ある日の埔里日記2017その2(6)龍潭、関西、三峡を転戦

3月23日(木)
龍潭、関西、三峡へ

 

今朝は早起き。7時半のバスに乗り、高鉄台中駅へ。駅で湯さんと待ち合わせ。これも先日同様の行動だ。湯さんに相当に迷惑を掛けているが、台湾茶の歴史を勉強するためにはどうしても彼の力が必要だったので、お言葉に甘えた。今回の目的地は関西だったが、そちらの約束時間が12時だったので、その前に龍潭の緑茶工場を訪ねることになった。

 

先日の沙坑茶会でも会った葉さんという若者の工場がそこにあった。新福隆、1866年に創業したとある。そうであれば、非常に古い工場である。川沿いに建つ工場は確かに古めかしかった。外には日本製と思われる中古の製茶機械が放置されていた。工場の中もやはり古めかしく、歴史を感じさせる。

 

昔の写真を見せてもらう。日本統治時代の工場、今とそれほど変わっていないように見える。資料を見ても1925年前後、この辺には沢山の製茶工場があり、葉さんのところもその1つだったことが分かる。烏龍茶と包種茶を製造していたとある。三井農林の工場が近くにあり、そこで働き、紅茶の製造法を学んだともいう。かなり裕福だったようだ。

 

光復後、一族が分かれ、規模は縮小されたらしい。葉さんのお祖母さんが日本語で色々と話をしてくれた。戦争末期、自身は台北に住み、お兄さんや従兄弟は京都に留学していたという。その後茶業は緑茶生産に切り替わり、今も蒸し製緑茶や粉末茶を作って、茶飲料の原料として供給したり、日本に輸出しているという。日本人が知らない、緑茶の歴史である。工場内に設置された機械を見ても、日本製の機械が並んでいた。

 

続いて車で高速に乗り30分ぐらい行くと、新竹県関西鎮に着く。街中に古い建物が見えた。関西茶廠と書かれた看板もあるが、台湾茶業文化館という文字が見える。古い工場を改装して作った博物館のようだ。ここが台湾紅茶株式会社の本拠地である。お店に入っていくと、先日沙坑茶会でも会った羅吉平さんが迎えてくれ、そして彼のお父さん、おじさんを次々に紹介される。

 

まずは昼ご飯を食べようと言われ、店の向かいにある客家料理屋さんへ行く。そう、ここの羅一族は客家である。この付近には客家の人が実に多い。客家と茶の繋がりについては、とても興味深いテーマであり、後日また話を聞きたいと思っている。それにしても出された料理の数々、実にうまい。ホルモン系の料理などが絶品で、思わずご飯をお替りするほどだった。1つのテーブルを囲み、皆で食べたのであるが、年配の皆さん、日本語ができる。この辺もまた、歴史ではないかと思われる。

 

食後、台湾の紅茶の歴史について、レクチャーを受ける。話は羅一族の歴史から始まり、関西の歴史、日本時代の日本との繋がり、茶業の発展から光復、そして紅茶から緑茶への転換と、余りにも目まぐるしい。目を白黒させていると、『文化館で資料を見ながら話そう』と言われ、木の階段を上がって二階へ進む。ここには貴重な写真や資料が多く展示されているが、写真撮影禁止ということで、話だけを聞いていると内容が豊富過ぎて、全てを頭に入れることはできなかった。

 

取り敢えず簡単な歴史を理解して、皆で記念写真を撮って、ここを離れた。もし台湾紅茶の輸出の歴史を書くのであれば、もう一度訪問しなければならないだろうと、その時覚悟を決めた。紅茶は日本が始めた茶であると言われているが、勿論台湾人も様々な形で関与している。そして光復後に紅茶が全盛になるという皮肉、更には紅茶輸出が難しくなった時の転換、興味は尽きない。

 

また高速道路に乗り、台北方面に向かう。三峡という場所は、昨年老街にバスで行ったことがある。そこを通り抜けて更に進むと谷芳の小さな工場があった。実は彼らとは昨年11月、台北の茶業展覧会の会場で出会っていた。FBでかなり目立った投稿をしていたので声を掛けた。『三峡で緑茶を作っている』という話も魅力的だった。台湾で緑茶、と思う人が殆どの中、数年前から緑茶という文字が見られるようになっていた。

 

今回湯さんに行きたいと告げると『ああ、谷芳はうちの受講生だよ』と言って、後は連絡を取ってくれた。台湾の茶業は本当に狭い。そして谷芳は本当に勉強熱心だ。中に入ると、ちょうど茶作りをしていた。生葉が来て、棚に置かれている。これは緑茶になるのだろうかと思うのだが、その後殺青、揉捻していた。

 

湯さんは台北で用事があると言って先に行ってしまった。残った私は谷芳の李さんから話を聞く。緑茶作りは25年ぐらい前から始めたが、年々茶農家は減っていった。李さん自身は10歳からお茶の販売を手伝い、製茶をはじめ、18歳で今の奥さん(当時16歳)と結婚、長女は既に18歳の大学生だという。その間の苦労は相当のものがあったらしい。

 

作業を終えて、車で茶畑に連れて行ってくれた。小山の上にある小さな畑。黄柑種という今では珍しい品種まで植わっていた。丘の上で李夫妻は夕日を背に記念写真を撮っている。何とも仲の良い夫婦だ。年齢も30代半ば、茶業に対しても非常に熱が入っていて、話は尽きない。

 

それから谷芳のお店がある場所へ行く。そこには古い大きな木があり、廟があり、人が集まる場所らしい。彼はここに来るお客に対して子供の時から茶を売っていたというのだ。貧しい中でも、茶業への思いが強く、斜陽と言われながらも茶作りを継いだ。普通なら台北などへ働きに行ってしまうだろうに。そして今や娘や息子も茶業を継ぐと言っており、この仲良し谷芳親子は業界でも目を惹く存在になっている。これは一つのドラマになりそうだ。

 

日が暮れたので、車で鶯歌の駅まで送ってもらった。そこから桃園へ行き、自強号に乗り換えて、台中へ。そしてバスで埔里に戻った。夕飯は李さんの奥さんが自ら焼いたというレーズンパンを食べた。これがまたとても美味くて、素人とは思えない味だった。埔里に着いたのは11時過ぎていた。

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