ある日の埔里日記2017(11)日月潭で三蔵法師の遺骨と出会う

125日(水)
日月潭を回る

 

いよいよ正月の気配が濃くなってきた。正月中は身動きが取れないと言われているので、天気もまずまずの今日、思い立って出掛けることにした。場所は日月潭、これまでも何度か通り過ぎたり、ちょっとだけ立ち寄ったりはしているが、湖の周囲を回るというのは初めて台湾に来た1984年に遡らなければならない。実に33年ぶりの日月潭ツアーになるのだから、感慨ひとしおと言えば聞こえは良いが、ようはそこまで関心がなかったというのが、本当のところだ。

 

まずはいつもの店に行き、クラブサンドイッチで腹ごしらえする。台湾でサンドイッチを食べるのかとの声もあるが、これが意外と美味しい。台湾人の朝ご飯の定番と化している。特に私はこのクラブサンドイッチが好きだ。これが食べられるから、自分でトーストを焼く朝ご飯を放棄しているほどだ。そして甘い紅茶を合わせて飲むと台湾が感じられる。

 

昼の12時発の日月潭行台湾好行バスに乗り込む。魚池まではちょくちょく行くが、日月潭まで行くことは稀だ。30分程度で水社に到着する。そこで一日周遊バスチケット80元を購入する。乗り放題ということだが、バスの本数は1時間に一本程度と限られており、便利とは言い難い。若者ならレンタル自転車を100元で借りるだろう。だが私はこのバスに乗りたかったのだ。

 

それは33年前の思い出。台中からバスで午後遅く着いた私はそのまま日月潭一周を考えたが、バスチケット売り場で拒絶されてしまう。実はこれから来るバスが今日の最終だったから、バスを降りてしまうと帰りは歩きになるということだった。それでもバスに乗ったまま湖を見ようとバスに乗ると、そのチケット売り場の女性も乗ってきて、何と彼女の家の近くで降り、彼女の運転するボートで湖に浮かぶ島へ行ったのだ。そしてちゃんと折り返してきたバスに乗せてくれるという、何ともダイナミックな経験が頭に残っていた。勿論あの時の女性がそこにいるとは思えないが、何となくバスにこだわった。

 

バスまで時間があったので、その辺を散策する。水社の道の両側にはホテルや食堂、土産物屋が並んでいるが、この風景は30年前とそれほど変わっていない。恐らくこの中の一軒に投宿したと思うのだが、今はどこだか見当もつかない。そのまま湖まで出ると、その景色は素晴らしい。遊覧船が沢山停まり、観光客が乗り込んでいく。

 

その先の坂を上って行くと、かの有名な涵碧樓が見えてくる。蒋介石が愛した宿である。日本統治時代に作られ、今は一部が記念館として残り、見学することができるが、ホテル部分は、非常に独特の設備に改修されていると聞いたが、残念ながら宿泊客以外進入禁止と厳しい。台湾一ともいわれるリゾートホテルで予約を取るのも難しいらしい。記念館は木造の立派な建物で、中にはその歴史が展示されている。原住民、邵族との関係などが語られている。一度は泊まってみたいようなホテルだが、とにかく敷居が高い。

 

バスターミナルまで歩いて戻り、バスに乗って半周以上行き、伊達という観光地で降りた。そこは邵族の部落だったが、今は完全に観光で食っており、余り興の乗る場所ではなかった。ただ港から見る日月潭はきれいだった。折角なので邵族の歴史でも勉強しようと、旅行センターを訪ねたが、何と自分で邵族の団体に電話で連絡を取るようにと言われ、更に興ざめした。邵族を観光の目玉にしているのに、その邵族について、説明すらないとはどういうことだ。結局電話も繋がらず、街をぶらぶらした。観光客が思ったよりいる。原住民の名物、野生豚の焼き肉などに長蛇の列ができている。

 

バスの時間に合わせて動く。乗っている人は外国人のごく一部と多くない。次は玄奘寺だ。玄奘という名前に惹かれて、何となく降りたのだが、思いのほか立派な寺だった。ここから湖を眺めると絶景だった。その寺の中に入ってびっくりした。何とここに玄奘の遺骨があるというのだ。勿論実物を見ることなどできないが、玄奘殿という建物を登り、参拝した。何故かちょっと震えた。

 

その遺骨がここに渡来した経緯がまたビックリだ。玄奘大師記念館というところに、その歴史が展示されている。なんと日本からもたらされたというではないか。にわかには信じがたい。しかもその日本の寺、埼玉の慈恩寺にもお骨は残っているという。三蔵法師の骨が日本にあるなど聞いたこともなかった。その骨は戦争中に南京で掘り出され、日本に持ち出されたらしい。戦後蒋介石にこの骨の扱いを相談したところ、日本で保持して欲しいと言われたが、その後台湾仏教界より要請があり、分骨した。その際に建てられたのがこの玄奘寺という訳だ。玄奘の旅は1400年前から続き、ついにここまで来た、ということだろうか。

 

因みに2月に東京に戻った際、玄奘の骨があるという埼玉県岩槻の慈恩寺を訪ねてみた。結構な田舎にあったが、戦争中だったので、疎開の意味があったらしい。現在時々台湾人も訪ねてくるという。ただ日本人には殆ど知られてないとのことで、残念だった。遺骨は寺から少し離れた場所に安置されていた。あまりにもひっそりしている。

 

玄奘寺では、仏教の経本などが無料で配られていたが、玄奘が辿った天竺までの道のりが入った地図があった。最後の1枚、それが私に示された何かであった。現実にはアフガニスタンなど、紛争地域を多く通過するため、すぐに歩き出すことは難しいが、いつの日か、訪ねてみたいと思う。それがご縁というものだろう。

 

玄奘寺から、歩いて玄光寺へ行こうと思ったが、何とその散歩ルートは封鎖されていた。何か土砂崩れでもあったのだろうか。ここでバスに乗って行くと、戻るのが大変なので、仕方なく、折り返しのバスで、文武廟に行く。玄奘寺とは異なり、かなり賑やかな場所で、観光客も多い。

 

正月飾りも眩しい文武廟は三段になっている。龍の階段があるのは中国と同じ、かなりキラキラした感じだ。一番上まで登ると、かなり疲れるが夕日が沈んでいく中、全貌が見える。降りていくとバスが来たので、乗り込む。ここではかなりの乗客があり、座れないほど。水社に戻り、埔里行きのバスに乗り換え、日が落ちる前には埔里に戻った。

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