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茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(5)雅安茶廠と茶馬古道

3月22日(金)
雅安茶廠と茶馬古道

今日はホテルをチェックアウトしなくてよい。茶葉ホテルには2泊するので、それだけでも気が楽だ。茶葉枕も快適のようでよく眠れた。これからこの旅の最終目的地、雅安茶廠に向かう。ここが昔から蔵茶を作っている拠点だ。外側から見ると、トレードマークの『中国蔵茶』も見える。

 

メンバーにはあまり自覚はないと思うが、蔵茶もある意味で国家の戦略物資、湖南省安化のように、『国家機密だから見学できない』といわれそうな場所。しかも雅安といえば、チベットとの最前線という感覚もあり、ちょっと緊張する。『謝絶参観』の文字まで見える。だが我々の前に既に上海から来たという団体が、中に入っていく。

 

まずは蔵茶の製造法を説明した展示室へ。この茶作りが如何に力仕事であるかを示している。明代から作り始めたというこのお茶、歴代の茶葉が展示されている。1970年代製造の蔵茶も飾られているが、そこには『川』の文字が。これは湖北省趙李橋で作られるお茶と同じマークか。何だか色々と歴史的な資料があり、とても時間内で見て回れるものではない。

 

マニ車が設置されるなどチベット色も出ている。実際の製造工場も見学できるというので驚きながら中を見る。作られた茶葉は長く保存されるため、竹?にくるまれて積み上げられていく。この茶は如何にしてチベットまで運ばれたのか、実に興味深い。お茶を飲みながら説明を聞く。説明者は地元出身でアメリカ帰りの若者。広報担当だという。ネット販売に力を入れるという。これからの雅安茶廠はどんどん変わっていくかもしれない。

 

バスは高速道路を走っている。これからどこへ行くのだろうか。途中のサービスエリアでランチを取るという。皆がバスを降りて行った時、私はあることに気を取られており、一番後ろの席で、身をかがめていた。少し経ってバスを降りようとしてビックリ。何と既にバスは施錠され、外へ出ることが出来ない。閉じ込められてしまったのだ。メンバーは既にトイレなどに行ってしまっている。遠くに鉈先生の姿が見えたが、叫んだところで聞こえない。どうしたものかと悩んでいると、スマホで連絡することを思いつき、スンでのところで救出された。

 

まあ運転手もガイドも、まさか人が残っているとは思わなかっただろうが、こういうことは過去一度もないと言われると、私の方が悪いのだろうか。確かに出発前の乗車確認はするが、降車確認はしたことないかも。今後気を付けよう。ランチはビュッフェだったが、それほど食欲はなかった。それにしても高速道路のSAも少しずつ質が向上しているような気もする。

 

それから約1時間、ゆるゆると山道を登っていくと、とある街に着いた。既に標高は2000mに近く、小雨が降っていて肌寒い。そこから更に少し上がった村、そこに茶馬古道の起点、といわれる場所があった。ただこの村、村人の服装は昔のままなのに、住宅の建物がやけに新しく、車も停まっている。古道とマッチしていないように見えた。地震後の補助で再建したのだろうか。

 

その先の何もないところに、石が敷かれた道があり、そこが起点だという。どうも観光用として整備されたとしか思われないが、往時この辺りに茶葉を担いだ人足が行き来していたのだろう。茶馬古道は茶葉を馬が運んでいく場面もあるが、実はその多くは人が担いで行く。茶と馬は交易市場の交換商品という意味だとは意外と知られていない。人足のその苦労は想像できないほどであったろう。

 

今日も吹きっさらしの高地は、凍えるほどの寒さで、チベットの方を指して歩いて行く気量はない。防寒対策なしの我々は早々に撤退を余儀なくされる。帰りの道を見ると、政府の奨励で花椒がたくさん植えられており、今や名産品となっているという。また桃の花などがきれいに咲いており、特産品と観光地化を進めている様子も見えた。

 

街に戻って来た。今晩は食べ過ぎなので軽い物が良い、というのでホテルに帰る前に麺を食べることになった。昔某総書記もここで麺を食べたという食堂。地元の人が入れ代わり立ち代わりやってくる中、団体さんが席を占めてしまうのは申し訳ない。辛いのは避けたところ、なかなか美味しい麺が出てきて満足。

 

夜は茶葉ホテルの上の階にあるお茶部屋?に案内される。ここから見る夜景はきれいだ。このホテルの女性社長の招待。2004年のお茶会議に合わせて作られたという部屋は、まさにお茶だらけで、その香りに包まれていた。そこで美味しいお茶を飲みながら、蔵茶の歴史に思いをはせる。社長も2000年頃始まった西部大開発プロジェクトで浙江省からやって来た一人だという。これももう一つの歴史になりつつあるが、西部も常に進化を続けている。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(4)蒙頂山で、そして雅安へ

3月21日(木)
蒙頂山で

翌日もまた朝粥を食べてホテルをチェックアウト。毎日ホテルを変わるのは意外と疲れる。今日は峨眉山から蒙頂山へ移動する。天気は今一つの中、バスは高速道路を走り、1時間半ほどで、蒙頂山と書かれた門をくぐった。そこからすぐのところに、今日の訪問先があった。

 

躍華茶業とは4代目で、ここの茶業を改革開放後に発展させたお父さんの名前が付けられている。とてもきれいな展示館には、茶業の歴史などが書かれ、昔の文物が展示されている。炒青の実演なども行われる。蒙頂山の緑茶も近年かなり有名になってきており、団体のお客が次々にやってくる。外には樹齢100年を越える茶樹が移植されていた。

茶工場の見学、前日同様見学ルートが決められておりそこを歩く。マイクロウエーブ殺青という機械が目を引く。これで鮮やかな緑色を保持するらしい。昨日の工場にもあったので、昨今の流行りだろうか。工場は大型投資により現代化され、展示室にある製茶道具が遠い過去に思える。

 

蒙頂甘露などのお茶が出され、試飲する。ちょうど新茶のシーズン、すっきりした味わい。蒙頂黄芽という珍しい黄茶も作られており、台湾人にぜひ買ってきて欲しいといわれる。それほど珍しいお茶ということだろう。5代目、イケメン社長が登場して、更に説明してくれる。メンバー女子のテンションが明らかに上がっているように見え、お買い物もヒートアップ。まさかこんなに細かな注文を、しかも現金払いで、10人以上から受けるとは思っていないスタッフは大混乱に。

 

それからバスに乗り、少し山を上がっていく。『茶之都』という石碑が見える。その付近の斜面には茶畑が広がり、茶摘みしている人が見える。1軒のお茶屋さんに入り、そこで昼ご飯を食べる。いわゆる農家菜。地元で採れた野菜中心の優しい食事を味わう。毎日食べてばかりだが、カボチャやゼンマイなど胃腸にも良さそう。何だか食べている皆も、ちょっとホッとしている様子が窺える。

 

そしてここからが今回の旅のハイライトの一つ、中国最古の茶園、を訪ねる。しかしその道のりは想像以上に険しかった。ロープウエーがあるのは分かっていたが、皆歩いて登るという。大きな急須のモニュメントの脇を通り抜け、その急な階段を一体何百段登ったのだろうか。足が痛い鉈先生はお留守番で、逐次メッセージで状況を伝える。こちらまで膝が痛くなってきた。途中の廟で少し休むも、体力の衰えを痛感する。

 

30分ぐらいかかっただろうか。石の門が見えた。潜ると井戸が見えた。古蒙泉とある。その辺には観光客がちらほら歩いている。石の壁には茶が運ばれる様子などが描かれているが、これは後世の物だろうか。治水の神様、大禹像も登場してくる。茶畑は斜面に続いている。

 

ついに皇茶園に到着した。7株の茶樹が植えられているが、周囲は壁で囲まれており、少し高い位置でないと写真には入らない。ここが文献上、人が植えた茶畑で最古だということだが、確か日本でも最古の茶園という石碑を三か所で見た記憶がある。歴史は歴史、物語は物語。呉理真という人の名前も出てくるが、正直あまりしっくりとは来ない。それは私が不勉強だからだろうか。

 

足も痛いので、帰りはロープウエーに乗せてもらう。2人乗り、スピードが速いので、乗り損なう危険あり。高い所は嫌いだが、この程度なら問題はない。まあ脚で登ってこそ、価値があると思うので、この選択は妥当かな。お茶屋に戻ると、なぜか四川茶芸の練習をしており、鉈先生もその人々とお友達になっている。

 

そこからバスで30分ぐらい行くと河沿いで停まる。今日の宿に到着。部屋に入ると、何と蔵茶が置かれている。よく見ると壁にも茶餅がはめ込まれており、いい香りがする。これが噂の茶葉ホテルか。食事のためにホテル内のレストランに行くと、もっとすごかった。至る所に茶葉があり、お茶に埋め尽くされているようにさえ、思えるほどだった。そしてここで頂くのは、やはり茶葉料理。きれいに盛り付けされた全ての料理に茶葉を使っており、その徹底ぶりは見事といえる。

 

食後は小雨の降る中、河沿いを少しお散歩。辿り着いたのは1軒のお茶屋さん。入っていくと、オーナーが出てきて、色々と話してくれる。出てきた蔵茶を飲むと、妙にスッキリしており、イメージが違う。『これは2000年以降、漢族に飲ませるために開発した蔵茶だ』というではないか。

 

確かに長年チベットに運ぶために作られてきた蔵茶は、正直質の良くない茶だった。だが、茶業が民営化されると、儲からないチベット向けではなく、漢族向けに商売するのは道理だろう。ただ小声で『今でもチベット向けの蔵茶は政府の要請で作り続けている。これをしないと事業は続けられないよ』と漏らす。メンバーも蔵茶に対する認識が一変し、美味しい、飲みやすいという。製法も変化しているようで、次回はこちらの工場にも行って見たいと思った。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(3)庶民の茶文化に触れ、そして峨眉山へ

3月20日(水)
茶文化に触れ、峨眉山へ

翌朝は7時にホテルで朝食。前日食券を渡されたのに、鉈先生はなくしたと言い出すが、フロントに言うと難なく再発行。どういう管理になっているのだろうか。とにかくお粥を食べて1日が始まる。外へ出ると濃い霧に覆われており、視界はあまりない。これはスモッグだろうか。

 

ホテルをチェックアウトしてバスに乗り込む。日本人の団体だから時間に遅れる人はいない。まずは朝の人民公園に乗り込む。庶民の茶文化体験ということだが、天気も良くなったので、屋外で茶を楽しむのはとても気分が良い。そして池のほとりでお茶を飲み始めると、隣に座っていた老人たちと何となく交流が始まってしまうのが、何とも面白い。

 

一人は息子が日本にいると言い、簡単な日本語を話し、スマホで家族の写真を見せ始める。もう一人は中医の医者だといい、朝から何やら難しい本を読んでいる。中医学を勉強している人はすぐにそこで即席の勉強を始めて、教えを乞う。庶民が安い料金で皆が仲良くお茶を飲み、談笑する。これは私が思う茶文化の一つの形であり、決してお茶は高貴なものではない、と考える所だ。ただここのお茶も随分をいい値段を取っている。お湯だけでも10元する。

 

成都にはこのような茶文化が残っていて、何と羨ましい限りだ。実は中国でも以前あった厦門の路上茶や広州の廉価な飲茶がどんどんなくなってきており、とても残念に思っている。経済成長と共に、儲かるシステムが優先され、金の取れない従来のスタイルは淘汰されている。ある意味では仕方ないことだが、結局誰のためにもならないことのように思えてならない。そんなことを考えながら、緑茶を啜る。

 

1時間ほどそこにいた。今日はずっとここに座っていたかったが、茶旅行には日程が決められており、そんな自由は全くない。歩いて正門から出る。ガイドはスルーしたが、そこには抗日兵士の像が立っていた。路上では新疆のウイグル人が旨そうなナンを売っている。これも一つの現代の光景だ。

 

次に向かったのは、昔の陝西会館。今はホテルになっているようで、その奥には改修中の古い建物が残っていた。1885年に建てられたものだとある。今回のメンバーの中には、『なんでこんなところに来たんだろう?』と首を傾げた人もいたと思うが、陝西商人が四川茶、蔵茶に果たした役割が分からなければ、確かにそうだろう。そして全中国になぜ陝西会館、山西会館があるのか、お茶とどんな関係にあったのか、それは旅に出る前、事前に学習する必要がある事柄だろう。ここは私の茶旅、茶の歴史を追う場所としては必須の地である。唯一中国茶の歴史を研究しているI先生だけが大きく頷いて、石碑をじっくりと眺めていた。

 

成都市内を離れ、高速道路に乗る。2時間ほど走って、サービスエリアで停まる。何とここは、あの天福銘茶が作った、お茶がテーマのSAだった。中では子供たちのケーキ作り教室が行われており、賑やかだ。ここには茶畑、博物館、お茶屋などが併設されており、このSAに入れば、お茶のことが一通り分かるシステムとなっている。しかも規模がデカい。我々は時間が無いので、ここでランチを食べ、ちょっとお茶を見ただけ。博物館は入場料30元も取るらしい。天福の中国ビジネス、スケールが大きい。

 

さらにバスは1時間走り、峨眉山に到着した。山の中に入っていき、峨眉雪芽と書かれた看板を目にする。有機茶園に桃の花が咲いており、何ともきれいな光景だ。建物もきれいで、ここがある意味で観光茶園であることが分かる。最初にちょっと茶工場を見学すると、メンバーは早々に茶摘み体験に繰り出したが、私はMさんと足の悪い鉈先生と残り、お茶を頂きながら、下の茶畑の活動を見ていた。40分ぐらいすると、摘まれた茶葉が運ばれ、すぐに鍋で炒め始めた。店長自ら炒めたが、その手つきは慣れてものだった。子供の頃からやっているのだという。

 

元々ここは国営茶廠が母体。2006年に峨眉市の旅行会社が出資して、茶業が民営化された。だから観光茶園に力を入れているのだと分かる。峨眉市にはもう一つ、今回は行かなかったが竹葉青という有名ブランドがあり、街中に大きな茶工場が見えた。この街の二強らしいが、広告宣伝では完全に竹葉青が全国展開して有名になっている。メンバーはお買い物タイムとなり、張り切ってお茶を買い込んでいる。

 

それから山を下り、市内のホテルにチェックイン。どこのホテルもまあまあキレイだ。夕飯もホテルのレストランで食べる。ここでもきれいに盛り付けされた料理が出てきたが、やはり辛さはない。旅行会社とホテルの契約があり、最低消費に満たないと言われ、料理がいくつか追加される。この辺が団体旅行だ。食後は特に予定はなく、早々に部屋に戻り、眠りに就く。このホテルには温泉もあると聞いたが、見てみると、中庭に小さなプールのような場所。勿論入っている人などいなかった。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(2)成都 お茶も見ずにパンダ見学

3月19日(火)
いざ成都で

翌朝は5時台に起床、6時過ぎにはホテルをチェックアウト。まだ薄暗くて周囲の景色も見られない。残念。この時間だとバスは期待できないので、フロントでタクシーを呼んでもらい、昨日来た道をまた空港に引き返していく。何だかとてももったいない気分になるが、仕方がない。

 

国内線空港は国際線よりはかなり大きい。確か5年ほど前にこの空港が霧に包まれ、フライトがディレーして北京で東京行きに乗り継げなかった悪夢を思い出す。今日はそんなことないよな。中国の国内線は、国際線同様に2時間前に行くことが基本になっている。チェックインの行列に加えて、荷物検査が厳しく、相当に時間が掛かるからだ。

 

ところが朝が早かったからか、さほどの行列もなく、荷物検査の混乱もなく、搭乗ゲートに辿り着いてしまった。仕方なく、朝ご飯を食べようと、店に入る。粥やまんとうを売っているが、正直美味しいとは言えないし、結構高いが、ここでPCをいじって、時間を潰して待つ。

 

搭乗時間が近づいても、飛行機が来ていない。これはディレーか、と焦っていると、なんとゲートから下に降り、そこからバスで駐機している場所まで向かった。何故ここに飛行機を停めないのか、と考えるより、遅れないでよかった、と思う。フライトはほぼ満席状態だ。

 

中国南方航空のサービスはエアチャイナより笑顔があってよい。それとこちらが言わなくても飲み物を頻繁にくれるので有り難い。といっても朝早いのですぐに寝入ってしまった。ところで、なんで南方航空がこんな北の方を飛んでいるのか。思い出したのが、ここは北方航空と合併したからだろう。何ともややこしい。

 

約4時間の飛行時間で、ほぼ定刻に成都空港に着いた。荷物は預けていないので、そのまま外に出た。待ち合わせ場所は国際線到着ロビー。ところがターミナル間はかなり距離があるらしい。どうやって行けるのか聞いてみるとシャトルバスがあるというので、1回出たターミナルにまた入ると荷物検査が面倒。それでも係員が親切に案内してくれて感激。シャトルバスは小さかったが、1㎞以内を走行して、無事国際線ターミナルに到着。

 

そこで北京から来ていた旧知のMさんと合流。その10分後にはM会長率いる茶旅の会ご一行が成田から到着し、何食わぬ顔でお出迎えしたが、内心はギリギリでかなりホッとしていた。今回の一行10数名、半数以上はお知り合いなので、緊張感はあまりない。ガイドが先導して大型バスに乗り込む。

 

茶旅の会なのに、なぜ最初の訪問地がパンダ基地なのか、という疑問は封印した。ご一行の大きなスーツケースを見た時から、『これは私がいつも行っている茶旅ではなく、茶旅行(団体旅行)だな』と感じていたので、既に諦めていた。1時間半ほどでパンダ基地に着くと既に夕方になっていた。

 

そこにはパンダが沢山いて、しかも上野と違って動いているので、皆さん大はしゃぎで歓声を上げている。周囲の中国人から『あれ、誰?』という目を向けられても『可愛い』を連発して、写真を撮っている。我々は韓国人と間違えられていたフシがあり、それほどに日本人観光客を見ることは少ないのだな、と痛感する。閉館時間までたっぷりパンダを味わった。

 

それから市内に戻ると夕方の渋滞に巻き込まれる。何とかたどり着いた、雰囲気のある老舗レストランで夕飯。そこには今回のコーディネーター王さんも来ており。いよいよ旅が始まる。ただ四川出身の王さんはなぜか辛い物が苦手らしく、出てくる食事は殆どが辛くなかったので驚いた。32年前、1年で2度訪れた成都では、辛くない食べ物を探すのは至難の業だったが、今は省外から来る中国人のためにこんな料理になっているのだろうか。薬膳スープの優しさが疲れを癒してくれた。

 

食後は夜のお散歩。レストランからほど近い、武侯祠の横にある錦里という観光街、老街を歩く。成都10年ぶりの私としては、見るもの全てが新鮮だ。本当に沢山の人が歩いていて、我々の団体もすぐに人込みに流され、離れ離れになってしまった。でも大したものは売っていない。中国人は何でこんなところが好きなんだろうか。今回久しぶりに同室となる鉈先生が、はぐれて集合時間に来ない。これももうお約束か。

 

夜10時前にようやくホテルに入る。正直お茶も見ていないのにもうクタクタ。鉈先生とは以前に2度ほど長い旅で同室になっており、そこは慣れたもので、すぐにお互いの寝る所も決まり、シャワーを浴び、あっという間に寝入ってしまう。最近いびきをかいているようなので、こちらが迷惑をかけている。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(1)なぜかハルピン

《茶文化の聖地 四川を茶旅する2019》  2019年3月18-25日

1か月ぐらい前だろうか。突然Mさんからメールをもらった。『この度、茶旅の会を立ち上げるので参加してください』という内容だったが、何のことやらさっぱり分からなかった。ただ私が茶旅を長く続けているので声を掛けてくれたことは分かったので、端っこで参加することにした。

 

すると『第1回茶旅は3月に四川です』という。四川といえば、私の茶旅では未踏の地であり、茶文化発祥の地として、是非とも行きたい、確認したい場所であった。しかもナビゲーターは四川出身の王さん。王さんとは昨年大阪で四川について話していたので、益々行きたくなる。だが既にハバロフスク行きが決まっており、ハバロフスクからどうやって行くかが問題だった。

 

日程的には直接行けば何とかご一行と合流できる。検索してみると、何と韓国系エアラインは仁川経由で同日に着けるフライトを飛ばしているではないか。条件はそろった、これは行くしかない。だがハバロフスクで思わぬハプニングがあり、何と降りたのは仁川ではなくハルピンだった??

 

3月18日(月)
なぜかハルピン

オーロラ航空のフライトは順調の夜の空を飛行した。食事はやはりサンドイッチのみ。食べ終わると全員が目をつぶって寝入る。まるで夜行列車のような暗さだが、僅か1時間半でハルピン空港に到着する。またロシア人男性が列を押しのけて前に進もうとする。何か余程中国に対する恨みを感じする。昔たまにいた白人、中国ではこうするんだという無礼を見せつける態度だった。

 

ハルピン空港は恐ろしく小さかった。目の前にターミナルがあるのにバスに乗せられたのは、見栄としか思えない。ターミナルに入ると全員の動きが止まる。何してんだと思ったら、何とイミグレの部屋が小さすぎて満員で入れず、係員に止められていた。15分位足止めを食い、ようやくイミグレに並んだら、『外国人は一番端の1つだけ』という。

 

その列だけなかなか進まない。指紋取りに時間を食っているのだ。その機械、よく聞いてみると、パスポートによってその国の言語で指示している優れもの。ロシア語が多いが、なぜか韓国語も聞こえてくる。そして日本語まで。あれ、あの飛行機に日本人が乗っていたのか、と思ったがそんなはずはない。

 

私は何と最後になってしまった。手を機械にかざしていると、係員が『中国語できるか』というので『うん』と頷くと『お前はどっから来たんだ』と聞くので『ハバロフスクからさ』というと、『なんでそんなところから来たのか』と問われ、言葉に詰まる。私だってハルピンに来るとは思っていなかったからだ。どう説明しようかと悩んでいると上官が『もういいよ』といって、指紋も取らずに通してくれた。何だったのだ??

 

空港を出たが、そこには空港バスもなく、とても疲れていたので目の前のタクシーに乗った。運転手が『ちょうど韓国からのフライトと重なり、人が多かったよ』というのを聞いてようやくガテンした。ハバロフスクから来る日本人など皆無だから、係員が仁川から来たはずだと怪しんで、質問してきたのだ。まあとにかく外国人にとって中国はどんどん不便になっているのは間違いがない。それに物価はもう安くはない。それでも中国に行く理由、普通の人にはないだろうな。

 

運転手は陽気に話し続けていたが、その中国語は訛りが強く聞き取りづらい。ただ今日のハルピンも気温が急上昇して暖かかったことだけは分かった。ハルピン空港から市内は、車も殆ど走っておらず、相当にスピードで飛ばしていたが、それでも意外と遠かった。そして高速道路料金も高く、予約したホテルに着いたら150元近くになっている。今日のホテル、1泊225元だから、明日の早朝もタクシーに乗ると、そちらの方が全然高い。それなら空港で寝てればよかったかもしれないが、あんな小さな空港ではどうにもならない。

 

宿はいつものチェーン店を適当に予約したのだが、老街のすぐ近くだった。何となく腹も減ったので、親切なフロントでお勧めの店を聞いて、夜の街を歩き出す。すると老街のライトアップは見事であり、重厚な100年前の建築物はハバロフスクより輝いて見えた。ここももっと時間をかけて見るべきところだと感じるが、何せ、時間は今しかない。結局お勧めの店は既に閉店しており、その辺の店で食べて、明日は早いのですぐに寝る。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(6)ハバロフスクを去る

3月18日(月)
ハバロフスクを離れる

ついにハバロフスク最終日。フライトの変更により、当初の午後4時から夜8時の出発となったため、時間はたっぷりとあった。この時間をどう潰すか。まず午前中は体力を温存するため、部屋でゆっくりと過ごした。特に今日の夜は全く予期していなかったハルピンへ行くので、そのホテルの予約などをしなければならなかった。ハルピンの気温はこことそれほど変わらないのは何とも幸いだ。

 

チェックアウト時間を午後1時まで延ばしてもらうが、5分前には電話が鳴り、部屋を追い出された。このホテル、予想以上に居心地の良い部屋で満足。料金は手頃でフロントの対応もよく、おまけに国際電話タダの恩恵にまで預かった。次回来ることがあれば、またここに泊まろう。

 

腹ごしらえはどうするか。カフェも飽きたので、歴史的建造物にあるレストランに入ってみた。だがそこは、ロシア料理店ではなく、中央アジア、アラブ風の店でちょっと驚く。怪しげなウエーターが英語で応対してくれる。ペルメニと紅茶を注文すると、音もなく去っていく。レストランの内装はかなり凝っており、中東に来てしまったような錯覚に捕らわれる。

 

ペルメニも当然、中央アジア風でロシアとは違う。スープ餃子ではなく、中身も羊肉だった。紅茶は立派なポットに入っており、3杯もお替りできる量だった。ウエーターが、突然『スイーツマジックをどうぞ』というから何かと思ったら、綿菓子がサービスされたのにはかなり驚く。なるほど、スイーツマジックか。久しぶりに食べるよな。

 

それにしても外に出ると何だか暑い。これはご飯を食べたせいではない。気温を見てびっくり。何と+12度ではないか。空は快晴ではあるが、どうして突然こんなに暑いのか。慌て着ていたダウンジャケットを脱ぎ、マフラーもバッグにしまい込む。後で調べると、北京は20度以上もあったようで、時々ある春の馬鹿陽気だった。散歩しやすいともいえるが、むしろ暑すぎて汗が出るし、ダウンを持つのも邪魔だった。

 

メインストリートを歩き、レーニン広場を越えて少し行くとディナモ公園がある。ここは戦前、博覧会が開かれたほど大きな広場だ。今は市民の憩いの場となっており、犬を連れて散歩する人が多い。更に進み、大通りから一本入る。ここには何の痕跡もないが、可徳乾三がいた頃は、日本の女郎屋が並んでいた地域らしい。

 

そこで働いていた多くは、天草あたりから売られてきた女性たちで、経営者も同じ九州の人間だったという。九州、熊本・長崎の貧しさ、可徳がここまで出てきた理由の一端もここにあるかもしれない。先日マレーシアのサンダカンに行っても、からゆきさんは天草などの女性だったことを思うと、その厳しさが分かる。また同時に対ロ工作の一環として娼婦が使われたとの見方もあり、歴史というのは本当に一筋縄ではいかない。

 

最後にこれまで行っていない地域に足を向ける。そこにはかなり立派な、大きな建物が続いて建っており、軍関係の施設だと分かる。往時は日本軍の司令部だったところだろう。ハバロフスクは軍事的には極東司令部などが置かれる重要拠点であることは今も昔も変わらない。

 

ホテルに戻り、少し休息する。それから荷物を引き取り、メインストリートからトロリーバスに乗る。あの初日の暗いバスとは異なり、夕日に煽られたきれいなバスだった。最初は乗客がかなりいたが、いつの間に全員降りており、取り残されるが空港は見えない。間違って乗ったかと焦った頃にようやく空港が見える。車掌が『国内線、国際線?』と聞いているように思えたが、答えるロシア語を持ち合わせない。何とか『キタイ(中国)』というと、国際線で降ろしてくれた。

 

空港到着は早過ぎて、狭いロビーで待つ。2時間前になるとようやく航空会社と税関職員がやってきて、チェックインが始まる。前日突然購入したチケット、また間違いはないかとドキドキしたが、何事もなく発券される。乗客はロシア人と中国人が半々、それ以外の国籍はいないように見えた。中国人はこちらにいる親族などを訪ねてきた人が多く、ロシア人はビジネスマンだろうか。

 

空港には何もなく、手持無沙汰に待つしかない。既に本日の全ての国際線は飛び立っており、我々だけが待っている。ようやくコールされ、暗い空港をバスで目の前の飛行機へ。アエロフロートの子会社だというオーロラ航空に乗り込む。機内に入ると私の席に中国人のおじさんが座っていたので、席が違うと中国語で伝えていると、後ろのロシア人男性が私を突き飛ばして通路を進む。ロシア人の中国人に対する感情の一端を見る思いだった。まさかここに日本人が乗っているとは思ってもいなかっただろう、二国間の小競り合いか。

 

初めてのハバロフスクでは、非常に沢山のことを学んだ。まだウラジオストックも残っているので、何としても行かなければならない。今回の教訓があれば、次の旅はかなり楽になるだろう、そう願うばかりだ。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(5)事件発生 飛行機に乗れない?

3月17日(日)
事件発生 飛行機に乗れない?

その事件が発覚したのは昨晩遅くだった。明日のフライトを確認しようと、ネットで検索したが、私の名前を入れても予約が出てこないのだ。そして初めて1か月前に届いていた予約確認書を見て驚いた。私の姓は合っているのだが、名前のスペルが違っていた。いや、スペルではなく、妙に長いのだ。MRなどという文字が混入しており、何だか分からない状態だった。恐らくこれは予約画面で自分の名前を打った時、MRなどが混在したものと思われる。

 

この航空会社には以前も何度か乗っているので、この間違いは私のせいではないと分かってくれるのではと思ったが、すぐに連絡を入れた方がよいというアドバイスもあり、電話番号を探す。ハバロフスク支店に今電話しても夜の10時過ぎで誰も出るはずはない。ソウルのコールセンターを探して電話しようとしたが、今度は私が買ったロシアシムでは何番を押せば国際電話が掛けられるのかが分からず、フロントへ駆け込む。

 

フロントの女性は話しを聞いたうえで『このホテル、国際電話無料サービスだから、部屋から掛ければ』というではないか。何と親切なホテルだろう。ところが部屋からはなぜか繋がらず、もう一度フロントへ行き、そこの電話でかけてもらってようやく繋がる。ハングルは出来ないので、英語サービスを押すと、ちゃんと英語で人が出たのだが『本日のサービスは終了しました』というではないか。そんなこと言っても、今英語で私の話を聞いているのだから、対応して欲しいというと、色々と言い訳を並べて結局対応してもらえず。

 

『翌朝8時にまたここにかけてください』という。仕方なく一度寝て、午前9時過ぎ(ソウルとも時差1時間)にまたフロントから掛けると、英語できちんと話を聞いてくれた。だが『話は分かったが、ここはアメリカのLAで電話を受けており、我々には修正する権限はない。後2時間したらソウルに切り替わるから、そこにかけて』というではないか。

 

一体どうなっているのだ、この航空会社は。そしてこちらの時間の11時過ぎにまた電話をすると『話は分かったが、発券したのはハバロフスク支店なので、そちらにコンタクトして欲しい』というので、さすがに怒りが爆発する。『私はおたくのHPでチケットを購入したのだ。しかしHPでは変更できないというから何度も電話しているのだ。ハバロフスク支店などは関係なのだ。しかも今日な日曜日だ。支店は対応してくれるのか』と畳みかけると、『とにかく明日の朝一で支店へ』と小声になる。

 

『では支店に行けば必ず修正してくれるのだな』と聞き返すと『それは各支店にポリシーがあり・・』と要領を得ない。もうこれで諦めた。このチケットはキャンセルしようと思うが、他に代替手段はあるのだろうか。何しろ東京へ戻るのではなく、中国の成都へ行かなければならない。電話を切りネットで検索したところ、明日の夜ハルピン行きに乗り、そこで1泊、翌朝早くに成都行きに乗り継ぐと、ちょうど東京から来る人々と合流できることが分かり、迷わずそのチケット予約する。料金は前のチケットとほぼ同じ。何だ、最初からこちらにすればよかったと思うが、後の祭り。

 

そして4回目の電話をしてキャンセルを告げた。すると『キャンセルの手続きをハバロフスク支店でやって欲しい』と言われ、もう限界を超えた。一体何を考えているのかというと、電話の向こうから『分りました。こちらで処理しますが、返金は4週間後になるかもしれません』という。返金?何とこのチケットのキャンセル料は僅か50ユーロでかなりの金額が返ってくることをここで初めて知り、愕然とする。それならこの1日は何だったのか。無駄な処理にどれだけの時間を費やしたというのか。余談だが返金は4週間どころか、2日後には完了している。もうこの航空会社の言うことなど聞かないぞ。

 

という騒動に巻き込まれ、昼ご飯もその辺でパンを買って食べる羽目になってしまい、ようやく今日の散策に出たのは午後だった。折角なので日曜日で閉まっているとは分っているが、例の航空会社のハバロフスク支店を見てみようと思い出掛けた。だがどうもスマホ地図が示す場所が正確ではない。かなり歩いてきたのに、結局見つけることは出来ず、立派な教会だけを見る。月曜日にここで処理をしなくて本当に良かった。昼ご飯、パンだけでは軽いので、カップ麺を買ってきて部屋で食べる。すごく美味しい訳ではないが、これまた3年前の味がして、懐かしい。

 

夕方、もう一度出掛ける。ハバロフスクには今も日本総領事館があるというので、何となく見に行った。そこは先ほど支店を探して彷徨った通りの1本向こう、港に近い場所にあった。ただ入り口は分かりにくく、階段を登ってやっとたどり着く。その建物は領事館とは思えないほど可愛らしいクラシックスタイル。こんな領事館なら、地元民からも愛されているかもしれない。

 

更には100年前に日本人会や商工会があった建物も残っていた。ここは現在空手道場になっており、往時を偲ばせる。また本願寺があった場所は特定できないが、古い木造建築も残っていて、この辺りかなと思わせるものはある。

遥かハバロフスクに茶旅する2019(4)ハバロフスクを一人彷徨う

3月16日(土)
一人散策

本日は昨日ポボロツキーさんからもらったハバロフスク案内を参照しながら、一人で街を歩いてみることにした。相変わらず表示される気温は低いのだが、なぜかそれほど寒く感じない。メインストリートに出て、昨日聞いた話を復習しながら、もう一度いくつかの建物を眺めてみる。

 

それから音楽堂の横にあるハバロフスク極東美術館を訪れた。なぜここに来たのかというと、ポボロツキーさんから『ここには土産に良いものが売っているので、一度覗いてみたら』と言われたからではなく、街中で見たポスターがあまりに衝撃だったからだ。実はここでは今『日本の春画展』が開催されていたのだ。

 

確か一昨年東京で初めて春画展が開かれ、大いに話題になったばかりだ。『春画はエロでタブーから、江戸浮世絵の芸術作品へ』と評価が変わったように思う。それがこの極東の街で堂々とポスターが張られ、展示されているというのだから、まさに興味本位で見に行ってみたわけだ。

 

美術館も抑留者が建てたらしい。立派な作りだ。常設展はパスして、春画展だけのチケットを買う。250ルーブルは安いのか高いのか。3階まですごく優雅な階段を上って行く。その一室に春画がズラッと展示されていた。かなり露骨な描写も含まれるので、一応18歳未満は入室禁止だが、参観者は殆どいなかった。江戸だけではなく、明治期の春画もある。生で春画を見たのは初めて、ちょっとビックリだ。

 

中国物と思われるものも2-3点あったが、日本の春画のレベルは高いと感じられた。ロシア人夫婦が興味津々で、絵をじっと見ている。どういう感想か聞きたいところだが、言葉は通じそうにない。1階に戻り、英語の出来る係員の女性に聞いてみたら、『春画は非常に素晴らしい美術品だと皆が言っている』とほめていたが、あれはお世辞だろうか。この春画展のパンフレットはないかと聞くと、『パンフは作っていない。カメラでの撮影は禁止だが、スマホ撮影はOKだから、もう一度3階に上がって撮って来れば』と言われ、何と再度見学する。何故スマホはOKなのか、その理由は分からない。

 

それから昨日は行かなかった先の道に進んでみる。冒険だな。今は少なくなったという木造の家が見えた。可愛らしい教会もあった。スマホ地図が使えるので、取り敢えずハバロフスク駅に行って見ようと歩き出すが、何と道を間違えてとんでもない方へ行ってしまっていた。お陰で、一般市民が住んでいる団地などはよく見え、郊外にはそれなりに木造住宅もあることは分かったが、相当に疲れた。

 

何とか歩いて鉄道駅まで辿り着いた。駅はそれほど大きくはないが、それなりに列車は走っている。私は3年前のシベリア鉄道のトラウマ?でロシアの列車に乗りたいとは思わない。でもなんとなく懐かしいので、駅中のカフェで昼食を取りながら、その頃のことを思い出す。

 

駅前の大きな道を進んでいくと見覚えのあるところへ出た。何と昨日来た市場だった。もう一度歩いてみると、店をやっている人間の中に中国人が何人もおり、店員、お客とも中国人なのか、中国語が時々聞こえてきた。今は港も閉まっているが、夏になれば多くの中国観光客が買い物に来るのだろうか。

 

更に屋内に入ると茶を売っている店があったが、そこではベトナムコーヒーも一緒に売られていた。彼はベトナム人でその昔にロシアへやってきて商売しているという。確かに社会主義繋がりであり、90年代の混乱期にここに留学などしていて残ったのではないだろうか。愛想はとてもいい。パン売り場のおばさんが何度も『このパンは美味しいよ』と言っているようで、中身も分からずつい買ってしまった。これも一つの交流か。

 

またメインストリートに戻り、その両側の建物の写真を撮り続けた。1つ1つに謂れはあるのだが、正直覚えきれない。中にはハバロフスク初の女学校跡もあった。120年の歴史、ここへは日本人女子も通ったのだろうか。100年前はホテルだったという建物も何軒かある。メインストリートは高くなった場所にあり、両側に下る道を歩きたかったが、疲れがピークで明日にした。

 

一度ホテルで休み、夕方外へ出た。すぐ近くのハンバーガー屋に入ってみる。今日は土曜日だから、家族連れ、若者たちが大勢食べていて、盛況だった。料金的には日本のマックと同じようなものだが、例えばポテトにつけるケチャップは有料で、3つの種類から選択するなど、ちょっとした違いがあった。

 

そのまま日が暮れようとしているアムール川へ出てみる。陽はゆっくりと落ちていき、なかなか沈まない。家族連れが凍った川面で走り回り、おじさんは穴をあけて釣りをしている。何とものどかな、絵画に出てくるような風景だった。可徳乾三もこの夕陽をここで見ただろうか。思わずライトアップがきれいな街中に戻り、またカメラを向け続ける。

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そしてメインストリートである、ムラビヨフ・アムールスキー通りを歩き出す。ここが100年以上前、多くの日本人が暮らし、商売した場所だと言われ、実際に彼から『ここは竹内商店、向こうは中村歯医者、最初の日本領事館もここにあったよ』などと言われると、ちょっと驚いてしまう。当初の木造建築は残っていないものの、1900-1920年代に建てられた重厚で立派なレンガ造りの建物は今も現役で使われているのだ。特に竹内商店のあった建物には竹内家の家紋が埋め込まれているなど、日本を偲ばせるに十分な素材があった。

 

今回私が探し求めてきた、可徳商店もこの一角にあったという。ただ日露戦争時に日本人が引き揚げた後、すぐに木造の家は取り壊され、今はレンガ造りに変わっていた。それでもかなり港に近い良い場所を占めていたことが分かり、これは大きな収穫となった。これで当時の写真でもあればと思ったが、それは欲張りだった。

 

広場に出るとそこには教会があり、ちょっと入ってみる。中では厳粛に何かの儀式が行われており、奥に入るのは憚れたので、入り口付近で眺めていた。ソ連時代には宗教も弾圧されていたはずだが、多くの人が教会に来ているのは、その信仰がずっと続いていたからだろうか。この街には多くの教会があることをこの後沢山歩いて知ることとなる。

 

そしてアムール川に出た。広い川面は一面氷で覆われており、その上に朝降った雪が積もっていた。その遥か向こう、60㎞離れたところには中国の撫遠という街があり、数年前に行ったことがある。1年の半分だけ港が開き、ここからフェリーに乗って中国へ行けるのだ。ウラジオストックから入った物資も川つたいに来て、ここに荷揚げされたのではないか。可徳商店の物資もそうだったのだろうか。

 

すぐそこに1894年にオープンしたという郷土史博物館があった。中に入ると暖かい。旧館と新館があり、かなりの展示物があり、1時間以上かけて見学した。先住民族の記録、チョウザメなどの特産品が目新しい。ここには日本人はあまり出てこないが、やはり中国人の歴史は出てくる。お茶に関する展示はほぼないが、何となくハバロフスクの歴史が分かったような気になる。

 

この博物館の近くには2つの意味ある建物が建っていた。1つは音楽堂。ここは(ここ以外にも幾つもある)戦後抑留された日本人が建てたと言われており、その中にはあの歌手、三波春夫さんもいたという。もう一つは士官会館。ここで1949年にいわゆるハバロフスク裁判が開かれ、日本の対ソ攻撃、731部隊などが裁かれた歴史的な場所である。今は建て替え中で、中を見ることは出来なかった。確か昨年放映されたNHKスペシャルで731部隊の新たな資料が示されたが、これがハバロフスク裁判の録音テープだったと記憶しており、誠に興味深い。本当はここで何が行われたのだろうか。

 

お昼はインツーリストホテルで取る。インツーリストと言えば、ソ連時代は勿論、数年前まで、ロシア旅行時には欠かせない存在。このホテルも往時外国人客の宿泊が多かったようだが、今では多くのホテルが出来ており、改修工事で競争力を高めようとしていた。食事はハバロフスク名物のペリメニを食べる。以前も他で食べたことがあるが、ここの物は、食べやすい。

 

午後はタクシーを呼んでもらう。今やロシアでもタクシーはスマホアプリで呼ぶものだそうだ。私が希望したのは日本人墓地。ここは昨夜トロリーバスで市内へ来る途中にあったが、暗くて分からなかった場所。もし墓地が分かっても、広い園内のどこに日本人墓地があるかは分かりにくいため、ポボロツキーさんに連れてきてもらい正解だった。

 

墓地は区画が仕切られ、かなりきれいに整理されている印象。1956年日本人墓地とあるのは、日ソ共同宣言の年に整備されたということだろうか。近年日本政府はシベリア抑留中に死亡した人々の遺骨収集をして、DNA鑑定も行っているというが、本当にその人なのだろうか。それでも名前があり、墓があるというのは救われるのかもしれない。周囲にあるロシア人の墓に目をやると、墓碑に写真や似顔絵などが沢山見られ、何となく楽しい感じになっている。故人を偲ぶその方法は、その国それぞれだろうか。

 

続いて車は市内に少し戻り、プーシキンの像がある教育大学の裏手に着けた。この建物はあのラストエンペラー、溥儀が連行され、収容された場所だという。確かに先日天津に行った際、溥儀が故宮を出て住んだ静園にあった展示室に、ハバロフスク抑留のことが書かれていたのを思い出す。ここの1階に溥儀と満州国の大臣クラスが住み、2階は日本人将校が住んだと説明された。何ともリアルに歴史的な場所に立っている気がした。今は病院になっている。

 

最後に市場に行く。ここでようやくシムカードを手に入れた。550ルーブルで簡単に買えて使い勝手は良い。ついでに市場内を歩いてみると、お茶なども売られているが、紅茶のティバッグ。川魚は豊富で、肉売り場の面積も大きい。日本人が当地で作っている有機野菜は人気が高く、売切れていた。日本製調味料なども売られているが総じて高い。

 

ここから歩いてレーニン広場まで行き、ポボロツキーさんとは別れた。何とも有り難い1日ガイドで感謝しかない。彼がいなければ、何日ハバロフスクにいても何も変わらなかっただろう。私はレーニン広場を少し見て、そこからゆっくりと歩いて帰った。夕日が落ちていく時間だった。ちょうどセルフサービスのカフェが目に入ったので、スープと魚などを取り夕飯とした。ここが一番、一人旅にとって食事のしやすい場所だった。

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完全に行き詰っていたところ、バスが来たので聞いてみた。予約したホテルのロシア語を持っていたので示してみると、理解はできたようだが、車掌は更に外を指し、トロリーバスと言っているように聞こえた。確かに外まで走っていくとその瞬間トロリーが来た。車掌は『これで行けるよ』と頷き、25ルーブルを受け取った。乗客はなく、何だか映画の世界を見ているようなレトロ感があった。

 

徐々に人が乗ってきて、徐々に街に近づいていた。30分ぐらいで市内に入った。シムカードがないので、スマホ地図が使えず、どこを走っているのかさえ、全く分からなかった。恐らくここがレーニン広場というところまできて車掌を見ると、後2駅と言っているように見えた。降りる時に『こっちだよね』と大きく指さすと大きく頷いたので、安心してその坂道を降りて行く。

 

だがどうも違うような気になる。地図も持っていたが不確かだし、何より道路標示のロシア語は読めない。そこで目に入ったのが、英語で書かれていたホテルの看板。恐る恐る入っていくとフロントの女性はきれいな英語を話した。そして泊り客でもないのに、親切にも地図を打ち出してくれ、説明を加えてくれた。

 

さあ、これでもう安心と思って歩き出したが、やはり何となく不安になる。暗い夜道の信号でじっと止まっていると、後ろから『道に迷ったのか』と英語で声を掛けてくれる若夫婦がいるではないか。地獄に仏?彼らはすぐに自分のスマホを取り出して、私がバスを降りて反対側の道を来ていることを示し、正確なホテルの位置まで教えてくれた。何とも有り難い、ハバロフスクには何と親切な人が多いのかと実感する。同時にお金がなかったからこそ、この親切に出会えたわけで、旅とは本当は如何にすべきか、もう一度考え直す機会ともなる。

 

そしてついにホテルに辿り着いた。そこに看板もなく(あっても読めないが)、もし若夫婦と出会っていなければ、更に探すのに時間を費やしていただろう。重装備で寒くはないと言っても零下8度の中、暗い街をこれだけ歩けば疲労感は相当に達していた。ホテルの部屋は天国のように暖かく、何とも居心地が良い空間がそこにあった。

 

時間はもう9時を過ぎており、腹は減っていたが、そうなるとまたルーブル問題がぶり返えしてくる。1階にレストランがあると言われたが、夜はバーになっているのか、何だかとても騒がしくて入る気にもなれない。ホテルならカードでも払えるだろうが、外へ出ると金がない。それでも外へ出てみる。さっきは余裕がなかったが、周囲の建物は皆歴史的建造物のように見えた。

 

メイン通りに出てみる。イルミネーションはきれいだ。ちょっと行くと道路脇に小さくてかわいい小屋があった。覗いてみるとパンを売っている。値段も書いてあり、これなら有り金で払えそうだったので、買い込む。パンを温めてもらい、ホテルの部屋でゆっくり味わって食べた。お金の有難味が沁みた。

 

3月15日(金)
ポボロツキーさんとの1日

部屋が本当に暖かいので、北京時代の冬を思い出し、眠りは深かった。起き上がると窓の外が明るいので、いい天気だと分かったが、何と零下10度、そして雪が降って積もっているではないか。昨晩あれから雪が降ったとは。あのまま道に迷い続けていたら、遭難か。ちょっと散歩でもしようかと思っていたが、部屋に閉じこもった。そして午前9時半の、ポボロツキーさんとの待ち合わせをじっと待つ。

 

ロビーには恰幅の良い人が待っていてくれた。彼は1981年にウラジオストック極東大学で日本語を専攻し、卒業後はこの地のインツーリストに配属された。配属システムは当時の中国と同じだった。日本語ガイドとして活動していたが、当時のお客さんは単なる観光という時代ではなく、ペレストロイカやソ連邦崩壊を経て、戦争前にここに住んでいた人、抑留された人やその子孫が訪れることが多く、案内先も自然とそういう場所になっていく。元々歴史好きだったこともあり、いつしかハバロフスクに関連した日本人の歴史を調べ、地図を作り、冊子にまでまとめていた。まさにNさんはライトパーソンを紹介してくれたことになる。このご縁には感謝しかない。

 

ホテルの外へ出ると日が出ており、思ったほどは寒くない。この周辺にも歴史的建造物はいくつもあり、元特務機関の事務所だったところを外から見学後、すぐに銀行に向かった。まずは資金がないと何もできない。そこで聞いてもらったところによると、『空港のATMでは現金が出ないことがある』という衝撃的な話だった。ロシアのATMとは何だろうか。

 

まあ銀行によって、ルーブルが出てくる機械もあるとは思うが、常に安定して出てくれないと、旅行者としては困ってしまう。またこれは余談だが、私の場合、今回主に使おうと思っていた銀聯カードが弾かれてしまったのだが、それはこのATMのせいではないことが、中国に行って分かることになるので、今回は運が悪かったというべきかもしれない。取り敢えず今後ロシアでは大目に現金を持ち歩くことにして、ポボロツキーさんの通訳で両替を済ませる。