここで手を合わせて祈る。黄門様もテレビドラマとはかなり違う人生を歩んだはずだ。

駅まで戻り、昨日貰ったクーポンを使って、お菓子をたくさんもらった。前回のGoToトラベルの時も、結局は和菓子ばかり貰ってしまい、後悔したがやはり治らない。しかも欲しかった栗蒸し羊羹がなく、かなり残念だった。今度クーポンを貰えるなら、ちゃんと考えたい。

帰りは特急に乗る必要もないかと、各駅停車で帰る。それでも2時間少しで上野駅まで来るのだから、水戸は便利なところと言える。本当は牛久あたりで降りてみたかったが、これも次回となる。上野駅では何となくまた立ち食いそばが食べたくなり、ホームを探したが見つからない。結局隣のホームにあったのだが、その影はどんどん薄くなっている。

茨城歴史旅2022(1)常陸太田 水戸徳川家墓所を訪ねる

《茨城歴史旅2022》  2022年11月14₋15日

バンコクから帰ってすぐ、また旅に出た。11月中旬の日本、しかも北関東の風は冷たい。それでもなぜか出掛けていく。

11月14日(月)常陸太田へ

前回水戸へ行ったのが2年前。あの時は博物館や偕楽園に行くはずが、何と原因不明の頭痛で逃げ帰った。そうだ、1年前も青春18きっぷでいわきに行く時、水戸を通過しているが、降りてはいない。今回はある人の歴史を追って茨城入りする。まずは水戸まで行くのに特急に乗ろうとネットで予約したが、何となくよく分からない。

少し早めに上野駅へ行き、緑の窓口で確認すると年配の職員が私のスマホを見て、『そこに置いて』と横柄な態度で指示(コロナ対策)する。そしてそれを取り上げて色々と見ているが、彼もスマホ予約について行けていないようで『多分大丈夫でしょう』と心もとない返事をする。確かに年配者にとって次々に繰り出されるネットITは苦手だろう。気持ちはよくわかる。でも駅員でしょう、もう国鉄の人は退場しましょう、と言いたい。

結局ときわ57号は殆どが空席で、確かに何の問題もなかった。1時間半で水戸駅に到着する。ここで乗り換えに少し時間があったので、別のホームにある駅そばで、名物から揚げ蕎麦を食べる。分かり難いホームにあるにもかかわらず、常連さんが次々入ってくる。そばに乗る唐揚げは、まあフライドチキンという大きさだった。駅には鉄道開業150周年のポスターが見えた。

12時過ぎの水郡線に乗る。二両列車は川を越えて、冬枯れの田舎風景をゆっくりと進む。上菅谷駅で向かいのホームの列車に乗り換え、合計30分で常陸太田駅に着いた。Suicaが使えたので、トラブルなく外へ出た。駅前からバスに乗ることになっていたが、どこで乗ればよいのだろうか。何と乗客もあまりいないこのバス停に向かって、数台のバスが重なってやってきた。思わず隣のおばあさんに聞くと『前のじゃないよ、後ろだよ』と親切に教えてくれ、何とかバスに乗り込んだ。

だが私が今日訪ねる水戸徳川家墓所については、おばあさんも、そして運転手でも、全く知らないというので、驚いてしまった。水戸徳川家と言えば、茨城では誰でも知っているものと勝手に思い込んでいたが、今や知られているのは水戸黄門様だけなのかもしれない。取り敢えず検索していたバス停まで行くことにする。バスは常陸太田の街を抜けて、郊外の畑に出る。

誰も下りない『里の宮』で下車するが、周辺には何もない。少し歩いて行くと、日は西に傾き、何だか子供の頃の栃木の風景がやけに重なってくる。栃木ならからっ風が強そうな時期だが、今日の常陸太田は日差しも柔らかく、気持ちの良い散歩となる。そして歩いて10分ちょっとで誰も知らない水戸徳川家墓所の前に来た。だが門は固く閉まっており、隙間から中を窺うしかない。墓地は高台にあり全く見えない。

実は事前の検索でも、入れないことは分かっていた。それでもここに来たのは門の写真を1枚撮る、たったそれだけの目的だった。門の横には墓所内の配置図が掲示されており、初代藩主徳川頼房(家康末男)から13代目までの墓があるようだ。あの有名な黄門は第2代である。だが私のお目当ては徳川家ではなく、そこに一人ポツンと名前が刻まれていた、朱瞬水という中国人だった。明朝再興に命を懸け、後に長崎に亡命した彼を光圀が水戸藩に招いた訳だが、それにしても藩主たちと同じ墓所に入る中国人とは。興味は尽きない。

少し回り道をして周囲を散策したが、特に何もない。1時間後のバスを待っていると、隣家の柿が熟れている。日に数本しかないバスに乗ると乗客はいない。帰りは少し余裕が出来たので、常陸太田の街を眺めると何ともレトロな建物がいくつも見えたので、思わず散策する。

鯨が丘という地名が見える。ここは日本武尊の東征時に丘が盛りあがって鯨のように見えたことからその名が付いたと書かれており、真偽は別としてその歴史は思ったより古い。更に平安時代から戦国まで、佐竹氏がここに城を築いていたというから、やはり歴史的な街なのだ。赤煉瓦の蔵や木造の趣のある建物を見ると、明治以降もそれなりの発展を見せたのだろうか。駅の横にも煉瓦のレトロな建物が建っていた。

水戸で

来た時と同じ鉄道で水戸まで戻る。何とものどかな風景、帰りは直通だった。駅前では黄門様と格さん助さんの像が迎えてくれる。お城の周囲を回りこむと、道路脇にひっそりと朱瞬水の像が建っている。駅から徒歩15分、実は2年前、お知り合いのKさんの家に招かれた際に暗闇でこの像を見たのがきっかけで今回の旅となったのだ。その時は写真も撮れなかったので、ゆっくりと撮る。瞬水の功績を称える文言が横に書かれている。水戸藩への影響力は絶大であったようだ。

会津から北関東へ2020(4)那須から水戸へ

12月10日(木)那須から水戸へ

翌朝は食堂で立派な朝ご飯を食べた。このホテルはそもそも病院が研修生のために建てたらしいが、それにしても立派だ。きれいで、しかもGoTo対象だから格安で泊まれた。名残惜しかったがチェックアウトして病院まで行き、バスに乗って駅の方へ戻る。天気も悪くなかったので、電車に乗る前に少し近所を散策する。

昨日は大山巌墓所の前まで行った。大山の別荘は大山農場の中に今もあるらしい。現在は那須拓陽高校が管理しているというが、こちらもコロナで見学はできない。取り敢えず高校の前まで行く。この高校、スポーツが強いことで有名。長距離ランナー渋井陽子なども卒業生だ。正門は四脚門といい、古びているがこれも大山ゆかりだという。

大山農場へ行ってみると、敷地はかなり広く、外から見てみると、遠めに建物が見て取れたが、洋館の姿はなかった。当時那須には山形有朋や松方正義などが別荘を建てているが、大山はここで本気で農業をしようとしていたのだろうか。折角なので乃木神社も参拝する。こちらはとても立派な神社で驚く。乃木希典もここに別荘を持ち、土地を開拓している。途中に鉄道跡が見られた。昔は木材運搬などに活躍したらしい。

駅まで戻り、電車に乗り込む。今回はSuica利用可能とのことで安心する。そうだ、黒磯以南は首都圏なのだ。宇都宮まで乗り、上野東京ラインで小山まで行く。ここから水戸線で行こうと思ったが、水戸線なのに水戸まで行かず、友部で乗り換えとか。何故なんだろう。高校生の頃、何度か水戸線に乗ったが、考えたこともなかった。小山駅で駅うどんを掻き込む。

本当に静かな田舎を水戸線は走っていく。1時間ちょっとで友部に着くと、向かいの常磐線に乗って水戸へ行く。水戸へ行くのは1年先輩の結婚式以来だから、32年ぶりぐらいか。駅に着くと横にある宿に荷物を預けて外へ出た。先ずは県立図書館を目指す。ここで茨城の茶業史を調べ、コピーを取る。

それから街歩き。弘道館など徳川慶喜関連の場所を歩く。ただ彼は幼少の頃しか水戸に居なかったので、実はゆかりの場所は多くない。お城の周囲をグルグル回ると水戸藩関連の施設が多く残っているが、殆どがきれいだ。偕楽園などに行きたかったが、夕方になったので明日にして宿に戻り、チェックイン。

それから待ち合わせの水戸京成百貨店に向かう。京成線が通っていない水戸に京成百貨店というのも不思議だが、駅から約1.5㎞、街の中心部にある。しかも水戸で唯一残った百貨店らしい。地方都市には、このような首を傾げる事象が時々見られるが、それにはきっと事情があるのだろう。今や京成百貨店は水戸市民に必要な存在、という声も聞いた。

待ち合わせたのは香港で何度かあったKさん。いつの間にか故郷の水戸に帰っていたので、訪ねてみた。Kさんの実家はここからすぐの場所で料亭をしていたらしい。非常に博識で、教えてもらうことが多い。何と自宅にお邪魔してしまい、奥さんとも初めて会った。実は今晩Kさんがオンライン勉強会に参加予定なので、一緒にそれを聞くこととなった。

その後夕飯もごちそうになってしまい恐縮だった。香港の昔話や歴史の話なども沢山してしまい、ついつい遅くまで居座った。帰りはスマホを使って何とか歩いて帰った。水戸は東京にも近く、家賃なども安いらしく、意外と住みやすいところかもしれない。ちょっと勉強になる。

12月11日(金)急遽東京へ

明日起きようとすると、何だか頭が重い。それ程寒くはないと思っていたが、どうしてか頭が冷えているように感じられる。一度は治ったので、1階へ行き、朝食を食べたが、何と弁当が配られている。それにみそ汁と納豆が付くのは、やはり水戸だからだろうか。とても食べきれずに残す。

今日は偕楽園に行こうと計画していたが、どうも具合がよくない。1時間ぐらいベッドで横になっていると、何とか起き上がれたので、思い切って東京に戻ることにした。偕楽園や博物館は次回にしよう。宿は駅の横なので便利。GoToクーポンを使っていなかったので土産のまんじゅうを買い込むと、すぐに特急に乗り込む。

普通電車なら2時間かかるが、特急なら特急料金はかかるがわずか1時間。体の負担を考えると1550円払って特急しか選択肢はなかった。座席未指定特急料金というよく分からない切符だったが、乗り込むと座席指定されているかどうか表示されているので、それ以外に座ればよいという合理的なもの。自由席車両を探して歩く必要もなく便利だと感じる。電車が動き出し、目をつぶるとアッいう間に1時間が過ぎ、東京駅直前で起きて何とか下車で来た。

会津から北関東へ2020(3)会津から西那須野へ

また城の周囲を回って、山川捨松の家があった場所を探す。ようやくその看板を見つけたのは、もう日が暮れかかる頃だった。山川家はこの街の名家であり、有名人も輩出している割には、その扱いが小さい理由は何だろうか。捨松が仇敵大山巌と結婚したこともあるのだろうか。

その後まんじゅうを買い込む。日本国内を旅すれば、どこでも土産の和菓子が売られているが、これを箱で買って帰っても、もう喜ばれなくなっていた。それならばら売りしているものを買って、宿で食べる方がよいと考えた。今回はあわまんじゅう、というものだった。

結局雨は降らずにその日の活動を終えた。夕飯も出来るだけ地元の名物を食べようと思い検索したところ、なぜか会津カレー焼きそばというのが登場したので、食べてみることにした。簡単に言えば焼きそばにカレーがかかっている物で、焼きそばもカレーもまずくはないのだが、別に別に食べても良いかと思った。それに普通の焼きそばと普通のカレーで1000円も取られるのは、何となくコスパが悪い。

12月9日(水)会津若松3

会津最終日。今朝は天気も良かったので、半日歩いてみた。西軍墳墓なるものがある。ここでの戦いでは、会津人だけではなく政府軍も相当の死傷者を出したことだろう。七日町通りを行くと、斎藤一の墓に出くわす。剣の達人とも言われた斎藤は会津生まれでもないのに、会津戦の後ここに残り、会津人と共に斗南に移り住んでいる。

その後郊外の方まで歩いて行く。蒲生氏郷がキリシタンだったので、その痕跡はないかと思ったが、教会なども見付からない。郊外に僅かにキリシタン塚という碑が建っており、江戸初期この付近で殉教したキリシタンが埋められた場所らしい。すごくいい天気で、空も青く、雲の感じもよい。

那須野へ

会津での活動を終了し、また電車で郡山方面へ戻る。郡山から新幹線に乗らずに在来線で行く。東北本線も今や細切れ。新白河、黒磯で始発に乗り換えていく。途中でSuica使用不可を知ったが、西那須野駅で精算してくださいと言われ、降りて申し出ると『ちゃんと確認して乗って』と言われたので反論しようかとも思ったが、無駄だと知っているので、黙って精算した。

今日は実に久しぶりに旧友Mと会うことになっていたが、少し早かったので、荷物を持ったまま、散策する。向かった場所は大山巌、捨松の墓所。立派な参道があったが、固く扉は閉められており、お参りすることは叶わなかったので、外から拝む。その向かいの道は大山参道という名前で、もみじ並木と書かれていた。

駅に戻り、言われていたバスに乗り込む。ところがほぼ同じ時間に2本バスがあり危うく乗り違えるところだった。バスで15分ぐらい乗ると、そこに病院があり、そこで降りて予約された宿を探す。ここはMの勤務地であり、宿はその横にある。何と大浴場もあり、部屋も広い。しばし寛いでいるとMがやってきた。10年ぶりの再会だろうか。

彼の車で駅方面へ戻る。車を彼の自宅に置き、奥さんに挨拶する。会うのは20年ぶりだろうか。若い頃から知っている人に会うのは何となく気恥ずかしい。お母さんにもご挨拶したが、『ああ、名前は聞いたことがあるね』と言われる。もう40年以上前の知り合いなのに、何とも記憶力が良い。いずれにしてもコロナ禍なので早々に失礼した。

Mに連れられて近所の美味しいイタリアンへ行き、夕食をごちそうになる。Mの行きつけだというが、最近はコロナの影響を受けて、お客は多くない。そもそもM自体が、以前とは全く異なる医療関係に勤めている訳で、コロナの影響はあるはずだ。だがこの時点では『実は栃木の県北はさほどひどくない』ということで少し余裕が感じられた。コロナ患者は多くないのに、レストランが閑古鳥というのはなんともいえない。

Mとは長い付き合いがあるが、最近10年のお互いの状況はあまり報告していないので、話は長くなる。食事を終わっても話は尽きずに、彼はタクシーで私を送ると言って、そのままホテルまでやってきて、部屋でまた話し込んだ。最近はウクレレを始めたと嬉しそうに言う。二人の娘も成人している。彼の人生のディテールを知っているかといえばそうではないが、大枠、いや若い時期の成り立ちを知っているというのは大きい。夜更けになって彼はタクシーで帰っていった。