ウランバートル探訪記2009(4)

3月11日(水) 
(12)散歩
 
いよいよUB最終日を迎えた。今日はどうなるのだろうか??取り敢えず予定が決まらないということで、自由行動。散歩に出た。

先ずはホテルから見えたチンギスカーンホテルへ。昨日入ったスカイショップの横にある。ちょっと小高くなった所に立派な様子で建っている。中もなかなかきれいだ。しかし日本人はあまり泊まらないらしい?

その横にはソウルビジネスセンターと言う名前のオフィスビルがある。名前からして韓国系。UB、いやモンゴルでの韓国系の行動は実に積極的だ。しかしN先生によれば、以前に比べれば、そのプレゼンスはだいぶ落ちてきたようだ。勿論金融危機の影響が大きい。そう考えると、このビルの入居率はどうなのだろうか??

更に西に向かい歩く。河を渡るとインド大使館、中国大使館が並ぶ。いずれも重厚で立派。語学学校も立派だ。更にモンゴル日本センターという建物もあった。日本とモンゴルの関係を考えれば、当然あるべき建物。実際には何が行われているのだろうか?門は閉ざされており、中は分からない。

道端の広告も目を見張る。ほぼヌードの女性が表紙の雑誌広告が堂々と展開されている。同じ雑誌の広告には朝青龍も掲載されている。相撲とヌード、なるほど何となく近い??不動産の広告は字が読めないが、絵から察するに相当値下がりしているらしい。

神社の鳥居のようなものもあった。中国的な物が殆ど見つからないUBでは、珍しい。世界平和の鐘、などと言う鐘もあった。かなり使い込んだトロリーバスが横を通る。80年代の北京を思い出す光景だ。

(13)日本人OBの夢 
ようやく皆で出発。車が2台来ている。1台はこれからN先生、Xさん、Uさんを乗せて、更には空港でS先生を迎えて、辺境調査に向かう。もう1台は私が空港に行くまで使われ、その後は別の人が乗って辺境へ向かう。

先ずは企業訪問。最後の最後まで取材とはさすがN先生。訪問先は郵政省をリタイアした日本人K社長が立ち上げた宅配会社。合弁しか認められず、モンゴル人との共同経営。

K氏は郵政省時代、アジア各地の郵政事業を手伝った人物。退職後当時の仲間と第二の人生として、更にアジアに貢献しようと考えた。そして出てきたのが、モンゴル。だから儲けるつもりは無い。

モンゴルには宅配便はない。そのような概念も無い。許認可にも一苦労。更に金融危機が追い討ち。小包は郵便局に出しに行くし、取りに行く。自宅で渡すと無くなってしまうのではないか、と心配するそうだ。また行政指導も有り、価格がコントロールされており、割高の宅配に対する市内のニーズは少ない。

『モンゴル人に目線を揃える』がモットー。TVのCMを開始、引越しサービスも検討。色々とアイデアを出す。将来軌道に乗ることを期待したい。私は途中で失礼した。それは飛行機までの時間を自由に使うため。翌日ホテルでK氏と再会。彼は現在2週間程度ホテルに滞在し、行き来しているそうだ。『モンゴルには色々と問題があるが、きっとよくなる』と言う言葉が印象的。

(14)日本人墓地 
ガンバリさんという写真家のランドクルーザーが待っている。彼はアメリカ西海岸に8年いたとのことで、英語が達者。助かる。何処に行きたいか、と聞くので、迷わず日本人墓地と答える。

車は北に向けて走り出す。天気が悪くなってきた。何だ??市内から少し出た所で小雪がちらつき始める。えっ、何で。道の丘側にはゲルが大量に設営されている。何処から移動してきたのだろうか?最近は都市部に移動してくるゲルが増えているが、仕事にありつくのは難しいと聞く。レストランのウエートレスなどでも夜はゲルに帰っていく子もいるとか。

雪がどんどん強くなる。道に雪が積もり始める。30分ぐらい行った所で集落に入る。ここかなと思うと、お寺が見える。しかしそこで止まらずに、更に奥に。とうとう吹雪となる。一面の銀世界。建物もなくなる。

周りに何も無い草原、いや雪原に日本人墓地?はあった。建物は管理人のいる家のみ。右手には墓地と言うより慰霊碑が建っている。階段を上ると脇に地蔵が立っている。日本的である。真ん中に円形の広場があり、その上が碑になっている。

『1945-47年の間に祖国への帰還を望みながらこの大地で亡くなられた日本人の方々を偲び』とある。旧日本兵845柱の遺骨が葬られている。以前はダンバダルジャー墓地と言う日本人墓地であったが、近年厚労省の遺骨収集調査を経て、慰霊碑となった。

旧満州より連れ去られた日本兵は強制労働を強いられた。極寒の地で栄養も不足し、体力も奪われただろう。雪がどんどんひどくなる中、真っ白な草原を眺めて、非常に切なくなった。

車で10分ほどの所にダンバダルジャー寺があった。その道を雪が振り込む。黙々と歩く子供が数人。これから学校へ行くらしい。こんな雪の中大丈夫かと心配になるが、慣れているらしい。スタスタ歩いていく。

寺には壁があり、ウルジー(幸せの印)が描かれている。壁の向こうにはチベット風のパゴダも見える。丸い建物に入る。中は人で溢れている。人を掻き分け進む。占いをしている僧侶、真剣に見つめる信者。この国では大事なことは僧侶に占ってもらうという。

境内にはチベット風、中華風の寺院の建物が並存する。小山があり、頂上には塔が見える。気が付かなかったが、ここには日本人霊堂もあったようだ。遺骨はここに安置されていた。強制収用された人の他、ノモンハン事件の犠牲者、モンゴル独立の際に戦死した人も祭られているとのこと。近くには学校もあり、雪の中で子供たちが遊んでいた。何だか救われる光景だ。しかしUBの学校環境は決して恵まれていない。学校も足りないので2交代制。

市内に戻り、ランチを食べる。カリフォルニアレストラン『ゲート』。駐車した場所から、入り口まで行くのに、かなり滑る。雪は更に降り続く。ランチセットが珍しくある。ガンバリさんの写真の話などを聞いていると、突然携帯が鳴る。北京からで『今日のフライトはキャンセルされた。予約は明日の同じ時間に自動的に変更された。』と告げられる。

確かに雪は降っており、ちょっと強くはなっている。しかし日本ならこの程度でキャンセルにはならない。しかも丸1日、飛ばない。一体どうするのか??N先生に連絡を入れると、『S先生もソウルの空港で足止めされている』とのことで、作戦会議の為に、N先生のいる別のレストランに移動。一度はお別れしたN先生、Xさん、Uさんと劇的な??再会。お互い笑うしかない。取り敢えずこれから企業訪問が1件有るので同行することに。

(15)カシミア工場2

カシミアワールド、と言う名前の建物に到着。ショップと工場がある。この面談の仲介者と待ち合わせ、一緒に中へ。かなり複雑な迷路を通り、面談室に到着。Yという元経産相副大臣だという人物と面談。ドイツの大使館勤務も経験、国際派だ。この国の問題点はずばり『賄賂などの汚職』と言い切る。根はかなり深そうだ。

この工場も国有。92年の民営化後、かなりの紆余曲折を経て、最近軌道に乗ったという。但し金利も高く、まだ財務問題は解決していない。株主も個人を含めてかなりいるようで、複雑なこの国の国有企業の典型か。イギリスに直営店あり。カシミアのマフラーなどを売っている。日本へも進出したいが、バヤン社事件(丸紅が出資した案件で社長が逮捕され、裁判沙汰になった件)により、日本の商社などはモンゴルのカシミア業者を信用していない。

ショップも見学。昨日のゴビと比べると垢抜けていないが、質のよい物もあるようだ。Xさんはかなり高いカシミアセーターを気に入って購入していた。雪が止めば寒くなる、ということか。この店の前で2度目の別れをした。今度こそお別れである。彼らは辺境に向けて出発した。私は一人、寂しくホテルに戻り再度チャックインした。さて、どうするか?このエクストラディを過ごす方法を持ち合わせていない。

(16)再会 
仕方なく、インターネットに向かう。旅行記を書き始める。写真を整理する。時間は6時を過ぎ、暗くなってきた。夕飯はどうするか??考え付かない。食べなくてもいいか?最近食べ過ぎだし、などと考えていると、ドアをノックする音が。あれ、誰だ??

ドアを開けてビックリ。辺境へ向かったXさんが立っていた。雪が激しくなり、途中で道を引き返して来たと言う。翌日聞いた話では、雪道でスリップするなど車の事故が数件あった。もしあのまま行っていれば危なかった。Xさん曰く、『私がカシミアのセーターを買わなければ、早く出発していただろう。そうすれば引き返すことすら難しくなったはず。』。

夜はホテルの中華料理屋へ。モンゴルまで来て中華は無いだろうと思ったが、他に行く当ても無い。Xさんが張り切ってメニューを見る。ウエートレスは全く中国語を解さず、料理も懸念されたが、出て来た料理を食べてビックリ。

それは20年前、中国で食べた中華の味であった。妙に懐かしい。Xさんも懐かしそうに食べている。ウエートレスに『作っているのは誰か』と聞くと中国人だという。想像するに、昔中国国内で修行した人が、何らかの理由でUBに流れてきて、ここで料理を作っているのであろう。UBに来てはじめて中国に触れた感じがした。

それにしてもソウルに足止めされたS先生はどうなったのか?元々我々はすれ違いの日程であったから、会うはずが無かったのだが、何となく会いそうな雰囲気。依然としてフライトが出発するとの情報は無い。結局私は寝てしまったのだが、Uさんとガンバリさんは夜中3時にS先生を空港でピックアップ。4時にチェックインしたらしい。

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