ある日の埔里日記2017(10)鹿谷から竹山へ

123日(月)
鹿谷から竹山へ

 

土日はバスなども混むので埔里で大人しく過ごす。そして月曜日の朝、久しぶりに鹿谷を目指す。これまで鹿谷には何度も行ったが、全てUさんが居る時で、彼に案内してもらっていた。今回は初めて一人で行く。と言っても本当の目的は鹿谷の下、竹山を訪ねることにあり、折角なので、旧知の顔を覗いてから行こうと思っただけだった。

 

埔里から鹿谷へバスで行くのは意外と面倒だった。日月潭経由のルートもあったが本数が少ないため、結局無難な台中高鐵駅経由を選んだ。台湾好行バスを2つ乗り継ぐのである。7時半に埔里を出れば、9時半過ぎには鹿谷に着く。昔では考えられない便利さだ。広興のバス停で降りると、なんと前を林光演さんが歩いて行く。

 

挨拶しても私を覚えている訳ではないが、Uさんの友達だというと、そうかとなる。林さんは鹿谷農会の総幹事だった1976年に茶のコンテストを仕掛けた人であり、凍頂茶の歴史においてはレジェンドである。毎日健康のために散歩を欠かさない。『今年は天気が悪いから茶の出来はどうかな』と心配そうだ。

 

そこから数分歩くとセブンイレブンがある。その前に偉信の店がある。いつ行っても誰かお客がいる。何となく冬茶を飲みながら雑談していると、ちょっと行こうか、という。実は雑談の内容は『30年前の鹿谷はどんなところだったのか』というもので、その答えを口で言うより、実際に見せてくれるというのだ。

 

先ほど光演さんたちがコンテストを仕掛け、ブームとなった凍頂茶。偉信が子供の頃は、鹿谷の道路の両脇は殆ど茶畑だったというのだ。彼が連れて行ってくれた場所には、そのほんの微かな痕跡、古い茶樹がいまだに植わっていた。だが周囲は殆ど野菜畑になっており、自分で食べる分を作っている。その奥には檳榔の木が植わっている。

 

昔は皆が総出で茶葉を摘んでいたよ、と懐かしそうに話す。それが20年ぐらい前には茶畑が段々無くなっていき、10年前には全く無くなってしまった。茶葉はもっと高い杉林渓などで摘まれ、この鹿谷は製茶された茶葉の集散地に姿を変えた。30年前はバブル、その時儲けた人々は不動産などに投資し、今や家賃収入で食べている。

 

偉信のお父さんは学校の先生で、バブルとは無縁だった。茶農家は先生の何十倍もの収入を得ていたらしい。公務員というのは現役時代の給料は安いが恩給がもらえるので、老後が安泰だと思われていたが、民進党に政権が変わり、この恩給に手が付けられようとしている。台湾茶業はこの恩給、年金問題で今後大きく変化する可能性もある。

 

竹山へ行くにはバスに乗ればよいのだが、偉信が車で送ってくれた。何と10分で着いてしまった。今回竹山で訪ねる劉さんは、FB上でしか知らない人。だが偉信は良く知っていると言って店まで連れて行ってくれたので、これは大変助かった。バス停から歩くと結構遠いのだ。

 

私は劉さんの名前を知っていたが、FB上では奥さんとお友達になっていた。入っていくとご主人がすぐに対応してくれる。私のようにお茶を買うのではなく、お茶の歴史に興味があるなどという輩は、奥さんではなく、ご主人の担当のようだった。竹山は鹿谷より下にあり、早くから交通の要所として栄えていたのだろう。筍は有名だが、お茶がるわけではなく、劉さんのお店でも、色々なお茶を扱っていた。

 

劉さんにはお茶を飲みながら、凍頂茶の歴史などを教えてもらった。本来はもっとこの竹山の歴史を質問するべきだった、と思ったのは店を後にしてからだった。ここにはMさんやSさんなど、日本人も時々来るという。お茶はしっかりしたものがあるのだろう。帰りは劉さんに竹山工業区のバス停まで送ってもらった。このバスがいつ来るのか不安だったが、15分ぐらい待つと何とかやって来た。後は朝来た道を戻るだけ。夕日がきれいだった。

 

高鐵駅に着くと、埔里行きバスの到着まで30分あったので、上階に上がり、夕飯を食べる。ここには丸亀製麺もあれば、ロイヤルホストもある。その一番外れにはまいどおおきに食堂まである。今回はそこで弁当を買ってみる。100元。見た目はきれいで、味もまあまあだが、何かが欠けている気がした。それが何かは分らず。

 

まあ、台湾でわざわざ日本の弁当や日本食を食べる必要はないかな、と思ってしまう。私がこの6年の旅で得た強み、それは日本食を食べなくても平気なこと、そしてシャワーさえあれば、風呂に浸かることを望まなくなったことかもしれない。この2点は、アジア放浪では必須のような気がしている。

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