《ビエンチャン散歩2013》 2013年7月21日-24日
昨年11月に訪れたラオスのビエンチャン。そこで見たノイの活動は衝撃的だった。私は何らかの形で彼女の支援をしたと思っていたが、具体的な策はなかった。そこへ大阪のKさんが忽然と現れた。私の話を聞き、『支援したい』と申し出てくれた。だが、実際に現場も見ていない、ノイに会ってもいない人に支援を要請するのはどうだろうか。そういうとKさんは『ビエンチャンに行きましょう』と言い出し、当然のこととして紹介者である私もビエンチャンに飛ぶことになった。
7月21日(日)
1. ビエンチャン1
ビエンチャンまで
Kさんはバンコックにやってきて2泊した。費用節約のため、無料で泊まれる場所に2人一部屋で泊まった。これにより、色々な話が出来て、よかった。当日朝タクシーでスワナンプーム空港へ向かった。空港までは順調だったが、空港内が大混雑。バンコックエアーのチェックインカウンターはいつものように長い列が出来ていた。それでも2人で待つとそれほど苦痛ではない。ようやくチェックインしたのは45分後。それからイミグレを通ったが、これまた滅茶苦茶混んでいた。
バンコックエアーの特徴の一つに、エコノミークラスでも使える空港ラウンジがある。Kさんにもこの話をしており、興味を持っていたが、何とイミグレを抜けた時は既に出発30分前。搭乗のアナウンスが聞こえてきて、慌てて搭乗口へ。搭乗口には既に人影もない。乗り込むと、なぜか殆ど人がいない。


てっきり皆イミグレで手間取っていると思っていると何と飛行機が動き出す。数えてみると乗客はたったの18人。こんな飛行機、初めて見た。バンコックエアーにチェックインする人はあんなにいたのに、ビエンチャンに行く人はこんなに少ないのだろうか?機内食は朝からしっかり出たので食べているとすぐにビエンチャンについてしまった。


ビエンチャンでトランジット
イミグレはスムーズに通過した。空港にはノイが迎えに来ているはずだったが、見当たらない。携帯に電話するともうすぐ着くという。一瞬焦ったが、5分ほどで合流し、ノイの運転で市内へ。先ずはいつも泊まるホテルへチェックイン、荷物だけ置いてすぐに昼ご飯。陽光飯店という中華系のレストラン。ノイの教え子の女性2人も参加する。外国人と一緒に食事をする、それも彼女らへの教育の一つなのだろう。でも彼女らは恥ずかしがってなかなか話さない。食事はラオス式?の鍋。これはこれで美味しいし、面白い。


それから車はスラム街へ進んだ。一体何のために?ノイは車を下り、我々には車内で待つようにと告げる。ある家へ入り、女の子を連れて出てきた。彼女はノイの教え子で、このスラムに住む。歌と踊りが上手く、近所の子供たちを集めて歌ったり、踊ったりしているという。若き指導者なのである。

『彼女は家庭環境には恵まれていないが、才能はある』という。実は本日はこれからタイのノンカイでショーがあり、ノイ一行と我々はそこへ向かうのだが、彼女は家庭の関係でパスポートを持っておらず、一緒に行くことが出来ない。それが残念だと、わざわざノイは彼女に会いに来て抱きしめた。このような交流、愛情表現が大切なのだと分かる。
さて、そろそろノンカイへ向かう時間だが、と思っていると見慣れた家の前に停まる。ノイの実家、家具屋さんだ。ノイが是非お父さんに会ってほしいという。彼女のお父さんは、元教育者で、昔は王家の人にものを教えたこともあるという。だが2年前に脳こうそくで倒れ、現在お話はできるが麻痺が残っている。

お父さんは英語が流暢。必ずしもノイの活動に賛同している訳ではないことが分かる。それはそうだろう、ミスラオスでオーストラリア留学にも出し、おまけにトップアイドル。こんな娘が困難な障害児、女性支援をしなければ、優雅な生活が約束されていたはずだ。ラオスは母系社会の末子相続。実はノイが末の女の子であり、結婚して跡を取って欲しかった、との強い願いがあった。
それからノイの新しいオフィスへ向かう。昨年11月にあった学校は家主からの立ち退き要請があり、既に閉じていた。集まっていた子供たちも今は10人程度しか収容できない。困っていた。ラオスは本当に難しい国だ。オフィスはお母さんの土地に建てられていた。ここに数百人を収容できる寄宿舎付きの学校を建てることが彼女の目下の課題だ。その夢はいつ実現できるのだろうか?今回の我々の使命はそのための準備。

2. ノンカイ
簡単なイミグレ
元々の予定では午後3時頃にノンカイで活動をするとあったが、既に時間は午後4時。これがラオス時間か。だが出発したら、30分ぐらいでタイとの国境に着いてしまう。この近さは何だ。しかしイミグレで誰かを待つ。タイ式のラーメンを食べる。日が西に傾く。


今日のショーに出演する女の子たち20名と合流した。彼女らはビエンチャンから1時間ほど離れた場所に住んでおり、このためにやってきたのだ。車が遅れてこの時間となる。20数名のイミグレ手続きは意外と時間がかかる。みな楽しそうに待っている。

でもタイとラオスの国境が簡単に越えられることが分かって収穫だ。ラオス人が車でどんどんタイへ入り、買い物などしてまたビエンチャンへ帰る。確かにビエンチャンの日本人も『必要なものはタイで買う』『病気やけがはタイへ行く』という意味がようやく分かった。
大宴会へ
そしてイミグレを越え、ノンカイの街に入り、更には住宅街へ。今朝タイから来たのに、また今タイにいる自分に少し驚く。目の前に立派なお屋敷が見える。庭には沢山のテーブルが出され、人々が食事していた。どうやら我々を待っていたようだ。ノイたちはここではプロのパフォーマー。楽屋へ向かい、着替えや化粧を。私とKさんはいきなりファーストテーブルへ案内される。

見渡すと、個人の住宅の庭にテーブルが十数個、100人以上が食事をし、酒を飲んでいる。入口にちょうど頭の毛を剃った若者がいた。実は明日彼は一生に一度の出家をする。カオパンサー、雨安吾入り。タイでは大事な行事、ましてや有力者の一族にとっては盛大なお祝いの日なのであった。そんな日であるから、ラオスの有名人、ノイ一行を招いて、舞台を盛り上げようということだろう。

舞台では歌手が歌を歌い、テーブルではお客が大量に出された料理を食べる。実は暗くて、何が置いてあるのか、よく見えなかったが。テーブルのおじさん達が、何となく興味津々でこちらを見ている。英語が話せるおじさんがビールを持ってやってくる。田舎の宴会、楽しそうだ。

そしていよいよノイ一行のショーが始まった。ラオスの伝統舞踊、歌が披露される。ノイ自身が中心となり、ショーが展開されるが、弟子の女性たちも日ごろの練習の成果を存分に出していると思われる。このような人前で演じること、それは彼女たちの実戦練習の場であり、同時に支援者との関係を築き、支援を受ける、それがノイの目的なのである。


1時間ぐらいショーは続き、観衆は大喝采。その後は会場の人々を次々に舞台に上げ、一緒に歌い、一緒に踊る。何と私とKさんにもお声がかかり、舞台へ。観衆の『日本の歌が聞きたい』とのリクエストに困っていると、ノイが『中島みゆきの時代、歌おう』と言い、歌いだす。酔いも手伝い、ノイの後について、大勢の前で歌を歌ってしまった。上手いかどうかではなく、日本人がわざわざやってきて、日本語の歌を披露したことに聴衆は満足したようで、人々が拍手してくれた。これも一つのノイマジック。人をその気にさせる、それは教育の基本だろう。


会がほぼお開きになり、皆が帰っても、歌い、踊りまくっていたタイ人のおばさんがいた。Kさんいわく『まるで大阪のおばちゃんのノリや』『吉本にスカウトしたい』と。確かに疲れしらず、ノリノリで人のことも目に入っていない様子。すごいの一言。

気が付くと時刻は夜中の12時。ノイが『イミグレは10時に閉まったから、今日はノンカイに泊まりましょう』という。え、折角ビエンチャンのホテルにチェックインしたのに。慌ててホテルに電話して、今日帰らないことを告げる。でもどこに泊まるの?この家の家主がホテルを手配してくれるという。
ところが、今晩は宿が結構埋まっていた。カオパンサーの影響かもしれない。2₋3軒車で訪ね歩き、ようやく1軒見つかる。ところが・・、その部屋には小さなベットが1つだけ。『ここに2人で寝て』と言われて、Kさんと唖然としているうちに、皆行ってしまった。辛うじてお湯が出来るシャワーがあったようでKさんはシャワーへ。既に1時半であり、オジサンの私は、ベットの端で丸くなるとすぐに眠りについてしまった。Kさんと私は1つベットで夜を過ごした。『一生忘れることのできない経験』をした、と後にKさんは語る。

7月22日(月)
カオパンサー
目覚めは爽やか、とはいかなかった。何だか頭が重い。今は何時だろうか。鳥のさえずりが聞こえる。外で声がした。何と既に皆出発の準備が出来ていた。タイ時間ではないな、この速さは。周囲を見渡すと何もない田舎。ここはここで環境が良い。

ビエンチャンへ帰るのかと思いきや、昨晩の宴会場へやってきた。そこにはノイチームのメンバーがいて、朝ごはんを食べていた。我々も朝ごはんかと思ったが、なぜかそこを離れる。説明は何もなく着いて行くしかない。

朝市へやってきた。市場を見せてくれるのか、と思いきや、誰かを探しているようだ。何と昨晩のメンバーの数人が待っていた。そこで朝ごはんを食べるために。ようは連絡が上手くいっていなかっただけのようだが、これはこれで面白い。カオトーンと呼ばれるお粥が食べたかったが、なぜかなかった。目玉焼きの上にひき肉を散らした食べ物が美味しかった。

そしてビエンチャンへ、と・・、いやお寺へ来てしまった。そうか、今日はカオパンサー。その儀式に参加するようだ。これは願ってもないチャンス。Kさんははてなマークを顔に出していたが、従うしかない。
そのお寺は結構な敷地がある比較的新しい所だった。恐らくは地元の有力者が寄進したのだろう。真新しい仏像が屋外に設置されている。更に新しい仏像の建造も行われている。タイでは徳を積むことが重要であり、来世へのカギとなる。宗教については色々な意見があると思うが、今の日本を考えると、『来世思考』は必要ではないか、と感じることが多い。

儀式が始まった。えらいお坊さんが講話する。今日出家する人々が数人、袈裟を着て頭を剃り、並んで前に座っている。講話はタイ語で意味は分からないが、座って聞いているだけで心地よい。一生に一度の出家、これも両親に対しる功徳だというが、出家する気持ちはどうなのだろうか。

その後信者がお坊さんにご飯をサーブする。これも一つの功徳。出家者は一つの細い紐を持ち、食事をしていた。我々にも食事が振る舞われる。麺に汁やおかずを掛けて食べるが、これは美味しい。また食べ過ぎる。信者は偉いお坊さんの周りに集まり、また何か話を聞いている。この気持ちは大切だ。























































































昼にゴルゴがやってきた。本当は今日も立派なレストランでラオ料理を食べる予定であったが、昨日予定を変更してもらった。麺屋に連れて行け、と頼んだのである。彼はお安い御用と切り替えてくれた。勿論食事代は既に払っている。店がキャンセルできれば彼にはそこそこの収入があるはずだが、細かいことは言わない。私は自分の食べたい物を食べるだけでよい。
味王と漢字で書かれたエプロンをした店員がきびきびと料理を作っている。ここは美味そうだ。オーナーはおばあさんのようでゴルゴと話し込んでいる。ラーメンに似た麺にチャーシューが載っている。スープが美味い。ゴルゴは自分で醤油を入れたりして味を調えているが、このままで十分ではないのか??
ラオには麺とライスを一緒に食べる習慣はないという。ゴルゴは日本流のラーメンライスにアレンジしたのだ。ラオ人はお昼に麺一杯で大丈夫なのか聞く、腹が減ったらおやつを食べるとの答え。
かえる、皮をむかれた鶏など日本の観光客などは目を向けられない物もいくらでもある。市場は昼下がりでお客もなく、市場の女性達は何と昼からビールを飲んでいる。しかもコップを持たずにビンから直接。この光景、何だか私は好きである。
(5)ラオスの塩辛の汁、ナムパーデーク
キンマの葉も売られている。ビンロウが横にある。ここでも老人がビンロウを噛んでいるらしい。きのこやたけのこの横にさり気なく置かれたビンロウ。これも東南アジアの伝統文化である。
ベトナム人キリスト教徒の墓。華僑もいただろうし、西洋人もいたかもしれない。彼らは異国でも他の墓には入ろうとしないし、異教徒はこの墓地に埋葬できない。午後の陽射しの中で、十字架をつけた墓がリンと輝いていた。
ノイ、5歳頃から父母と共に音楽を始め才能を発揮、国の代表としてロシアに行ったことも。奨学金を得てオーストラリアに留学し、建築学を勉強。アイドル歌手としてデビュー、2002年ミスビエンチャンの才媛。29歳。現在はラオインターTVの英語ニュースキャスター、そして知的障害を持つ子供の為の学校を運営するスーパーウーマンである。
椅子に座るとノイが流暢な英語で話し出す。今年の6月に東京に子ども達を連れて行き、チャリティーコンサートを開いたこと、障害を持つ子供を飛行機に乗せることが非常に心配だったこと。今月は名古屋、常滑でコンサート、日本の人々には親切にされたという。常滑焼の湯飲み茶碗を見せてくれた。
ラオは貧しい。特に田舎は子沢山。一部屋に10人以上で生活している。障害のある子供は働くことも出来ず、邪魔者扱いとなり、生きていけない。現在そういった障害児を63名預かっている。但し政府は宿泊を認めないため、通える子しかいない。田舎は時々訪問して音楽を教えていると言う。
その資金作りのため、コンサートを開き、CDを売る。コンサートは先日トップアイドルであるアレキサンドラとジョイントを開いたばかり。アレキサンドラはお母さんが西洋人のハーフ。昨日見たトヨタがスポンサーをしていたCDの子。
彼女の母親がやってきた。流暢な英語を話す。昔は歌手だったようだ。現在はノイのマネージャー役であろうか??ノイは母から歌を習った。しっかりした親の元でノイの考え方が発達したのだと思う。
踊りが終わるとノイは一人の少女を紹介した。その子は少数民族の出身、重度の障害を持っており、踊ることは難しいらしい。聞いてみると何とノイは彼女を養女にしているという。これには驚いた。ノイがこの事業を生半可な気持ちでやっていないことの証明。
これは大変な経験をしてしまった。涙が出そうになった。ここ前来るには物凄い努力があったのだろう。自分の才能を人に伝えるノイの姿勢には改めて脱帽した。家の前で全員が元気よく手を振ってくれた。ゴルゴも感動して手を強く振る。
6時半に出発。今日こそはメコンの夕陽を見に行こう。到着すると陽は既に雲の中へ。しかし十分にメコンの夕暮れを堪能できた。雲間から輝く夕陽を微かに浴びるメコン、そしてそれを眺める子供。いい風景だ。
夕食はまたもや一人。ゴルゴは中華料理屋に案内した。福満楼と漢字で書かれた立派な門構えの店。中に入ると何とゴルゴは店員と北京語を話し出した。驚いた。彼は一体何ヶ国語を話すのだろう。聞けば北京語よりは広東語の方が更に得意らしい。
その頃お客が着始めた。どう見ても中華系。宴会があるのか、大物と思われる老人が皆に迎えられてやってきた。ここに来る客は顔なじみが多いらしく、皆挨拶を交わしている。華僑の交流の場になっている模様。
(1)朝の散歩
カオチーサイクアンという名前のフランスパンにハムときゅうりを挟んだ美味しそうなサンドイッチがある。香菜がはみ出しているのが魅力的。カオダーイという目玉焼きも売っている。ここで朝ごはんを食べたい誘惑に駆られるが、ホテルの食事を考えて我慢する。(ハエが多く、衛生面は若干心配)
昨日と違って今日はアラカルト。年代物の扇風機が回る中、散歩後で食欲があった。しかしゆで卵を注文すると何分茹でるかと聞かれた。アジアでそんな質問をされることはないので咄嗟に答えられない。3分と言うと半熟以下で出てきた。食べて大丈夫だろうか??
空港には結構人がいた。フライト時間が重なっているのだろう。バンコックとハノイから便が到着するところだ。私が2日前に乗ってきた便である。この2日間も長かった。中身が濃かった。
観光中ゴルゴに色々なことを聞いた。何しろ私にはラオに関する知識は殆どない。先ず国の体制だが、ここは社会主義国ではあるが、ベトナムに依存している。ベトナムがやることはその通り行っている。中国の影響もある。ベトナムが中国と接近している中では当然出て来る。1975年にベトナムが独立、ラオも同様に独立。フランスの統治から脱却する過程で徐々にアメリカ寄りに。
彼はひとり息子。ラオでは男が女の家に婿に行く習慣がある。以前は姓を女の方に変えなければならなかったが、現在は選択可能。彼の場合は一人っ子なので嫁を貰うことが許された。但し別姓。
決められた観光コースを一通り消化するとゴルゴに茶店に連れて行くように頼む。彼は一瞬怪訝な顔をしたが、直ぐに『日本人でお茶が大好きな人が毎年ラオに来ます。以前北部の山奥に入ってかなり古い茶樹を見て来ました。』などという。それはもしかして松下さんのことか??
今度の場所は外国人、バックパッカーなどが立ち寄りそうなカフェ。確かにお茶は売っている。ラオ茶、お土産である。雰囲気が良いカフェであり、オーナーの女性は英語もできるのでここで妥協してラオコーヒーでも飲んでいれば良いのだが、何故か拘ってしまう。
ラオ人は粉っぽいコーヒーにコンデンスミルクをたっぷり入れる。それは我々の想像を超えるほど、甘い。どうやって飲むのか??ゴルゴは私に『全部かき混ぜないように』と注意した。そこでお茶を併せて飲むのである。何ともはや??ゴルゴはベトナム産の香りをつけた茶を頼んだ。最近ラオではベトナム茶が流行っている。香りが良いからだそうだ。
初めからお茶だけを飲めばよいと思うのだが、こういった習慣は簡単に治らないらしい。
因みにラオにはかなり古い習慣をきちんと守っている山岳民族がいる。通い婚、末子相続。現在では車が通っている場所は全て現在化されてしまっている。歩いて1-2日入った田舎だけに見られる。もし行くとすればガイド、護衛など大掛かりな準備がいる。
湯から出ると備え付けのガウンだけを羽織り、裸で過ごす。これは癖になりそうなほど気持ちが良い。思えば今回はこれまで結構厳しい旅行をしてきている。最後に、しかもラオでこんな快適な気分が味わえるとは??やはり旅の醍醐味であろう。
その辻が何故か私の生まれた1961年にビエンチャンに来て、ホーチミンに会うために僧侶に変装し出発したが、そのまま消息を絶った事件を起こす。一体何のために??パテトラオに捕らえられて、ジャール高原で処刑されたと言う説が有力であるが、一方生存説もある、今でも全く謎の事件である。
ゴルゴが迎えに来た。夕食の場所に向かう。日の暮れた街の中、『クアラーオ』はフランス風の建物だった。中に入るとゴルゴが女性に声を掛けた。見るとさっき市場で出会った女性であった。にこやかに迎えてくれる。
どうして問題ないのかと思っていると、驚いたことに日本から松茸保存用に脇に穴の開いた小さなダンボール箱を取り寄せていたのだ。これをホテルの冷蔵庫で保管すればよいと言う。但し成田に持っていくと検疫で引っ掛かるのでバンコックまでにするように言われる。因みに値段は500gで10ドル。その大きさには期待が持てる。
しかし一人である。料理もどんどん出てきて殆ど食べ終わった頃、ようやく音楽が鳴り出した。3人のおじさんが民族楽器を弾き出した。東南アジア特有のゆっくりした、アコースティックな音楽である。若い女性が2人出てきた。小柄で民族衣装を着込み、頭は尖がっている(髪を上げている)。
9時に寝たにも拘らず7時に起床。久しぶりにぐっすり眠れた。疲れがピークに達していたことと環境が良かったことが理由であろう。ベランダに出る。狭いが空気が新鮮で気持ちが良い。下にプールが見える。西洋人の男性が一人、泳いでいた。ゆっくりとした時間が流れている。
8時にホテルを出る。一人で外に出るのは初めてであるが、大体の道はわかっているので問題はない。取り敢えずメコン川に出る。10分も歩けば到着する。道は分かりやすく、そしてきれいである。
向こう岸までは1kmぐらいであろうか??対岸はタイ領であるが、建物はあまり見られない。農村なのであろうか??普通は見られるボーダートレードもあまり活発ではない。対岸のイーサンとビエンチャンではイーサンの方が安いらしい。面白い現象である。20-30分はメコン川をただ見つめてみる。流れは緩やか。係留している船をレストランにしている所もあった。
川沿いをどんどん歩いて行く。寺院が見えたので中へ入る。昨日行った観光地とは違い、実に落ち着いた雰囲気があり、木々の緑が濃い。程よく古びた仏塔があり、時代を感じさせる墓がある。この寺の中は風が通って涼しい。時間が経つに連れて気温はどんどん高くなる。
日本料理屋もある。オープンスペースで麺を食べている所もある。何だか喉が渇いてきた。気がつくと昨日ゴルゴに案内された茶店の近くにやって来ていた。フランス風の建物の1階にあるカフェで茶を飲むことにした。店先には鮮やかなフルーツを売るきれいな屋台がある。


ホテルに戻ろうと歩いていると、かなり古びた塔がロータリーの真ん中にあった。後で調べるとタートダム(黒塔)と言う名前であった。昔タイの侵入を防いだ龍が住んでいた場所だそうだ。現在は苔が生え放題でそれがいい感じになっている。
結局3時間も散歩してしまった。かなり疲れてホテルに戻る。デジカメも最後は電池切れとなり、撮れなかった風景もあり残念。
(1)前日
僅か1時間で到着。一番先に飛行機を降りたが、途中で空港の写真を撮っていて追い抜かれる。更に何処に並ぶか迷っている内に慣れたフランス人などの後ろになってしまう。丁度前にはこれもかなり慣れた日本人がいた。彼は写真すら持たずに何故かビザを取得してしまった。申請書は機内で貰って書いておいた。10ドル札と写真1枚を提出して直ぐに発給される。
それにしてもきれいな空港である。途上国に有り勝ちな暗い雰囲気は全くない。エスカレーターを降りるとガイドが外で待っていた。サングラスを掛けた男性、一目でお笑い芸人TIMのゴルゴ松本に似ていると思ってしまう。その後心の中ではゴルゴと呼ぶ。
インターネットは別室にPCがあり、無料で使える。誰もいないので気兼ねなく使う。長閑でゆったり。フロントの従業員は英語が流暢、ラオ大学で英語を専攻したそうで、地図をくれて色々と説明してくれた。このホテル、なかなか良い。気に入った。
では皆どうやって買うのか??ゴルゴに寄れば、何年も預金するらしい。テレビはビエンチャンなら何処の家にもある。次はバイク、その次は車。最近韓国現代の小型車が1万ドルで発売され、人気がある。中古は5000ドル。今乗っているトヨタのバンは2万ドル以上するので手が出にくい。

門の上にはヒンズー風の塔が3つ。真下まで行って上を見上げると天井にもヒンズーの絵が描かれている。ラオは元々ヒンズー文化圏。12世紀にヒンズーを捨てて小乗仏教に乗り換えている。
周りには大蔵省、外務省など旧フランス時代の建物をそのまま利用した官庁が並んでいる。この辺はベトナムなどと全く同じ。尚2004年のアセアン会議に併せて周囲の公園が整備され、中国から寄付があったことが記念碑に記されている。
現在の建物は1942年に再建、なかなかバランスが良い造り。多くの観光客が訪れている。正面階段の両脇には『ラーイ、ラーオ』と呼ばれる龍のレリーフが配されている。中国の影響かと思ったが、角が一本の龍は中国にはいない??
中は暗い。やはり全国から集められた漆喰の箪笥??(経典を入れる物)やかなり大きな金の仏像が安置されていた。しかし中が狭いためあまり整理されている感じはない(雑然と置かれている)し、説明がないと何も分からない。
モナストリーがある。小坊主が顔を出し、外国人観光客と英語で会話している。しかもその建物が半分は道路にはみ出しているのが面白い。何か由来があるのだろう。しかしゴルゴがいないので分からない。
本殿の中には黄金の仏像が3体。かなりの大きさがある。輝いている。多くの人々が祈りを捧げている。ラオは小乗仏教であり、男子は一生に一度は出家する(一週間程度)。しかし日常はミャンマーのように常に祈っていると言うことはないようだ。祭りの時に行くと言うことは形骸化している。

少し離れた小高い丘の上、タートルアーンがある。歩いて来るのはちょっと大変な場所である。入口には土産物屋、食べ物の屋台が出ている。焼きバナナが目に付く。少女が氷で冷やした飲み物を売っている。
現在の建物は85mあるが、元々はインドで修行した僧がブッダの骨を持ち帰り小さな建物を建てた。その後戦乱の度にタイやミャンマー軍が財宝を求めて破壊、掘り返している。骨以外はない。その度毎に更に大きな建物が建立されて現在に至る。
一般民衆は塔の周りを3回回る。夜は塔がライトアップされてきれいだそうだ。ミャンマーと違って、ここでは男女の区別なし。金箔を貼るなどの習慣もない。人々は穏やかで、タイの様にギラギラしてはいないが、一方特に信仰が深いとも思えない。ラオ人は何ともつかみ所のない人々である。
口々に『田舎はいい、人々との触れ合いが素晴らしい』と言う。田舎のこと、医者も一緒だったが、酒が出て大変だったらしい。数人は二日酔いで倒れていたとか??日本では忘れられた世界がラオの田舎にはあるらしい。次回は私も田舎に行きたい。
店員は北京語通じず、英語片言。冷蔵庫は中国のハイアールの他、東芝、シャープなどタイで生産されたもの。デジカメもある。そういえば、某中国系ホテルではデジカメに入っていたSDカードだけが盗まれる事件が発生したとか??
服はシンという名のスカートが売られている。木彫りのカエルはミャンマーに比べて音が良い。ドリアンなどのフルーツは豊富。尚場外には薬草を売る少数民族がいた。漢方薬である。尚少数民族はいるが、現在のラオには実は制度上はラオ族(高地、中地、平地)しかいない。それはラオの歴史上悲しい出来事があったからである。
CDショップを覗く。まだDVDよりVCDである。何故CDを見たのか??実は明日ラオの歌手と会う予定が在るので、彼女のCDを買って置こうというものである。しかしなかなか見付からない。







