横浜歴史旅2022(1)中華義荘から中華街へ

《横浜歴史旅2022》  2022年12月8日

これまでも横浜には何度も来た。中華街にも時々来ている。だが私は中華街がどのような過程で発展し、どのような経緯で華人が今日を迎えたのかをよく知らない。偶には港横浜で華人巡りをしてみようと思い立ち、珍しく?日帰りで出掛けた。

12月8日(木)

東横線で横浜駅まで来て、根岸線に乗り換えた。ところが電車が遅れているという。ホームに行くと電車は停まっており、表示では55分遅れとなっていた。どうしたものだろうかと考えていたところ、突然ホームのベルが鳴り、慌てて乗り込むと走り出した。約1時間止まっていた電車がちょうど動き出したところだったらしい。何という幸運。

山手、という駅で初めて降りる。山手と言えばユーミンの『山手のドルフィンは』ぐらいしか思いつかない。駅から目的地までGoogleで調べた通り歩き出すと、何とかなり急な坂道だった。更には道も入り組んでおり、意外と面倒な行程となる。何とか喘ぎながら到着したのは中華義荘というところ。

ここは横浜華人たちのお墓がある所だった。19世紀後半に出来た墓地、1892年に華人たちの手によって建てられた地蔵王廟もここにあり、立派な菩薩像も安置されている。華人たちがここを手に入れるまでも色々と苦労があったようだが、今やそれも良く分からない。近所で日向ぼっこしていた老婆もどこか華人の雰囲気があった。

裏手の墓地、墓石が整然と並ぶ。広東、福建、浙江など大陸各地の他、台湾などの地名が墓碑に刻まれている。墓の形、様子も年代により少しずつ異なっている。徐々に日本化しているのだろうか。奥の方には関東大震災で亡くなった華人の慰霊碑なども見られる。あの100年前の震災が横浜にどれだけの被害をもたらしたのか、その一端が分かるようだ。

お墓の横にはモダンな建物が建っている。中華会館。葬儀など、恐らく何かある時はここに集まるのだろう。館内には整備中の展示物があった。そこには中華学校など、華人の歴史のパネルが置かれていた。現在中華学校は二つあると言い、そこには歴史のみならず、外交問題なども絡んで複雑なようだが、取り敢えず私は初期の中華街の華人史を追いたい。

そこから20分ぐらい歩いてJR石川町駅前まで来た。さっきは登りだったが、今度はゆっくり下ったのでかなり楽に感じられた。この駅前にあるのが山手中華学校。2010年に山手からここに移転したらしい。幼稚園も併設されている。昔はこの駅からとぼとぼ歩いて中華街へ行ったなあ、などと思い出す。

そこから更に歩いて関帝廟まで。その横には横浜中華学院がある。ここは最近校舎が新築されたようで、非常に新しい。この周囲には中華会館など、各地の同郷会もあり、中華街の中心を感じさせる。付近は修学旅行生が大勢歩いている。そのまま歩いて行くと山下町公園に着く。

ここは明治初期、会芳亭という劇場があり、その後は中華民国総領事館があった場所だった。今は会芳亭と書かれた東屋が建っているが、それ以外で往時を偲ぶものはない。何と最近ラグビーワールドカップアが開かれたのを記念して、『日本で最初のラグビー発祥地』なる記念碑が建てられている。

そこから中華街を突き抜け、神奈川芸術劇場へ向かう。ここは山下居留地遺跡の発掘が行われた場所であり、基本的に欧米商会が軒を連ねたところ。ただ一軒だけ華人経営の印刷所があったと聞き、ここの店主が中華街の歴史に大きく関与していることを学ぶ。更にその裏側には居留地48番館の建物が少し残っており、その風情を感じさせる。

再び中華街へ戻ると、そこにはツタが絡まった古い工場が見えた。同發菓子工場、月餅などを作っていたのだろうか。同發と言えば、もう40年近く前、下宿先の家族に伴われて初めて中華街で食事をした場所だったような微かな記憶がある。福満園というレストランのビル、すごいY字路で見事。

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