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《ビエンチャン散歩2006》(2)

(4)ゴルゴの話

観光中ゴルゴに色々なことを聞いた。何しろ私にはラオに関する知識は殆どない。先ず国の体制だが、ここは社会主義国ではあるが、ベトナムに依存している。ベトナムがやることはその通り行っている。中国の影響もある。ベトナムが中国と接近している中では当然出て来る。1975年にベトナムが独立、ラオも同様に独立。フランスの統治から脱却する過程で徐々にアメリカ寄りに。

 

ドイモイ政策も同じ。1975-1991年は鎖国。その後観光が解禁される。タイは日本より20年遅れており、ラオはタイより20年遅れている。ゴルゴは90年代に自費で出国。草加に住んで東京の日本語学校に通った。当初の手持ちは1000ドルしかなかったため、大変な苦労をした。ほかほか弁当でバイトして食いつないだ。結局2年で帰国した。

彼はひとり息子。ラオでは男が女の家に婿に行く習慣がある。以前は姓を女の方に変えなければならなかったが、現在は選択可能。彼の場合は一人っ子なので嫁を貰うことが許された。但し別姓。

子供は7歳と1歳半。現在は雨季休み中。ラオには日本語ガイドが全部で16人しかいない。彼も常に出張することになり、家にいなことが多い。寂しい。

ラオの人口はここ5年で350万人から550万人に増加。出生率が増加したことと難民の帰国が理由。国が安定した証拠。今後も増加することが予想されている。都市部は教育問題がなく、子供も2-3人。農村部は10人以上子供がいる家庭も多く、食べさせられない場合は寺に預ける。今後経済は在外ラオ人の投資に期待することになる。タイ人の投資も多くはない。電力は水力発電があり、停電は少ない。ガソリンは1-2割上がっているが、配給制はない。FECなどの外貨制度もなく、街ではドル、バーツ、ラオキップが同時に流通している。

ゴルゴの仕事は結構忙しいようだ。因みに英語・中国語は数百人、フランス語でも数十人はいる。彼は旅行社と契約しているフリーのガイド。しかし実際には旅行社も数人規模のため、雑用も引き受けているらしい。今日も1時間ほど留守番を頼まれているらしい。

(5)茶店
決められた観光コースを一通り消化するとゴルゴに茶店に連れて行くように頼む。彼は一瞬怪訝な顔をしたが、直ぐに『日本人でお茶が大好きな人が毎年ラオに来ます。以前北部の山奥に入ってかなり古い茶樹を見て来ました。』などという。それはもしかして松下さんのことか??

彼は行きつけの茶店があるということで行ってみる。ところが何と店は改装中。店の前の工事に合わせているのか??残念だ。なかなか良さそうな雰囲気であったので。ゴルゴはちょっと考えてまた車で別の場所へ。

今度の場所は外国人、バックパッカーなどが立ち寄りそうなカフェ。確かにお茶は売っている。ラオ茶、お土産である。雰囲気が良いカフェであり、オーナーの女性は英語もできるのでここで妥協してラオコーヒーでも飲んでいれば良いのだが、何故か拘ってしまう。

ゴルゴは嫌な顔をせずにまた考える。そして3つ目の店へ。そこは普通の建物の小さな店。軽食を食べる場所である。店の中では地元の人々が麺を食べていたり、コーヒーを飲んでいたり、思い思いの過ごし方をしている。古びてはいるが、風情がある。典型的なショップハウス。ここで彼はラオコーヒーを2つ注文した。日本と同じようにラオでもお茶はタダなのである。であるからコーヒーを頼んでお茶を貰い、併せて飲むことになる。

ラオ人は粉っぽいコーヒーにコンデンスミルクをたっぷり入れる。それは我々の想像を超えるほど、甘い。どうやって飲むのか??ゴルゴは私に『全部かき混ぜないように』と注意した。そこでお茶を併せて飲むのである。何ともはや??ゴルゴはベトナム産の香りをつけた茶を頼んだ。最近ラオではベトナム茶が流行っている。香りが良いからだそうだ。

 

私の前には伝統的なラオ茶が置かれた。緑の葉がコップを舞う。なかなか美味しい。特にあのコーヒーを飲んだせいだろうか??さっぱりする。薄いが味はしっかりしている。葉っぱも手摘み、これでタダとは??

初めからお茶だけを飲めばよいと思うのだが、こういった習慣は簡単に治らないらしい。
(日本だってちょっと前まで日本茶で金を取る店など無かった。ペットのお茶などはまさに革命的であった。)20年前上海でコーヒーを頼むと砂糖がたっぷり入っていた。砂糖は豊かさの象徴なのだ。このお茶は南部、パクセーの近く、パクソンで採れるらしい。一度行ってみたいところだ。パクセーは世界遺産にもなっており、ビエンチャンからは飛行機が毎日飛んでおり、行くのは比較的簡単らしい。

一方北の外れ、ポンデサリーから車でかなり奥まで入ったところに樹齢2000年の茶木がある。ポンデサリーまで飛行機は週2便しかなく、しかもキャンセルになることもある。それでも日本の専門家はトライしている。飛行機を使わないとすれば、ルアンパパーンから車で10時間。雲南との国境である。それでも行く価値があるとゴルゴは言う。

因みにラオにはかなり古い習慣をきちんと守っている山岳民族がいる。通い婚、末子相続。現在では車が通っている場所は全て現在化されてしまっている。歩いて1-2日入った田舎だけに見られる。もし行くとすればガイド、護衛など大掛かりな準備がいる。

 

 

(6)戦争
ホテルに戻る。早起きしたせいもあり、ちょっと疲れている。湯船に湯を溜める。浸かる。極楽気分である。深い湯船、シックな造り。満足である。疲れも吹き飛ぶ。うーん、こんな休日があっても良い。

湯から出ると備え付けのガウンだけを羽織り、裸で過ごす。これは癖になりそうなほど気持ちが良い。思えば今回はこれまで結構厳しい旅行をしてきている。最後に、しかもラオでこんな快適な気分が味わえるとは??やはり旅の醍醐味であろう。

インターネットのチェックに行く。知り合いのAさんからメールが来ていた。昨夜ラオに行くと伝えておいたら、いきなりラオの食文化についての論文を送ってくれていた。漬物文化、発酵文化には興味がある。明日市場で確認してみよう。

部屋に戻ってNHK衛星放送をつける。丁度7時のニュースを放送中。昭和天皇の側近のメモが発見されたとのこと。その内容は天皇が靖国神社にA級戦犯を合祀したことに不快感を持っていたというもの。これはなかなか凄い内容である。具体的に松岡洋右、白鳥敏夫などの名前を挙げて不快感を示しており、生々しい。今の宮司を『親の心 子知らず』となじったと言う。何故こんなメモが今頃出てきたのだろうか??小泉政権末期の波乱なのだろうか??アジア諸国はどう反応するのだろうか??

戦争についてラオ関連で思い出すことがある。あの関東軍参謀、ノモンハン事件の責任者、辻政信である。マレー作戦、シンガポール攻略などにも関与し、バンコックで終戦。その後『潜行三千里』、ラオ、ベトナムを経て重慶に至り、南京国民党政府に勤務。帰国後は何と参議院議員までなった男である。

その辻が何故か私の生まれた1961年にビエンチャンに来て、ホーチミンに会うために僧侶に変装し出発したが、そのまま消息を絶った事件を起こす。一体何のために??パテトラオに捕らえられて、ジャール高原で処刑されたと言う説が有力であるが、一方生存説もある、今でも全く謎の事件である。

 

大東亜共栄圏の夢をもう一度??と言うことだろうか??戦乱の残っているインドシナに昔を思い出したのだろうか??ホーチミンと直接交渉し名を挙げる最後のチャンスだったのだろうか??兎に角分からないこの事件がここビエンチャンを舞台に起こったことに不思議な因縁を感じる。

(7)夕食
ゴルゴが迎えに来た。夕食の場所に向かう。日の暮れた街の中、『クアラーオ』はフランス風の建物だった。中に入るとゴルゴが女性に声を掛けた。見るとさっき市場で出会った女性であった。にこやかに迎えてくれる。

時間は6時半とまだ早く、お客はいない。中には舞台があり、後で踊りが披露される。民芸品が壁際に飾られている。このレストランは外国人用である。小渕前首相、小泉首相、秋篠宮などが訪れたことが掛けられている写真で分かる。

ゴルゴがメニューを開き、きのこの写真を指す。何とそれはマツタケであった。そういえばバンコックのバーンタオ氏が『松茸があったら食べたい』と言っていたのを思い出す。バンコックに持って行けるのか聞くと、問題ないという。

どうして問題ないのかと思っていると、驚いたことに日本から松茸保存用に脇に穴の開いた小さなダンボール箱を取り寄せていたのだ。これをホテルの冷蔵庫で保管すればよいと言う。但し成田に持っていくと検疫で引っ掛かるのでバンコックまでにするように言われる。因みに値段は500gで10ドル。その大きさには期待が持てる。

お客が徐々に入ってきた。西洋人の観光客、日本人とラオ人のビジネスマン、日本人政府関係者などがいたようだ。私の席は特等席、舞台の脇である。ゴルゴは去っていった。詰まらない、いくら立派なレストランでも一人で食べるのはどうも??

料理はのりスープが出てきた。これは絶品、塩味が利いている。台湾で食べた物とほぼ同じである。ラオ伝統の挽肉のサラダ(ラープ・ディップ)は少し食べにくい。牛肉が生なのである。何故この料理がラオ料理なのか良く分からない。野菜炒めと共に、赤米が出てきた。しかもディップ・カオという小さな籠に入れられてくる。地元では手で食べるらしい。私は箸を使って食べた。餅もちして美味い。横に生野菜が置かれており、きゅうり、ミントなどを口に入れながら食事をする。

しかし一人である。料理もどんどん出てきて殆ど食べ終わった頃、ようやく音楽が鳴り出した。3人のおじさんが民族楽器を弾き出した。東南アジア特有のゆっくりした、アコースティックな音楽である。若い女性が2人出てきた。小柄で民族衣装を着込み、頭は尖がっている(髪を上げている)。

踊りはゆっくりとしており、2人は円を描いて回る。5分ぐらいで引っ込む。続いて20分経って男女が出てきてまた踊る。しかし残念ながら特に変化がない。女性は表情が乏しいが、若い男性の顔には品がある(穏やかな顔)。家元の出ではないだろうか??

また例のくわ茶を飲みながら見ていたが、突然メコンの夕陽が見たいと思い、レストランを飛び出す。何とか松茸は忘れずに。外では運転手が不思議そうな顔で急いで車を出した。メコンリバーと言うと怪訝そうな顔をしたが、言葉としては理解したようだ。川沿いに行くと既に真っ暗な中、プラスティックのテーブルと椅子が置かれ、鶏肉が焼かれている火が赤々と見える。ソーセージも焼かれており、美味しそう。大きなバーベキュー大会である。西洋人がビールを飲みながら騒いでいる。皆楽しそうだ。

一人の私は寂しくなり、携帯に手を伸ばす。タイの携帯はこの川沿いだけは繋がる。ミャンマー国境と同じである。自宅に掛けるとまた長男が出た。今メコン川にいると言うと羨ましそうな声をだす。いつか自分で来て欲しい。写真はいくら撮っても写らない。それ程に暗い。ホテルに戻り9時には寝る。

7月21日(金)
3.ビエンチャン2日目
(1)朝食
9時に寝たにも拘らず7時に起床。久しぶりにぐっすり眠れた。疲れがピークに達していたことと環境が良かったことが理由であろう。ベランダに出る。狭いが空気が新鮮で気持ちが良い。下にプールが見える。西洋人の男性が一人、泳いでいた。ゆっくりとした時間が流れている。

腹が減る。朝食は何処で取るのか??フロントに行くと笑顔の挨拶。隣の建物の2階に食堂があると言う。登って行くとレストランがあった。外にテーブルが出されていたので、座る。室内は軽くクーラーが効いているが、戸外の方が断然気持ちが良い。

眺めると川がある。よく見ると川に網を投げている人がいる。魚が取れるらしい。風景画の世界である。周りは特に何もなく、遠くに建設中の建物が見える。このホテルは本当に良い。一体誰が作ったのだろうか??今朝はビュッフェ。私はパンが好きなのでたくさん取る。クロワッサン、パストリーなどどれを取っても美味しい。さすがフランス植民地である。ベトナムでもパンが美味しかった。思わずお茶ではなく、コーヒーを頼む。コーヒーカップを持ちながら、風景を眺め、風景を眺めながら、コーヒーを飲む。植民地に着任したフランス人の気分であろうか??コーヒーはやはりコンデンスミルク入りではなく、ブラックが良い。

(2)メコン川散歩

8時にホテルを出る。一人で外に出るのは初めてであるが、大体の道はわかっているので問題はない。取り敢えずメコン川に出る。10分も歩けば到着する。道は分かりやすく、そしてきれいである。

昨夜の喧騒はなく、静かなメコンの朝であった。雲が低く、川に沿って流れている。大きな木の下に精霊が祭られている。これはミャンマーでもタイでも見られるもの。アミニズムというものであろうか??川は雨季で水嵩がある。水は決してきれいとはいえない。簡易な建物に人が住んでいる場所もあったが、基本的にきれいなレストランや整備された公園がある。散歩には非常に適している。

向こう岸までは1kmぐらいであろうか??対岸はタイ領であるが、建物はあまり見られない。農村なのであろうか??普通は見られるボーダートレードもあまり活発ではない。対岸のイーサンとビエンチャンではイーサンの方が安いらしい。面白い現象である。20-30分はメコン川をただ見つめてみる。流れは緩やか。係留している船をレストランにしている所もあった。

 

川沿いには大きな建物が1つ建っていたが、最近出来たもの。カジノホテルかと思ったが、聞けばカジノはここから70kmほど下流にあるらしい。川沿いの道にはフランス風の建物がいくつかある。タイ人がラオに観光に来る目的はこのフランス風の建物を見ることだそうで、食べ物やお土産はあまり期待しないらしい。殆ど変わらないからだろう。

川沿いをどんどん歩いて行く。寺院が見えたので中へ入る。昨日行った観光地とは違い、実に落ち着いた雰囲気があり、木々の緑が濃い。程よく古びた仏塔があり、時代を感じさせる墓がある。この寺の中は風が通って涼しい。時間が経つに連れて気温はどんどん高くなる。

その付近には洒落たギャラリーがあったりする。フランス人が歩いていたりする。そうかと思うと華僑協会の事務所があったりもする。ここラオには中華街と言われる場所はない。以前はあったらしいがその後同化してしまっている。但し街中には至る所に漢字の看板がある。中華系が経済を握っているのか、最近の中国大陸からの投資増加に合せているのか??

日本料理屋もある。オープンスペースで麺を食べている所もある。何だか喉が渇いてきた。気がつくと昨日ゴルゴに案内された茶店の近くにやって来ていた。フランス風の建物の1階にあるカフェで茶を飲むことにした。店先には鮮やかなフルーツを売るきれいな屋台がある。

中に入るとフランス人??が一人遅めの朝食を取っていた。常連という感じで新聞を読む。こちらは初めてで緊張。英語でお茶を頼むと通じた。バンビエンという昨日とは違い地名の緑茶である。葉が少し細かく、コップに茶葉が多く入っているため、少し苦い。3000k。

周りを見回すと、何故か日本の舞妓さんの絵がある。フランス人の東洋趣味をそのまま反映させたのだろうか??地球の歩き方を取り出して読んでいると、何故か『焼き物の村、バーン・チャン』が目に入る。そういえばハノイを訪れた際、陶器の村としてバッチャンを紹介されて行ったことがある。意味は同じなのだろうか??どんな意味なのだろう??

更に歩く。何だか意地になっているようだ。ラオテクスタイルと書かれたフランス風の建物があった。経営者はアメリカ人で、アメリカでも認められた質の高い織物を作っている。この店では染色から織物まで一貫して生産している。裏では実際に作業が行なわれており、自由に見学できた。

 年代物の大きな機織機が何台もあり、前には年配の女性が座っている。横には作業中の布が干されている。全てが手作業。こんな手間の掛ることはいつまで続けられるのだろうか??ビエンチャンにはこのような工房がたくさんあると言う。

 

 

 

フランス風の建物を利用したフレンチレストランもあった。その辺りにはバイクやソンテウが大量に客待ちしていた。私にも声を掛けてきたが、断ると、写真を撮って欲しいと言う。ついでに寝ている仲間も撮れと言うので撮ると、皆でデジカメを覗き込んで笑い転げる。ビエンチャンの若者はなかなか愉快である。

 

スカンジナビアンベーカリーなぞと言う名前のパン屋もあった。フランスの植民地でパンが美味いと褒めていたら、何故だかスカンジナビアが出てきた。オーナーの出身地だろうか??中ではケーキなども売られており、在住の西洋人が買いに来ている。大きなワイン樽を建物の上に載せたフレンチワインを売る店もあった。一体ここにはどれ程の外国人が暮らしているのだろう??

ホテルに戻ろうと歩いていると、かなり古びた塔がロータリーの真ん中にあった。後で調べるとタートダム(黒塔)と言う名前であった。昔タイの侵入を防いだ龍が住んでいた場所だそうだ。現在は苔が生え放題でそれがいい感じになっている。

この街には先進国では恐らくクラシックカーに属するベンツやBMWが平気で走っている。タクシーがベンツだったりもする。タートダムの周りにも無造作にそうした車が駐車されている。マニアは涎を出しそうだが、私は車のことは分からない。

結局3時間も散歩してしまった。かなり疲れてホテルに戻る。デジカメも最後は電池切れとなり、撮れなかった風景もあり残念。

 

 

 

《ビエンチャン散歩2006》(1)

7月20日(木)
1.ビエンチャンへ

(1)前日
チェンライから戻って前回同様のホテルにチェックイン。時間は午後6時。夕食はYさんと7時に待ち合わせていた。ところが何とその部屋はエアコンが故障していた。直してくれるよう頼んで食事に出る。

エンポリアムで待ち合わせ。しかしパンツと靴下を洗濯する暇がないため、エンポリアムで購入。タイとしては非常に高いのだろうが、久しぶりに質の良い下着を買った気がする。しかしバンコックは暑い。パンツは極めて薄い。

Yさんには明日ビエンチャンに持って行く色鉛筆とノートを頼んでいた。これはボランティアなのだから、自分でしなければいけないのに、つい甘えてしまった。反省。30人分の物資を受領。自然野菜を食べさせる日本料理屋に入ったが、コースが日本円で1500円ぐらい。どうしてバンコックの日本料理はこんなに安いのだろうか??毎回不思議に思う。YさんのアシスタントY女史(現奥さん)にタイ語を習う。中国語、特に広東語に近いものを感じるが、やはり難しい。習うのはちょっと大変だろう。Y女史はタイ東北部イーサンの出身。明日向かうビエンチャンはイーサンとメコン川を挟んだ向かい側。ほぼ同じ文化圏、食事も似ているようだ。何だかビエンチャンが楽しみになってきた。

9時半にホテルに戻る。ところが部屋に入るとエアコン修理のための道具が置かれたまま。フロントに聞くと後30分はかかると言う。この30分は曲者である。部屋を変えるように交渉すると満室だと断られる。私は明日5時起き、しかも昨日風呂に入っていないため、どうしても入りたい。フロントに強行に交渉、更に携帯でYさんを呼び出し、フロントと交渉してもらったが、埒が開かない。この辺がタイののんびりしたところ。最後はホテルを替わる事に。歩いて2-3分、はす向かいのホテルのフロントは小ぎれい。

部屋も広く、ベットも大きい。こっちの方が良いのでは??風呂の湯の出は良くないが、辛抱強く待つことにする。しかしその間に土曜日の約束をしようと先日会ったFさんに電話すると土曜は香港に行くと言う。メーサローンのお茶を渡したいと言うと何と今から来ることに。風呂の湯を溜めたまま外出することに。

Fさんは新しいホテルの場所が分からないので、前のホテルのロビーで待ち合わせ。ところが道が工事中でFさんの到着が遅れる。フロントは不機嫌に出て行った客が舞い戻ってソファーに居座った訳であるから、緊張した様子。Fさんに旅行のあらましを話し、茶を渡す。F夫人は台湾、香港で中国茶を習っており、今回の香港旅行でお茶の先生であるIさんにこのお茶を渡すことに。何だか面白い展開になってきている。ホテルの部屋に戻ったのは12時過ぎ。それから風呂を入れ直し、ようやく寝たのは1時半。

(2)出発
翌朝は良く眠れないまま5時半に起床。荷物を整えて6時にロビーへ。奥に食堂があり、朝食が取れる。しかし電気は点いていない。まさかこんなに早く来る人はいないと思ったのだろうか。オーダーしてから荷物を預けようとフロントに話すと、何とそんなサービスはないと言われる。仕方がないので食事後、タクシーを拾う前に前のホテルのフロントに持ち込むと名前も聞かずに預かってくれる。昨夜の出来事は結構堪えているようだ。

タクシーはメーターを使う。交渉しないで済む。平日の朝は6時半でも既に少し混んでいた。と言っても空港まで30分あれば着いてしまう。前回はチェンライ行きの国内線であったが、今回は国際線。飛行時間は同じなのに空港使用料500バーツを払わなければならないし、チェックインも大分混んでいる。搭乗すると機内は空いていた。西洋人が目立つ。隣にきつい香水をつけた西洋人女性がやって来て困ったが、見ると一番前の席が空いていたので、難なく移動する。快適、快適。一番前だと空港でビザを取るのも有利だ。

僅か1時間で到着。一番先に飛行機を降りたが、途中で空港の写真を撮っていて追い抜かれる。更に何処に並ぶか迷っている内に慣れたフランス人などの後ろになってしまう。丁度前にはこれもかなり慣れた日本人がいた。彼は写真すら持たずに何故かビザを取得してしまった。申請書は機内で貰って書いておいた。10ドル札と写真1枚を提出して直ぐに発給される。

ビザを取得してから、今度はイミグレに並ぶ。日本人ビジネスマン、韓国人、西洋人観光客などでビザを持った者(タイ人はビザ不要??)が前にいたので、結局は30分以上掛かってしまった。しかし10年前に行ったカンボジアのプノンペンを思い出すとかなり効率的な対応と思われる。

2.ビエンチャン
(1)ホテル
それにしてもきれいな空港である。途上国に有り勝ちな暗い雰囲気は全くない。エスカレーターを降りるとガイドが外で待っていた。サングラスを掛けた男性、一目でお笑い芸人TIMのゴルゴ松本に似ていると思ってしまう。その後心の中ではゴルゴと呼ぶ。

今回はYさんのアレンジであるが、一人の為にガイドをつけるのは贅沢である。しかも車(トヨタのバンで新しい)まで。早々に街中へ。先ずすることは帰りの航空券のリコンファームである。昔の中国や現在のミャンマーを思い出す。現物をオフィスに持ち込む。

小川があり、並木道がある。僅か10分でホテルに到着。これがなかなか予想外に洒落たホテルである。ブティックホテル、グリーンパークはロビーもきれい。そして何より従業員の愛想が良い。『サワディー』と笑顔で言われると思わず微笑み返してしまう。

ロビーは気持ちよい吹き抜け、中庭は真ん中にプールがあり、その周りを2階建ての建物が囲う。南国風の椰子の木、所々に配置された水。このホテルの一角だけが別世界である。部屋の中は広く、新しい。そしてシック。薄暗い中に心地よいライトアップ。ベットも大きく、快適そう。更に浴槽が深い。スパをイメージしている。エアコンは自動的に調節されている。バルコニーも付いている。うーん、プーケット辺りにあるリゾートホテルのようだ。ラオスにしては意外な展開。

インターネットは別室にPCがあり、無料で使える。誰もいないので気兼ねなく使う。長閑でゆったり。フロントの従業員は英語が流暢、ラオ大学で英語を専攻したそうで、地図をくれて色々と説明してくれた。このホテル、なかなか良い。気に入った。

(2)昼
12時にゴルゴが迎えに来る。昼飯に向かう。街はあまり大きくはないらしい。バイクが多い。二人乗り、家族四人乗りが普通なのはハノイと同じ。ホンダ製は1500ドル、中国製は500ドル。公務員の月給が60-100ドルのこの国では大金である。尚民間の月給与は80-150ドル程度。

では皆どうやって買うのか??ゴルゴに寄れば、何年も預金するらしい。テレビはビエンチャンなら何処の家にもある。次はバイク、その次は車。最近韓国現代の小型車が1万ドルで発売され、人気がある。中古は5000ドル。今乗っているトヨタのバンは2万ドル以上するので手が出にくい。

昼ごはんはフレンチレストラン、ナーダオへ。ここは有名な店のようだ。凱旋門の直ぐ近く。公園の前にひっそり建っている一戸建て。室内はラオ伝統の建築。私の為に一人用のテーブルがセットされている。ガイドは連れてくるだけである。詰まらない。

 

 

ここのオーナーはラオ人。但し革命でフランスに亡命、フランスで修行を積んだ後に最近凱旋帰国してあっと言う間にビエンチャン一のフレンチ店となった。ランチのコースは6000k程度。スーツを着た西洋人が一人やって来て、やれやれと言った表情でパンを頬張る姿がこの店の力を現している。

かぼちゃのスープ、牛肉の煮込み風ステーキ、フルーツポンチ。上品な味である。そして予想通りパンが美味しい。フランスの植民地はパンが美味しいのである。飲み物は冷たいレモングラスティー。ほのかに甘い。食後のお茶は桑の葉茶、ティーパック。ポットに入ってくるのだが、うーん、味が薄い。日本語のフリーペーパーが置かれている。見てみると主なレストランの宣伝が中心。日本料理屋も何軒かあるらしい。パクセーと言う場所は世界遺産に指定されているが、この近くではお茶が採れるらしい。

(3)観光
①バトゥーサイ(凱旋門)
レストランの前から凱旋門が見える。歩き出す。日差しが強い。フランスの凱旋門を模して1958年以降建造されているが、現在まで上に登る階段が完全には完成していない。資金がないらしい??

門の上にはヒンズー風の塔が3つ。真下まで行って上を見上げると天井にもヒンズーの絵が描かれている。ラオは元々ヒンズー文化圏。12世紀にヒンズーを捨てて小乗仏教に乗り換えている。

尚真下は何故か風が吹き抜けて実に気持ちが良い。ゴルゴは言う『ここは昔から涼しい場所だ』。前に池があるからだろうか??テーブルではバイクタクシーの運転手達が王冠を使って将棋??に熱中していた。憩いの場所なのであろう。

周りには大蔵省、外務省など旧フランス時代の建物をそのまま利用した官庁が並んでいる。この辺はベトナムなどと全く同じ。尚2004年のアセアン会議に併せて周囲の公園が整備され、中国から寄付があったことが記念碑に記されている。

②ホープラケオ
ホーは博物館の意味。1563年セタティラート王により建立された。ワットプラケオ(エメラルド寺院)であったが、戦乱でエメラルド像をタイに持ち去られ、名前を変えている。尚タイ側は奪い去ったのではなく、取り戻しただけと主張している。この辺が隣国は微妙である。

現在の建物は1942年に再建、なかなかバランスが良い造り。多くの観光客が訪れている。正面階段の両脇には『ラーイ、ラーオ』と呼ばれる龍のレリーフが配されている。中国の影響かと思ったが、角が一本の龍は中国にはいない??

この博物館には全国から仏像や遺品が集められている。伽藍に置かれた仏像は殆どが目を刳り貫かれている。そこには翡翠など宝石が嵌められていたのだ。痛ましい。仏像は全体的に柔らかい。石碑も並んでいる。読めない文字が書かれている。

中は暗い。やはり全国から集められた漆喰の箪笥??(経典を入れる物)やかなり大きな金の仏像が安置されていた。しかし中が狭いためあまり整理されている感じはない(雑然と置かれている)し、説明がないと何も分からない。

庭の向こうには旧大統領官邸、現在の迎賓館が見える。フランス風の建物であるが、如何にも古い。

③ワット・シーサケート
ホープラケオの向かいにある寺院。ビエンチャン最古の寺院。1818年アヌ王により建立される。本堂を取り囲む回廊には無数の小仏像が埋め込まれている。これまでのタイとの戦乱、フランスのとの戦乱などを生き残ってきた唯一の寺院。

モナストリーがある。小坊主が顔を出し、外国人観光客と英語で会話している。しかもその建物が半分は道路にはみ出しているのが面白い。何か由来があるのだろう。しかしゴルゴがいないので分からない。

庭には大小の仏塔がある。飾りかと思っていると全てがお墓だと言う。見れば写真が埋め込まれたものもある。お金持ちが多額の寄進をすると作れたらしい。現在は場所がなくて作ることは出来ない。鐘楼もある。しかし中には鐘ではなく鼓がある。毎日この鼓が鳴らされる。

本殿の中には黄金の仏像が3体。かなりの大きさがある。輝いている。多くの人々が祈りを捧げている。ラオは小乗仏教であり、男子は一生に一度は出家する(一週間程度)。しかし日常はミャンマーのように常に祈っていると言うことはないようだ。祭りの時に行くと言うことは形骸化している。

 

④タートルアーン
少し離れた小高い丘の上、タートルアーンがある。歩いて来るのはちょっと大変な場所である。入口には土産物屋、食べ物の屋台が出ている。焼きバナナが目に付く。少女が氷で冷やした飲み物を売っている。

中は広々している。その起源は3世紀まで遡ると言われているが、セタティラート王が1566年に建造を開始したらしい。これはルアンバパーンからビエンチャンに遷都した直後のことだ。王の遺言で建物の前の広場には王の像が鎮座している。何ともユニークな感じで座っている。

現在の建物は85mあるが、元々はインドで修行した僧がブッダの骨を持ち帰り小さな建物を建てた。その後戦乱の度にタイやミャンマー軍が財宝を求めて破壊、掘り返している。骨以外はない。その度毎に更に大きな建物が建立されて現在に至る。

毎年盛大な祭りがあり、全国から僧侶が大量にやって来て、回廊に寝泊りしている。その場所取りが大変だと言う。3日間泊り込むとなると本当に大変だ。暖かいとはいえ、老僧などは大丈夫なのだろうか??現在脇に大講堂が建設中。出来上がればここに泊れるようだが、資金確保がままならず、いつ完成するか分からないようだ。(既に建設開始から5年経っている)

一般民衆は塔の周りを3回回る。夜は塔がライトアップされてきれいだそうだ。ミャンマーと違って、ここでは男女の区別なし。金箔を貼るなどの習慣もない。人々は穏やかで、タイの様にギラギラしてはいないが、一方特に信仰が深いとも思えない。ラオ人は何ともつかみ所のない人々である。

ゴルゴが突然女性に手を振る。向こうも振り返す。何と日本人。彼女らはJICAのプログラムでやって来て田舎にホームステイした看護士たち。ゴルゴも彼女らに着いていき、一昨日行動を共にした。一緒に一泊して仲良くなったらしい。

口々に『田舎はいい、人々との触れ合いが素晴らしい』と言う。田舎のこと、医者も一緒だったが、酒が出て大変だったらしい。数人は二日酔いで倒れていたとか??日本では忘れられた世界がラオの田舎にはあるらしい。次回は私も田舎に行きたい。

⑤タラート・サオ
朝市。中心部にあり、名前は朝市であるが、今は観光地化して9時から4時まで。普通のオフィスと変わらない。中は広く何でもある。携帯は凄い勢いで普及している。基本料金は10ドルだが、プリペイドなら2-3ドルから使える。機種はノキアが目に付く。中国で買った携帯と同タイプは値段が全く同じ。66ドル。

店員は北京語通じず、英語片言。冷蔵庫は中国のハイアールの他、東芝、シャープなどタイで生産されたもの。デジカメもある。そういえば、某中国系ホテルではデジカメに入っていたSDカードだけが盗まれる事件が発生したとか??

たこ焼き器やホットケーキプレートがある。美味しそうなパンケーキが出来上がる。フランスパンも売られている。ここは観光客用の市場なので野菜などは売っておらず、直ぐ食べられる物を扱っている。

服はシンという名のスカートが売られている。木彫りのカエルはミャンマーに比べて音が良い。ドリアンなどのフルーツは豊富。尚場外には薬草を売る少数民族がいた。漢方薬である。尚少数民族はいるが、現在のラオには実は制度上はラオ族(高地、中地、平地)しかいない。それはラオの歴史上悲しい出来事があったからである。

モン族の悲劇、アメリカに加担した右派モン族とパテトラオに組したモン族が同族で戦う羽目になり、最後はパテトラオに追い詰められた右派モン族が大量虐殺されてしまう。その後民族間がギクシャクしたため、政府は同一民族の共同を強調したのである。しかしこれは如何なものであろうか??

CDショップを覗く。まだDVDよりVCDである。何故CDを見たのか??実は明日ラオの歌手と会う予定が在るので、彼女のCDを買って置こうというものである。しかしなかなか見付からない。

現在は西洋人とのハーフであるアレキサンドラという女性歌手の人気が高い。彼女のCD を見てビックリ。何とスポンサーとしてトヨタの名前がある。私のお目当ての歌手のCDは何とか1枚あったのみ。明日はどうなることやら??

 

 

 

 

 

《ラオス散歩2013》(11)ルアンプラバーン 日中合弁ゲストハウスに出会う

日中合弁ゲストハウスに出会う

そしてまたメコン川へ出た。河沿いをぶらぶら歩く。気持ち良い風が吹くがかなり暑い。あてもなく歩いて行くと、河沿いに駐車している車が目に入る。何と中国雲南ナンバーだった。こんなところにまで、中国人は車でやってくるのか、と写真を撮っていると、後ろから中国語で『中国人か?』と声を掛けられる。慌てて『日本人だ』と中国語で答えると、相手が『え、日本人なのか?』と日本語で返してくる。

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何とも奇妙な出会いだった。彼は何と北京出身で日本にも留学経験のある中国人だった。中国生活に飽き、環境の良い、ここルアンプラバーンに移住したのだという。そして彼が『私は日本人と一緒にそこでゲストハウスをやっている』というのを聞いて、興味を覚える。

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ゲストハウスは本当に河沿いのすぐそこにあった。日本人もいた。そこへ長老がやってきた。聞けば、華人で中国語が話せるとのことで、早々に話を聞く。おじいさんのお父さんは広東人。『親父は広東から船でハノイへ行き、そこから陸路、カンボジアへ。そしてまた船でメコン川を遡り、ここへ着いたんだ。俺も大学はベトナムのホーチミンへ行ったよ。ベトナムは兄貴分だからな。ずいぶん昔の話だが』。ルアンプラバーンには華人は多くはない。その中でこの老人は華人のまとめ役らしい。

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一日1回は立ち寄るという老人が去り、日本語を話す中国人もどこかへ消えていた。日本人Sさんと話し始めた。驚いたことに90年代香港に駐在し、2000年代は上海や青島にもいたサラリーマンが縁あって、ここまでやってきたという。私と似通った部分もあり、話が弾む。

 

そしてここへ来る前に雲南省のシーサンバンナで仕事をしていたとの話から、先日バンコックのお茶屋で会ったシーサンバンナの不動産屋さんが彼の勤め先であると知り、あまりのご縁に双方驚いた。そんなことがあるのだろうか。彼は今でも時々シーサンバンナへバスで行き、プーアール茶を持ってベトナムへも行くという。まさに昔の物流ルートを行っている。実に興味深い。

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昼飯も食わずに3時間も話しただろうか。話は尽きなかったが、時間が尽きた。空港へ向かう時間となり、次回の再会を期待して別れた。

 

それから急いでホテルへ取って返し、荷物を受け取り、トゥクトゥクを探すが見つからない。暑いから皆昼寝中のようだ。1台のソンテウが停まっており、聞くと6ドルで行くというので乗り込む。空港までは20分ぐらいで着く。

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ルアンプラバーンの興味深い旅も終わった。ラオセントラルで一端ビエンチャンへ戻り、国内線から国際線のターミナルへ移動し、再度チェックイン。乗り継ぎ時間は1時間しかなかったが、そこはローカル空港。何事もなく、バンコックへ戻った。

《ラオス散歩2013》(10)ルアンプラバーン 托鉢に思う

9月29日(日)

托鉢に思う

翌朝も早く起きた。外が明るくなっていたので、ホテルの前に出ていくと、各家の前に女性たちが出て、托鉢のお坊さんを待っていた。この光景はミャンマーで見て以来。何となく、好ましく思い、お坊さんの一団について歩く。

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相当数のお坊さんが歩いてくるので、ツボの中にご飯やお菓子を入れるのも忙しい。ここでは毎日こんなに大々的に托鉢をしているのだろうか、などと考えていると、向かいのおばさんが手招きする。こっちにきて、お前もやれ、という仕草だ。

 

おばさん3人ぐらいがやってきて、次々に渡す物を置いて行き、お坊さんにあげる仕方を教えてくれる。本当にスピードが速い。お坊さんの歩くスピードに追い付かず、四苦八苦。お坊さんの中には小坊主もかなりいる。こんなに托鉢を受けてどうするんだというほど、抱えている子もいた。

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ようやく一団が通り過ぎ、辺りが平穏になると、おばさんが手を出してきた。確かにお坊さんにあげる品々を貰ったのだから、おれをしなくて行けないと、5ドルを取り出すと『20ドルだ』といきなり英語でいう。これには参った。いつもなら『そんな話はしていない。そんな高いはずはない』などと口論になるところだが。

 

その時、ちょっと怒っている自分に向き合う自分がいた。『確かにこのおばさん達はいいことはしていない。この托鉢自体が一種の観光イベントであり、宗教的には疑問もある。だが私自身の気持ちはどうなんだ?』そしておばさんに黙って20ドルを渡し、合掌して去る。おばさん達は一瞬きょとんとしていた。

 

そしてホテルで気持ち良い朝食を取り、少し横になる。庭でPCをいじり、時間を過ごしたが、今日の午後にはバンコックに戻る身であり、再度街をぶらつくことにする。先ほどの托鉢の終点は、ワットシェントーン。実に立派なお寺だった。拝観料を払う必要があったが、時間が早すぎ、誰もいなかったので、外から写真に収めて去る。

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《ラオス散歩2013》(9)ルアンプラバーン プ―シー山の夕陽

プ―シー山の夕陽

そしていよいよハイライト?博物館前の道を上る。小高い丘、プ―シー山から夕陽を眺めるためだ。観光客と思われる欧米人、中国人、韓国人、インド人などが続々と登っていく。階段はかなりあり、途中に入場料を支払う場所がある。そこまでたどり着くと、一休みせざるを得ない。体力の低下が懸念される。

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既に陽はかなり傾いていたが、それでもある程度の高さを保っていた。頂上まで登りきると、そこには堂があり、タイ人が熱心に祈りを捧げていた。それが本当だろうが、我々一般観光客は夕陽にしか関心がない。

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陽が落ちる様子を見るに適した場所は既に人で埋められえていた。皆がカメラを構えている。私も構えているのだが、何だか滑稽に思えてくる。せっかくきれいな夕陽が落ちていくのに、この目で見ないでファインダーを通して見る、脳裏に焼き付けないでカメラに焼き付ける、何で?

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そして夕陽はスルスルと落ちて行った。シャッターは何度も切ったが、これはという写真は遂に撮れなかった。まあ、そうだろう。皆が山を下りる前にそそくさと下山した。混雑は余韻を妨げる。

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観客の少ない民族舞踊

勢いよく下りてくると、目の前に昼間行った博物館がある。そうだ、あそこで民族舞踊があったなと思い出し、そのまま行ってみることに。建物には人が殆どおらず、チケットを買うと、おじさんが『エンジョイ!』と言ってくれたが、2階の会場には誰一人観客がいなかった。ちょっと緊張。

 

その中で民族楽器を奏でる人々が何事もなかったように演奏している。そして開演の少し前にフランス人の老夫婦が入ってきて、ほっとする。それからドイツ人が入ってきたところで、さっきのおじさんが司会者として登壇。流暢なフランス語、英語で話し始める。そこへ中国人団体客が10名ほど、ガヤガヤやってくる。

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舞台では民族舞踊があり、ラーマーヤナの一節が軽快に演じられるなど、本格的であった。これはラオスのトップクラスのスタッフの舞台なのだろう。だがあまりにお客が少なすぎる。モチベーションを維持するのも大変なのではないか。

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中華な夕食

舞台が終わり、既に8時を回っていた。夕飯はどうするか、ガイドブックに中国料理屋が載っていたので、そこへ行ってみる。が、暗いこともあり、なかなか見つからない。段々面倒になり、適当な店へ入り、炒飯を注文した。

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お客は殆どおらず、イングランドプレミアリーグのサッカー中継を見ながら、食べた。味は本格的な中華だった。よく見ると店員も中国系の顔をしている。実は探していた店はここだったのではないか、と思いながら、言葉が通じないこともあり、早々に退散した。

《ラオス散歩2013》(8)ルアンプラバーン お寺巡り

カオソイ

それから街をうろつく。天気が良く、日差しは強いが、さわやかな感じが何とも心地よい。ルアンプラバーンは基本的にメコン川とお寺の街。歩けばどこでもお寺のぶつかり、川にぶつかる。川から吹く風が心地よい、ということだろう。

 

フラフラしていると、両替所があり、ここのレートが良いので両替する。観光地と言いながら、意外と米ドルを受け取らない所もある。人民元の両替レートが特によいように感じられる。歩いても中国人が多いようには見えないのだが。因みに両替所の女性は英語が苦手のようで、小学生ぐらいの彼女の子供が応対してくれるのが面白い。

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小さな市場に紛れ込む。この辺にカオソイ屋があると聞いてきたのだが、既に店じまいしていた。朝早く来ないとダメ、明日来て、と言われる。市場では野菜などを売っていたが、バイクで来たおばさんが『わさび』と日本語で言ったのには驚いた。そして店の人も日本のわさびを取り出していた。

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カオソイがないと言われると急に食べたくなるものだ。ホテルの近くまで戻り、ローカルなお店に入る。一応英語が書いてあり、何とか意思は通じた。まるで時間が止まったようなテーブル、そしてそこで食べている人々、不思議な空間であった。出てきたカオソイも上の空で、その空間に浸ってしまった。

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街歩き ワットルアン

ホテルで一休みして、また歩き出した。今度は博物館へ向かう。街の真ん中の立派な建物だった。往時の繁栄を偲ぶ品々が展示されていた。そうここは古都なのだ。昔は王様がいたのだ。だが今は誰もいないような静けさ。博物館の横には何やら立派な建物が。こちらは劇場のようで、夜にはショーがあるらしい。暇があったら来てみようと思うが、チケットは買わないで様子見。

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それから地図も見ずに歩く。歩けばお寺があるので、フラフラ入り、またフラフラ出る。面白いほどにお寺に行きあたる。そして街外れの外れまで来ると、ワットルアンという寺にやってきた。

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このお寺、なかなか雰囲気が良い。かなりの古さもさることながら、仏塔にしがみ付く?仏像など、ユーモラスな仏が見られる。新しい本堂と古い仏塔のコントラスト、何だかルアンプラバーンを象徴しているようだ。しばし休息して眺めると、陽が少しずつ西へ傾く。

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更に街中に戻りがてら、いくつかのお寺を見学。仏塔や本堂の形に変化がみられ、面白い。さすがに暑い中、3時間も歩くと疲れ果て、メコン川沿いのカフェで休息。カフェと言っても、河沿いにテーブルといすを置き、川を眺めるだけ。でもそれが良い。疲れた体が糖分を欲しがり、思わずコーラを注文。何と料金は100円、この景色を眺めるには安い。

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《ラオス散歩2013》(7)ルアンプラバーン メコン川を独り占め

9月28日(土)

リラックスできる朝食

翌朝は実にさわやかに起きた。理由は不明だが気分がいい。前日の軽い食事、あまりPCを見ない生活、そしてこの地の豊かな自然、静かな環境、どれをとってもリラックスできる要素だった。

 

鳥のさえずりに誘われて、朝食は庭で取る。美味しいパンに、新鮮なフルーツ、アツアツのオムレツ。爽やかな朝にピッタリだった。このような爽やかな、そしてリラックスできる朝を迎えることに感謝した。

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食後日差しが強くなり、暑さが予感されたので、先ずはゆっくりコーヒーを飲みながら、PCに向かって旅行記を書く。そのままずっと座っていたいほど居心地が良かった。いきなりドイツ人、いやオランダ人かなと思われる女性が『気分はどう?』と聞いてきた。『抜群』と答えると笑顔で他のテーブルへ。彼女はこのホテルのマネージャーだった。お客もヨーロッパ系が多く、彼女にこの仕事はぴったりだと思われた。

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ボートトリップ

ホテルの中庭にも飽きてきた頃、メコン川でも眺めようと出掛ける。何をするでもない、あてもなく散歩した。突然河沿いで『ボートに乗らないか』と声を掛けられた。いつもならやり過ごすのだが、あまりに暇だったので、そのニーちゃんの話に付き合ってみた。

 

『お客がいないんだよ、今は。だから8ドルでメコン川クルーズに連れて行くよ』と言われ、それなら時間潰しにいいかと、着いて行く。彼は川に下りる。20人ぐらい乗れそうなボートが目の前にあった。これを貸し切りで使った。まさにオフシーズン。

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メコン川に出ると青い空、広い河、眺めがよかった。雲の形と山の形が妙に調和していた。行き交う船も少なく、本当に広々していた。先ずは対岸の寺へ向かう。石段を登るのに一苦労したが、小高い丘の上には古い寺があった。更に案内の子供について歩いて行くと、洞窟があった。彼らは懐中電灯で中を照らした。何か神々しい感じがした。

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それからまたボートに乗り、川面から景色を眺める。向こうの丘に雲が低く垂れこめ、独特の情景を作り出す。若いお坊さんが川に入り、泳いでいた。魚を取る漁師もいた。ボートはあてもなく、ゆっくり、ゆっくりと流れていく。こんな時間は永遠であっても誰も文句は言わないだろう。

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1時間の約束が過ぎた頃、ボートは岸に戻った。これで8ドルは安いと思ったが、その金額を渡すと、ニーちゃんはにこりとして受け取り、足早に去って行った。いい小遣い稼ぎだったのだろうか。彼はお客のいない川を離れ、またバイクタクシーの客引きに戻っていた。

《ラオス散歩2013》(6)ルアンプラバーン 静かな街で気分転換を

2. ルアンプラバーン

ローカル空港

そしてランチもご一緒し、F夫人に空港まで送ってもらい、ルアンプラバーンへ。実は最近愛用していたパソコンが突然壊れ、かなりのショックを受けていた。このような時には気分転換が必要と言われ、今回2日間の空き時間を利用して、『癒しの空間』と言われるルアンプラバーンを訪ねることにしたのだ。

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ビエンチャン‐ルアンプラバーン間にもラオセントラル航空が飛んでおり、それを選んだ。ただ料金は直前の予約だったせいか、バンコック‐ビエンチャン便より高かった。ラオスで国内線に乗るのは初めて。ターミナルも国際線の横の簡素な建物、搭乗時間の30分前にならないと、セキュリティチェックへ進めないようなローカル空港だ。搭乗は歩いてタラップへ。昔の中国を思い出す。飛行時間わずか30分、あっという間にルアンプラバーンに到着した。

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空港から市内へ行くバスなどないかと探したが、全くなかった。仕方なく、空港タクシーで行く。7ドル、高いのか安いのかよくわからない。河を越えて、街に入る。河沿いにホテルなどが見えたが、私が適当に予約したロータスビラは河沿いではなかった。

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ロータスビラ

ロータスビラはシンプルな造りのブティックホテル。清潔感があり、フロントの対応も悪くなかった。部屋は中庭に面していたが、一人なら十分の広さ。ゆったりとしたベッドがあり、寛げた。WIFIも完備されており、もしこれで机があれば完璧だった。欧米人客が多く、彼らは庭にあるテーブルでPCをいじっていた。

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これからか2日間、私には何の予定もない。ここに来た目的も気分転換のみであり、何かを見るつもりもなかった。ただ静かな街なので、先ずは様子を見に外へ出た。メインストリートは直ぐに分かり、観光客向けのカフェや土産物屋が並んでいたが、客は少なかった。オフシーズンらしい。

 

土産物を売る露店のマーケットが店開きをしようと準備していたが、そんなにお客があると思えない。夜にもう一度歩いて見たが、本当に寂しい状況だった。それでも店を開けていく必要があるのだろう。子供たちが元気に遊んでいるだけだった。

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夕飯を食べる気力もなく、バンミーを買って食べた。これはベトナムで食べるのより美味しいような気がした。部屋に戻り、シャワーを浴びてちょっとネットを見ていると眠くなり、すぐ寝入る。そんな静かな夜だった。

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《ラオス散歩2013》(5)ビエンチャン ラオス経済危機の兆し

メコン河レストランから焼肉へ

夜は4人でメコン川沿いのお洒落なレストランへ行った。観光客向けで、とても雰囲気が良く、欧米人も多くいた。メニューを見て、注文を終わると、ノイの携帯が鳴る。何と、昨日のメンバーが今日も一緒に食事をしようと、別のレストランで既に待っていたのだ。

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このおしゃれなレストランでも是非食べてみたかったが、こうなるとそちらへ行くしかない。ノイは慌てて注文を取り消し、我々は街中の焼肉屋へ向かう。そこでは面白い形の鍋に肉を入れ、低くなった鍋のふちにたまった汁で野菜を煮て食べていた。これも面白い。

 

皆陽気に食べている。1つのプロジェクトチームの結束を高めるにはよい。Kさんはお得意の『ナイトイングリッシュ』を披露して場を盛り上げる。これからどんな進化が得られるのだろうか。

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一端ホテルに戻り、Kさん、Mさんと一杯飲みに出かける。私の旅では稀なことであるが、ビエンチャンの夜を見るのもよい。1軒のバーに入ると、そこはライブハウスにもなっていて、欧米人が歌を歌っていた。雰囲気は悪くない。ジントニックを飲みながら聞く。

 

ふと見ると向こうのテーブルにビエンチャン在住のM氏が楽しそうにお酒を飲んでいた。彼とは前回ビエンチャン茶会開催で合意していたが、今回はこちらの都合でキャンセルしてしまっていた。何となくバツが悪い。どうらやビエンチャンは狭い世界のようである。このメインストリートの一角以外は暗く静かな街がある。

 

9月27日(金)

ラオス経済 危機の兆し

翌日はお茶会開催を待っていてくださったFさんご夫妻と会う。F夫人によればビエンチャンの日本人の間では婦人会のようなものがあり、定期的な集まりがあるそうだ。次回はこちらを基盤にお茶会をしようということに。

 

ご主人はラオスへの観光を促すお仕事をしている。日本人がラオスを訪れる割合はカンボジアなどと比べるとまだまだ少ない。ラオスには豊富な観光資源があるが、知られていないと嘆く。

 

F夫人の言った一言が気になった。『最近現地通貨キップから米ドルなど外貨への両替が出来なくなった』と。これはラオスの経済にとって危険な兆候ではないか。中国経済に依存しているラオス、その中国が減速し、かつ隣国タイの経済も思わしくない。小国ラオスは苦しんでいるかもしれない。

 

⇒ラオス関連コラム http://www.chatabi.net/colum/67.html

 

《ラオス散歩2013》(4)ビエンチャン 私の心には希望の虹がある

私の心には希望の虹がある

その後ノイは我々を政府機関に連れて行った。古びたビルの4階まで足で登る。教育省だった。若い担当者が相手をしてくれた。今回のプロジェクトの1つは学校を作ることであったが、『コミュニティに還元できるような学校であれば計画書を持ってきてくれればすぐにでも認可する』といわれ、唖然とする。

 

ラオスで学校を作ることは非常に厳しく制限されていると聞いていた。社会主義国家であれば特にそうであろう。それがなぜそんなことに?『ラオスでは今新しい試みが必要だ』と担当は言う。だが聞いた誰もが『実際に申請した時に、すぐに認可してくれるとは思えない』と口々に言う。そんなところだろうか。それにしても、ラオスも少しずつ動いてきているのかもしれない。

 

それから我々は盲学校を訪ねた。病院に付設されており、広い庭があり、そこでは目の見えない子供たちが共同生活を送っていた。ノイはここで歌の指導をしているという。単に自分の学校を開くだけでなく、縁があるところへはどこへでも行って、自分のできることをしている、ノイの活動には感心させられることが多い。

 

沢山の子供たちが集まってきて、ノイに触れようとしている。彼ら、彼女らは目は見えないが、ノイが感じられる。手と手が触れ合うこと、それが如何に大切であるか、抱きしめてあげることが如何に大切であるか、を教えられる。

 

一人の少女が進み出て歌を歌うという。彼女には眼球がない。この子はこれまで一体どんな人生を歩んできたのだろうと思っていると、信じられないほど澄んだ声で、堂々と歌い始めた。

 

『私の目には見えないが、私の心には虹が見える。私は虹が七色であることを知っている。私の心には希望の虹がある』

 

ノイは大粒の涙を流しながら、ラオス語で歌われた歌詞を訳してくれた。私は心臓が止まるかと思うほど、心が震えた。恐らくはそこに居た全員がそうだったのでないだろうか。この子はこれからどんな人生を送ることになるかは分からないが、ノイと出会ったことは彼女の宝となるだろう。後で聞くとあの子は昨年のノイのサプライズコンサートできれいなドレスを着て舞台に立っていた。それがどんなことなのか、彼女の歌が教えてくれた。

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教育省が学校建設を推進するのは歓迎だが、本当に必要な学校は心の学校だと、つくづく思う。これは日本にも言えることである。