「茶旅」カテゴリーアーカイブ

北タイ茶旅2024その1(3)ドイプーメンからドラーンへ

赤ラフの村から黒ラフの村へ移動。教会が見えてくる。少し上るとお茶を飲むスペースが見えた。その前には太陽光パネル。これで電気を賄おうという考えらしい。ところがドームの弟、ジョンがスイッチを入れても電気は来なかったので、お茶も出て来なかった。ここから見えるエリアで茶工場の拡張が行われている。ジョンはヤリ手の経営者だ。コーヒーとお茶の商いを広げていた。

更に上に登っていく。今回は彼らの一番上の兄にも会いたいとお願いしていた。かなり上った場所に大きな家があった。そこに長兄が住んでいた。彼は1970年代、台湾に留学し、何と鹿谷で2年烏龍茶製造の勉強をしたというから驚いた。既に亡くなった次兄も一緒だった。その後村へ帰り、茶作りに励んでいた。勿論華語も上手い。

2008年頃、台湾から来て1年に一度来て茶を作っていた師匠からプーアル茶の作り方を習って作ってみたこともある。包み紙には自分でブランド名を印刷したらしい。因みにその紙は何となく和紙に似ている。この地域、ヘロインを和紙で包んでいたとの記述を見たことがある。尚この付近は雨季に特に雨が多く湿度が高いため、プーアル茶の保存には適さないという。麓の方にプーアル用の倉庫が建てられているらしい。

今ではフランス人がホームステイし、ゲストの料理は彼が作っているという。次回は是非味わってみたいものだ。大きな犬が何匹も彼らを守っており、私は怖くて近づけない。先ほどの母屋まで戻ると、囲炉裏付近からいい匂いが漂ってくる。竹筒ご飯、焼き鳥、竹筒に入った豚肉、そして焼き芋など、どれも美味である。まあ、これを食べるためにわざわざ上ってきたようなものだ。

若者が自家製のコーヒーを淹れてくれる。それから皆で茶畑を見学し、茶摘みの写真を撮る。だがまた母屋に引き戻される。前回も会ったおじさんが、竹で籠を作る技術を見せてくれる。これらが全て茶ツアーに含まれているので、先方としては全てやらざるを得ないし、こちらも付き合わざるを得ない。まあ何となく楽しい時間ではある。

プーメンを越えて反対側へ車は走っているようだ。実にさわやかな午後だった。1時間半ほど走って、ようやく山間の村に着いた。ドイラーンというタイヤイの村で、ミャンマー国境に近かった。ずっと国境沿いを走ってきたらしい。タイヤイというのはシャン族のことで、大きな括りではここもタイ人系の村。ミャンマー側から渡ってきた人々が住んでいた。

もうこの村の雰囲気は完全にシャン州だった。人々の顔も更に日本人に近い。訪ねた茶の仲買人の家の奥さんなど、明るい日本人と言っても良い。23年前ミャンマー側から渡ってきて旦那と結婚したという。この家の納屋には茶葉が沢山詰まっていた。これを用途別に売り捌くのが仕事なのだろう。

旦那が近所の家に連れて行ってくれた。ミアンを作っているという。昨年でミアンは見飽きたが、覗いてみると、どうも様子が違う。この村で生葉を集めて、ちょっと蒸して、すぐにどこかへ販売してしまうらしい。これでは漬物茶ではない。勿論漬ける葉もあるようだが、どうやら行先はタークと聞こえた。

タークなら、ミアンに砂糖やココナッツを入れて食べるとも聞いたので、生葉状態でタークへ行き、そこで砂糖などを加えて漬けるのでは、と想像する。またそこからミャンマーへ売られるものあるだろうか。村を離れる際、ちょうど漬物樽に乗っている男性を見た。恐らくミアンを作っているのだ。各家で製造工程は異なるのかもしれない。

そこから車で約1時間、夕日が落ちて行く中、山路を行き、ドイメーサロンに入った。2年ぶりだろうか。ただいつもと反対の道から来たので途中までどこを走っているのかさえ、全く分からなかった。今日来た道が、メーサロン‐ファーンを繋ぐ道、その昔茶業者が茶葉を運んだ道だったのだろう。

北タイ茶旅2024その1(2)ファーンの茶工場

午後はどうするのかと思っていたら、何と土管温泉へ行った。ここは20年前に日本人が川沿いに沸く温泉に入るため、土管を地中に埋めた場所。今やタイ人や白人の人気スポットになっており、車が何台も停まっていた。だが我々にとって、入りもしない温泉よりは茶畑だった。なぜここへ?

続いてチェンダオ洞窟へ行く。ここはドームが幼少期、おばさんの家に預けられた場所だと説明されたが、やはりなぜここに来たのは不明。取り敢えず入場料を支払って洞窟内見学したが、何だかシャン州のビンダヤの洞窟を思い出す。北タイからシャンにかけては多くの洞窟がある。

最後にファーンに入る前に、突然鳥居が見える。通称ヒノキランドと呼ばれるテーマパークのような場所で、日本関連の場所がここに再現されている。日本旅行がブームのタイ。日本に行かなくても、日本が味わえる、ということだろうが、今回の参加者は皆日本から来ているので、全く興味を示さない。取り敢えず写真だけ撮って退散。参観者も殆どいなかった。

夕方ファーンの街に着いた。まだ陽も高いのにホテルに入っても仕方がないので、ファーンのお寺を2つほど訪ねた。以前半日かけてこの街を歩いた記憶が蘇る。特に何もない、名所もない街ながら、何故か心地よい。高い建物が全くない、車が少ないなどいくつも要因はある。寺が多いのも関係あるだろう。ファーン自体の街の歴史は実はあまり分かっていない。寺もビルマ風、シャン風の建築様式だとは思うが、その歴史はよく分からない。まあ、この地域も極めて複雑、としておこう。

ホテルに入る。だがオーナーのヨックは不在だった。チェンマイへ行ってしまったらしい。夕飯はラフ料理を中心に、茶葉サラダやてんぷらなど、かなり色々と食べられた。皆満足したのではなかろうか。食後はお茶を試飲したが、お茶淹れのカレン族お姐さんが帰ってしまい、宿の若者が四苦八苦しながら淹れてくれた。ワイルドティや白茶に興味が集まる。後はこの宿の来歴、ドームたち兄弟と父親の物語の展示を説明して、1日目を終える。

10月30日(水)ドイプーメンからメーサロンまで

朝は早めに起き、ちょっと散歩する。托鉢のお坊さんたちが街を歩いているのが好ましい。中には老僧をカートで送っていく信者もいる。この街は本当に時間がゆったりと流れていく感覚が良い。ちょっと考えごとをしていたら、寺までお参りに行く時間も無くなった。朝飯はラフのお粥。いつもながら優しい味が好きだ。

今日はまず難関のドイプーメンへ上がる。と思っていたら、車は突然郊外の工場で停まった。何と茶工場だった。中からオーナー夫人(結婚40年)が出てきた。聞けば、1960年代国民党関係だったご主人(姓は蘆)が、茶房で茶業を始め、70年代にここに降りてきて工場を開設したという。恒春茶廠と書かれていたので台湾絡みかと思ったが、全く関係ないという。だがその横には台湾製の揺青機が置かれている。

昔は紅茶も作ったし、荒茶も作ってバンコクの三馬にも出していたという。原料は茶房から来る。ここで作られた茶がバンコク経由で香港に運ばれたという話も聞いたことがあるという。烏龍茶を結構作っていた様子も窺われる。変な言い方だが、良く生き残ってきたな、と感心する。ご主人が不在で残念だったが、次回また訪ねてみたい場所だ。

そこから山登りが始まる。さすがに1か月前に大水で山道も傷んでいたが、通れない所はなかった。道のでこぼこは相変わらずだが、ドームの慣れた運転で難なくドイプーメンに入る。久しぶりに訪れたが、村は一見どこも変わっていなかった。一応茶旅ツアーなので、ランチを用意している母屋へ行き、普通のお茶(タマダー)を飲む。

北タイ茶旅2024その1(1)チェンダオへ

【北タイ茶旅2024】2024年10月28日‐11月1日 11月12₋14日

いよいよ茶旅本番の季節がやってきた。昨年はミアンを探す旅を行ったが、今回は北タイの茶産地を回り、その歴史を検証することにした。

10月29日(火)ファーンまで

朝ドームがやってきた。参加者3名をホテルでピックアップして、朝ご飯へ向かう。ドームのお勧めはナイトバザール近くで40年以上やっているというジョークの屋台。私は北タイの朝飯はカオトームだと思い、そちらを選択。味は悪くない。観光客も利用するような立地だが、お客は地元の人ばかり。

車は一路北を目指して走り始める。今回は後部座席に3人に座ってもらうので、かなり窮屈ではないかと心配する。元々ドームは午前中、メーテンの茶園に行く、と言っていたのだが、突然『時間がないのでチェンダオへ行く』と言い出し、混乱をきたす。どう考えても時間はあるのに、なぜ行かないのか。彼なりの事情はあるのだろうが、我々には理解しがたい。

そして車にガソリンを入れる。昨年のミアンツアーにも参加したHさん。どこのガスステーションにも併設されているカフェアマゾンを気に入り、今年もいそいそとコーヒーを買っている。トイレ休憩が終了すると車は走り出し、その内に山道に入り込む。この道、1年半前も来ているが、こんなに曲がりくねっていたのだろうか。ところどころに洪水の影響が見られた。

チェンマイから約2時間、標高約900m。ついにチェンダオ山中のラミンエステートに到着した。ここは1940年頃ラミン初代(Prasit)が茶を植えたとされる場所で、タイ全土で初めて茶園が開拓されたという歴史的なスポットになる。現在はラミンカフェが作られており、斜面に映える茶畑を眺めながら、お茶を飲むことが出来る。

ラミンの歴史については、先日ラミン3代目(Jakarin)とチェンマイのオフィスで会った際、説明は聞いていた。ただその歴史は、初代は中国人ではあるが、雲南ではなく北京から来た人と言われて驚いた。しかもフランス留学後、戦火で本国に帰れず、イギリス人とたばこビジネスで訪れたタイに留まったと聞いた。彼はユーカスの『All About Tea』を読んで感化されたともいう。彼がここに来る以前、タイでは茶葉はミアンとして消費されていたが、ドリンクとしては飲まれていなかった、というのが面白い。

カフェの後ろ側にひっそりと茶工場がある。今回特別に見学させてもらった。この工場は2代目で、最初の工場は斜面の向こう側の学校の敷地にあった、と前回聞いた記憶がある。基本的にはラミンは当初からアッサム種を使って紅茶を生産していた。1970年代ラミンの2代目(初代の娘婿Nit)は、スリランカや台湾を視察して、この工場にそこで得た技術を盛り込んでいる。現在かなり古いタイプの茶工場にはなっているが、その独特な設備は興味深い。

すぐ近くにラフ族の村があるというので行ってみる。実はここの茶園の茶摘みなどのワーカーはラフ族であり、それはドームの父親であるジャファーが、ドイプーメンの黒ラフをこの地に送ったという繋がりがあるようだ。黒ラフとは基本的にキリスト教徒。山岳民族には国境はなく、仕事があれば移動する、ということをここから学んだ。

昼前に山を下りた。ランチはどうするのかと思っていたら、チェンダオの街の華人食堂へ入る。ドーム曰く『この店はプミポン国王も食べたという美味い豚足の店』だった。確かにその豚足はあまりにも立派(1₋2人ではとても食べ切れない)、しかもトロトロで美味だった。一塊350バーツも頷ける。

店の若い女性は英語が出来た。外国人も来るのだろう。彼女は『父は華人、母はタイ人』と説明する。確かに車いすに乗った老人は華人だった。元気でにこやかな年配の女性も華人に見えたが、母親なのだろうか。ドームはプロのガイドを自称しているが、このような説明は全くない。チェンダオの街にも華人は多く住んでいるように見えた。

ベトナム旅2024(8)ホーチミンからバンコク経由で

何とか車を拾い、宿へ戻るも、途中かなりの渋滞に巻き込まれ、待ち合わせ時間直前に何とか辿り着く。既に雨は止んでいたが、足元にかなり水がある。昼はKさんと会って、近所のすし屋でランチ。鯖の塩焼きセットを注文するとかなり立派な定食が登場した。これとお茶で約15万ドンは安いのか、高いのか。Kさんは昨年会った時も激変していたが、更に大変な状況の中、ホーチミンに止まっていた。

午後はお馴染みの新生茶荘に行ってみたが、いつもは昼寝している老板の姿はなかった。代わりにいたベトナム人は店番で、言葉もうまく通じず、状況はよく分からないが、恐らく老板は自分で店番するのを辞めて人を雇ったのだろう。もし彼に会いたければ事前に連絡しておく必要がある。

夕方宿の部屋でサッカーワールドカップ予選を見た。日本対オーストラリア。日本のホームゲームなのに、何故かぎこちなく失点してしまう。サポーターの期待値が高過ぎたのだろうか。何だか残念な試合を見ている内に、約束の時間となり宿を出た。歩いて15分ぐらいの場所にあるレストランへ向かった。

今晩は北京繋がりのHさん夫妻と会った。実はHさんは体調不良で入院したと連絡があり、今回会うのは諦めていたが、何と本日退院したというので、急遽出向くことになった。雰囲気の良いベジタリアンレストランであったが、何故か私の方が体調不良に陥り、あまり食べられなかったのは残念だった。

10月16日(水)バンコク経由でチェンマイへ

朝7時過ぎ、朝食会場を横目に見ながら、空港へ向かった。今日はバンコクまで飛び、一旦街中で用事を済ませて、夜にはチェンマイに戻る予定となっていた。昨年は運行していたホーチミン‐チェンマイ線が無くなったことで、こんな日程となった。まずはタイ航空にチェックイン。バッゲージはチェンマイまでスルーになるのか心配だったが、なんとなりそうだ。

空港でちょっと食べて、飛行機に乗り込む。乗客はそれほど多くはない。僅か1時間でスワナンプーム空港に着いてしまう。本来はLCCで十分なのだが、最近は荷物があるとLCCもレガシーも価格がそれほど変わらないので、タイ航空を選んだわけだが、その快適さを味わう暇もない。

飛行機を降りると、何となく違和感がある。これまで私が何十回も利用してきた空港と何かが違う。何だか明るくきれいなドムアン空港だ。すると何とシャトル電車が登場し、それに乗ると、すぐに入国審査前まで連れて行ってくれる。これがスワナンプームのサテライトというヤツか。イミグレもすぐに通過して、エアポートリンクで街へ出ていく。

マッカサンからMRTでスクンビット、そこからBTSでプロンポーンへと小刻みに乗り換えるも、荷物が無いから楽ちんだ。銀行で用事を済ませ、本屋で本を探し、パン屋でいつものパンを買う。フラフラ歩いてアソークまで戻り、ターミナル21のフードコートで麺を啜る。これが私のバンコクだ。用事が済めばさっさと空港に戻っていく。

スワナンプームの国内線は簡単だ。既に航空券もあるので、サクッと入ってちょっと食べて待つ。ところがフライトが何となくディレー。まあそれでも1時間でチェンマイに着くのが何とも良い。チェンマイに着くと、何だかややこしいことになっている。海外からバッゲージスルーした乗客は一団にされて、係員に誘導され、入国イミグレの脇を通り、国際線荷物受取場へ進む。ここで言われた場所で待っていたのだが、隣のスイス人と話していると30分経っても荷物は出て来ない。おかしいと思い聞いてみると、なんと違うところから既に出てきて、グルグル回っているのだ。さすがタイランド。まあこれもタイランド。

ベトナム旅2024(7)ホーチミン もう一つの老舗茶荘へ

何とか予約した宿に着くと雨は止んでいた。今回の宿はちょっと古い感じだが、料金も高くなく、特に問題はない。ドリンクを買いに外へ出るとすぐに近所に丸亀製麺があった。ここはコロナ前に興味を持って入った和食チェーン店。当時と比べると、価格は1.5倍ほどになっていたが、久しぶりなので入ってみた。午後3時半でも店内に客は結構いる。肉うどんとおにぎりを1個で、12万ドン。偶に食べると美味しい。

それからコンビニでドリンクとお菓子を買って宿に戻る。1時間後に約束があったので、また外へ出た。歩いて10分ちょっとで到着したのは、レトロなカフェ。エッグ珈琲とも書かれている。ここで台湾人の張さんと会った。会えばもう話は茶歴史ばかり。さっきうどんを食べたので、トーストやフルーツを食べながら、いい雰囲気の中でずっと話し続ける。

実に有益な情報も得られて満足する。ただ途中でパスポートを携帯していないことに気づき、落としたのではないかとかなり心配になる。帰り道も道端をキョロキョロしたが、最終的には宿に置いたまま出てきてしまっていた。最近のボケ度合いが半端ない。これからはこういう心配も旅の中で増えていくのかと思うと、気が滅入る。

10月15日(火)ホーチミンの老舗茶荘

朝ご飯は宿についていたので、遅めの時間に食べた。安い宿の割には色々食べられてよかった。それから車を呼んで出掛ける。昨日張さんから『ホーチミンの古い茶荘をもう一つ見付けたよ』と聞いていたので、行ってみることにしたのだ。その茶荘は11区にあるという。昨日バスターミナルから来た道を戻っていく感じ。途中見慣れた5区を通過しても更に行く。

結局30分ほどかかって目的地に着く。車を降りると目の前が茶荘で、覗き込むと『いらっしゃい』という感じで、まるで友達のように老板が声を掛けてくれたので、ホッとして中に入る。怡發茶荘の郭鉄佛さん(1965年ホーチミン生まれ)に話を聞くと、彼の両親が1948年に中国の潮州から渡ってきて、当初は親戚など同郷人の茶業者の元で働いていたが、潮州でも茶業に携わっていたことから、2年後には独立、店を開いたという。

お母さんは90歳だが、とても元気でにこやか。華語は話さず潮州語だけなので、何を言っているのかは分からないが、一緒にいるだけでとても楽しくなってしまう人だった。これも華人の一つの特徴だろうか。戦後渡って来ての苦労、ベトナム戦争での苦労、その後の苦労(ご主人は20数年前に亡くなったらしい)があったはずだが、全てを幸せに変えてしまうようでこちらまで嬉しくなる。

郭さんは1990年代、台湾人がバオロックに茶園を開く時に、通訳として同行した経験があり、あの当時の茶業史に詳しい。色々な面白い話が聞けてラッキーだった。また潮州人と茶業については、興味深い証言が飛び出し、今後ちょっと調べてみようかと思わせるものがあった。今回の訪問はとても有意義なものだった。

茶荘の近くもやはり以前は華人が多かったようで、近所に2₋3軒お寺があったので、見学しようかと立ち寄る。ところがちょうど雨が降り出し、見学もそこそこに慌てて避難する。だが雨はどんどん強くなり、濡れ方もひどいのでGrabで車を呼ぶも、なぜか私のいる場所にやって来ない。以前もベトナムで起きた不具合だろうか。こういう時が一番寂しい。

ベトナム旅2024(6)バクリュウ、そしてホーチミンへ

ここで石を祭っているのを見た。これはクメール系の影響が強いと聞かされ、なるほどと思う。我々は華人の観点でこの地域を見てきたが、実は元々はクメールのエリアなのだ。少し行くとカンボジアに入るらしい。クメールとベトナムの関係、機会があればもう少し歴史を見てみたい。既に時間は昼を過ぎていた。街中に食堂を見付けて、普通に美味しい鶏飯を食べる。4.5万ドンというから、地方都市も都会もあまり物価は変わらない。

もうそろそろ帰るのかなと思っていると、車は東に進んでいく。バクリュウという新たな省へ入った。ここは更に華人色が強いと言われ、外を眺めると、確かに華人のにおいがする。川の横にある旧市街地には、漢字が良く見られ、狭い道には古廟や同郷会館もいくつもあった。

天后宮が大きい。中には関帝廟も完備されている。その横には華人学校(今は使われていないかな)があり、広肇会館の文字も見られるので、この辺は広東系が多いのだろうか。もうちょっとゆっくり街を歩いてみたかったが、そろそろ帰る時間のようだ。何とも残念だが、次回ゆっくり来よう。

カントーへの帰り道、1時間ほど走ると車は止まる。「お土産でも買ったらどうだ」と言われて降りてみると、そこはまるでテーマパークのように大きい。漢字で新華園食品という文字が見える。華人系企業だとは分かるが、聞いてみると潮州人だという。そしてここの名物菓子は潮州月餅を改良したパイ。この付近なら誰でも知っている有名店。確かにお客さんは多かった。

更に1時間ほど走り、既に日が暮れたカントーに何とか戻った。宿まで送ってもらい、皆さんと別れた。これはなかなか経験できない旅だった。Iさんに感謝。そして腹が減り、外を彷徨うが、いい所が見付からず、最後はバインミーのスタンドで買って帰った。スタンドの女性とは言葉が通じなかったが、すぐにスマホを出して翻訳アプリで会話してくれ、有り難い。バインミーも旨かった。

10月14日(月)ホーチミンへ

今朝はゆっくり起き上がる。そして川に近いカントー刑務所跡に散歩がてら行ってみる。ここもフランス時代に抑圧された人々が展示されている。囚人の中に華人はどれほどいたのだろうか、と思ってしまうが、残念ながらベトナム語も読めず、何も分からない。建物は意外ときれいに残っている。

そこから川沿いを歩いてみる。意外と水位が高いのは雨季だからだろうか。ちょっと雨が降れば溢れてしまいそうだ。朝ご飯を探す。昨日南部名物の麺フーティウは潮州の粿條(タイではクイッテアオ)だと聞いて、それが頭から離れない。何とか探し出して写真を撮りながら食べてみる。店のお爺さんがとても優しい。

10時にチェックアウトすると、すぐに迎えのミニバスが来た。今日はホーチミンへ移動だが、何と宿でチケット予約が出来、送迎車が宿まで来る。ベトナムの交通網は旅行者にとても優しい。郊外のバスターミナルへ行くと、バスがたくさん並んでいる。まずはカウンターでチケットを受け取り、料金を払う。

バスはちょっとわかりにくく、11時発のホーチミン行が2台ある。と思ったら、何と私のバスは11時1分発らしい。その意味はよく分からないが、それほど頻繁に出ており、1台が満席なら増発するのでは、と思われる。バスはベトナムでいつも乗る長距離用で、寝転んでいける。ただ何故か上段を選んでしまったので、年寄りには上り下りが大変だ。

バスは順調に出発したが、何と1時間後にランチ休息。これは決められていて仕方がないが、何だかな。その後も順調に走り、合計3時間でホーチミン郊外までやってきた。カントーとホーチミンの近さを感じる。ただこのバスターミナルから街の中心1区まではかなり距離があるので、Grabで車を呼ぶ必要がある。そして雨が降りだしたこともあり、渋滞が発生して、なかなか進まない。

ベトナム旅2024(5)ソクチャンへ

10月13日(日)ソクチャン・バクリュウへ

本日はIさんのご縁で、カントー郊外への日帰りツアーに参加した。朝7時に車が迎えに来てくれた。メンバーはカントー大学の先生たち2人と、助手(運転手)、そしてIさんの5人。座席はちょっときつめ。まずは市内で朝食の麺を食べてから出掛ける。今日の目的は華人廟をいくつか訪ねることだという。

天気はすごくよくて、快適な車旅となった。約1時間南へ走っていくとソクチャン省ソクチャン市という場所に着く。ここの街中は華人人口が3割を超えるといい(省全体ではクメール人が50%を越え、華人は20%弱)、そこに天后廟があった。かなり立派な、しかも新しい建物で驚く。中に入ると潮州会館とも書かれている。この辺の華人の中心が潮州系だと分かる。Iさんはここに以前も来たことがあるといい、管理人のおじさんと話を始める。彼らは既に潮州語は話さず、ベトナム語での会話となっている。

続いて30分ぐらい車に乗り、ビンチャウという街に着く。きれいな街並みで新しい雰囲気。清明古廟(本頭公廟)にやってきた。ここはかなり新しく、立派な廟だった。中も広い。Iさんの知り合いという男性が現れたが、彼は潮州人だと名乗り、この辺の家庭では今も潮州語が話されていると聞き、驚く。一緒にいた女の子は華語を学んでいると言ったが、恥ずかしいので話せないという可愛らしさ。

この廟を改装するに当たっては、この地から海外に飛び出した華僑たちからの寄付が大きい。アメリカやカナダが多いようだが、寄付額の通貨も色々とあって面白い。更にはこの地を離れてホーチミンなどへ出た人々も沢山いることが分かる。華人の強さ、郷土愛など、考えさせられることが多い。

そしてこの廟の中には「三山国王」が祀られている。これは潮州系の信仰するものであり、この付近に潮州系華人が多いことを物語っている。横には天后廟が見られ、その後ろには大きな学校が建っている。如何にも教育に熱心な華人が建てた学校だと思われるが、現在生徒は多いのだろうか。メインは潮州系だろうか。恐らくここでは華語も教えていると思われるが、どうだろう。中学生ぐらいの子たちがバスケをやっている。

古廟巡りはまだまだ続く。また20分ほど車に乗ると、かなり田舎道に廟があった。ただ中はここも比較的新しい。コロナ後に改修されたようだ。名前は福興古廟だった。私個人としては廟をたくさん見てもはっきり見分けは付かない。ベトナム人の先生は細かい所を見ており、もう一人の先生は天后廟のレポートを出すらしい。

この廟のすぐ近くに、観光用の看板が出ていた。入っていくと大きな建屋、広い庭があった。ラムヤイの木も沢山植わっている。この邸宅は約100年前に作られたらしい。何の説明もないので詳細は分からないが、ホーチミンあたりに出て成功した華人が、故郷に錦を飾ったのではないだろうか。観光資源として活用しようとの意図はあったようだが、うまく活用されていないのは残念だ。

この家は頼という姓で、その祖先は中国河南省から南下した人々と漢字の説明があった。そういえば、この屋敷の構造はどことなく客家の三合院に通じるものがある。客家は中原発祥という説の真偽は別にして、頼氏は客家ではないか、と勝手に想像してしまった。潮州系と客家、どことなく繋がっているように思える。

更に少し走ると、また天后廟があった。かなり小ぶりで特に特徴はない。同行者が報告のためにここの写真を撮るのが目的で来たらしい。場所も分かりにくいが、周囲もほぼ何もない。新しい場所に移転したようにも見える。とにかくカントー郊外には華人が多いことは分かったが、現在目の前にある廟は皆21世紀に改修されたもの、または新しく[作られたものであるようで、これもまた一つの歴史なのだろう。



ベトナム旅2024(4)カントー散歩

銀行は休みだが、ATMでお金を下ろそうとカードを入れてみると、なんと現金は出て来なかった。もう一つのATMでも同じだった。3つ目は空港にあった銀行のATM。こちらはちゃんと出てきた。そうか、ベトナムの銀行ATMは外貨に対応できる銀行が限られている(決められている)ことを知る。

何となくぶらっと歩き出す。20分も歩くとちょっと郊外へ出た感じ。そこには中国寺がいくつかあった。寺巡りは楽しかったが、寺の建物は新しいものが多く、21世紀に入ってから、海外移住者の寄付などによって新しくされたものが多いことに気づく。街は全体に落ち着いており、散歩していても静かでよい。

近所まで戻ってくると、突然の大雨に見舞われ、慌ててお寺に逃げ込んだ。すぐに止むと思っていたら、意外と長く降っており、軒下でじっと待つ。観音様が雨に濡れているが、南国なのでシャワーを浴びているようにも見える。ようやく雨が小降りになったので、急いで脱出を図った。

昼になっていたので、ご飯を探す。昨日来た道に入るとすぐに美味しそうな広東系の鶏飯屋に引き寄せられる。何となく叉焼も追加したが、ドリンクを入れても10万ドン程度で、旨い。やはりベトナムの華人食堂は広東系が中心であることは間違いがない。ついでに味も間違いはない。

食べていると、宿から連絡があった。連絡は全てWhatsAppというアプリを通じてやってくる。今や東南アジアの若者は基本WhatsAppである。『掃除が終わったので、部屋を移動できます』という内容だったので、すぐに宿に戻り、隣の部屋に移動した。こちらは若干広い上、バルコニーが使える、流しがあり簡単調理も可能(私はやらないが)など、なかなか良い。この宿で一番良い部屋、といっても4000円台だったから嬉しい。

午後はGrabで車を呼んで、古い町並みが残るビンドゥイ地区へ向かう。東洋と西洋の文化が入り混じった当時の独特な建築が有名で、ジャン=ジャック・アノー監督のフランス映画「愛人/ラマン」の舞台として撮影に使われたと邸宅に行ってみたが、この日は中国人のお客1名のみでゆっくり見ることが出来た。

入口を入ると男性がやってきて3万ドン請求される。家の中はどう見ても富豪華人の家で、広々としており、奥行きもある。ベトナム語の説明は多少あるが、英語や中国語などはないので、ここがどんな家で、どのような経緯で残っているのかは、我々には全く分からない。広い庭には花が咲き、100年以上保存されている歴史を知りたくなる。隣にも古びた建物があり、こちらも見学できそうだ。

この建物がある道をフラフラ歩いてみると、確かに古びているが、結構建て替えが進んだ感じもある。大きな通りに出ると、そこには古い廟(龍泉古廟)があり、寄り道する。途中で転んでしまい、手をちょっと怪我する。それでもめげずに川沿いにあるもう一つの廟も見学する。確かに100年以上前に、華人は川を遡り、ここから上陸したのだろう。

そこから宿までなぜか歩いて帰ることにしてしまった。何と6㎞以上もあり、それほど暑くないと言っても、それは結構大変だった。途中には水が溜まった場所もあり、まだ雨季の状況が残っていた。大きな教会も2つほどあった。最後の方は脚を引きずりながら歩いたような気がする。さすがに距離があり過ぎた。疲れた。

夕飯はカントーに住む知り合いIさんと、広東系の店で麺を食べた。女主人とIさんは広東語で話している。麺は撈麺で、汁なし。内臓系など具沢山で有難い。店内は結構広かったが、お客で溢れており、人気のほどが分かる。それからカフェに移動して華人関連の話を続けた。カントー周辺は華人の多い場所、Iさんはその研究のため、こちらに職場をうつしている。明日は郊外の華人ツアーだ。

ベトナム旅2024(3)いざ、カントーへ

10月11日(金)カントーへ

朝は早く起きた。よく眠れたのはなぜだろうか。1階へ降りていくと、既に出張者のおじさんたちは朝食を食べ終わっており、一人で立派な鯖塩焼き定食を頂く。この食事だけでも何千円かしそうだが、宿代は朝食付きで6500円程度。もし事前に予約していたら、もっと安いらしい。これなら次回からハノイに来る時はここに泊まろう。歳を取ると誰しも、こういうサービスが有難いということだ。

朝の散歩を終えて、Grabで車を呼んで空港に向かった。ハノイから国内線に乗るのは久しぶり。国際線の建物とは少し離れていることを思い出す。今回は預け荷物もないので、スマホをかざしてサクサク入場。荷物検査は厳しいが、時間はかからない。結構時間が余っていたが、何とフライトはディレーした。何もすることが無く、ただ待つのみ。

ベトナム航空の機内は悪くない。乗客はかなり乗っている。機内食もちゃんと出る。2時間はあっと言う間に過ぎて、ふと気が付くと着陸した。カントー、初めて来る場所だ。空港はキレイだが、人はあまりいない。ATMでお金を下ろしてみると、ちゃんとベトナムドンが出てきた。Grabで車を呼べば、すぐにやってきた。快適だ。

空港前の道はかなり広い。カントー市内にほど近く、ベトナムの地方都市が現れる。予約した宿まで15分ぐらいで到着した。ここはカントー在住のIさんが勧めてくれたホテルで、雰囲気が良く、スタッフも親切だ。予約は1泊しかしていなかったが、すぐに2泊追加を願い出た。

ところがこのホテル、全ての部屋のデザインが異なり、部屋ごとに予約を受けている。私の部屋は明日から予約が入っており、使えないという。ふと見ると向かいの部屋がとても良さそうだった。今晩は塞がっているが、明日から2泊はOKとのことで、無事に問題は解決した。いや、宿で一番良い部屋をゲットした。バルコニーもあるし、おしゃれな空間は心地よい。

スタッフに地図を貰い、街歩きを始める。川沿いに向かうと、大きなホーチミン像が立っている。カントーにとってこの川が繁栄の源となっていた。ホーチミン像の向かいには、廣肇会館があり、この街の華人度の高さが窺われる。周辺を散策しても、華人の顔を持った人々が沢山おり、漢字表記の店も見られる。やはりここはホーチミンなどと比べても華人に対する寛容度が高い。

夕飯は宿のスタッフに聞いた地元料理、ニエムムオンを頂く。店に入ると言葉は通じないが、おばさんが親切に対応してくれて嬉しい。食べ方も教えてくれたが、ソーセージと野菜などをライスペーパーで巻いて食べるらしい。これはなかなかイケる。揚げ春巻きも旨いよ、というので頼んでみる。何だかほんわかした夕食となる。気が付けば店はお客で溢れていた。

食後散歩していると陽はとっぷりと落ちた。教えられた道を入ると、そこは華人街ともいえる食堂街で、ここに来ればくいっぱぐれないという何とも安心感がある。私は既にこの街が気に入っているという自覚がある。更に行くと池があり、その周辺の建物が何ともきれいに池面に映っている。

10月12日(土)カントー散歩

ゆっくりと目覚めた。朝ご飯はないので、フラフラ外へ出た。すぐに道端に人々が座ってコーヒーを飲んでおしゃべりしている場所に出くわす。覗くとバインミーがあるので注文して待つ。『チャー』と叫ぶとどこからかおばさんがやってきて熱いお茶と氷の入ったビールジョッキを持ってきてくれる。こういう雰囲気がたまらなく好きだ。

そこからカントー博物館を目指した。ベトナムの他の博物館同様、植民地時代の解放運動の戦士などが沢山顕彰されている。カントーには華人が多いと聞いているので、その辺の歴史が学べるかと期待していたが、残念ながらそれほど深くは取り上げられていなかった。華人の歴史は歴史ではなく、現在進行形なのだろうか。

ベトナム旅2024(2)ハノイの日本人宿

Nさんとは1年ぶりに歴史談義をする。ベトナム華人などをテーマとしてコーラを飲んでいる自分が何となくおかしい。ビールの栓抜きが無かったが、店のお姐さんが何と、会計板を使って見事に開けてくれた。やはり東南アジアはこうなんだね。ベトナムも中進国となって行き、徐々に普通の国になって行くのだろうか。

歩いて部屋に戻り、今日は大浴場を使わず、部屋の大バスタブで湯に浸かる。これは何とも気持ちが良い。事前予約で1泊5000円は安い。でも明日は10000円で泊まれない。夜遅く、近所の日本人宿の最後の一部屋を抑えた。残りものには福はあるのだろうか。ぐっすり眠れる。

10月10日(木)ハノイの茶

宿に朝ご飯が付いていないので、外へ出掛ける。目指すは昨日のリンラン市場。途中はやはりハノイ旧市街だから、趣のある路地が続く。市場へ着いて中を歩いてみたが、実は食べられる場所はあまりない。何とか見つけた麵屋、おじさんが外側で肉を焼いており、ブンチャーがあったので注文してみる。春巻きも旨そうだ。やはり市場は、安くてうまい。

今日は午前中に蔡君のサロンへ出向く。昨年も行ったので問題なく行けると思ってよく見たら、場所が違っていた。何とつい最近引っ越したらしい。昔なら大いに焦る所だが、今やGrabを呼べば、場所さえ分かっていればすぐに行けてしまうのがすごい。今回の場所も、車で15分ほどの少し郊外のいい環境にあった。

相変わらず部屋はシンプルで気持ちが良い。高層階で外の眺めも良い。彼は博士論文をどう描くかで悩んでいるようだったので、今回はそちら方面の話が多くなる。とは言ってもこの1年の間に発見した茶の歴史、特にベトナム編についての意見も、お茶を淹れてもらいながら聞く。あっと言う間に時間は過ぎる。

昼過ぎにバイクの後ろに乗せてもらい、おしゃれな食堂にランチに行く。折角なので珍しいものを食べたいということで、今回は焼フォーにしてみる。ベトナム緬は基本がスープ麺だと思うのだが、やはり焼きそばに当たるものもあるということだ。ここでまた長時間話を続け、お店の人がお茶をサービスしてくれた。

バイクで近くのMRT駅まで送ってもらった。昨年乗ったのとは違う路線が開通していたのだが、この2つの路線は繋がっているはずが、まだそこまで出来ていないようで、相変わらず乗客は少なかった。宿に近い駅で降りて後は歩く。これがまた面倒だから乗客は増えないだろう。

散歩しながら帰ると、古びた門が見え、漢字が書かれている。漢字を見るとホッとしてしまうのは、もう習性でどうしようもない。だがその門を潜っても、その先がない。門だけが残されたのだろうか。ベトナム戦争後に、祠は取り壊されてしまったのかもしれない。宿まで辿り着く間の夕日がきれいだった。

宿から荷物を取り出して、今日の宿へ向かう。日本人宿の老舗らしいがどんな所だろうか。歩いて数分で到着する。日本人地区内移動だ。古びた宿に入るといきなり丁寧な日本語で対応される。それが何となく心地よい。明日の朝食の鮭塩焼き定食を注文するだけでテンションが上がる。

部屋はコンパクトだが、必要なものは揃っている。バスタブもあるし、ウオシュレットも付いている。冷蔵庫の中には、ビール・コーラ・ポカリが置かれており、無料で飲める。これはその昔、コンビニもない時代の出張者のおじさんのために、外に出なくても良いようなサービスの名残だろうか。勿論テレビ番組は日本の物はほぼ見られる。

更には屋上に露天風呂まで付いている。誰もいない夕暮れ時に、一風呂浴びるのは何とも気持ちが良い。そして夜8時頃になると1階に夜食としておにぎりが置かれている。もうこうなると、周辺に美味しそうな和食店が立ち並んでいたとしても、宿から外へ出る気もしない。部屋に一夜籠城する羽目になる。