ウランバートル探訪記2009(6)

(21)民族音楽オーケストラ 
外へ出るとガンゾリは、『さあ行こう、遅れちゃう』と言う。まだ時間は6時間半も残っているに何が遅れるのか??彼の車もランドクルーザー。快適に飛ばす。直ぐに見慣れた場所に到着。何とさっきのアイリッシュパブだ。と思うとその横のソ連風の建物のゲートを潜る。ここは何だ。劇場のようだが。

国立民族劇場、らしい。裏に車を止めて、裏から中へ入る。守衛のおじさんがいるが、気にしない。構わず中へ踏み込む。何でだ??建物は荘厳で、恐らく50年代に建てられたのではないか?社会主義のにおいがする。

階段を迷路のように何回から上がり下がりした。何処へ行くのか?漸く到着した場所は室内から音楽が聞こえていた。しかし我々は外の椅子に腰掛けて待つ。何を待つのか??音楽が止み、中からジーンズを履いた青年が出てきて、ガンゾリと握手。と思うと彼の先導で室内へ。入ってビックリ。何と民族楽器のオーケストラがそこにいた。良く分からないが頭を下げてその後ろへ回り腰を下ろす。すると指揮者が指揮棒を振り、何と演奏が始まったのである。

馬頭琴という頭に馬の飾りのある楽器は眼にしたことがあるが、そこには琴のような楽器、二胡のような楽器、あの青年は慌てて横笛に食らい付く。16種類からなる民族楽器を集めてオーケストラにしているのだそうだ。その音色は郷愁をそそる。懐かしい音楽だったり、ちょっとモダンな印象だったり。私は今、その練習風景を突然見ているのである。

30分ほどで休憩。皆外へ出てトイレやタバコ休憩だ。私もトイレに行ったが、電気はつかなかった。指揮者はじめ皆に紹介され、言葉は分からないが、握手を交わす。青年は何と片言の日本語を話した。団員も皆片言以上の英語は出来るようだった。

青年の説明によれば、このオーケストラはモンゴルのトップオーケストラで、年に数回海外公演をこなしている。青年も何度も日本で演奏したことがあるそうだ。このオケに入れるのは、国立音楽大学を出て、認められたものだけ。見た感じ若い人が多い。エリート集団のようだ。こんな中にぽつんといる自分は何だ??何だか夢を見ている気がする。本当に貴重な経験が積まれていく。

オーケストラと分かれて、また建物の中をぐるり。今度は舞踊団の練習を見た。こちらは上から見学できる場所があり、近づかなかったが、いかにもロシアのバレエと言う感じのものとモンゴルの民族舞踊と言うものが組み合わされていた。

音楽もバレエも現在は国が保護している。彼らは国家公務員であるが、その収入は限られている。そんな中で必死に修練を積んでいる人々を見て、プロの厳しさを感じた。

外へ出て、ガンゾリが聞く。何処へ行きたいかと。もう沢山見せて貰ったと言いたいが、まだ時間がたっぷり残っていた。さて、どうする?仕方なく『ゲルの中に入ったことが無い』というと、連れて行ってくれた。そこも午前中街歩きで通った場所であったが、生憎冬で閉まっていた。観光客用のゲルは当然冬眠である。しかしガンゾリの底力がここから発揮される。私も彼の力を認め、無理を言い始めている。

何と彼は再度アイリッシュパブに戻る。そして何と何と中へ入る。しかも初日に鉱山会社社長と食事をした場所へ向かい、更に奥へ突き進む。当然店員が止めるが、彼が一言と言うと引っ込む。そして女性店員に親しげに話し掛け、何かを渡す。見ると彼らが写っている写真ではないか。写真と交換に?ゲル見学が実現する。

ここで初めて彼の職業が写真家であることが分かった。先日この店も撮影したらしい。そして一番奥に確かに小さなゲルがあった。中はレストランの個室として使われていた。特に目新しい物は無かったが、確かにゲルの中に入った。恐れ入る。

(22)画家のアトリエ 
既に色々な経験をした。次は何だろうと期待が沸く。ガンゾリはまた車を走らせる。今度はとあるアパートに到着、何だ??入り口から地下に降りる。半地下になった部屋がある。部屋に入るとヘッドホンをして軽快に動いている人間が見えた。部屋の中は馬の絵ばかり。大きなキャンバスがいくつも掛かっている。ここが画家のアトリエであることが分かる。

その画家、チャルダバール氏は30歳、若いが既に海外の展覧会にいくつも出品している。私の方を向いて『鳥取はいい所だった』と言う。何と鳥取の展覧会にも出品し、彼は相当の日本好きであった。

これまでの作品を見せてもらうが、なかなか人を惹きつける。今年は馬の絵に集中している。如何にもモンゴルらしい。このアトリエで毎日絵を書く生活。リラックス法は80年代のユーロビート(アバなど)を聞くことらしい。現代モンゴルを象徴している。ガンゾリによれば、チャルダバール氏は現在モンゴルの若手画家No.1であり、モンゴル若手画家協会の会長もしている。この才能は将来有望である。

更に部屋の中を眺めていると、とてもよい風景画があった。彼の父親の作品であった。この父さんも、有名な画家だそうだ。やはり血筋か。それにしても激動の現代モンゴルで、絵で食べていくのは大変なことだろう。この苦労は報われるはずである。

尚チャルダバール氏は非常に友好的な人で、常にニコニコしており、今後日本とモンゴルを繋いで行きたいと語っていた。こちらも北京に来ることがあれば連絡して欲しいと告げた。

何と北京戻って4日目、彼から電話があった。北京に来たという。彫刻家の友人と奥さんと3人で現れたが、よく考えてみれば言葉がいまひとつ通じない(UBではガンゾリの素晴らしい通訳があった)。奥さんは英語がある程度出来るので、それに頼った。一緒にすしを食いながら言葉が通じなくても愉快に過ごした。

彼とは今後もどこかで繋がる様な気がした。楽しみである。彼がアトリエで習作を何枚かくれると言った時、何故か北京まで持って帰るのが大変だと思い、断った。もったいないことをした。

(23)遺産文化センター 
時間は緩やかに過ぎていく。夕方になった。それでもまだ時間はある。どうするかと見ていると、ガンゾリはまた車に乗れという。直ぐ近くで降りる。そこはまたビックリ?

何と大通りの裏側の建物だったが、対面の建物は黒焦げだった。何とモンゴルで前年起こった暴動の爪あと。反政府活動の結果だという。表通りから見るとそうは見えないようにしており、その意外さにまた驚く。

ガンゾリが連れて行ってくれたのはその横にある遺産文化センター(彼は黒焦げの建物を見せるつもりはなかったと思う)。そこに知り合いがいた。責任者である彼は我々を歓迎してくれ、中を案内してくれた。

何と国立博物館に展示している書画、陶器などが痛んだ場合、ここで修復しているのだ。各部屋で実際の作業が行われていた。これは考古学を目指したこともある私には大感激。各種機械は日本製でODAによる供与が多い。こんな所に使用されているのか。

責任者と雑談すると、政権が交代したので、経済最優先となり、文化方面の予算が大幅にカットされている。このままでは修復などの計画はあまり進まない。日本企業から援助は貰えないだろうかと。他国の企業は時折個別援助を申し出てくるが、日系は殆どないらしい。確かこの国で個別に宣伝をしても、直接利益につながらないかも知れない。しかしモンゴルと日本の関係を考えると・・??結局政府援助の形になる。日本と言う国はお金があっても使い方を知らない、と言われそうだ。

センターに併設されて美術館がある。既に閉館していたが、好意で見学していくように言われ、誰もいない館内をゆっくり視察。現代モンゴルの絵画をじっくり拝見した。

(24)写真を撮る人 
さて、夕方。そろそろ食事でもしてと思ったが、ガンゾリがもう1軒行こうと言う。もうこうなれば彼の言うとおり行くしかない。次は一体なんだ??

大きなショッピングモールに来た。映画館もあるようだ。中に入る。何をするのだろう??片隅に写真館があった。写真家である彼の知り合いがやっているという。どうしてここに寄ったのか?と聞くと、他に何処に行けばよいか相談するためとのこと。当方は既に十分に案内してもらい満足していることを伝えたが、一応相談している。

ご主人はちょうどお客があり、写真を撮っている。見学してよいとのことで、近くで見る。6-7歳の男の子が被写体である。おじいさんと思われる男性が付き添い。一体何の写真を撮るのだろうか?お洒落をした子供の全体、アップなど何枚も撮影している。撮影が終了すると奥さんがPCに取り込み、おじいさんが真剣に注文を付けている。

てっきりアイドル応募写真でも撮っているかと思ったが、ガンゾリによれば、この子の母親は1年以上アメリカに働きに出ており、息子の写真を送って欲しいとの要望に応えるためだとか。

モンゴルには仕事が少ない。そのため多くの人が出稼ぎに行っている。アメリカが一番多いそうだ。そのアメリカも金融危機の影響で仕事が減っている。出稼ぎ外国人に対する風当たりは強い。簡単に帰国できない状況にある。せめて写真で息子に会いたいという気持ちには胸が痛んだ。

モンゴルと言う一見簡単そうな社会、実はかなり複雑である。それもこれも経済的に難しい環境のせいである。それにしてもこのショッピングモールには人が溢れている。経済的に厳しいのか、と思うほどである。

(25)日本食 
とうとう日が暮れた。ガンゾリと知り合ってから6時間近く経過した。全く予想外の展開であった。これは私が望んだ旅、いや望んだ以上の旅となった。彼には感謝の言葉も無い。

お礼に夕食をしようということになる。日本食でもっとも美味い場所はと聞くとケンピンスキーのサクラだという。何処でも日本食屋はサクラなんだなあ?このドイツ系のホテル、最近オープンしたらしく、UBで最高のホテルとのこと。

実際入ってみると豪華な感じはあったが、何しろ狭い。昔バンコックでケンピンに泊まった時、やはり同じことがあった。元々はマンションとして建てたものを事情でホテルにしたのだろうか?エレベーターが狭いから恐らくそうであろう。今後外資系ホテルの進出は計画されているが、実現するかどうか??

サクラは2階に有った。なかはそこそこ広い。とんかつ定食が13,000T、決して安くはないが量はかなりあった。日本から料理長が来ているとのことで、味も悪くない。お客もかなり入っていた。その中には多くに日本人が含まれていた。

先日会った建設会社の人もいた。何でも日本人駐在員の送別会だという。季節は3月、人事異動であろうか。それにしても世界的に景気が悪く、モンゴルの景気も悪い中、帰国していく人々の心中は如何なるものか?ホッとしているのか、無念であろうか?

ガンゾリが言う。『最初はどうしようかと思ったよ。しかしお前が「茶」と言うキーワードを出したので、文科系だと思ったんだ』なるほど、やはりこのエクストラの旅に茶は役に立っていた。

ガンゾリはモンゴルが社会主義を捨てた頃、写真に興味を持った。当時写真の技術を伝える本は日本語が多かったので、独学で日本語を始めた。当初は日本から草原などを撮影に来る写真家などを案内しながら、日本語と写真技術を上げた。10年前には大統領の訪日に同行し、天皇と皇居で対面した。

しかし政府は金払いが悪かった。同行は1回で止めた。本当に撮りたかったモンゴルの自然を撮り続けている。食べるためには色々なバイトはしているらしい。奥さんは大学の研究者とのことで、好対照のようだ。

モンゴルの行く末に関してはかなり懐疑的なようだ。官僚の不正、一部の人だけが金持ちになる社会、日本活躍する相撲取りが国会議員になる世の中、確かに難しい社会である。彼はその一端を短時間に見せてくれた。感謝せずにはいられない。

(26)別れ、そして 
夜8時過ぎホテルを出た。外は零下20度はありそうな凍て付き方である。車の駐車場所まで走っていく。車内は本当に凍て付いていた。暖房を入れても直ぐには回復しない。

ちょっと家に寄ろう、とガンゾリ。9時前に自宅へ行く。中心部の3LDKのアパート、かなり立派だ。奥さんが大学から戻り夕食の準備をしていた。私にはお茶を出してくれた。チョコレートを添えて。こちらではお茶と一緒にチョコやクッキーを出す。

お子さんは3人、外国学校に入れているという。教育は大切だが、地元の公立では十分な授業が受けられないと。政府の経費削減で教員の確保も難しいらしい。いい先生は私立に、そしてお金のある子も私立へ行く。

ガンゾリが1冊の写真集を手渡す。開いた瞬間、鳥肌が立った。素晴らしいモンゴルの自然、民族の風景がそこにあった。主に夏の草原が舞台。彼本人もそうした大自然の中で育ち、都会に出て来た一人である。こんなすごい写真を撮る人間が私の為に、私だけの為に半日付き合ってくれた。感謝の言葉も無い。しばらくは写真に見入る。

ふとわれに返る。フライトはどうなったんだろう。フライトインフォメーションなんてないので、空港に行くしかない。とうとう時間が来てしまった。当初は一体どうやって時間を潰そうか悩んでいたことが嘘のよう。今ではもう時間か、という雰囲気。

空港への道は暗かった。着た時は晴れた日の午後で周囲は美しかったが、今は漆黒の闇。信号も殆どなく、対向車も稀な道を黙々と進む。空港の明かりすら暗い。

到着するとガンゾリがフライトを確認する。11時出発で間違いないと分かると握手して早々に引き上げる。あっけない、何だか非常に残念な気分になる。しかし彼にとっては、やっと重荷から解放され、家族の元に帰るのであるから喜ばしいことである。

イミグレは特に問題なく通過。空港には北京に帰る中国人、ソウルに戻る韓国人、そして多数の外国人で込み合っていた。遅延したのは我々のフライトだけではなかった。韓国系も昼間は全て飛ばなかったのだ。

待合室を眺めていて、各国のビジネスマン、政府関係者が資源を求めてやってくる国、モンゴルと言う国の難しさを改めて実感。更には世界有数の難しい空港を見て、この国に上手くランディングできる企業は少ないのではと勝手なことを思った。

フライトは11時過ぎに無事出発、北京到着は夜中1時。自宅にたどり着いたのは2時頃だった。次回草原に行くことはあるのだろうか??

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