「茶旅」カテゴリーアーカイブ

九州北部茶旅2020(11)北九州 ユニークなTea House

小倉駅からJR日豊本線に乗り込んだ。20分ほど乗って朽網という名の駅で降りた。正直何と読むのか分からなかったが検索して、『くさみ』だと知る。網から海を連想したが、どうも海はないらしい。なぜこんな地名になったのか。ネット上では『景行天皇が土蜘蛛討伐の際に、葛の網をしいたところそれが朽ちたことに由来』とか『「くさ(臭)」+「み(水)」で、臭みのある水(飲めない水)に由来』とか説明されているが、何となくピンと来ない。

駅から上り坂を上がり、国道らしき道に出た。ここに来た理由、それは昨年3月の四川旅でご一緒したMさんが凰茶堂という中国茶のお店を出していると聞いたからだ。そのお店は想像していたよりずっと大きく、車が何台も止まっていた。午後1時ごろだが、ランチを食べる人、お茶を飲む人で賑わっていた。お茶だけでなくスイーツも充実しているようだ。

ここ3か月はコロナで様々な問題があったが、ソーシャルディスタンスや除菌など1つ1つの課題をクリアーしてお店をオープンさせているという。話を聞いていると思った以上に飲食業は大変だと痛感する。Mさんは忙しそうだったので、私は奥まった席でお茶をオーダーしてまったりと飲み、美味しいデザートをサービスしてもらってご機嫌になる。

ランチのお客さんが捌けた頃、茶葉を売る辺りに移動して、Mさんと無駄話を始めた。このお店、思ったより遥かに茶葉の種類が多く、またマニアックなお茶まであって、見ていても楽しい。それは店主の拘りだろう(まあ、あの四川省の茶旅にやってくるくらいだから)。

その間も地元のお客さんはひっきりなしにやってきて、中国茶を飲む人がこんなに多いのかと、ちょっと驚く。地域に根付くには苦労も多いのだろうが、何とも頼もしい限りだ。コロナに負けず、お店を続けていって欲しい。そしてまたいつか、一緒に茶旅する機会があればよいなと思う。

朽網駅に戻ると、何と電車が止まっているという。こういう場合、どうしたらよいのか、考えは全く浮かばない。だが幸いなことに頭を巡らすまでもなく、なぜか電車はやってきて、すっと乗り込み、小倉駅まで戻った。ホームを歩いていると、『北九州名物 かしわうどん』が目に入り、突然腹が減った。そういえばちゃんとお昼を食べていなかったのだ(さっき凰茶堂で飲茶を食べなかったことが急に悔やまれる)。甘い汁で煮しめた鶏肉が上に乗り、ネギとの相性がとても良い。こういうローカルフードが好きだ。

宿には戻らず、また商店街を散策する。美味しそうな和菓子屋さんがあったので、思わず寄り道した。日本茶旅ではやはり和菓子の魅力が大きく、まんじゅうなどを1つ買って部屋で食べるのが病みつきになってしまった。ついでにこの先で渡すお土産も購入して満足する。

そして午後は、駅近くにあるバーに向かった。昼からバー?酒も飲まないのにバー?と言われそうだが、昼はカフェ、夜はバーのホルンというお店があるという。狭い入り口には、おしゃれにTea House Hornと書かれている。中に入るとバーカウンターがあり、奥にはテーブル席が意外とたくさんあるようだった。

このお店は、バーテンダー店長のMさんが和紅茶の美味しさに目覚め、夜の本業以外に昼間は和紅茶専門カフェとして運営しているというのだ。私は近年酒を飲まないのでバーに行くことはないが、バーカウンターでゆっくりバーテンダーとお話しながらドリンクを味わいたいという密かな欲求は持っていた。そういう人の気持ちを満足させてくれるのが、ホルンだったのだ。

Mさんがゆっくりと和紅茶を淹れてくれた。最近の和紅茶は物によっては非常に質が高い。そして和洋どちらのお菓子にも合うような気がしており、美味しく頂く。Mさんは若いころからバーテンをやっていて、既に10数年の経験があるという。そして和紅茶との出会いで、新たな可能性に目覚めた。こんなお店が全国にあればいいな、楽しいなと思ってしまう。

夕方5時を過ぎると、夜の営業準備に入るというので、この心地よい空間を退散した。また商店街に戻ってみると、土曜日の夕方で人混みがすごい。コロナなどどこ吹く風だ。夕飯に何を食べようかと悩んだが、前回滞在時に焼うどんを食べたので、今回はとりかつ丼にしてみたいと思う。さっきかしわうどんを食べたことなど完全に忘れ去られている。

ところがとりかつ丼で有名店だという店はなぜか夕方前に閉店となってしまっていた。検索すると同じ店の2号店が別の場所にあると知り、そこまで歩いて向かった。川沿いのショッピングモール内のフードコートのような場所にそれはあったが、こちらはなぜかかなり空いていた。とりかつ丼とみそ汁、サラダセットを注文。とりかつは甘みがあり、私の好みだった。九州北部の旅はこうして終わりを告げた。

九州北部茶旅2020(10)小倉城と清張記念館

7月18日(土)北九州散歩

朝は良い目覚めだった。この宿は新規オープンなのか部屋がきれいだ。この宿は長崎、佐賀と同じホテルチェーンだったが、驚いたことに料金はわずか1泊2000円。GoToトラベルの実施が延期になる中、なぜこんなに安いのか。何と北九州市は独自に割引キャンペーンをやって、ホテルなどを支援していたのだ。しかし9月末まで書かれており、この料金なら1か月6万円(朝食付き、駅近)で小倉に住めるな、などと下世話な考えが頭をもたげるほどの安さだ。実は今回博多は週末でホテル代が高かったのでスキップして、安い小倉に2泊することにしたという事情がある。朝食を見る限り、お客はそこそこに入っている。

朝食後散歩を始める。先ずは小倉城を目指す。数年前小倉に来た時は時間がなく、城の周囲を一周しただけに終わったので、今回はゆっくり、じっくりと歩く。常盤橋を渡る。ここは長崎街道の東の起点だと書かれている。先日行った長崎の起点はどこだっただろうか。佐賀は街道沿いを通ったが、今回の旅は長崎街道からは大きく外れていた。今はすっきり新しい街になっている。

お城の堀を眺めながら、先ずは今回の目的地、松本清張記念館を訪ねる。コロナの影響か、参観者は多くない。前回脇を通った時、是非入ってみたいと思った記念館、念願が叶った。松本清張は小倉生まれ(実際は広島?)で私が大好きな作家の一人。推理小説は映画やドラマ化もされ、最近のコロナ禍で『砂の器』や『点と線』など、テレビの再放送が続いている。

だが彼のもう一つの顔、歴史家という面が非常に興味深い。古代史物も面白いが、特に昭和前期の『日本の黒い霧』や『昭和史発掘』などは、研究者としての成果が散りばめられ、一般人が知らない歴史を知らしめたことが、大変参考になっている。私は大学生の時に1年ぐらいかけて清張の本は全て読んだと思っている(その殆どの内容は既に頭にない)が、その時彼はまだ生きており、今なら話を聞いてみたいテーマがいくつもある。

記念館はかなり広く、彼の経歴から映画のポスターまでその展示も多岐にわたり、また一部資料なども備えられていて、充実している。展示を見ながら思い出すことも多い。だが何といっても今回目を惹いたのは、杉並の清張宅から移送したという、再現された彼の書斎と書庫だった。書庫には膨大な書籍や資料が詰まっているように見える。私はもう多くの欲望を持たない人間だが、あんな書庫を持つほどに興味あることを調べて書いてみたい、と強く思ってしまった。

お城を見てみる。宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘シーンの像がある。そうか、巌流島は小倉藩の領地だったのか。そして佐々木小次郎は細川家の剣術指南役だった。この小次郎はこの後の旅で再び登場し、非常に興味深い歴史に遭遇することになる。

立派な城の中に入り、上まで登ると周囲が一望できる。途中には歴史の説明が色々となされており面白い。ここは関ケ原で功があった細川忠興に領地が与えられ、彼が作ったもので、小次郎を雇ったのも忠興の時代なのだ。忠興といえば、奥さんは関ケ原のある意味犠牲となった明智光秀の娘ガラシャ(今年の大河ドラマは6月よりコロナの影響で休止中だが、芦田愛菜演)。そして利休の高弟、茶人細川三斎でもある。実に興味深い人物だと言え、ちょっと調べてみる意欲が湧く。

小倉城庭園にも行ってみた。大きな池にきれいな庭園があった。武家の書院とある木造の建物で庭を眺めながらお茶を頂くことも可能なようだったが、コロナで人はあまりいなかった。展示館も併設されており、ここは細川の後に藩主となった小笠原家による小笠原礼法に関するものが説明されていた。当時の小笠原家には宮本武蔵も仕えていたとか。小倉に移った小笠原忠真は晩年、黄檗宗に帰依。中国から渡来した即非如一禅師を開山として広寿山福聚寺を創建したというのも興味深い。

城から出て駅の方へ戻る。途中に商店街があった。4年ほど前、小倉に来たのは、辻利さんを訪ねるのが目的だった。京都からの分家である小倉辻利は現在台湾を始め、世界中に辻利の名前で店舗を展開しており、カフェやスイーツに力を入れるなど、最先端の面白い活動をしている。今回も社長にお会いして、聞きたいことがあったのだが、不在とのことで諦めた。以前は台湾人観光客などがわざわざ来ていたが、今や残念ながらその姿はない。

九州北部茶旅2020(9)博多にちょっと寄ってみて

7月17日(金)博多に短期滞在

今朝もいい天気だ。宿には朝食が付いていないので、迷わず飯抜き。食べ過ぎなのだ。駅まで荷物を引いて戻り、JR筑肥線で博多へ向かう。一度さっと乗り換える。車内は博多に近づくにつれて、急に人が多くなる。1時間半で到着する。今回博多には泊まらないので、先ずはコインロッカーを探して荷物を押し込む。

駅前から祇園の方向へ歩いていく。10分もかからず承天寺に着く。ここは鎌倉時代の臨済宗の僧、聖一国師が開山した寺だ。当時の博多の豪商、謝国明などの援助を得たらしい。聖一国師といえば、静岡茶の祖とも呼ばれているが、その史実はちょっと疑問らしい。ただ入宋中は杭州郊外の径山寺で4年ほど修行しており、ここで茶に親しんだことはほぼ間違いがない。先日京都へ行き、やはり国師が開いた東福寺も訪ねているので、何となく親近感が沸く。

国師は宋から、うどん・そば・羊羹・まんじゅうなどの製法を日本に伝えたと言われている。承天寺に「饂飩・蕎麦発祥之地」の碑があるのはそのためだ。博多ごぼてんうどんは私の好物だが、麺がフニャフニャなのは日本でここだけが当時の麺を維持しているのではないかと勝手空想してしまう。

また国師には博多で疫病が流行した時に、施餓鬼棚を弟子に担がせ、自らその上に乗って町中に聖水を撒き、疫病が退散したとの逸話があり、これが博多祇園山笠の起こりだとか。それで「山笠発祥之地」の碑も置かれている。いずれにしても当時のマルチタレント聖一国師の果たした役割は実に大きい。

そこから川端に向かう。実は今朝知り合いのZさんから連絡があった。彼女はコロナでずっと福岡にいたらしい。折角なので、ちょっと会おうということになり、ラーメン屋で待ち合わせた。ところが歩いて10分ほどの場所なのに、なぜか店に辿り着けない。仕方なく別の店に入り、ラーメンを食べた。それからカフェに移動して話し込む。

Zさんとは北京で知り合い、その後色々とご縁があった。今は福岡にも家があり、ここが気に入っているらしい。そして博多のお寺で写経するなど、すっかり馴染んでいる。何事にも探求心が強く、かなりのめり込むタイプなので、教えてもらう事も多く、話していて楽しい。

話は尽きなかったが、Zさんと別れてまた歩き出す。先ほど訪ねた承天寺の近くまで戻り、今度は栄西禅師が開祖、源頼朝が建立したという最古の禅寺、聖福寺に向かった。さすがに古刹、という雰囲気を醸し出す境内だった。栄西は宋から持ち帰った茶種をこの寺にも撒いたというが、その場所はよくわからない。僅かに茶筅を持ったユニークな茶筅観音があるだけだ。ここは広田弘毅の菩提寺でもある。文官で唯一絞首刑になった元首相は何を思ったであろうか。

バス停を探していると、立派なお寺に出会った。東長寺、真言宗の寺で、弘法大師が唐から戻り、ここで密教を祈ったらしい。福岡は日本の玄関口、そんな時代は意外と長かったはずだが、今ではその意識が薄れている。一度はこの町に住んでみたいと思うが、その機会は訪れるだろうか。

バスに乗り、指定された場所に移動した。福岡は地下鉄も発達しているが、バスも沢山走っており、どれに乗ってよいか迷う。バスを降りてちょっと迷いながら、とあるマンションまでやってきた。実は知り合いのYさんが、ここにマッサージ屋を開業したというのだ。

10年前北京に居た時は、Y夫人が腕の良いマッサージ師と共同でマッサージ店を経営しており、かなりお世話になっていた。だが今度はご主人が全く違うマッサージを始めたというのだから、ちょっと驚いて覗いてみることになった。マンションの一室に入ると、施術室がある。先ずはマッサージと言われ、恐る恐るベッドに横になる。

CS60というのだそうだ。ボールのようなものを体に擦り付ける感じで、北京で昔受けていた強い指の圧力とは違い、スーッと気持ちが良い。何だかウトウトしてしまい、気が付くと施術はほぼ終わっていた。特に体が悪いとの自覚もないので、ちょうどよい休憩となった。

別の部屋に移ると、Y夫人がお茶とお菓子を用意してくれていた。彼女は中国茶の茶芸師で、こちらも本格的だ。マッサージと中国茶が同時に味わえるところなど、ちょっと想像がつかない展開だった。そしてダラダラと過ごしていると、疲れも癒え、爽快な気分となる。夕飯も近所の焼き鳥屋で一緒に食べた。ちょっと昔話などをして、ちょっと今の社会について語っていると、あっという間に時間は経ってしまう。

今晩は小倉まで行かねばならないため、早めに切り上げてバスで博多駅に向かった。ロッカーから荷物を取り出し急いでホームへ走り、鹿児島本線区間快速に乗り込んだ。これで1時間半かけて、暗い中を列車は走る。午後10時前に何とか小倉駅に到着。今晩も駅近の宿を予約していたので、チェックイン。そしてシャワーを浴びるとすぐに寝てしまう。

九州北部茶旅2020(8)初めての唐津

唐津へ

佐賀駅まで送ってもらい、今度は唐津へ向かう。JR唐津線に乗れば1時間ちょっとで着いてしまう。今日は天気も良いので有難い。駅前の観光案内所に寄って、今日予約した宿の場所を確認して地図を貰った。唐津にはチェーンホテルはないようで、普通の宿を選んだが、駅から10分以上荷物を引きずって歩く。もうすぐそこにお城が見える。途中の商店街はコロナのせいか閑散としていた。

宿のチェックインは4時からしかできないと言われ、正直対応も今一つ、不満を覚える。預けた荷物もその辺に置き去りでちょっと心配だが、田舎では取られることはないのだろう。仕方なく外へ出た。ちょっと歩くと、イカの活き作り、の看板が目に飛び込む。私は一般的には豪華なご当地グルメとは無縁だが、イカは大好きなので、思わずその店に入ってしまった。驚いたことに外を歩く人はいないのに、店内は満員盛況だ。確かにイカは新鮮で食べ応えがあった。思わぬ散財だったが、気分は頗るよい。

これで元気が出た上、天気も良いので、唐津を歩き回ることにした。先ずは資料探しに唐津市近代図書館へ向かった。実に立派な建物だ。コロナ禍にも拘らず、係員に丁寧に対応してもらった。だが唐津出身の家永泰吉郎(台湾の日本統治初期の新竹県長)に関する資料は何も出なかった。何故だろうか。家永は日本統治初期の台湾で地方官僚として活躍した人物だが、その実像は掴めないままだ(後に家永は鍋島家の家臣筋だと判明)。

だが唐津には辰野金吾をはじめとして、多くの人材を輩出したことなど興味深い歴史が沢山詰まっていることが分かった。歩いているとその辰野金吾生誕の地があった。東京駅や日銀本店を設計した男はここで生まれたのだ。更に立派な建物があり、その重厚な構造に昔の銀行ビルだとわかる。旧唐津銀行であり、現在は辰野金吾記念館になっている。設計は金吾の弟子だという。中に入ると1階は広井銀行ロビーであり、2階に金吾関連の展示物がある。

唐津にはあの高橋是清の足跡もあった。唐津藩英学校(耐恒寮)で英語を教えていた。その生徒に金吾はじめ、その後の唐津を支えた有名人が出たというから驚きだ。因みに私は全く理解していなかったが、幕末の唐津藩は同じ佐賀県内ながら肥前とは異なり、幕府側に付いた負け組であったのだ。この逆境が辰野金吾などを生み出したとも言えるかもしれない。

それから唐津神社を見つける。その近くには唐津くんちの曳山展示場などもあった。お囃子のテープが流れていたが、何となく寂しく、そのまま通り過ぎてしまった。そこからずっと歩き出した。本当は秀吉の朝鮮出兵の基地、肥前名護屋城跡へ行きたかったが、バスに乗ることもできず、歩くには遠すぎた。

3㎞ぐらい歩いてようやく海に出た。往時の唐津港、そこには古めかしい建物が残されていた。明治末年に建てられた木造だが洋館風、旧三菱合資会社唐津支店本館で現在は唐津市歴史民俗資料館と書かれていたが、休館中で中を見ることはできなかった。その昔ここは石炭積出港として栄え、三菱が事務所を設置、三菱御殿と呼ばれていたとか。この建物の設計は三菱建築で、顧問は曽根辰蔵博士。彼もまた唐津出身で辰野金吾と共に高橋是清に学び、東京ではジョサイア・コンドルに建築を学んだ男だった。

帰りもトボトボと歩き、途中で古い大きな屋敷を通った。この町は予想以上に石炭で栄えていたに違いない。ようやく宿へ行き、チェックインを済ませたが、まだ外は明るかったので、再度外へ出て近くの唐津城に行く。かなりきついのぼり階段のところへ行くと、地元の高校生が何と階段ダッシュをやっており、私は登るのを止めた。とても若者に敵う体力はない。

だがそのまま帰るのも癪だったので、橋を渡り、虹の松原と書かれた方へ向かう。少し風が出てきたが、海を見るにはよさそうだ。だが海の近くは林に囲まれ、海辺には近づけない。何とか虹の松原の碑を見つけたが、林の中に埋もれている。疲れたので、帰ることにしたが、同じ道はつまらないと思い、橋を渡り、別の方向へ。

結局川の反対側をずっと歩いて、唐津駅まで戻ってしまった。疲れ果てた目の前に、『ラーメンランキング 佐賀県2位』の表示を見て、思わず入ってしまう。ラーメンは確かにうまく、そしてチャーハンもいい感じだった。街中で入れる店を探すよりも正解だったかなと思う。宿に帰る頃にはすっかり暗くなり、唐津の旅は終了となった。宿は古びたビジネスホテルで客もあまりなく、ひっそりと寝入った。

九州北部茶旅2020(7)有田焼から売茶翁へ

7月15日(水)ちょっと有田へ

朝早めに起きて、ゆっくり荷物を引きずり長崎駅に向かった。長崎駅も6年ぶりだったが、駅舎は工事中で、ホームも新しい方へ移動しており、意外と遠かった。今日は佐賀で泊まるのだが、その前に急に有田へ行ってみたくなる。だが時刻表を見ると思いの外、時間がかかる。Suicaは使えないので、切符を購入する。当然ながら特急などには乗らない。

長崎本線快速シーサイドライナーに乗ると、途中彼杵など茶処の駅を通過した。彼杵茶日本一などという宣伝も出ており、降りて訪ねたかったが、時間的に許されなかった。ハウステンボス駅を通り、早岐という駅で佐世保線に乗り換え約2時間、ようやく有田駅に着いた。ローカル線の旅は緩々としており、乗客も少なくて良い。

有田駅に降りたものの、特に当てがあるわけではない。取り敢えずコインロッカーに荷物を入れて外へ出た。観光案内所があったので、そこで地図を貰い、名所を聞いてみた。有田焼の博物館など、見どころは色々あったが、今日は時間が2時間しかないので、柿右衛門窯だけに絞ることにした。タクシーで行くことを勧められたが、当然歩いて向かう。

有田の街はさすがに焼き物を商う店がいくつもあった。雰囲気も悪くない。柿右衛門はちょっと郊外にあり、歩くと駅から30分ぐらいかかって大汗を掻いた。ようやくたどり着くと、敷地内にきれいなショップがあったが、こんな時期の平日だからか、店員さんはいなかった。裏へ回ると展示館があり、何とか柿右衛門の歴史などを見ることができた。出島にあった東インド会社の皿も展示されていた。

きれいな庭も見えたが、雨が強く降り出した。工房もあるようだが、見学はできない。というより人が誰もいなかった。同じ道を帰るのもなんだと思い、少し回り道をしようとしたところ、何と山登りになってしまった。かなり急な坂を喘ぎ喘ぎ何とか登り切り、下りに入ると、古めかしい民家がいくつも見られた。更に古い町並みが残る辺りを散策しに行こうとしたが、時間切れで駅に戻った。

佐賀で

有田駅からまた佐世保線に乗り、佐賀まで行く。今度は1時間もかからずに到着。駅横のホテルを予約しており、そのままチェックインして荷物を置くと、すぐにまた外へ出る。午後はくれはさんを訪ねることになっていたので、もうすっかり馴染んだ道を歩き始めた。お店の付近は古い町並みの保存地区でなかなか良い。

お店に行く前に寄りたいところがあった。実は京都でも追いかけたあの売茶翁についての情報が欲しかった。売茶翁はここ佐賀の出身であり、彼がいた寺もあるはずだった。それを知る手掛かりとしては、やはり肥前通仙亭(高遊外売茶翁顕彰会)へ行くのが良いと思われた。以前に一度訪ねたが、その時は売茶翁がどんなお茶を飲んだのかだけに興味が絞られており、有益な情報は得られなかった。

肥前通仙亭の敷地に行くと、売茶翁顕彰碑がそこにあった。中に入ると、丁寧な説明があり、そして売茶翁直筆の書などが展示されているのを見ることができた。売茶翁は佐賀にいたんだな、という意識が芽生えた。だが売茶翁が出家した龍津寺を訪ねたいというと『今は寺自体がなく、その場所を探すのも地元の人でないと分からない』と言われてしまった。

その足でくれはへ行ってみる。実は今日はちょうどMさんの講座が開かれており、その終わる頃を見計らって挨拶に行った形だ。会場は満員盛況で、お知り合いも何人も参加していた。Mさんとは先月京都で会ったばかり。まさかまた佐賀で会うとはご縁がある。皆さん熱心に質問しており、関心の高さが分かる。

夕方になり、講座参加者も散会し、Mさんも福岡へ去っていった。そしてOさん夫妻とお嬢ちゃんと一緒に夕飯に連れて行ってもらった。午後5時半から美味しい物を頂き、何だか楽しい夕飯だった。売茶翁の寺は明日Oさんが連れて行ってくれることになり、更に一安心となる。車で宿まで送ってもらい、早々に休む。

7月16日(木)売茶翁の寺

翌朝宿で朝食を食べた。実は長崎と同じホテルチェーンで料金もそれほど変わらない。だが朝食の取り方は、長崎がビニール手袋をしてビュッフェ料理を取るのに対して、こちらは既にラップされているパンや食べ物をプレートに載せて食べる方式だった。ホテルごとに色々と工夫しているのが面白い。

Oさんと龍津寺へ向かった。バスでも何とか行けるが本数が少ない上、バス停から寺まで分かり難い。車で20分ほど郊外に出ると、周辺には田んぼなどが現れる。Google地図に寺の名前は出ていたが、なかなか行き着かない。何と本当にこの寺に本堂はなく、お墓があるだけだった。そこに比較的新しい売茶翁顕彰碑が顕彰会によって建てられているのだ。やはり歴史というのは簡単には見えてこない。

くれはの近くの旧古賀銀行(佐賀市歴史民俗館)の中で、Oさんと紅茶を飲んだ。ここはいかにも昔の銀行という雰囲気が漂っており、大正ロマンを感じさせる場所だった。ここで日本紅茶の歴史を探す旅について、話が盛り上がり次回の再会を約す。

九州北部茶旅2020(6)オランダおいね

出島を出て、港の方向、出島ワーフに向かう。その途中で腹が減り昼食を取る。小さな店だがちゃんぽんの名店と言われたので入ってみると、入り口もよくわからず、裏口から入ってしまった。2階もあるようだが、1階は数席しかない小さなお店。桃華園のメニューにはちゃんぽんと皿うどんしかなかった。パリパリの細麺の上にあんかけがどさっと載っており、その大盛感がいい。

そこからふらふら歩きだし、長崎駅の近くの本蓮寺を訪ねる。一昨日は禅寺4つを回ったわけだが、今日のお寺は日蓮宗。訪ねた理由は歴史的な場所だから。元々この地は、1591年に来日したポルトガル船の船長ロケ・デ・メロ・ペレイラの寄附によってハンセン病患者のため聖ラザロ病院が建てられたことに始まる。そして聖ジョアンバウチスタ教会も併設されたということ。その後江戸初期に寺に変わっているのはキリシタン禁令のためだろう。

幕末には長崎海軍伝習所で伝習生頭役を務めた勝海舟が住んでいたというのも面白い。更にはシーボルトが1859年二度目に来日した際には本蓮寺に泊まり、お瀧、イネに再会した場所とも言われている。シーボルトと勝海舟はすれ違いだったらしい。本蓮寺は現在も立派な本堂があるが、当時は相当広い敷地を持っていたのだろう。

それから昨日のリベンジを思いつく。路面電車で長崎市歴史民俗資料館へ。今日は開いていたが、ここはまさに民俗資料館だった。庶民が使っていたやかんなどはあったが、茶の歴史(特に貿易)に通じるものは発見できず。弁当を食べていた係員の人に聞いてみたが、今日は学芸員もいないので、何も分からないと言われてしまった。

折角なのでもう一か所リベンジすることに。そこは長崎歴史博物館の斜め向かいにあったサンドミンゴ教会跡資料館。ここは教会跡であると同時に江戸初期博多出身の豪商末次平蔵の屋敷跡ということで、茶貿易に関するものが何かあるのではとの期待から入ってみた。しかしここは本当に教会跡地を発掘した場所が保存されており、残念ながら私が思うような資料を発掘することはできなかった。

今日は私が長崎で活動する最終日、結局雨も降らなかったので、心残りがないようにと、更に歩いていく。今度はシーボルトの娘イネの墓を訪ねてみる。晧臺寺という寺にあるというのでそこへ行ったが、その横の細い階段を相当上らないと見つからなかった。喘ぎながらようやくたどり着くと、そこにあったのは顕彰碑。楠本イネ、瀧、二宮敬作の名が刻まれている。その少し上にこの3人の墓がある。ここからは長崎の街が見下ろせる。

実は楠本イネについて、私は9歳の時に見た『オランダおいね』というTBSの連続ドラマを何となく覚えている。イネがミックスである困難を乗り越えながら、女医になる話だったが、主演の丘みつ子という女優さんが何となく忘れられない。江戸時代、父親が外国人というのは、想像を絶するほど大変な一生だったのではないだろうか。だからこそイネは人々のために尽くしたと書かれている。

因みに晧臺寺は1608年の創建。この寺は遠藤周作の『沈黙』という小説の舞台としても知られているらしい。この時期はキリスト教勢力が強く、キリスト教徒から攻撃されることもあり、信者獲得にも難儀したという。そのすぐ後にキリシタン禁令となり、仏教寺院は盛り返したらしい。この寺にも非常に多くの墓があり、中にはキリシタンの墓まであった。

中でも目を惹いたのはかなり大きな村山等安一家の墓。村山等安といえば、先ほど訪ねた豪商末次平蔵の屋敷跡の末次にキリシタンであることを密告されて、一家が処刑された人物だった。墓の前の碑には『初代長崎代官であったが、信仰を守り抜いた』と書かれており、この時代の難しさを象徴している。

一旦宿に戻ろうと歩いていると、上野彦馬生誕の地という看板もあった。彦馬といえば、長崎生まれ、日本初期のプロ写真師。あの坂本龍馬の写真を撮った男とも言われていたが、それは弟子が撮ったらしい?写真がなかった時代、シーボルトなどはわざわざオランダ人絵師を呼んで、植物だけでなく、なんでも描かせていたという。日本の絵師川原慶賀もシーボルトの目となって活躍していたと今回の長崎訪問で初めて知った。

宿の近くには長崎海軍伝習所跡などの看板があり、榎本武揚などが紹介されていた。勝海舟と榎本、幕末の行動はなぜあんなに違ったのだろうか。フラフラと出島ワーフも歩いてみたが、6年前は沢山いた観光客の姿はほぼなく、店も多くが閉まっていて何とも寂しい港風景だった。今日はもう腹も一杯なので、夕飯を抜こうと考えたが、また街中を歩き、まだ食べていなかった角煮まんじゅうと包子を買って、歩きながら食べた。そして今回の私の長崎旅は終わった。

九州北部茶旅2020(5)シーボルト、そして出島

部屋で少し休息したが、腹だけは減ったので、まだ明るい外へ出た。すぐ近くにトルコライスを出す店があったので、食べてみる。長崎では豚カツ、ピラフ、スパゲティが一つの皿にのっている料理をトルコライスと呼ぶが、なぜトルコなのかは全く不明であるといってよい。

少なくとも豚肉を入れるだけでイスラム圏のトルコとは無関係だとわかるはずだ。三色旗などに出てくるトリコロールから名がついたという説もある。トリコがトルコになったらしいがどうだろう。まあ名前はどうでも美味しければよいか。当然ながらかなりのボリュームがあるが、今回は空腹で完食。因みにこの店には、ハンバーグ、オムライス、焼き肉などのトルコライスもあり、正直ただの洋食かとも思ってしまう。

7月14日(火)シーボルトと出島

翌朝は雨模様だったが、もう散歩の勢いは止まらない。今日は朝から路面電車に乗って、鳴滝塾を目指した。長崎は路面電車網が張り巡らされており、意外に便利だ。20分ほど乗って、蛍茶屋まで行き、そこから歩く。途中でついに小雨が降りだした。この旅で初めての雨だった。

シーボルトの鳴滝塾は出島からこんなに離れた郊外にあったのか、と来て見て思う。鳴滝塾のあった場所は、今建物はなく、空き地のようになっており、その中にシーボルトの像だけが建っている。よく見ると立派な木も植わっており、『シーボルトノキ』と書かれている。シーボルトはこの庭に日本各地で採取した薬草類を栽培していた。同時に高野長英、二宮敬作(シーボルトの娘イネを養育)、伊藤玄朴など、幕末に活躍する蘭学医も育てていた。更には診療所も開設し、実際に治療も行っていた。尚隣にはシーボルト博物館が建てられており、彼と塾の歴史はそちらで見ることができる。

シーボルトは植物学も学んでおり、当然お茶にも興味を持っていた。当時茶樹は貴重なものであり『シーボルトがオランダ東インド会社の要請によりジャワに日本の茶苗(種)を送った』と言われている。嬉野と宇治のものを送り、その栽培に成功したらしい。だがその後天候不順と病虫の被害に遭い、茶事業は頓挫。19世紀終わりのジャワ茶はアッサム種を取り入れて、紅茶作りが始まり、今に至っているようだ。

シーボルトは有名なシーボルト事件で国外に追放されるが、故国で日本について詳細な情報を出版し、それは1850年代日本を開国させようとする欧米諸国で珍重されたらしい。本人も再度長崎を訪れ、イネとお滝にも再会している。彼は業務上日本地図を入手するなど日本情報を集めていたが、ある意味で本当に日本を愛していたように思われる。

雨が止まなかったので、一度宿に帰るべく、また路面電車に乗る。そして大波止に着いた頃、なぜか雨は上がった。まだ前に進め、と言われているような気分になる。そしてすぐ横には出島がある。シーボルトも元はここに住んでいた。今の出島はきれいに改装されているようだが、何か見つかるかもしれない。

橋を渡って入場料を払って中に入る。ある意味完全な観光地で期待薄となる。右手の方は蔵や建物が並んでおり、往時の居住の様子が少しわかる。しかしシーボルトやケンペルがどこに滞在していたかなどの表示は全くないので、案内所へ行き、聞いてみた。係員が学芸員に電話で聞いてくれたが、判然としないとの答えだった。

様々な展示品のコーナーもあった。目を惹いたのは陶磁器。絵柄に東インド会社のマークであるVOCと入っている。同社が肥前に注文して、皿などを作らせ、ヨーロッパに輸出していた様子が見られる。しかしこの狭い長屋のようなところに押し込められたオランダ人たちは、さぞや苦痛だっただろう。

反対側に歩いていきと、石碑が見える。バドミントン伝来とあるから、日本で最初にバドミントンが行われたのは出島なのだろう。その近くには重厚な石碑がある。これは商館医だったケンペル、ツュンベリーを記念してシーボルトが建てたものだとある。この3人が出島の三学者と呼ばれ、日本を世界に紹介することに大きな功績があったという。ケンペルにはやはり茶に関する研究もあり、興味深い。当時の植物学者が、貴重な茶の知識を得たいと考えたのは当然のことだろう。

また出島内には、出島の全景を再現したミニ出島もある。そしてなぜか旧内外クラブの建物がある。これは1899年にグラバーの息子倉場富三郎等の発起によって長崎在留外国人と日本人の社交の場として設立された「長崎内外倶楽部」があった建物だった。現在の建物は1903年にあのフレデリック・リンガーによって建てられた英国式明治洋風建築だというから、こちらも興味深い。

九州北部茶旅2020(4)大浦お慶と吉宗の茶わん蒸し

ちょっと疲れてしまったが、まだ午前も早いので、大浦お慶ゆかりの場所へも行こうと思い、三菱通りからバスに乗った。長崎はバス路線がかなりあり、簡単に橋を渡って大波止を超えて行く。昨日も歩いた油屋町付近でバスを降りる。大浦お慶はここで油問屋を継いだが、幕末に茶の海外輸出で儲けたという話になっている。

その屋敷跡は、今は広い駐車場になっているが、何となく往時の大きな商売の様子が見え、茶工場が目の前に出現しそうであった。お慶については、正直分からないことも多く、坂本龍馬など、志士たちを支援した話も、内容が機密事項だったからか、資料はあまり残っていないという。それでも最近直木賞作家、朝井まかての小説『グッドバイ』の主人公として取り上げられ、その知名度はかなり上がっていた(図書館で借りて読もうとしたが1か月以上待たされる人気)。同時にお慶は明治初期に詐欺事件に引っ掛かり、大損して失意の晩年を送ったとの定説も、最近の研究で覆されており、益々興味がわく。

折角なのでお慶の墓を探した。言われた方に歩いていくと、八坂神社があり、その横に清水寺もある。名前だけはまるで京都だ。その清水寺に墓があると思い、一生懸命階段を上っていたが、残念ながら墓は寺の横の急な階段をかなり上った上にあり、本当に疲れ果てた。港がよく見える、眺めがよい場所にお慶一族の墓が並んでいた。ここに来て何となくお慶の存在が確認できた気になる。

更にちょっと足を延ばして、西洋式砲術で幕末に活躍した高島秋帆旧宅を訪ねてみた。石垣があり、敷地の広い立派な屋敷があったと思われるが、今は蔵などを残して、建物はなかった。高島といえば、幕府に国防を説き、今の東京高島平で様式砲術の演習をした人物。そしてお台場を築いた江川太郎左衛門などの弟子を育てたが、その後妬まれて?逮捕され、お家も断絶したという。この屋敷もその時に荒れたのだろうか。

長崎の街は歩いていれば、歴史上の人物や出来事、その足跡などがゴロゴロしていて、何とも楽しい。ふらふら行くと、また花街丸山に出た。今でも老舗の料亭はあるが、幕末の志士たちはもういない。横町を入ると、梅園身代わり天満宮などがある。ここはなかにし礼(2020年12月逝去)が書いた『長崎ぶらぶら節』の舞台だったらしい。丸山公園には真新しい坂本龍馬像が立っているが、龍馬は長崎にどれほどいたのだろうか。司馬遼太郎の竜馬はどこまでが史実なのだろうか。

昼になったので、長崎ちゃんぽんで有名だと聞いた店を探したが、月曜日で休みだった。仕方なく少し歩くと、あの懐かしい吉宗があるではないか。ここには約30年前、茶わん蒸しを食べるだけのために、わざわざ香港から家族3人で来たことがあった。木造の建物があり、下足番がいるなど昔と変わらないが、店内はかなりきれいになっている。

一人で食べるにはよいというので茶碗蒸しと蒸し寿司のセットを頼んだ。大きなどんぶりに入った茶碗蒸しの味は昔のままだったが、お客は多くはなかった。そういえば昔馴染みの銀座の店は今閉まっているらしい。まずは長崎で吉宗の茶碗蒸しが食べられただけでも良しとしなければなるまい。

腹が膨れたので、ふらふら散歩する。川沿いに出た。中島川という。あの眼鏡橋もこの川に架かっていた。その先をずっと歩くと、長崎市立図書館を見つけたので入って資料を探した。リンガー家に関するものなど気になる本を数冊見つけて収穫あり。更に昨日通りかかった長崎歴史文化博物館にも立ち寄る。ここは規模が大きく、展示品も多いので参考になる。長崎の始まり、江戸時代、そして近代の歴史などがかなり詳しく説明されており長崎史のおさらいをするにはよい。

ただここにある資料を見せてもらいたいと事務室を訪ねると『コロナ禍で2日前までの事前申し込み(ネット予約)がないと受け付けられない』とあっさり断られてしまった。県外から長崎まで来て現地を見てから色々と知りたいことが出てくると思うのだが、コロナはそんな向学心?を阻んでいた。東京から来たことも歓迎されていないようだった。

今日はこの辺で終わりにして帰ろうと思ったが、比較的近いところに西坂公園があり、日本二十六聖人殉教地があったので寄ってみた。1597年キリシタン禁令により、京都などで捕らえられた宣教師以下26人がこの地で処刑されたという。現在は二十六聖人の等身大ブロンズ像嵌込(はめこみ)記念碑と記念館が建っている。26人の中には子供もおり、そのブロンズ像には何とも言葉が出ない。

何となくこの地を見てしまうと、原爆資料館の方に足が向く。坂を上り下り30分も歩いて浦上方面へ行く。長崎歴史民俗資料館まで何とか辿り着いたが、何と今日は休館日で見学できなかった。それまでの疲れがどっと出て、もう歩く気力もなく、路面電車で宿へ引き返した。

九州北部茶旅2020(3)長崎 唐寺から稲佐のお栄へ

結局心配していた雨は降らなかったが、徐々に薄暗くなっている。今日はどこまで行こうか、もうこれでお終いにしようかと考えたが、明日は雨かもしれないと思うと、出来るだけたくさん行っておこうと欲張る気持ちが出てくる。これも最近旅ができていなかったことによる欲求だろうか。

長崎の唐寺4つの内、残りの2つは少し離れていたが、歩けない距離でもないので、更に進んでいく。途中に長崎会所跡、という碑があった。江戸時代、オランダ、中国との貿易業務を行っていた場所だが、その斜め向かいには大きな建物がある。長崎歴史文化博物館だったので、ちょっと勉強しようと入ってみたが、何ともうすぐ閉館ですと言われ、見学できなかった。

仕方なくそのままGoogle地図を見ながら歩くと、聖福寺に出くわした。ここも四寺の一つだったので入っていくと、何とも雰囲気の良い境内に出会った。この寺は隠元が亡くなった後に建てられたもので、これまでの2つの寺とは雰囲気が違っていた。本堂がいい感じに古びていたのだが、よく見ると改修費用が捻出できずに困っているとあり、何とも言えない気分になる。因みにこの寺は幕末のいろは丸事件の交渉舞台となったことでも有名である。竜馬ファンなどは寄付しないのだろうか?

最後に福済寺にたどり着く。本当に今日はよく歩いた。坂を上っていくと、不思議な門がある。そしてその奥を覗くと、何と大きな亀の堂の上に観音像が立っている。およそ古い禅寺の印象はない。案内板を見ると、ここは昭和20年、長崎の原爆投下で全てが吹き飛んでしまったという。そのため、人一倍平和への祈りが強い。幕末には勝海舟と坂本龍馬がこの寺に宿泊したと書かれているが、果たして史実はどうだろうか。

ホテルまで歩いて帰る。実は意外と距離があり、ふらふらになって戻る。途中に後藤象二郎の屋敷跡、という記念碑があった。土佐の重要人物であった後藤は長崎と縁があり、高島炭鉱の経営に手を出すが失敗。その後を岩崎弥太郎が引き継ぎでいる。明治6年の政変で、西郷、板垣、江藤らと共に下野したが、板垣と共に自由民権運動などに走っていく。

ようやくホテルに着いた時は、もうヘトヘトになっており、預けた荷物を部屋に運ぶのも難儀するほどだった。もう一度外出して夕飯を食べる気力がなく、近所の弁当屋で弁当を買い、部屋で食べた。そして風呂に入って早々に休んだ。旅が久しぶりだったので、完全に張り切りすぎた1日が終わった。

7月13日(月)稲佐のお栄と大浦お慶

翌朝は当然早く起きた。今日も雨は降っていない。そうであればと、8時前にはホテルを出て、歩き始めた。目指すは稲佐。そこがどこにあるかも知らずに探し出す。きっかけは稲佐のお栄だった。前日大浦お慶を調べていると、長崎幕末三女傑という項目に行き当たった。お慶とお稲(シーボルトの娘)、そして稲佐のお栄の名前があったが、お栄だけは全く知らない名前だった。そこに書かれていたのは、ロシア語が堪能とか、ウラジオストクに10年行っていたとか、ロシア皇太子の相手をしたとか、興味深いものばかりだったので、お栄に関したものが何か残っていないか、稲佐へ行ってみることにしたのだ。

だが稲佐は、大波止から湾を渡って反対側にあり、歩くと意外なほど時間がかかった。ちょうど通勤時間で、市役所などに出勤する人々や登校する学生に出会った。橋を渡って向こう側へ行くと、ほとんど人は歩いておらず、取りあえず外国人墓地があるという方へ向かってみる。だが如何にも長崎らしい、かなりの坂を上る羽目になり、昨日の疲れが朝から出て難儀する。

何とか稲佐の稲佐悟真寺国際墓地に着いた。ロシア人墓地はあったが、囲いがされており、門には鍵が掛かっていて入ることはできなかった。ただ中には墓碑が外国語で書かれた墓が並んでいる。稲佐が幕末から明治にかけていわゆるロシア租界と呼ばれた片りんを感じた。

実はロシア人以外にもオランダ人やポルトガル人など、長崎らしく多国籍の墓地になっていた。更には一般墓地には多くの中国人の墓があり、唐人屋敷との関連も見られた。墓地の横には古い寺があり、門は閉まっていたが、横から入って見学した。この悟真寺が墓地全体を管理しているようだ。

墓地から下っていくと、1つの看板が目に入る。ロシア海軍借地とお栄屋敷跡と書かれた地図が見える。この海辺の一体に稲佐のお栄の屋敷(宿?)があり、ロシア海軍が来ると遊んだ場所らしい。更に歩いていくと『ステッセル将軍一行上陸の地』という記念碑が見える。ステッセルとはあの日露戦争旅順で乃木将軍と戦った敵将だが、降伏後長崎に送られていたことを初めて知った。この辺りがロシアゆかりの地なのだろうが、今やほぼ何もない。

九州北部茶旅2020(2)グラバー園から唐寺へ

かなり上り、港の眺めも良いあたりへ来ると、道路脇から古い住居が見えた。ここがオルト住宅に違いないと思ったが、門に鍵が掛かっていて入ることができない。ご縁がなかったなと、そのまま上るとグラバー園の入り口に出た。念のため受付で聞いてみると、何とオルト住宅はグラバー園の中にあり、入場料を払えば見られるという。受付の人は『申し訳ありません、今グラバー住宅が改装中で・・』と恐縮していたが、オルト住宅を目的に来た人は初めてだったらしい。

中に入って一目散にオルト住宅を目指す。この庭園、かなり広い。少し下るとそれらしい建物があったので覗いてみると、そこはリンガー住宅と書かれており、別の建物だった。リンガーとは誰なのか。そこではなぜかグラバーの息子、倉場富三郎に関する展示が行われており、日本とイギリスの狭間で苦しんだ彼の姿が見られた。その横の建物がオルト住宅だったが、説明によればオルトが住んだのは3年程度で、後にリンガー家が住んでいたらしい。オルトの長崎滞在の歴史はかなり短く、茶貿易も少しだけだったが、後で調べてみるとむしろ茶で重要なのは、このリンガーであることが分かり、新たな発見があった。

そのまま園内を散策すると、三浦環の像がある。最近朝ドラエールで柴咲コウが演じて話題となったオペラ歌手だが、ここに彼女の像があるのは、代表作が『蝶々夫人』という繋がりだろうか。作曲者プッチーニの像も見える。その向かいには日本西洋料理の開拓者、草野丈吉の石碑もある。何となく長崎らしい。グラバー住宅は全面改修中で確かに何も見えなかった。だが歴史ドラマではここに坂本龍馬や岩崎弥太郎がやってきており、何となく馴染みがある。あの大浦お慶とも親交があったはずだ。

出口の前に博物館があり、長崎の歴史が展示されている。長崎くんちの大きな山車も飾られている。ここのショップでリンガー家に関する本を買い勉強した。何だか足が軽くなってきた。もらった観光地図を見るとやはり長崎には見るべきところが沢山ある。取り敢えずこのまま長崎に4つある黄檗宗の寺を回ってみる気になる。

ずっと歩いて行くとオランダ坂があり、長崎らしい古びた欧風住宅が残っているところが見える。さすがに坂もきつい。横には活水女学校が見える。孔子廟などもある。水分補給に自販機で飲み物を買うと、なぜか『グラバーとキリン』と書かれている。グラバーは明治に入り、炭鉱経営など多彩な事業に関り、また幕末の岩崎弥太郎との深い関係からか、事実上三菱グループの顧問も務めていた。キリンビールとも関連がある。

長崎は京都並みに、どこにでも歴史が転がっている。唐寺を目指して歩いて行くと、いつの間にか唐人屋敷跡に辿り着く。唐人屋敷跡だから中華街かと言えば、そうでもない。ただ昔風の家が狭い路地に並んでおり、天后廟や土神堂がある。福建会館などもあるが、今はどんな活動をしているか。

更に進むと丸山町に出た。ここはいわゆる色町、丸山遊郭があったところで、今でも一部にそのような佇まいの料亭などがある。カステラの福砂屋の本店もある。なぜか交番は洋風だ。幕末、志士たちがこのあたりで毎夜討幕を語っていたのだろうか。その先には思案橋という文字が見える。

長崎と言えば、古関裕治の、いや藤山一郎の『長崎の鐘』が一番有名かもしれない(他に『長崎は今日も雨だった』など)。だが私個人はあの青江三奈の『長崎ブルース』(『思案橋ブルース』は別物)が頭から離れない。『どうすりゃいいのか思案橋』は子供心にも響くものがあったな。青江三奈ほど独特な世界を持っていた歌手は少ない。その思案橋は既に暗渠となり、今は見られない。

ようやく崇福寺に着いた。山門は竜宮門とも呼ばれ、その形はどうみても中国様式だった。ただこの門は後に再建されたもので、大工は全て日本人だったらしい。かなり歩いて足が疲れていたが、更に急な階段を上って境内に進む。夕暮れも近く、人影は全くない。1629年創建、明より高僧超然を招いて建てられた黄檗の寺だった。階段を登りきると意外と狭い境内に、本堂がどっしりと見えた。夜が近づいている薄暗さが何となく良い。1794年に建造されたという媽祖堂が、如何にも福建を感じさせる。

そこから方向が分からなくなり、まごつきながら興福寺まで歩く。1620年創建のわが国最古の唐寺だという。2代目住職如定は、あの眼鏡橋を作った人物とも言われている。当時の黄檗文化のレベルの高さ、日本への影響の大きさを物語っている。隠元禅師も1654年この寺にやってきて、その後滞在した。日本の黄檗宗はこの寺から始まったともいえる。山門に『歓迎隠元禅師』の幕が掛かっているのが面白い。

奥へ入っていくと、境内はかなりゆったりしている。本堂の脇を行くと、『隠元禅師東度三百五十周年記念』の碑が見える。更に行くと『釜炒茶交流植樹』などという碑もあるが、いずれも新しい。ここでは隠元が持ち込んだ茶は、釜炒り茶だと断定しているようだが、どうだろうか。茶に関する資料は長崎には無いようだ。