ある日の埔里日記2017その2(5)小埔社の老茶樹

3月22日(水)
小埔社の老茶樹

1日休みがあって、先日約束した東邦紅茶の茶園に連れて行ってもらえることになった。茶摘みはその日の天気次第だが、当日は快晴。朝8時に工場の方に行ってみたが、まだ誰も来ていなかった。少し待つと郭さんがやってくる。同時にピックアップがやってきて、それに乗れという。今日は郭さんではなく、おじさんが茶畑に連れて行くというのだ。

 

喜んで助手席に乗る。おじさんは35年前に東邦紅茶で働き始め、茶作りが無くなった後は、他で働いたが、最近の復活で戻って来た。最盛期の東邦紅茶では埔里の何人かに一人はここで働いていた、と言われるほどの、規模を誇っていた。創業者の郭少三氏の印象を聞くと『すごく厳格な人で、まるで日本人、という感じ』だったと話す。また昔作られていた物と今の茶の違いについては『当然作り方も変わっているし、品種も違うので、味は昔とは同じでない』という。

 

そんな話をしていると、早くも茶畑のある小埔社に着いた。まずは老茶樹のある畑を見に行こうと車を降りる。緩やかな斜面に茶樹が植わっているが、これが80年前、郭少三氏がタイより持ち帰ったというシャン種だった。向こうの方のかなり背の高い木が見える。おじさんが『普通は茶摘みに都合の良いように木を切ってしまうのだが、あれだけは見本として残してある』というのだ。

 

記録によれば、郭少三氏は1933年、タイのチェンマイから山中に入り、苦節1か月、紅茶作りに向いていると思われるシャン種を見付けて台湾に持ち帰った。基本的に日本がアッサム種を持ち込んでいたので、それに対抗する、いや特色を出すためにシャン種が使われたらしい。日本統治下の台湾で、台湾人がビジネスをしていく、というのはどのような困難があったのだろうか。シャン種の持ち込みに関しても、恩師の山本亮教授の支援があった、という話は出てくるが、果たして妨害行為などはなかったのだろうか。

 

その貴重なシャン種の茶樹を目の前にすると、やはり歴史、ということを考えざるを得ない。東邦紅茶は少三氏の努力により、広大な茶園を有するようになり、ここ小埔社一帯はほぼ東邦の土地だったと言われている。しかしその後の困難な時期に土地を切り売りし、茶樹もビンロウ樹などに代わっていった。それでも残った茶樹、何とも愛おしい。

 

もう少し車を進めると、斜面に茶畑が広がり、いい天気の中、茶摘みが行われていた。摘んでいるのはインドネシアからの出稼ぎ者だという。何となく以前見たベトナム人の摘み手に比べて、動作がゆっくりしている。というか、こちらが近づいていくと、にっこり笑ってくれたりして、ベトナム人のような緊張感がない。それがよい所だろうか。おじさんによれば、『ベトナム人はもっと稼げる高山の茶摘みに行くので、使えない』とのこと。茶葉の品質を保つため、収量ではなく、固定給として、ゆっくり摘んでもらっているともいう。

 

斜面をずっと降りていくと、茶樹が途切れる。その下に人がいたので近づいてみると、コーヒーを植えているという。最近始めたそうだが、『これからはコーヒーだ』という声を時々聞いているので、実際の珈琲畑でその実感が沸いてきた。だが果たしてこの試み、うまくいくのだろうか。

 

茶畑の中に、大きな木があったりする。『普通は大きな木は土の養分を吸い取るため、茶樹の近くにあると、その茶樹は育ちにくいのだが、ここではむしろいい茶樹が育っている』と説明される。この茶畑には最近流行りの台茶18号、紅玉が植えられている。『18号は良く育つし、収量が多いから、皆が競って育てるんだ』という。尚このあたりでは春に2回以上茶摘みをするが、18号は18日程、日を開けて摘むが、シャン種なら14日で摘めるという。

 

この茶畑の周囲もコーヒーの他、野菜なども植えられており、茶だけで食べていける状況ではないように思われる。ボーっと茶畑を眺めているとおじさんが『茶摘み人の弁当を取りに行くけど、戻るか』というので車に乗せてもらい、工場まで戻って来た。郭さんと最後の確認をして、東邦紅茶の歴史の一端を取り敢えず文章にすることができた。

 

交流協会雑誌『交流』2017年4月号「埔里の紅茶工場」

https://www.koryu.or.jp/ez3_contents.nsf/15aef977a6d6761f49256de4002084ae/466e98259720a5184925811a0024804b/$FILE/%E4%BA%A4%E6%B5%81_913%E5%8F%B7_2%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E8%8C%B6%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E8%A8%AA%E3%81%AD%E3%82%8B.pdf

 

尚この文章の中で、郭春秧を郭少三の祖父と書いてしまったが、これは完全な思い違いであり、郭さんからも『郭春秧は少三の父、郭邦彦の良き雇用主』と説明を受けている。ただ同じ郭姓であり、春秧の墓は邦彦一族の墓に横にあり、現在も一緒に供養している、と聞いていたので、つい錯誤してしまった。申し訳ない。

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