「ラオス」カテゴリーアーカイブ

奇想天外ビエンチャン2013(1)いきなりノンカイへ、忘れえぬ夜

《ビエンチャン散歩2013》  2013年7月21日-24日

昨年11月に訪れたラオスのビエンチャン。そこで見たノイの活動は衝撃的だった。私は何らかの形で彼女の支援をしたと思っていたが、具体的な策はなかった。そこへ大阪のKさんが忽然と現れた。私の話を聞き、『支援したい』と申し出てくれた。だが、実際に現場も見ていない、ノイに会ってもいない人に支援を要請するのはどうだろうか。そういうとKさんは『ビエンチャンに行きましょう』と言い出し、当然のこととして紹介者である私もビエンチャンに飛ぶことになった。

 

7月21日(日)

1. ビエンチャン1

ビエンチャンまで

Kさんはバンコックにやってきて2泊した。費用節約のため、無料で泊まれる場所に2人一部屋で泊まった。これにより、色々な話が出来て、よかった。当日朝タクシーでスワナンプーム空港へ向かった。空港までは順調だったが、空港内が大混雑。バンコックエアーのチェックインカウンターはいつものように長い列が出来ていた。それでも2人で待つとそれほど苦痛ではない。ようやくチェックインしたのは45分後。それからイミグレを通ったが、これまた滅茶苦茶混んでいた。

 

バンコックエアーの特徴の一つに、エコノミークラスでも使える空港ラウンジがある。Kさんにもこの話をしており、興味を持っていたが、何とイミグレを抜けた時は既に出発30分前。搭乗のアナウンスが聞こえてきて、慌てて搭乗口へ。搭乗口には既に人影もない。乗り込むと、なぜか殆ど人がいない。

 

てっきり皆イミグレで手間取っていると思っていると何と飛行機が動き出す。数えてみると乗客はたったの18人。こんな飛行機、初めて見た。バンコックエアーにチェックインする人はあんなにいたのに、ビエンチャンに行く人はこんなに少ないのだろうか?機内食は朝からしっかり出たので食べているとすぐにビエンチャンについてしまった。

ビエンチャンでトランジット

イミグレはスムーズに通過した。空港にはノイが迎えに来ているはずだったが、見当たらない。携帯に電話するともうすぐ着くという。一瞬焦ったが、5分ほどで合流し、ノイの運転で市内へ。先ずはいつも泊まるホテルへチェックイン、荷物だけ置いてすぐに昼ご飯。陽光飯店という中華系のレストラン。ノイの教え子の女性2人も参加する。外国人と一緒に食事をする、それも彼女らへの教育の一つなのだろう。でも彼女らは恥ずかしがってなかなか話さない。食事はラオス式?の鍋。これはこれで美味しいし、面白い。

 

それから車はスラム街へ進んだ。一体何のために?ノイは車を下り、我々には車内で待つようにと告げる。ある家へ入り、女の子を連れて出てきた。彼女はノイの教え子で、このスラムに住む。歌と踊りが上手く、近所の子供たちを集めて歌ったり、踊ったりしているという。若き指導者なのである。

 

『彼女は家庭環境には恵まれていないが、才能はある』という。実は本日はこれからタイのノンカイでショーがあり、ノイ一行と我々はそこへ向かうのだが、彼女は家庭の関係でパスポートを持っておらず、一緒に行くことが出来ない。それが残念だと、わざわざノイは彼女に会いに来て抱きしめた。このような交流、愛情表現が大切なのだと分かる。

 

さて、そろそろノンカイへ向かう時間だが、と思っていると見慣れた家の前に停まる。ノイの実家、家具屋さんだ。ノイが是非お父さんに会ってほしいという。彼女のお父さんは、元教育者で、昔は王家の人にものを教えたこともあるという。だが2年前に脳こうそくで倒れ、現在お話はできるが麻痺が残っている。

 

お父さんは英語が流暢。必ずしもノイの活動に賛同している訳ではないことが分かる。それはそうだろう、ミスラオスでオーストラリア留学にも出し、おまけにトップアイドル。こんな娘が困難な障害児、女性支援をしなければ、優雅な生活が約束されていたはずだ。ラオスは母系社会の末子相続。実はノイが末の女の子であり、結婚して跡を取って欲しかった、との強い願いがあった。

 

それからノイの新しいオフィスへ向かう。昨年11月にあった学校は家主からの立ち退き要請があり、既に閉じていた。集まっていた子供たちも今は10人程度しか収容できない。困っていた。ラオスは本当に難しい国だ。オフィスはお母さんの土地に建てられていた。ここに数百人を収容できる寄宿舎付きの学校を建てることが彼女の目下の課題だ。その夢はいつ実現できるのだろうか?今回の我々の使命はそのための準備。

 

2. ノンカイ

簡単なイミグレ

元々の予定では午後3時頃にノンカイで活動をするとあったが、既に時間は午後4時。これがラオス時間か。だが出発したら、30分ぐらいでタイとの国境に着いてしまう。この近さは何だ。しかしイミグレで誰かを待つ。タイ式のラーメンを食べる。日が西に傾く。

 

今日のショーに出演する女の子たち20名と合流した。彼女らはビエンチャンから1時間ほど離れた場所に住んでおり、このためにやってきたのだ。車が遅れてこの時間となる。20数名のイミグレ手続きは意外と時間がかかる。みな楽しそうに待っている。

 

でもタイとラオスの国境が簡単に越えられることが分かって収穫だ。ラオス人が車でどんどんタイへ入り、買い物などしてまたビエンチャンへ帰る。確かにビエンチャンの日本人も『必要なものはタイで買う』『病気やけがはタイへ行く』という意味がようやく分かった。

 

大宴会へ

そしてイミグレを越え、ノンカイの街に入り、更には住宅街へ。今朝タイから来たのに、また今タイにいる自分に少し驚く。目の前に立派なお屋敷が見える。庭には沢山のテーブルが出され、人々が食事していた。どうやら我々を待っていたようだ。ノイたちはここではプロのパフォーマー。楽屋へ向かい、着替えや化粧を。私とKさんはいきなりファーストテーブルへ案内される。

 

見渡すと、個人の住宅の庭にテーブルが十数個、100人以上が食事をし、酒を飲んでいる。入口にちょうど頭の毛を剃った若者がいた。実は明日彼は一生に一度の出家をする。カオパンサー、雨安吾入り。タイでは大事な行事、ましてや有力者の一族にとっては盛大なお祝いの日なのであった。そんな日であるから、ラオスの有名人、ノイ一行を招いて、舞台を盛り上げようということだろう。

 

舞台では歌手が歌を歌い、テーブルではお客が大量に出された料理を食べる。実は暗くて、何が置いてあるのか、よく見えなかったが。テーブルのおじさん達が、何となく興味津々でこちらを見ている。英語が話せるおじさんがビールを持ってやってくる。田舎の宴会、楽しそうだ。

そしていよいよノイ一行のショーが始まった。ラオスの伝統舞踊、歌が披露される。ノイ自身が中心となり、ショーが展開されるが、弟子の女性たちも日ごろの練習の成果を存分に出していると思われる。このような人前で演じること、それは彼女たちの実戦練習の場であり、同時に支援者との関係を築き、支援を受ける、それがノイの目的なのである。

 

1時間ぐらいショーは続き、観衆は大喝采。その後は会場の人々を次々に舞台に上げ、一緒に歌い、一緒に踊る。何と私とKさんにもお声がかかり、舞台へ。観衆の『日本の歌が聞きたい』とのリクエストに困っていると、ノイが『中島みゆきの時代、歌おう』と言い、歌いだす。酔いも手伝い、ノイの後について、大勢の前で歌を歌ってしまった。上手いかどうかではなく、日本人がわざわざやってきて、日本語の歌を披露したことに聴衆は満足したようで、人々が拍手してくれた。これも一つのノイマジック。人をその気にさせる、それは教育の基本だろう。

 

会がほぼお開きになり、皆が帰っても、歌い、踊りまくっていたタイ人のおばさんがいた。Kさんいわく『まるで大阪のおばちゃんのノリや』『吉本にスカウトしたい』と。確かに疲れしらず、ノリノリで人のことも目に入っていない様子。すごいの一言。

 

気が付くと時刻は夜中の12時。ノイが『イミグレは10時に閉まったから、今日はノンカイに泊まりましょう』という。え、折角ビエンチャンのホテルにチェックインしたのに。慌ててホテルに電話して、今日帰らないことを告げる。でもどこに泊まるの?この家の家主がホテルを手配してくれるという。

 

ところが、今晩は宿が結構埋まっていた。カオパンサーの影響かもしれない。2₋3軒車で訪ね歩き、ようやく1軒見つかる。ところが・・、その部屋には小さなベットが1つだけ。『ここに2人で寝て』と言われて、Kさんと唖然としているうちに、皆行ってしまった。辛うじてお湯が出来るシャワーがあったようでKさんはシャワーへ。既に1時半であり、オジサンの私は、ベットの端で丸くなるとすぐに眠りについてしまった。Kさんと私は1つベットで夜を過ごした。『一生忘れることのできない経験』をした、と後にKさんは語る。

7月22日(月)

カオパンサー

目覚めは爽やか、とはいかなかった。何だか頭が重い。今は何時だろうか。鳥のさえずりが聞こえる。外で声がした。何と既に皆出発の準備が出来ていた。タイ時間ではないな、この速さは。周囲を見渡すと何もない田舎。ここはここで環境が良い。

 

ビエンチャンへ帰るのかと思いきや、昨晩の宴会場へやってきた。そこにはノイチームのメンバーがいて、朝ごはんを食べていた。我々も朝ごはんかと思ったが、なぜかそこを離れる。説明は何もなく着いて行くしかない。

 

朝市へやってきた。市場を見せてくれるのか、と思いきや、誰かを探しているようだ。何と昨晩のメンバーの数人が待っていた。そこで朝ごはんを食べるために。ようは連絡が上手くいっていなかっただけのようだが、これはこれで面白い。カオトーンと呼ばれるお粥が食べたかったが、なぜかなかった。目玉焼きの上にひき肉を散らした食べ物が美味しかった。

 

そしてビエンチャンへ、と・・、いやお寺へ来てしまった。そうか、今日はカオパンサー。その儀式に参加するようだ。これは願ってもないチャンス。Kさんははてなマークを顔に出していたが、従うしかない。

 

そのお寺は結構な敷地がある比較的新しい所だった。恐らくは地元の有力者が寄進したのだろう。真新しい仏像が屋外に設置されている。更に新しい仏像の建造も行われている。タイでは徳を積むことが重要であり、来世へのカギとなる。宗教については色々な意見があると思うが、今の日本を考えると、『来世思考』は必要ではないか、と感じることが多い。

 

儀式が始まった。えらいお坊さんが講話する。今日出家する人々が数人、袈裟を着て頭を剃り、並んで前に座っている。講話はタイ語で意味は分からないが、座って聞いているだけで心地よい。一生に一度の出家、これも両親に対しる功徳だというが、出家する気持ちはどうなのだろうか。

 

その後信者がお坊さんにご飯をサーブする。これも一つの功徳。出家者は一つの細い紐を持ち、食事をしていた。我々にも食事が振る舞われる。麺に汁やおかずを掛けて食べるが、これは美味しい。また食べ過ぎる。信者は偉いお坊さんの周りに集まり、また何か話を聞いている。この気持ちは大切だ。

 

 

ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(4)国際バスでウドンタニへ

11月5日(月)  ホテルの庭でブレックファースト

翌朝はホテルの庭でブレックファースト。このためにこのホテルに泊まった訳だが、予想通り気持ちの良い朝となった。風が吹き抜ける、木々がかすかに揺れる。こういう環境で食事をするのは良いものだ。フランスパンにオムレツ、フルーツ、十分だな、これで。

このホテルにはスペイン人やドイツ人が泊まっていた。彼らは朝から賑やかに食べていた。それもまた良し。日本人と思われるオジサンが一人で新聞を広げている。それもまた良し。皆さん、思い思いの時間を過ごしている。

街に散歩に出た。今回はバトゥサイすら行っていなかった。だが歩き出すと意外と暑い。更には大きな道を歩いていると、先導車両に導かれて、各国代表団の車が続々と続いている。今日はASEMの開幕だ。あんまりウロウロしているのも何かと思い、旧市内の細い街などを歩く。

因みに野田首相は何故かこの小さなビエンチャンという街に3泊もするらしい。一体何をするためだろうか。日本から大勢の報道陣が来ているが、彼らの狙いもASEMではない。野田さんが衆議院を解散するのか、の1点に集中している。折角ビエンチャンまで来て、国内政局とは?一方温家宝総理は、3日後に5年に一度の共産党大会を控えていたが、1泊でやって来てパフォーマンスを繰り返していた。これが今の日中の東南アジア外交であろう。

昼はおしゃれないカフェで頂く。豪勢なランチプレート、ちょっとお金があれば、ビエンチャン生活は優雅かも知れない。コーヒーも美味しい。日本の報道関係者と思われる4人連れが入って来た。何だか少し雰囲気が壊れた。

国際バス

午前中にバスターミナルへ行き、午後2時のウドンタニ行きバスのチケットを買った。午後1時半に行って見ると、既にチケットは完売、午前中に買っておいてよかった。だが一体どこから乗ったらよいのか分からない。人に聞くと「ここだ」というのだが、出発時間近くになってもバスは来ない。不安。今日はASEMで街中、大変。まさかキャンセル?

その時、バスが入って来た。立派なバスだ。考えてみればこれも国際バス。皆が一斉に乗り込む。荷物も積みこまれる。一応指定席である。2時は少し過ぎたが、それほど遅れず出発したのにはホッとした。何しろウドンタニから飛行機でバンコックへ戻るのだから。

バスは田園風景の中を一路国境へ。1時間も掛からずに到着。立派なイミグレだ。次々にバスが到着し、イミグレが込み合う。混んで来たらいきなり別のゲートを開ける。先着順も何もない。まあいつかみんな通れるんだろう。バスに全員が揃うとタイ側国境へ。

タイ側を抜けると、何故かそこにタクシーの運ちゃんたちが待っている。バスより速いらしい。というより、もし空港に直に行きたければ、このタクシーを使うのだろう。良く出来ている。私は飛行機の時間までかなりあったので、そのままバスに乗る。

タイ側では様々な雑貨を売っている。ここで物資を調達して、ラオス側に持ち込むのだろう。と思っているとバスの運転手がある店の前で停まり、店の人が何かをバスに投げ込んだ。これが運ちゃんの小遣い稼ぎか、面白い。こんな役得があって、バスの運ちゃんやってられるのかもしれない。

4.ウドンタニ    街

ウドンタニのバスターミナルに入ったのはビエンチャンを出てから2時間半は過ぎていただろうか。距離にしたら50-60㎞かも知れない。やはり国境で時間が掛かる。先ずは腹が減ったので、その辺の屋台で麺を食べる。美味い。これが一番良い。

目の前にショッピングセンターが見えた。これがビエンチャンで聞いていた「ラオス在住者が買い物に行く場所」らしい。セントラルもバスターミナル近くに作るところ、良く分かっている。結局中へは入らなかったが、恐らくはタイのどこにでもある品揃えなのだろう。

空港へ行く方法が分からない。タクシーなどは走っている雰囲気すらない。トゥクトゥクが沢山列をなして停まっている。いくらか聞くと「100バーツ」だという。そんな高くはないだろうと「60バーツ」と言ってみると、誰一人振り向かなくなる。80バーツが定価のようだ。どうやらルールがあり、60バーツで乗せるとルール違反らしい。この辺、面倒くさい。

空港まではそこそこ遠いのだろうと思って、人のよさそうなオジサンのトゥクに乗ったが、田園風景を15分も行くと到着してしまった。こんなに早く着くのなら、もう少しウドンタニの街を見学しても良かったな。でも何もなさそうだったな、ウドンタニ。

空港で

空港も小さかった。チェックインカウンターも直ぐに見つかった。確か搭乗予定より一本速いフライトがあるはずだ。それに乗せてもらおうと申し出たが・・。何とそのフライトはキャンセルになっていた。エアアジア、なかなかやるな。

これから2時間以上、どうすればよいのか。空港内に無料のWIFIもないようだ。仕方なくレストランで聞いてみたが、「今日は繋がらない」とのつれない答え。どうするんだ。隣のカフェに聞いてみると「繋がるよ」と。本当にどうなっているんだ、ここは。

午後6時に恒例のタイ国家が流れ、全員が起立した。こういう動作は日常的になり過ぎているとはいえ、大切なことだと思う。日本のように日の丸・君が代に反対したり、宗教を教育でお教えない国、それは世界から取り残されていくことだろう。勿論日本人の特殊性を利用して、何かを企む人もいるので仕方がない面もあるが。

午後7時前には何事もなく、搭乗。あっと言う間にドムアン空港に着いた。あのファランポーン駅からノンカイまで16時間も掛かった鉄道の旅はなんだったのだろうか。まあ、それも旅、これも旅か。




ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(3)歌姫ノイに劇的に再会して

3.ノイプロジェクト  大発表会

夜はホテル近くにある文化会館へ行く。日本の某自治体の人々がノイを訪ねる。ところがノイは仕掛けていた。ただの交流ではなく、子供達が舞台に立つ一大イベントに仕上げてしまったのだ。それも訪問者には全く知らせることもなく。前日街を歩いていると、ノイの仕掛けたイベントの宣伝が張られていた。これは単に日本人の為のイベントではない。どうなるんだろうか、何だかワクワクする。

文化会館は実に立派な建物だった。2001年、中国の支援で建造されたとある。こういう所がしっかりと目立つ。中に入ると人が集まり始めている。その中に日本人の一団がいて、合流する。私は全く無関係だと思っていたが、何とその一団は私が通った学校のあった場所から来ていた。中にはその学校の先生だった人のお姉さんまで居た。やはりご縁はある、ということで溶け込む。

会場は広い、1000人以上は入れるだろう。そこに徐々に人が入り、席が埋まって行く。だが定刻が過ぎても始まる気配はない。その内に元大臣の一団が登場し、メイン席に座る。それから大分経って幕が開いたから、中では色々とあったのではないか。

そしていよいよパフォーマンスが始まる。初めはラオスの民謡、そしてお祈りなどもあった。歌って、踊って。それはとても障害を持つ子供達のものとは思えなかった。ノイを中心に、数歳から十数歳までの子達が、一生懸命歌う、踊る。これにはちょっと感動した。こんな大きな舞台で、普通の子でも上手く出来ないことが多いだろうに。いや、この舞台に立ってしまえば、障害も何も関係がない、ということだろう。「音楽と踊りで障害を克服する」、ノイのアイデアは確実に成果を上げていた。

初めは1時間ぐらいかと思っていたが、様々な出し物があり、何と終わったのは10時近かった。最初の予定も大幅にオーバーしていた。それでも子供達は溌剌としていた。ノイの活動が向上していることが十分に分かった。

11月4日(日)  ホテル移動

興奮冷めやらぬ翌日。今日はノイの学校を訪ねる予定になっていた。だが今日からASEMのデレゲーションがビエンチャン入り。野田首相も温家宝総理もやってくる。ということで、狭いビエンチャンは大騒ぎ。ホテルはどこも満室で、私の泊まっているホテルでも、今晩の宿泊は断られてしまった。そこで、最近ビエンチャンの行った台北のHさん情報で、「きれいな庭で朝ごはんが食べられるプチホテル」に移動することとなった。ここは文化会館を挟んで反対側。歩いて移動する。

確かに庭は素晴らしい。だが部屋はこれまでよりかなり劣った。ASEMメンバーもここまでは来なかったわけだ。明日バンコックに戻る方法を相談したが、何故か要領を得ない。結局分かったことは、「ホテルで頼むと手数料が高いから自分でやった方が良い」ということ。なかなか親切だった。

街に出る。河沿いを歩いていると、先日発見できなかった遼寧餃子館があった。場所を移転していたのだ。店には中国語が出来るウエートレスが一人いた。水餃子と野菜炒めを頼む。中国人観光客も来るようだが、お客は地元の華人が多いとか。バンコックの店の関連などを尋ねたが、オーナーしか分から無いとのことだった。

再び空港への道へ出る。今日は昨日と異なり、30mおきに兵士が銃を持って警備に当たっていた。もうすぐ野田首相がここを通るらしい。何だか北京の警戒態勢を思い出すが、暑いせいか椅子に座っている人もいて、まだまだのんびりしていた。

迷子になる

6年前に訪ねたノイの学校。その時は車で連れて行ってもらったので、うっすらとしか記憶がない。バーンタオ氏からもらった住所を頼りに歩く。ホテルで聞いても、主な目印だけを教えられ、後はそこで聞くしかないと言われていた。

厳戒態勢の大通りから一歩入ると、そこは田舎の風景。のんびりと歩いて行き、その辺の店で聞いてみたが、要領を得ない。また別の道を行く。どうしても思い当たる風景に出合わない。約束時間は2時。かなり余裕を持って出たものの、時間はどんどん過ぎていく。流石に焦りが出る。

1軒の店の女性は英語が出来たので話を聞くと「この村は広いのよ。これだけの情報ではとても行き着けない」と電話してくれたが、何とその電話番号は既に使われていなかった。一体どうなっているんだ。最後の手段として、今回日本からの一団を率いているYさんの携帯に電話するも誰も出なかった。これで完全に道は絶たれた。途方に暮れる、とはこのことだ。

やはり最初からタクシーに乗ってくれば良かった、と思っていると、何故か目の前にタクシーがやって来たので乗り込み、また住所を差し出してみる。運転手も携帯でどこかへ問い合わせてくれたが、首を振り、万策尽きる。取り敢えずホテルへ帰って出直すか、と車が動き出した瞬間、携帯が鳴る。Yさんからだった。後は運転手が場所を聞き、連れていってくれた。私が思っていたのとは全く違う場所だった。何と学校の場所は移転していたのだ。やはりご縁のある時は辿り着くものだ。ただ私の行動は無謀過ぎたかもしれない。

ノイの学校

学校はかなり立派になっていた。3階建てで屋上まである。屋上にはステージまであって、そこに集合した。子供達が現在の生活や学校の状況を説明してくれた。驚いたことに多くの子供達がかなり遠くから、しかも通常の学校が終わってから通ってきていた。ノイは言っていた。「どうしても寄宿舎付きの学校が欲しい」、その通りだと思う。障害のある子が遠くからやってくる、その困難さと必要さが痛感された。

ノイを支えているお坊さんたちも話をしてくれた。このような活動は一人ではできない。支えが必要だ。そこにお坊さんがいる、これも今や日本には既にない。羨ましいほどの信頼関係、フレッシュな若いお坊さんたち、いいな。

1階でお坊さんたちの祈祷があり、セレモニーがあった。昨日の緊張感とは打って変わった晴れやかなパフォーマンスだった。やがてみんなで踊り出す。ゲストも誘われ、踊り出す。面白い。

実はここには日本人以外にもノイの支援者として、シンガポール、マレーシアの実業家、タイのボランティア青年なども来ていた。彼女の活動は他の東南アジアの人々にも受け入れられている。特にタイの青年たちは黙々と裏方を務めていた。実にシャイ。好ましい。私はシンガポール、マレーシアの華人たちと中国語で会話していた。彼らも日本人と中国語を話す機会は少ないようで好奇心を持っていた。

そしてお開きに。実はそれまで私はノイに挨拶していなかった。彼女は忙し過ぎたのだ。最後に挨拶すると「ちょっと待って」と言って、私を彼女の車に押し込んだ。日本人支援者達もミニバスで同じ方向へ向かう。車内で彼女は最近の状況を説明し始める。どうしても200人以上が入る新しい学校が必要だ、と力説した。

そして何と新学校建設予定地に案内された。ここはお母さんの土地だという。私財を投げうち、プロジェクトを進めようとしている。そのパワーはすごい。子供達の機能が向上していく喜び、これは何物にも代えがたいようだ。誰か支援してくれる人を探さなければならない。

インタビュー

そして再度学校に戻った。何と子供達にインタビューする機会を与えてくれた。子供たちは口々に言った。「ここに来られて幸せです」と。有名な歌手であり、ラジオのDJ、そしてミスビエンチャンでもある憧れのノイに会うだけでも幸せなのに、自分たちのことを心配し、一緒に歌ったり踊ったりしてくれる。そして自分達に自信がついてくる。昨晩の大舞台も相当緊張したが、楽しかった、嬉しかったという。ノイに対する感謝を口にする彼ら彼女ら。その声には「自分を理解してくれる人がいる」という喜びがあるようだ。

スタッフにも話を聞いてみた。やはり「子供達の成長が実感できる喜び」が大きいようだ。この学校は決して皆に支持されている訳ではない。誤解している人も多いという。そんな逆風の下でも支援できるのは、子供がそれを必要としているからだろう。生まれ落ち時、決して恵まれていなかった子らが、頑張っている姿は素晴らしいとも言う。

こどもの親はどうだろうか。「昨晩の舞台を見て、一家で泣きました。あの引っ込み思案で何もできないと思っていた子が、あんなに大勢の人の前で堂々と大きな声を出していた。信じられない。喜びで胸が張り裂けそうだった」とあるお母さんが言う。そして「生まれた時に障害があると分かると、誰もこの子を理解できなかった。最初はこの学校に連れて来るのも父親は反対した。諦めていたんです。でも・・・、無理して連れて来てよかった」と。

更には「この学校にはとても感謝しているが、自分達には支援するだけの余裕はありません。何とか寄宿舎を作ってくれれば、自分の子供も楽になるし、他の障害児たちの助けになると思います」と支援への期待を話す。

コラム:   http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5327

既に日が沈んでいた。自分は無力だな、と思いながら、ノイの学校を後にした。






ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(2)中国市場

2.ビエンチャン  居心地の良いホテル

2人は適当な所で降りてしまった。私はトゥクトゥクの運転手に予約したホテルの住所を渡していたが、彼もよく分からないようで、その辺で降ろされる。まあ、まだ昼間だし良いか。すると運転手が、看板を指す。言われた方を曲がるとその路地にプチホテルがあった。

かなりきれいなホテルで驚く。土足厳禁。フロントの対応も実に丁寧。1泊35ドル、朝食付き。これは当たりのホテルだ。2階の部屋も広く、ベッドも大きく、シックな雰囲気。WIFIも繋がる。これは快適だ。夜行の疲れが出て、暫し横になる。

このホテル、実に心地よい何かがある。夜も静かだし、翌朝も鳥の囀りで起き、朝食も美味しかった。ロビーのソファーにボーっと座っていると、完全に時を忘れてしまう。ラオスの時間はこのように流れる。

外に出ると日差しが強かった。取り敢えず腹が減ったので、ランチへ。地図で見ると遼寧餃子館という文字があり、そこへ向かう。このお店、恐らくはバンコックにある餃子屋の支店だろう。中国系であることは間違いなく、ビエンチャンを知る取っ掛かりになると思った。

だが、いくら探してもその店は無かった。ようやく看板を見付けたが、店は移転したらしかった。ところがその文字が読めない。完全に手掛かりを失った。仕方なく、その辺で鶏ご飯を食べた。これも安くて美味かった。6年前にガイドといった店に雰囲気がとても似ていた。

焼き鳥

その後、旧市内を歩き回ったが、6年前と殆ど変化が無かった。アジアの各都市、特に首都はプノンペン、ヤンゴンなどどこも大きな変化を遂げているが、ここビエンチャンは違っていた。これはどうしたことだろうか。欧米人の観光客に混ざり、中国人や韓国人も見られるが、その数も多いとは言い難い。

ホテルに戻り、ベッドの横になると、そのまま寝入ってしまった。夜行列車の疲れはかなりあったのだ。ここは癒しの空間というやつだろうか。すっかり辺りが暗くなるまで熟睡した。

夕飯を食べようと外へ出た。爽やかな風が吹いて気持ちが良い。あまりお腹が空いてはいなかったので、麺を食べる。その辺の食堂に入り、「メン」というと麺が出てくる。これはタイ、カンボジア、ラオスどこでも共通で実に都合がよい。家族経営のようで何となく微笑ましい。

それにしてもビエンチャンの夜は暗い。街を歩いていても、相当昔のアジアのイメージがある。所々にきれいなバー屋カフェが見えるが、欧米人向けだろう。何とも素朴な街だと言える。河沿いも観光客が歩いているが、やはり暗い。

フードコートのような場所があり、店先で鶏を焼いていた。ビエンチャンと言えば、ガイヤーンを思い出し、そうすると何故か無性に食べたくなる。ここにはフランス人のオジサンがおり、欧米人に愛想を振りまく。私はビールも飲まず、ひたすら立派な、そしてジューシーな焼き鳥を頬張る。実に幸せな夜となった。

11月3日(土)  Mさん

翌日ホテルで朝ごはんを食べ、午前中は部屋でネットを触って過ごす。私は常に旅をしているので、旅先と言えども時々メール処理や原稿を書く時間が必要である。その場合、その環境で処理能力が大きく異なる。今回はどんどん処理が進む。嬉しい。

あっと言う間にお昼になる。外は日差しが強い。ホテルロビーでMさんが待っていた。彼はビエンチャン在住10年の日本人。この街では貴重な日本人だろう。色々とビエンチャン事情を聴く。ビエンチャンも旧市内は保存地区のような状況だが、郊外には新しいビルが建っており、それなりに発展しているようだ。中国からの投資も活発だが、ラオス政府は支援は貰うものの、ベトナム、タイとの関係、更にはアメリカも含めて、上手い外交のかじ取りを迫られている。今回開かれるASEMがその舞台になるだろう(Mさんも日本のマスコミの取材に付き合うため、明日からは忙しいようだ)。

ホテル近くのフランス料理屋でピザなどを食べる。フランスパンが美味しい。ビエンチャンと言えば、安くて美味しいフレンチのイメージもある。緑茶を頼んだが、ティバッグ。かなり薄めの雰囲気がフランス人的には良いようだ。ここに住んでしまうと、バンコックなどガチャガチャした街は落ち着かないだろうなと思う。

茶館

Mさんに教えられた中国茶館へ行って見る。ここは旧市内の外れ、空港から市内への大きな道沿いに面している。看板に漢字もあり、期待が持てる。店内にはお茶道具もあり、本格的な茶館のイメージがある。

だが、基本的にお茶だけを飲みに来る人は稀で、中国料理を食べるレストランであるようだ。茶葉は台湾産などと書かれた物があり、オーナーは台湾人だと聞かされるも、彼女は今ビエンチャンには居ないとのこと。片言の英語しか通じずに(中国語は出来ない)、あまり意味のある会話にはならなかった。

ラオスで一般の人が飲むお茶は、コーヒーを飲む場所でポットに入っている渋めの緑茶(無料)ぐらい。なかなか商売は難しいだろうが、この店は道楽なのだろうか。

中国市場

更に空港の方向に歩いて行く。茶館の北には中国市場という中国製品の市場があるが、空港近くに新たに新中国市場が出来たらしい。歩くと結構あるが、途中には中国料理屋の看板がいくつか見えた。中国人の流入がかなり多いことが分かる。また建材屋などの看板には大きな文字で漢字が書かれている。Mさんによれば、政府はあまり漢字の看板が目立つのを良く思っていないようだが、商売上必要があればやむを得ない。それ程、中国の影響力が強まっているということだろうか。

かなり空港に近い場所に新市場はあった。規模は相当に大きい。だが、人は殆ど歩いていなかった。そして店舗も埋まっていなかった。看板には「昆明、南寧、広州⇔ビエンチャン」という表示があり、バスなどで繋がっていることは分かる。

店舗には中国製の雑貨類が多く置かれていた。傘やビニールなど中国製品はアジアで最も安くて質もまあまあ。ラオスのような国にはドーッと商品が流れ込んでいる。中国の存在感は道路や橋などの経済支援と、このような日用品の両面からなされている。

三江国際商場と書かれた大きな建物もあった。中に入ると驚いたことにラオスの民族衣装から日本人形まで並んでいた。中国は何でも作っているという印象と同時に何故ラオスに持ち込まれているのか、実に不思議であった。

帰りは川沿いを歩いてきた。まだ日が高かったが、西に傾く様子はなかなか良かった。近所の子供達が屈託なく遊んでいた。

 

ビエンチャンの歌姫に会いに行く2012(1) 列車でビエンチャンへ

《ビエンチャン散歩》  2012年11月2-5日

2006年にラオスのビエンチャンへ行ったことがある。あれはバーンタオ氏に「行ってみたい」と行った所、「それじゃあ、ボランティアしてください」と言われ、ノートと鉛筆を担いで行った。あのノイちゃんはどうしているのだろうか。何となく、気にはなっていたが、その後行く機会もなく、ノイプロジェクトの消息も分からなかった。

バンコックに滞在を始めた時、バーンタオ氏より「日本のある自治体の人々がノイに会いに行くらしい」との情報を得て、俄然行って見たくなる。ちょうど中国・日本の旅からバンコックに戻り、スリランカへ行く間がぽっかり空いていた。これは行くしかない、が予定は良く分からない。

11月1日(木)   ビエンチャンへ   タイ国鉄の夜行列車

前回はバンコックから飛行機に乗ったので、今回は列車で行って見ることにした。ただ経験者からは「鉄道は遅れるからやめた方が良い」などと言われる。タイのような国の国鉄がそんなに遅れるわけがない、完全な思い込みである。2日前にファランポーン駅へ出向き、ノンカイ行きチケットを購入。混んでいるとは聞いていたが、案の定、寝台車の下のベッドは売り切れていたので、上段を取る。エアコン付にしたら、688バーツだった。

当日MRTでファランポーン駅へ。駅内で麺を食べて気分を出す。沢木耕太郎はここで7歳ぐらいの少年と出会い、その清々しい姿勢に感動していたと思う。しかしこの駅は改札が無い。ホームへの入場は全く自由だ。40分前に行って見たが、列車は入線していなかった。何だか既に嫌な予感が。それでも20分前には無事入ってきて、乗客も乗り込み、定時近くに出発かと思ったが。やはり・・20分は遅れた。夜のバンコックの街を走るといれば聞こえが良いが、暗闇をあまりにもゆっくりと行く。どうなっているのか、まるで交通状態の様相を呈している。ドムアン空港横の駅まで1時間半ぐらい掛かった。先が思いやられる。

あまりにやることが無いので食堂車を覗く。何人かがビールを飲んでいる。私はちょっとお腹が空いたので、野菜炒めとご飯を貰う。これで100バーツは高い。食堂車の従業員は家族かな。英語も出来て、会話も出来た。でも意外と忙しい。兎に角売り上げを上げないといけないらしい。飲み物のオーダーなどをひっきりなしに取ってては客車に運んでいく。

出発当初は座席となっていた下の段、車掌さんが来て、順次寝る準備に入った。先ずは上の段にシーツを敷き、枕を置く。下の段も椅子をたたみ、ベッドに。実に手際が良い。このスピードがあれば、列車は遅れないはずだが。本当にやることが無くて、寝る。ところが上の段は結構狭い上に、クーラーが効いていてかなり寒い。一応パジャマを持って来たので着込むがそれでも足が冷える。困った。列車の走行音も良い影響を与えず、眠りは凄く浅くなる。この季節はクーラーなしの車両を選択するのがよい。欧米人でもクーラーを嫌って、かつ安い車両に結構人がいた。失敗した。

11月2日(金)

この列車の所要時間はバンコックからタイとラオスの国境であるノンカイまで12時間。夜8時に出て、朝8時に着くはずである。ところが朝6時頃起き上がっても、一向に着く気配がない。というか、車内放送は全てタイ語で全く分からない。私はラオスのガイドブックは持っていたが、タイの物は持っていなかったので、地名が分かっても今どのあたりは分からない。まあ、終点まで行くのだから気にすることはない。

食堂車で朝飯を食う。カオトーン、にんにくの効いたお粥、雑炊?これはどこで食べても美味い。車窓から朝日を眺めながら食うとまた格別である。食堂車ではトーストやサンドイッチとコーヒー、紅茶のデリバリーが忙しい。皆、自分の席で食べているらしい。席に戻ると寝床はきれいに片づけられ、座席になっていた。

朝8時になったが、今どの辺だろうか。東京なら「ただ今3分遅れています。誠に申し訳ありません」などいう放送が流れるが、ここでは釈明も無ければ、勿論謝罪などない。皆、黙々と目的地到着を待っている。斜め向かいの爺さんが時々笑顔を送って来るが、何しろ言葉が通じない。それ以上進展しない。

ノンサット、という駅名が見えた。ノンカイに近いのかと思ったが、まだまだ列車は水田地帯を走る。ようやくウドンタニという駅名が見え、大勢が降りていく。どうやらもうすぐのようだ。最後に座席車両を見学したが、この固い椅子で10数時間はきつそうだった。

ついにノンカイに着いた。時刻は午前11時40分、実に16時間近くが経過していた。遥々来たな、そんな田舎の風景があった。

たった15分の国際列車

乗客は待ちかねたように急いで降りていった。隣の爺さんも笑顔で出て行った。そして殆どの人が駅の外へ足早に出る。そこからトゥクトゥクに乗って国境を越えるらしい。私は周囲を見渡した。そこにはわずか2両の列車が見えた。これだ、私の乗るものは。駅舎の中にチケット売り場があった。2等車30バーツ、3等車20バーツの表示があったが、どう見てもそんな区別はない。20バーツ払う。そしてイミグレを通過。ただの改札を通るような感覚で、タイを出国した。

実は旅行作家のSさんから以前話を聞いていた。「たった15分の国際列車」この列車はバンコックから来る列車の乗客の為だけに運行されている。だから、列車が4時間遅れれば4時間待つ。Sさんは態々別ルートでノンカイに入り、朝から駅のベンチでこの列車を待ったが、その時は6時間遅れだったという。笑えない取材だ。

列車はとても国際列車とは思えない車両。昔の日本の私鉄を思わせる。乗客は大きなバックを背負った欧米人ばかり。この列車の価値を見出す人々である。そして全員のイミグレ通過を待ってようやく発車する。何ともローカルな国際列車。

すぐに川を渡り、国境を越えたことが分かる。タイもラオスも長閑な農業国。線路脇に結構きれいな住居がある。国境貿易で儲けたのか、それともタイからの投資か。ビエンチャンで開かれるASEM歓迎の看板が出ている。こんな所から入る代表団もいないと思うのだが。そんなことを考えていると、もう列車はブレーキを掛けた。何とも呆気ない旅だった。

全員がホームへ降りる。欧米人がビザ申請書を受け取り、書き始める。私も申請用紙を貰おうと思ったが、係官が「お前は日本人か、それならあっちいけ」と素っ気ない。仕方なくあっちに行くと、いきなり入国スタンプを押され、解放される。何と日本人はビザ不要となっていた。そんなことも知らないでやって来てしまっていたのだ。

この何もない駅からビエンチャン市内へはどうやって行くのか、全く分からない。しかし出口に付近にテーブルが出ており、看板にはビエンチャンまで車で400バーツと書かれている。何でそんなに高いのだ、完全に旅人の足元を見ている。何とかしたかったがどうにもならない。とそこへ、若い男女がやって来た。同じように困っていた。そうか3人で借りよう、ということになり、結局一人100バーツでトゥクトゥクをゲット。

ベトナム人の女性とフィリピン人の男性。ラオスでは日本などの他、アセアン諸国にはビザを免除しているらしい。ようするに我々3人だけがアジア人、残りの乗客は欧米人だったことが分かる。何となく愉快な気分になり、風に吹かれながら、旅を楽しむ。ノービザの3人、これはいい出会いだった。




《ビエンチャン散歩2006》(3)

(3)昼食

昼にゴルゴがやってきた。本当は今日も立派なレストランでラオ料理を食べる予定であったが、昨日予定を変更してもらった。麺屋に連れて行け、と頼んだのである。彼はお安い御用と切り替えてくれた。勿論食事代は既に払っている。店がキャンセルできれば彼にはそこそこの収入があるはずだが、細かいことは言わない。私は自分の食べたい物を食べるだけでよい。

連れて行かれた店は少し外れた普通の庶民の店であった。これが良い。12時過ぎるとあっと言う間に満員になった。人気店である。何故か赤いワーゲンで乗り付けてきた若いカップルもいた。

味王と漢字で書かれたエプロンをした店員がきびきびと料理を作っている。ここは美味そうだ。オーナーはおばあさんのようでゴルゴと話し込んでいる。ラーメンに似た麺にチャーシューが載っている。スープが美味い。ゴルゴは自分で醤油を入れたりして味を調えているが、このままで十分ではないのか??

隣が頼んだチャーハンも美味そうなので追加注文。タイ米で作っているが、刻んだチャーシューが入っているところは日本風??全体的にあっさりしていて、生もやしなどを入れて更にあっさり食べる。どう見ても食べ過ぎ。ゴルゴも2つ平らげた人はいないと言う。

ラオには麺とライスを一緒に食べる習慣はないという。ゴルゴは日本流のラーメンライスにアレンジしたのだ。ラオ人はお昼に麺一杯で大丈夫なのか聞く、腹が減ったらおやつを食べるとの答え。

兎に角立派なレストランで食べるより余程よい。高級よりB級を好む自分を発見。ゴルゴのアドバイスは次回から旅行社を通さないこと。旅行社の人間はお客を庶民の店に連れてきては、全然儲からない。

(4)庶民の市場
時間調整のため、庶民の市場へ行く。昨日既に市場には行ったが、あれは観光市場。Aさんからのメールに書かれていた漬物文化も確認したい。入るとやはり先ずは野菜が山積み。キャベツ、きゅうり、なす、トマト、色が極めて原色。

かえる、皮をむかれた鶏など日本の観光客などは目を向けられない物もいくらでもある。市場は昼下がりでお客もなく、市場の女性達は何と昼からビールを飲んでいる。しかもコップを持たずにビンから直接。この光景、何だか私は好きである。

樽に魚の切り身が漬けられている。大量の小魚が漬けられている樽もある。これがAさんから貰ったパーデーク(魚の塩辛)であろう。正直かなりの臭気がある。

【Aさんから貰ったメール】
東南アジアにおける米食、魚醤と野菜の生食
1.概要
(1)東南アジアは、高温多湿であることから米と魚の発酵食品(ナレズシ、塩辛、魚醤)が発達し、麹を使った東アジアの米、大豆の発酵食品(味噌、醤油)とは異なる。
(2)味噌に比べて醤油の歴史は新しい。同様に魚醤の歴史は新しいが、そのもととなった塩辛の歴史は古い。
(3)魚醤発祥の地は、ラオスから東北タイ、あるいは雲南省から貴州にかけての地域である可能性が高い。
(4)東南アジアでは、ウルチ米の嗜好が主流だが、ラオス、東北タイ=イサーン、チェンマイを中心とする北タイでは雲南省西双版納地方と同様にモチ米が好まれ、照葉樹林説との関連性が想起される。

2.内容

(5)ラオスの塩辛の汁、ナムパーデーク
海のない国であるため、これまで見てきたような小エビの塩辛ペースト(カピの類)とベトナムのマムに当たるものは存在しない。が、それ以外は豊富である。
たとえば、パーデーク。塩辛、あるいは塩辛のペーストである。小魚の姿のままのもの、大きな魚の切り身を漬け込んだもの、そして、それらを潰してペースト状にしたものがある。ペーストの場合、頭、内臓を抜いて切り身にしたものを竹籠に入れて重石をし、水分を抜く。それに塩を加えて突き砕き、また重石をして数日置く。さらに塩と少量の米ぬかを加えて搗き、瓶にいれて熟成させる。一般的には、かつての日本の味噌造りのように、家庭で作られる。また、この塩辛作りの副産物である塩辛の汁、ナムパーデーク、そして、工場で生産される魚醤油、ナムパーがある

・・・この国の場合もパーデークやその汁の利用は古いが、ナムパーは比較的新しい、おそらくは100年と経っていないものかと思われる。・・・上記以外にも沢ガニを塩漬けにしたものなどもあり、すり潰して、先のパパイヤのサラダ、タムマックフンなどの味付け(塩味と旨み付け)に用いられたりする。 

(6)魚醤が生れた地?
このあたり(ラオス)の地域がその(水田漁業)のその起源であるという話であるが、石毛氏はその著書『魚醤とナレズシの研究』の中では、断言まではしていない。
可能性としては、こういった条件(水田漁業・自然塩・ナレズシ・塩辛類)に合致する場所ということで、ラオスから東北タイにかけてのあたりが、一番可能性が高いのではないかということである(あるいは、雲南省から貴州にかけての盆地という可能性もあるという)。

もとより、すべての魚醤、ナレズシの類が一ヶ所から生れたと言うわけではなく、ややこしい面はあるのだが、このような食のセットが生まれた地として、考えられるということである。ただし、念のためにいうと、それが、現在のラオ族であるということではない。前述のように、この地域にラオ族がいくつかの小国を形成するようになるのが10世紀の頃である。それよりずっと以前の、可能性としては、扶南国などのモン・クメールであるとされる。それ以前の少数民族のもとで形成された可能性もないではないが、クメールの可能性が高いというのが石毛説である。
(「世界の食文化4」『ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』森枝卓士 著 ) 
驚くべき文化である。東南アジアの食文化は塩辛、魚醤である。香港でも歴史博物館に行けば、魚醤の製造工程などが解説されている。なまじ文明が発達した所には残っていない貴重な文化を見る思いである。

キンマの葉も売られている。ビンロウが横にある。ここでも老人がビンロウを噛んでいるらしい。きのこやたけのこの横にさり気なく置かれたビンロウ。これも東南アジアの伝統文化である。

ドリアンなど独特のフルーツも置かれている。『梨』と書かれた紙に包まれたナシ。日本に輸出しているのだろうか??仏具を売る店が大きく張り出している。仏事用の茶器が売られている。造花が一面に花を咲かせている。

市場を出て車を走らせる。次の約束まで少し時間がある。郊外に向かう大きな道を走る。道の脇に十字架がいくつも見える。墓である。植民地時代のフランス人の墓であろうか??近づいて見ると『公教義堂』と言う漢字も見える。ゴルゴによれば、ベトナム人の墓だそうだ。

ベトナム人キリスト教徒の墓。華僑もいただろうし、西洋人もいたかもしれない。彼らは異国でも他の墓には入ろうとしないし、異教徒はこの墓地に埋葬できない。午後の陽射しの中で、十字架をつけた墓がリンと輝いていた。

 

(5)ノイワールド
1時半、約束の時間がやってきた。今回ビエンチャンを訪れた理由は1つ。バーンタオ氏の紹介でノイに会うことだった。車は指定された学校に向かう。時間に余裕があり、事前に調べていたにも拘らず、見付からない。

ゴルゴも流石に慌てるかと見えたが、やはり悠然としている。2回ほど辺りの人に聞いてようやく到着。そこは商店や民家が並ぶ一角、幼稚園と言うかプレールームと言った感じ。入口を入ると奥から女性が出てきた。それがノイ。周りには5-10歳ぐらいの女の子が数人遊んでいた。

ノイ、5歳頃から父母と共に音楽を始め才能を発揮、国の代表としてロシアに行ったことも。奨学金を得てオーストラリアに留学し、建築学を勉強。アイドル歌手としてデビュー、2002年ミスビエンチャンの才媛。29歳。現在はラオインターTVの英語ニュースキャスター、そして知的障害を持つ子供の為の学校を運営するスーパーウーマンである。

その笑顔は多くの人に愛されているであろう。奥のクーラーの効いた部屋に通される。甘いラオアイスコーヒーが出てきた。ノイは甘過ぎないかと心配したようだが、ゴルゴが昨日のことを説明する。

椅子に座るとノイが流暢な英語で話し出す。今年の6月に東京に子ども達を連れて行き、チャリティーコンサートを開いたこと、障害を持つ子供を飛行機に乗せることが非常に心配だったこと。今月は名古屋、常滑でコンサート、日本の人々には親切にされたという。常滑焼の湯飲み茶碗を見せてくれた。

彼女の話し方はハキハキ、頭のよさが見える。そして実に情熱がある。バーンタオ氏が『ノイはラオのアウンサンスーチーになるかもしれない』と言っていたことを思い出す。いきなり彼女がベトナム琴を取り出して耳掻きの長いの??を使って鳴らし始める。そして『すばる』を日本語で歌いだす。その姿はプロの歌手そのもの。驚いた。

ラオは貧しい。特に田舎は子沢山。一部屋に10人以上で生活している。障害のある子供は働くことも出来ず、邪魔者扱いとなり、生きていけない。現在そういった障害児を63名預かっている。但し政府は宿泊を認めないため、通える子しかいない。田舎は時々訪問して音楽を教えていると言う。

脳に障害のある子供は普通の勉強は難しいが、音楽や美術を習うことは脳に良い刺激を与える。実際言葉を覚え難い子供が歌や踊りは直ぐに覚える。将来政府に許されれば寄宿舎を造り、ラオ全土の障害児に歌や踊りを教えたいと言う。この年齢でこの志、日本では考えられない。

その資金作りのため、コンサートを開き、CDを売る。コンサートは先日トップアイドルであるアレキサンドラとジョイントを開いたばかり。アレキサンドラはお母さんが西洋人のハーフ。昨日見たトヨタがスポンサーをしていたCDの子。

 

ノイは日本で発売したCDを見せてくれる。驚いたのは日本ではレコード会社がOKすればCDが出せるのに、ラオでスポンサーがいないと無理なこと。ラオではCDの値段が1枚2ドル。消費水準が低く、コストをカバーできない。1枚出すのに2500ドルほどのコストが掛るようだ。これを企業に支援してもらう必要がある。

彼女の素晴らしい歌声を聞いているとスポンサーは簡単に集まるのではないだろうか??以前は大林やクボタといった日本企業が支援してくれたそうだ。子供達のためにもスポンサーを探したいとのこと。

彼女の母親がやってきた。流暢な英語を話す。昔は歌手だったようだ。現在はノイのマネージャー役であろうか??ノイは母から歌を習った。しっかりした親の元でノイの考え方が発達したのだと思う。

子供達が歌と踊りを披露してくれると言う。ノイが音楽を流し、号令を掛けると一斉に踊り出す。とても障害があるようには見えない。しかも既にコンサートなど大舞台を経験しているだけにどうに行っているカメラを向けるとカメラ目線になる子もいるほど。

モダン音楽に続いて、ラオ伝統音楽に合せて踊る。東京でも踊った曲で、可愛らしい。歌が終わり、持参した色鉛筆とノートを渡す。彼女らは『こんにちは』『ありがとう』などは日本語で言える。本当にこの教育は素晴らしい成果を出している。

ノイが後ろで一緒に踊る。その仕草は実に愛らしい。しかし彼女は真剣そのもの。踊っている子の中に2人色のついたメガネを掛けている子がいる。遊び用かと思ったが、それは障害をカバーするものであった。

踊りが終わるとノイは一人の少女を紹介した。その子は少数民族の出身、重度の障害を持っており、踊ることは難しいらしい。聞いてみると何とノイは彼女を養女にしているという。これには驚いた。ノイがこの事業を生半可な気持ちでやっていないことの証明。

 

ゴルゴも帰りに『こんなラオ人を見たことがない。素晴らしい。可愛い、ファンになった。』と言っていた。実際行く前ゴルゴは『ノイのことはよく知らない』と言っていたのであるが、ドネーションはするし、サインも貰っていた。

時間が来たので立ち上がると少女達は、アカペラで『Top of The World』を歌いだす。素晴らしい英語の発音で。そして2番はラオ語で歌う。才能が感じられる。更に皆で手を繋いで何と中島みゆきの『地上の星』を歌いだす。完璧な日本語である。感動した、素直に感動した。こんなことがあるなんて、たまには人生良いこともある。そして歌が終わると全員で声を揃えて『さようなら』。

これは大変な経験をしてしまった。涙が出そうになった。ここ前来るには物凄い努力があったのだろう。自分の才能を人に伝えるノイの姿勢には改めて脱帽した。家の前で全員が元気よく手を振ってくれた。ゴルゴも感動して手を強く振る。

ノイワールドを見てしまった。今後私は何が出来るのだろうか??

(7)夕飯 
ホテルに帰っても余韻に浸っていた。最近感動することなどなかなかない。気持ちが高ぶっている。これは一体なんだ??また風呂に浸かり、心を静める。

6時半に出発。今日こそはメコンの夕陽を見に行こう。到着すると陽は既に雲の中へ。しかし十分にメコンの夕暮れを堪能できた。雲間から輝く夕陽を微かに浴びるメコン、そしてそれを眺める子供。いい風景だ。

西洋人はそんな風景を眺めながら、ビールを美味そうに飲んでいる。何で日本人はいないのか??ゴルゴに文句を言うと『日本人観光客をこんな所に連れてきて、焼き鳥でも食べさせたら、衛生面でクレームが必ずつく』とのこと。

本当に日本人は楽しみ方を知らない。または楽しいと思わないのだろう。バックパッカーはOK。若者がバックパッカーに憧れたのは、この自由さだったはず。しかし最近は若者が冒険をせず、きれいな世界だけを求めるらしい。嘆かわしいことだ。

落ちた夕陽をいとおしく思う。川面を眺める。静かな流れがある。焼き鳥の甘い匂いが食欲を刺激する。確かこのたれは非常に甘いはずだ。昨日は暗かったので良く分からなかったが、川べりには多くの焼き鳥屋台が出ており、もも肉をぐるぐる回して焼いていた。テーブルがたくさん用意されており、注文した物をそこで食べる。贅沢だ。

夕食はまたもや一人。ゴルゴは中華料理屋に案内した。福満楼と漢字で書かれた立派な門構えの店。中に入ると何とゴルゴは店員と北京語を話し出した。驚いた。彼は一体何ヶ国語を話すのだろう。聞けば北京語よりは広東語の方が更に得意らしい。

 

北京語か通じるならば問題ないと早々にゴルゴを帰して食事を開始。調子に乗って店員に北京語で話し掛けたが、何と誰も通じない。分かるのはオーナー一家のみであった。鶏スープ、くらげの前菜、エビの揚げ物、餃子、イカ野菜炒めが次々に出てきた。その勢いで食べて行ったら、あっと言う間に食べ終わる。味はうーん??

その頃お客が着始めた。どう見ても中華系。宴会があるのか、大物と思われる老人が皆に迎えられてやってきた。ここに来る客は顔なじみが多いらしく、皆挨拶を交わしている。華僑の交流の場になっている模様。

気がつけば店は満員。その中でたった一人食事をしている私は異様に見えたであろう。早々に退散する。

7月22日(金) 
4.ビエンチャンを去る 
(1)朝の散歩 
6時に起床。身体は快調。早速散歩に出る。ホテルの前を道沿いに歩いて行くと5分ほどで市場へ。前日雨が降ったため道はグチャグチャ。パイナップルを大量に積んだトラックが何台もある。今が旬なのであろうか??

市場は掘っ立て小屋といった感じで柱を組んで布を掛けている程度。当然天井も低く、通路も狭い。足元も悪い。しかし買い物客は多い。朝ごはんを買ってこれから家で食べるのであろう。それが本来の生活なのかもしれない。

 

カオチーサイクアンという名前のフランスパンにハムときゅうりを挟んだ美味しそうなサンドイッチがある。香菜がはみ出しているのが魅力的。カオダーイという目玉焼きも売っている。ここで朝ごはんを食べたい誘惑に駆られるが、ホテルの食事を考えて我慢する。(ハエが多く、衛生面は若干心配)

 市場の隣にはバスターミナルがある。近郊向けのバスが停まっている。韓国現代製である。そしてタイとの国境を越えるインターナショナルバスも出ている。これは恐らく友好橋行き、45分ぐらい掛るらしい。

 

 

因みにこの橋、1994年にメコン川に架かる最初の橋としてオーストラリアの無償援助で作られた(事前調査は日本が行っている)。橋の前兆は1174m。バンコックから国際線でビエンチャン入りするより、国内線でウドンタニに行き、バスに乗り1時間でこの橋につく方法もあると言う。

(2)朝食
昨日と違って今日はアラカルト。年代物の扇風機が回る中、散歩後で食欲があった。しかしゆで卵を注文すると何分茹でるかと聞かれた。アジアでそんな質問をされることはないので咄嗟に答えられない。3分と言うと半熟以下で出てきた。食べて大丈夫だろうか??

 

西洋人の老夫婦が楽しそうに食事をしていた。朝から笑顔の夫婦は日本にはなかなかいない。エンジョイ、とはこういうことだろうか??今回のラオ訪問について考える。後で読んだ本『ラオス』(青山利勝著 中公新書)にラオ人の特徴が上手く表現されていた。インドシナ人の定義は『稲を植えるのがベトナム人、育つのを眺めるのがカンボジア人、育つ音を聞くのがラオ人』だそうだ。かなりの酷評であるが、一方『人柄から民族の資質まで中国、ベトナム、タイより優れている』としている。

ラオ人が日本に対してよい印象を持っているのも感じられる。ラオは昔からタイ、ビルマ、ベトナムなどと争い、フランスの植民地化、アメリカの支配を受けた国。異質な国に対する警戒心が薄い。というより異質なものを受容していかなければ生きていけなかったということだろう。そのため外国人がラオに住んでも違和感が少ないらしい。

電気なども停電することがない。水力発電があるからだと聞いたが、資源は豊富でも資金がないため開発は進んでいない。それを『ラオスは鍵のない宝の箱に腰掛けている乞食の子供のような存在』と表現しているのは分かりやすい。人々は穏やかであくせくしていない。潜在力はあるが、分相応の生活を送る。それで幸せなら一番良いのではないか??余計なことを他国民が言うのはどうだろうか??その中でノイの活動が気に掛る。

(3)ノイ再訪
実は前日夜ホテルに戻り、ノイから貰ったCDを開けて見た。プロフィールを見るためであったが、何とCDが入っていなかった。何かの手違いであったと思ったが、名刺を貰ったので思い切って携帯に電話してみた。もう一度会ってみたかったのだ、本音は。ノイは直ぐに電話に出た。事情を話すと分かってくれた。明日朝もう一度オフィスに行くことになったのだ。何だか得した気分。ゴルゴにも電話し、迎えの時間を早めてもらう。

8時30分気にいっていたホテルをチェックアウト。実に名残惜しい。フロントも笑顔で送り出してくれる。しかも初日に預けた松茸もちゃんと渡してくれる。今度来る時もこのホテルにしよう。ノイと再会。彼女は一人で待っていてくれた。昨日よりカジュアルな服装。黒いスカート姿でシックなイメージ。子供たちと接する時と、そうでない時は分けているのかもしれない。相変わらず爽やかな笑顔。しかしフライトまで時間がなかった。

CDを受け取ると直ぐに別れた。残念ではあったが、再会できただけでも良かったと思うべき。手を振る彼女を後ろにそのまま空港へ向かった。

空港には結構人がいた。フライト時間が重なっているのだろう。バンコックとハノイから便が到着するところだ。私が2日前に乗ってきた便である。この2日間も長かった。中身が濃かった。

ゴルゴとはあっさり別れた。と思ったら急いで引き返してきた。名残惜しいのかと思うとそうではなく、旅行社からアンケートを回収するように言われていたのだ。何だかユニークなキャラである。次回は直接Faxで依頼してくれ、と言って去っていった。

2階に上がると土産物屋がある。そこで私はお茶セットを買った。パクソン、バンビエン、ポンデサリーの3種類のお茶がパックになっている。パクソンはラオ緑茶、バンビエンは桑の葉茶、ポンデサリーはスモーク緑茶だそうだ。

次回はお茶見学で是非訪れたい。

《ビエンチャン散歩2006》(2)

(4)ゴルゴの話

観光中ゴルゴに色々なことを聞いた。何しろ私にはラオに関する知識は殆どない。先ず国の体制だが、ここは社会主義国ではあるが、ベトナムに依存している。ベトナムがやることはその通り行っている。中国の影響もある。ベトナムが中国と接近している中では当然出て来る。1975年にベトナムが独立、ラオも同様に独立。フランスの統治から脱却する過程で徐々にアメリカ寄りに。

 

ドイモイ政策も同じ。1975-1991年は鎖国。その後観光が解禁される。タイは日本より20年遅れており、ラオはタイより20年遅れている。ゴルゴは90年代に自費で出国。草加に住んで東京の日本語学校に通った。当初の手持ちは1000ドルしかなかったため、大変な苦労をした。ほかほか弁当でバイトして食いつないだ。結局2年で帰国した。

彼はひとり息子。ラオでは男が女の家に婿に行く習慣がある。以前は姓を女の方に変えなければならなかったが、現在は選択可能。彼の場合は一人っ子なので嫁を貰うことが許された。但し別姓。

子供は7歳と1歳半。現在は雨季休み中。ラオには日本語ガイドが全部で16人しかいない。彼も常に出張することになり、家にいなことが多い。寂しい。

ラオの人口はここ5年で350万人から550万人に増加。出生率が増加したことと難民の帰国が理由。国が安定した証拠。今後も増加することが予想されている。都市部は教育問題がなく、子供も2-3人。農村部は10人以上子供がいる家庭も多く、食べさせられない場合は寺に預ける。今後経済は在外ラオ人の投資に期待することになる。タイ人の投資も多くはない。電力は水力発電があり、停電は少ない。ガソリンは1-2割上がっているが、配給制はない。FECなどの外貨制度もなく、街ではドル、バーツ、ラオキップが同時に流通している。

ゴルゴの仕事は結構忙しいようだ。因みに英語・中国語は数百人、フランス語でも数十人はいる。彼は旅行社と契約しているフリーのガイド。しかし実際には旅行社も数人規模のため、雑用も引き受けているらしい。今日も1時間ほど留守番を頼まれているらしい。

(5)茶店
決められた観光コースを一通り消化するとゴルゴに茶店に連れて行くように頼む。彼は一瞬怪訝な顔をしたが、直ぐに『日本人でお茶が大好きな人が毎年ラオに来ます。以前北部の山奥に入ってかなり古い茶樹を見て来ました。』などという。それはもしかして松下さんのことか??

彼は行きつけの茶店があるということで行ってみる。ところが何と店は改装中。店の前の工事に合わせているのか??残念だ。なかなか良さそうな雰囲気であったので。ゴルゴはちょっと考えてまた車で別の場所へ。

今度の場所は外国人、バックパッカーなどが立ち寄りそうなカフェ。確かにお茶は売っている。ラオ茶、お土産である。雰囲気が良いカフェであり、オーナーの女性は英語もできるのでここで妥協してラオコーヒーでも飲んでいれば良いのだが、何故か拘ってしまう。

ゴルゴは嫌な顔をせずにまた考える。そして3つ目の店へ。そこは普通の建物の小さな店。軽食を食べる場所である。店の中では地元の人々が麺を食べていたり、コーヒーを飲んでいたり、思い思いの過ごし方をしている。古びてはいるが、風情がある。典型的なショップハウス。ここで彼はラオコーヒーを2つ注文した。日本と同じようにラオでもお茶はタダなのである。であるからコーヒーを頼んでお茶を貰い、併せて飲むことになる。

ラオ人は粉っぽいコーヒーにコンデンスミルクをたっぷり入れる。それは我々の想像を超えるほど、甘い。どうやって飲むのか??ゴルゴは私に『全部かき混ぜないように』と注意した。そこでお茶を併せて飲むのである。何ともはや??ゴルゴはベトナム産の香りをつけた茶を頼んだ。最近ラオではベトナム茶が流行っている。香りが良いからだそうだ。

 

私の前には伝統的なラオ茶が置かれた。緑の葉がコップを舞う。なかなか美味しい。特にあのコーヒーを飲んだせいだろうか??さっぱりする。薄いが味はしっかりしている。葉っぱも手摘み、これでタダとは??

初めからお茶だけを飲めばよいと思うのだが、こういった習慣は簡単に治らないらしい。
(日本だってちょっと前まで日本茶で金を取る店など無かった。ペットのお茶などはまさに革命的であった。)20年前上海でコーヒーを頼むと砂糖がたっぷり入っていた。砂糖は豊かさの象徴なのだ。このお茶は南部、パクセーの近く、パクソンで採れるらしい。一度行ってみたいところだ。パクセーは世界遺産にもなっており、ビエンチャンからは飛行機が毎日飛んでおり、行くのは比較的簡単らしい。

一方北の外れ、ポンデサリーから車でかなり奥まで入ったところに樹齢2000年の茶木がある。ポンデサリーまで飛行機は週2便しかなく、しかもキャンセルになることもある。それでも日本の専門家はトライしている。飛行機を使わないとすれば、ルアンパパーンから車で10時間。雲南との国境である。それでも行く価値があるとゴルゴは言う。

因みにラオにはかなり古い習慣をきちんと守っている山岳民族がいる。通い婚、末子相続。現在では車が通っている場所は全て現在化されてしまっている。歩いて1-2日入った田舎だけに見られる。もし行くとすればガイド、護衛など大掛かりな準備がいる。

 

 

(6)戦争
ホテルに戻る。早起きしたせいもあり、ちょっと疲れている。湯船に湯を溜める。浸かる。極楽気分である。深い湯船、シックな造り。満足である。疲れも吹き飛ぶ。うーん、こんな休日があっても良い。

湯から出ると備え付けのガウンだけを羽織り、裸で過ごす。これは癖になりそうなほど気持ちが良い。思えば今回はこれまで結構厳しい旅行をしてきている。最後に、しかもラオでこんな快適な気分が味わえるとは??やはり旅の醍醐味であろう。

インターネットのチェックに行く。知り合いのAさんからメールが来ていた。昨夜ラオに行くと伝えておいたら、いきなりラオの食文化についての論文を送ってくれていた。漬物文化、発酵文化には興味がある。明日市場で確認してみよう。

部屋に戻ってNHK衛星放送をつける。丁度7時のニュースを放送中。昭和天皇の側近のメモが発見されたとのこと。その内容は天皇が靖国神社にA級戦犯を合祀したことに不快感を持っていたというもの。これはなかなか凄い内容である。具体的に松岡洋右、白鳥敏夫などの名前を挙げて不快感を示しており、生々しい。今の宮司を『親の心 子知らず』となじったと言う。何故こんなメモが今頃出てきたのだろうか??小泉政権末期の波乱なのだろうか??アジア諸国はどう反応するのだろうか??

戦争についてラオ関連で思い出すことがある。あの関東軍参謀、ノモンハン事件の責任者、辻政信である。マレー作戦、シンガポール攻略などにも関与し、バンコックで終戦。その後『潜行三千里』、ラオ、ベトナムを経て重慶に至り、南京国民党政府に勤務。帰国後は何と参議院議員までなった男である。

その辻が何故か私の生まれた1961年にビエンチャンに来て、ホーチミンに会うために僧侶に変装し出発したが、そのまま消息を絶った事件を起こす。一体何のために??パテトラオに捕らえられて、ジャール高原で処刑されたと言う説が有力であるが、一方生存説もある、今でも全く謎の事件である。

 

大東亜共栄圏の夢をもう一度??と言うことだろうか??戦乱の残っているインドシナに昔を思い出したのだろうか??ホーチミンと直接交渉し名を挙げる最後のチャンスだったのだろうか??兎に角分からないこの事件がここビエンチャンを舞台に起こったことに不思議な因縁を感じる。

(7)夕食
ゴルゴが迎えに来た。夕食の場所に向かう。日の暮れた街の中、『クアラーオ』はフランス風の建物だった。中に入るとゴルゴが女性に声を掛けた。見るとさっき市場で出会った女性であった。にこやかに迎えてくれる。

時間は6時半とまだ早く、お客はいない。中には舞台があり、後で踊りが披露される。民芸品が壁際に飾られている。このレストランは外国人用である。小渕前首相、小泉首相、秋篠宮などが訪れたことが掛けられている写真で分かる。

ゴルゴがメニューを開き、きのこの写真を指す。何とそれはマツタケであった。そういえばバンコックのバーンタオ氏が『松茸があったら食べたい』と言っていたのを思い出す。バンコックに持って行けるのか聞くと、問題ないという。

どうして問題ないのかと思っていると、驚いたことに日本から松茸保存用に脇に穴の開いた小さなダンボール箱を取り寄せていたのだ。これをホテルの冷蔵庫で保管すればよいと言う。但し成田に持っていくと検疫で引っ掛かるのでバンコックまでにするように言われる。因みに値段は500gで10ドル。その大きさには期待が持てる。

お客が徐々に入ってきた。西洋人の観光客、日本人とラオ人のビジネスマン、日本人政府関係者などがいたようだ。私の席は特等席、舞台の脇である。ゴルゴは去っていった。詰まらない、いくら立派なレストランでも一人で食べるのはどうも??

料理はのりスープが出てきた。これは絶品、塩味が利いている。台湾で食べた物とほぼ同じである。ラオ伝統の挽肉のサラダ(ラープ・ディップ)は少し食べにくい。牛肉が生なのである。何故この料理がラオ料理なのか良く分からない。野菜炒めと共に、赤米が出てきた。しかもディップ・カオという小さな籠に入れられてくる。地元では手で食べるらしい。私は箸を使って食べた。餅もちして美味い。横に生野菜が置かれており、きゅうり、ミントなどを口に入れながら食事をする。

しかし一人である。料理もどんどん出てきて殆ど食べ終わった頃、ようやく音楽が鳴り出した。3人のおじさんが民族楽器を弾き出した。東南アジア特有のゆっくりした、アコースティックな音楽である。若い女性が2人出てきた。小柄で民族衣装を着込み、頭は尖がっている(髪を上げている)。

踊りはゆっくりとしており、2人は円を描いて回る。5分ぐらいで引っ込む。続いて20分経って男女が出てきてまた踊る。しかし残念ながら特に変化がない。女性は表情が乏しいが、若い男性の顔には品がある(穏やかな顔)。家元の出ではないだろうか??

また例のくわ茶を飲みながら見ていたが、突然メコンの夕陽が見たいと思い、レストランを飛び出す。何とか松茸は忘れずに。外では運転手が不思議そうな顔で急いで車を出した。メコンリバーと言うと怪訝そうな顔をしたが、言葉としては理解したようだ。川沿いに行くと既に真っ暗な中、プラスティックのテーブルと椅子が置かれ、鶏肉が焼かれている火が赤々と見える。ソーセージも焼かれており、美味しそう。大きなバーベキュー大会である。西洋人がビールを飲みながら騒いでいる。皆楽しそうだ。

一人の私は寂しくなり、携帯に手を伸ばす。タイの携帯はこの川沿いだけは繋がる。ミャンマー国境と同じである。自宅に掛けるとまた長男が出た。今メコン川にいると言うと羨ましそうな声をだす。いつか自分で来て欲しい。写真はいくら撮っても写らない。それ程に暗い。ホテルに戻り9時には寝る。

7月21日(金)
3.ビエンチャン2日目
(1)朝食
9時に寝たにも拘らず7時に起床。久しぶりにぐっすり眠れた。疲れがピークに達していたことと環境が良かったことが理由であろう。ベランダに出る。狭いが空気が新鮮で気持ちが良い。下にプールが見える。西洋人の男性が一人、泳いでいた。ゆっくりとした時間が流れている。

腹が減る。朝食は何処で取るのか??フロントに行くと笑顔の挨拶。隣の建物の2階に食堂があると言う。登って行くとレストランがあった。外にテーブルが出されていたので、座る。室内は軽くクーラーが効いているが、戸外の方が断然気持ちが良い。

眺めると川がある。よく見ると川に網を投げている人がいる。魚が取れるらしい。風景画の世界である。周りは特に何もなく、遠くに建設中の建物が見える。このホテルは本当に良い。一体誰が作ったのだろうか??今朝はビュッフェ。私はパンが好きなのでたくさん取る。クロワッサン、パストリーなどどれを取っても美味しい。さすがフランス植民地である。ベトナムでもパンが美味しかった。思わずお茶ではなく、コーヒーを頼む。コーヒーカップを持ちながら、風景を眺め、風景を眺めながら、コーヒーを飲む。植民地に着任したフランス人の気分であろうか??コーヒーはやはりコンデンスミルク入りではなく、ブラックが良い。

(2)メコン川散歩

8時にホテルを出る。一人で外に出るのは初めてであるが、大体の道はわかっているので問題はない。取り敢えずメコン川に出る。10分も歩けば到着する。道は分かりやすく、そしてきれいである。

昨夜の喧騒はなく、静かなメコンの朝であった。雲が低く、川に沿って流れている。大きな木の下に精霊が祭られている。これはミャンマーでもタイでも見られるもの。アミニズムというものであろうか??川は雨季で水嵩がある。水は決してきれいとはいえない。簡易な建物に人が住んでいる場所もあったが、基本的にきれいなレストランや整備された公園がある。散歩には非常に適している。

向こう岸までは1kmぐらいであろうか??対岸はタイ領であるが、建物はあまり見られない。農村なのであろうか??普通は見られるボーダートレードもあまり活発ではない。対岸のイーサンとビエンチャンではイーサンの方が安いらしい。面白い現象である。20-30分はメコン川をただ見つめてみる。流れは緩やか。係留している船をレストランにしている所もあった。

 

川沿いには大きな建物が1つ建っていたが、最近出来たもの。カジノホテルかと思ったが、聞けばカジノはここから70kmほど下流にあるらしい。川沿いの道にはフランス風の建物がいくつかある。タイ人がラオに観光に来る目的はこのフランス風の建物を見ることだそうで、食べ物やお土産はあまり期待しないらしい。殆ど変わらないからだろう。

川沿いをどんどん歩いて行く。寺院が見えたので中へ入る。昨日行った観光地とは違い、実に落ち着いた雰囲気があり、木々の緑が濃い。程よく古びた仏塔があり、時代を感じさせる墓がある。この寺の中は風が通って涼しい。時間が経つに連れて気温はどんどん高くなる。

その付近には洒落たギャラリーがあったりする。フランス人が歩いていたりする。そうかと思うと華僑協会の事務所があったりもする。ここラオには中華街と言われる場所はない。以前はあったらしいがその後同化してしまっている。但し街中には至る所に漢字の看板がある。中華系が経済を握っているのか、最近の中国大陸からの投資増加に合せているのか??

日本料理屋もある。オープンスペースで麺を食べている所もある。何だか喉が渇いてきた。気がつくと昨日ゴルゴに案内された茶店の近くにやって来ていた。フランス風の建物の1階にあるカフェで茶を飲むことにした。店先には鮮やかなフルーツを売るきれいな屋台がある。

中に入るとフランス人??が一人遅めの朝食を取っていた。常連という感じで新聞を読む。こちらは初めてで緊張。英語でお茶を頼むと通じた。バンビエンという昨日とは違い地名の緑茶である。葉が少し細かく、コップに茶葉が多く入っているため、少し苦い。3000k。

周りを見回すと、何故か日本の舞妓さんの絵がある。フランス人の東洋趣味をそのまま反映させたのだろうか??地球の歩き方を取り出して読んでいると、何故か『焼き物の村、バーン・チャン』が目に入る。そういえばハノイを訪れた際、陶器の村としてバッチャンを紹介されて行ったことがある。意味は同じなのだろうか??どんな意味なのだろう??

更に歩く。何だか意地になっているようだ。ラオテクスタイルと書かれたフランス風の建物があった。経営者はアメリカ人で、アメリカでも認められた質の高い織物を作っている。この店では染色から織物まで一貫して生産している。裏では実際に作業が行なわれており、自由に見学できた。

 年代物の大きな機織機が何台もあり、前には年配の女性が座っている。横には作業中の布が干されている。全てが手作業。こんな手間の掛ることはいつまで続けられるのだろうか??ビエンチャンにはこのような工房がたくさんあると言う。

 

 

 

フランス風の建物を利用したフレンチレストランもあった。その辺りにはバイクやソンテウが大量に客待ちしていた。私にも声を掛けてきたが、断ると、写真を撮って欲しいと言う。ついでに寝ている仲間も撮れと言うので撮ると、皆でデジカメを覗き込んで笑い転げる。ビエンチャンの若者はなかなか愉快である。

 

スカンジナビアンベーカリーなぞと言う名前のパン屋もあった。フランスの植民地でパンが美味いと褒めていたら、何故だかスカンジナビアが出てきた。オーナーの出身地だろうか??中ではケーキなども売られており、在住の西洋人が買いに来ている。大きなワイン樽を建物の上に載せたフレンチワインを売る店もあった。一体ここにはどれ程の外国人が暮らしているのだろう??

ホテルに戻ろうと歩いていると、かなり古びた塔がロータリーの真ん中にあった。後で調べるとタートダム(黒塔)と言う名前であった。昔タイの侵入を防いだ龍が住んでいた場所だそうだ。現在は苔が生え放題でそれがいい感じになっている。

この街には先進国では恐らくクラシックカーに属するベンツやBMWが平気で走っている。タクシーがベンツだったりもする。タートダムの周りにも無造作にそうした車が駐車されている。マニアは涎を出しそうだが、私は車のことは分からない。

結局3時間も散歩してしまった。かなり疲れてホテルに戻る。デジカメも最後は電池切れとなり、撮れなかった風景もあり残念。

 

 

 

《ビエンチャン散歩2006》(1)

7月20日(木)
1.ビエンチャンへ

(1)前日
チェンライから戻って前回同様のホテルにチェックイン。時間は午後6時。夕食はYさんと7時に待ち合わせていた。ところが何とその部屋はエアコンが故障していた。直してくれるよう頼んで食事に出る。

エンポリアムで待ち合わせ。しかしパンツと靴下を洗濯する暇がないため、エンポリアムで購入。タイとしては非常に高いのだろうが、久しぶりに質の良い下着を買った気がする。しかしバンコックは暑い。パンツは極めて薄い。

Yさんには明日ビエンチャンに持って行く色鉛筆とノートを頼んでいた。これはボランティアなのだから、自分でしなければいけないのに、つい甘えてしまった。反省。30人分の物資を受領。自然野菜を食べさせる日本料理屋に入ったが、コースが日本円で1500円ぐらい。どうしてバンコックの日本料理はこんなに安いのだろうか??毎回不思議に思う。YさんのアシスタントY女史(現奥さん)にタイ語を習う。中国語、特に広東語に近いものを感じるが、やはり難しい。習うのはちょっと大変だろう。Y女史はタイ東北部イーサンの出身。明日向かうビエンチャンはイーサンとメコン川を挟んだ向かい側。ほぼ同じ文化圏、食事も似ているようだ。何だかビエンチャンが楽しみになってきた。

9時半にホテルに戻る。ところが部屋に入るとエアコン修理のための道具が置かれたまま。フロントに聞くと後30分はかかると言う。この30分は曲者である。部屋を変えるように交渉すると満室だと断られる。私は明日5時起き、しかも昨日風呂に入っていないため、どうしても入りたい。フロントに強行に交渉、更に携帯でYさんを呼び出し、フロントと交渉してもらったが、埒が開かない。この辺がタイののんびりしたところ。最後はホテルを替わる事に。歩いて2-3分、はす向かいのホテルのフロントは小ぎれい。

部屋も広く、ベットも大きい。こっちの方が良いのでは??風呂の湯の出は良くないが、辛抱強く待つことにする。しかしその間に土曜日の約束をしようと先日会ったFさんに電話すると土曜は香港に行くと言う。メーサローンのお茶を渡したいと言うと何と今から来ることに。風呂の湯を溜めたまま外出することに。

Fさんは新しいホテルの場所が分からないので、前のホテルのロビーで待ち合わせ。ところが道が工事中でFさんの到着が遅れる。フロントは不機嫌に出て行った客が舞い戻ってソファーに居座った訳であるから、緊張した様子。Fさんに旅行のあらましを話し、茶を渡す。F夫人は台湾、香港で中国茶を習っており、今回の香港旅行でお茶の先生であるIさんにこのお茶を渡すことに。何だか面白い展開になってきている。ホテルの部屋に戻ったのは12時過ぎ。それから風呂を入れ直し、ようやく寝たのは1時半。

(2)出発
翌朝は良く眠れないまま5時半に起床。荷物を整えて6時にロビーへ。奥に食堂があり、朝食が取れる。しかし電気は点いていない。まさかこんなに早く来る人はいないと思ったのだろうか。オーダーしてから荷物を預けようとフロントに話すと、何とそんなサービスはないと言われる。仕方がないので食事後、タクシーを拾う前に前のホテルのフロントに持ち込むと名前も聞かずに預かってくれる。昨夜の出来事は結構堪えているようだ。

タクシーはメーターを使う。交渉しないで済む。平日の朝は6時半でも既に少し混んでいた。と言っても空港まで30分あれば着いてしまう。前回はチェンライ行きの国内線であったが、今回は国際線。飛行時間は同じなのに空港使用料500バーツを払わなければならないし、チェックインも大分混んでいる。搭乗すると機内は空いていた。西洋人が目立つ。隣にきつい香水をつけた西洋人女性がやって来て困ったが、見ると一番前の席が空いていたので、難なく移動する。快適、快適。一番前だと空港でビザを取るのも有利だ。

僅か1時間で到着。一番先に飛行機を降りたが、途中で空港の写真を撮っていて追い抜かれる。更に何処に並ぶか迷っている内に慣れたフランス人などの後ろになってしまう。丁度前にはこれもかなり慣れた日本人がいた。彼は写真すら持たずに何故かビザを取得してしまった。申請書は機内で貰って書いておいた。10ドル札と写真1枚を提出して直ぐに発給される。

ビザを取得してから、今度はイミグレに並ぶ。日本人ビジネスマン、韓国人、西洋人観光客などでビザを持った者(タイ人はビザ不要??)が前にいたので、結局は30分以上掛かってしまった。しかし10年前に行ったカンボジアのプノンペンを思い出すとかなり効率的な対応と思われる。

2.ビエンチャン
(1)ホテル
それにしてもきれいな空港である。途上国に有り勝ちな暗い雰囲気は全くない。エスカレーターを降りるとガイドが外で待っていた。サングラスを掛けた男性、一目でお笑い芸人TIMのゴルゴ松本に似ていると思ってしまう。その後心の中ではゴルゴと呼ぶ。

今回はYさんのアレンジであるが、一人の為にガイドをつけるのは贅沢である。しかも車(トヨタのバンで新しい)まで。早々に街中へ。先ずすることは帰りの航空券のリコンファームである。昔の中国や現在のミャンマーを思い出す。現物をオフィスに持ち込む。

小川があり、並木道がある。僅か10分でホテルに到着。これがなかなか予想外に洒落たホテルである。ブティックホテル、グリーンパークはロビーもきれい。そして何より従業員の愛想が良い。『サワディー』と笑顔で言われると思わず微笑み返してしまう。

ロビーは気持ちよい吹き抜け、中庭は真ん中にプールがあり、その周りを2階建ての建物が囲う。南国風の椰子の木、所々に配置された水。このホテルの一角だけが別世界である。部屋の中は広く、新しい。そしてシック。薄暗い中に心地よいライトアップ。ベットも大きく、快適そう。更に浴槽が深い。スパをイメージしている。エアコンは自動的に調節されている。バルコニーも付いている。うーん、プーケット辺りにあるリゾートホテルのようだ。ラオスにしては意外な展開。

インターネットは別室にPCがあり、無料で使える。誰もいないので気兼ねなく使う。長閑でゆったり。フロントの従業員は英語が流暢、ラオ大学で英語を専攻したそうで、地図をくれて色々と説明してくれた。このホテル、なかなか良い。気に入った。

(2)昼
12時にゴルゴが迎えに来る。昼飯に向かう。街はあまり大きくはないらしい。バイクが多い。二人乗り、家族四人乗りが普通なのはハノイと同じ。ホンダ製は1500ドル、中国製は500ドル。公務員の月給が60-100ドルのこの国では大金である。尚民間の月給与は80-150ドル程度。

では皆どうやって買うのか??ゴルゴに寄れば、何年も預金するらしい。テレビはビエンチャンなら何処の家にもある。次はバイク、その次は車。最近韓国現代の小型車が1万ドルで発売され、人気がある。中古は5000ドル。今乗っているトヨタのバンは2万ドル以上するので手が出にくい。

昼ごはんはフレンチレストラン、ナーダオへ。ここは有名な店のようだ。凱旋門の直ぐ近く。公園の前にひっそり建っている一戸建て。室内はラオ伝統の建築。私の為に一人用のテーブルがセットされている。ガイドは連れてくるだけである。詰まらない。

 

 

ここのオーナーはラオ人。但し革命でフランスに亡命、フランスで修行を積んだ後に最近凱旋帰国してあっと言う間にビエンチャン一のフレンチ店となった。ランチのコースは6000k程度。スーツを着た西洋人が一人やって来て、やれやれと言った表情でパンを頬張る姿がこの店の力を現している。

かぼちゃのスープ、牛肉の煮込み風ステーキ、フルーツポンチ。上品な味である。そして予想通りパンが美味しい。フランスの植民地はパンが美味しいのである。飲み物は冷たいレモングラスティー。ほのかに甘い。食後のお茶は桑の葉茶、ティーパック。ポットに入ってくるのだが、うーん、味が薄い。日本語のフリーペーパーが置かれている。見てみると主なレストランの宣伝が中心。日本料理屋も何軒かあるらしい。パクセーと言う場所は世界遺産に指定されているが、この近くではお茶が採れるらしい。

(3)観光
①バトゥーサイ(凱旋門)
レストランの前から凱旋門が見える。歩き出す。日差しが強い。フランスの凱旋門を模して1958年以降建造されているが、現在まで上に登る階段が完全には完成していない。資金がないらしい??

門の上にはヒンズー風の塔が3つ。真下まで行って上を見上げると天井にもヒンズーの絵が描かれている。ラオは元々ヒンズー文化圏。12世紀にヒンズーを捨てて小乗仏教に乗り換えている。

尚真下は何故か風が吹き抜けて実に気持ちが良い。ゴルゴは言う『ここは昔から涼しい場所だ』。前に池があるからだろうか??テーブルではバイクタクシーの運転手達が王冠を使って将棋??に熱中していた。憩いの場所なのであろう。

周りには大蔵省、外務省など旧フランス時代の建物をそのまま利用した官庁が並んでいる。この辺はベトナムなどと全く同じ。尚2004年のアセアン会議に併せて周囲の公園が整備され、中国から寄付があったことが記念碑に記されている。

②ホープラケオ
ホーは博物館の意味。1563年セタティラート王により建立された。ワットプラケオ(エメラルド寺院)であったが、戦乱でエメラルド像をタイに持ち去られ、名前を変えている。尚タイ側は奪い去ったのではなく、取り戻しただけと主張している。この辺が隣国は微妙である。

現在の建物は1942年に再建、なかなかバランスが良い造り。多くの観光客が訪れている。正面階段の両脇には『ラーイ、ラーオ』と呼ばれる龍のレリーフが配されている。中国の影響かと思ったが、角が一本の龍は中国にはいない??

この博物館には全国から仏像や遺品が集められている。伽藍に置かれた仏像は殆どが目を刳り貫かれている。そこには翡翠など宝石が嵌められていたのだ。痛ましい。仏像は全体的に柔らかい。石碑も並んでいる。読めない文字が書かれている。

中は暗い。やはり全国から集められた漆喰の箪笥??(経典を入れる物)やかなり大きな金の仏像が安置されていた。しかし中が狭いためあまり整理されている感じはない(雑然と置かれている)し、説明がないと何も分からない。

庭の向こうには旧大統領官邸、現在の迎賓館が見える。フランス風の建物であるが、如何にも古い。

③ワット・シーサケート
ホープラケオの向かいにある寺院。ビエンチャン最古の寺院。1818年アヌ王により建立される。本堂を取り囲む回廊には無数の小仏像が埋め込まれている。これまでのタイとの戦乱、フランスのとの戦乱などを生き残ってきた唯一の寺院。

モナストリーがある。小坊主が顔を出し、外国人観光客と英語で会話している。しかもその建物が半分は道路にはみ出しているのが面白い。何か由来があるのだろう。しかしゴルゴがいないので分からない。

庭には大小の仏塔がある。飾りかと思っていると全てがお墓だと言う。見れば写真が埋め込まれたものもある。お金持ちが多額の寄進をすると作れたらしい。現在は場所がなくて作ることは出来ない。鐘楼もある。しかし中には鐘ではなく鼓がある。毎日この鼓が鳴らされる。

本殿の中には黄金の仏像が3体。かなりの大きさがある。輝いている。多くの人々が祈りを捧げている。ラオは小乗仏教であり、男子は一生に一度は出家する(一週間程度)。しかし日常はミャンマーのように常に祈っていると言うことはないようだ。祭りの時に行くと言うことは形骸化している。

 

④タートルアーン
少し離れた小高い丘の上、タートルアーンがある。歩いて来るのはちょっと大変な場所である。入口には土産物屋、食べ物の屋台が出ている。焼きバナナが目に付く。少女が氷で冷やした飲み物を売っている。

中は広々している。その起源は3世紀まで遡ると言われているが、セタティラート王が1566年に建造を開始したらしい。これはルアンバパーンからビエンチャンに遷都した直後のことだ。王の遺言で建物の前の広場には王の像が鎮座している。何ともユニークな感じで座っている。

現在の建物は85mあるが、元々はインドで修行した僧がブッダの骨を持ち帰り小さな建物を建てた。その後戦乱の度にタイやミャンマー軍が財宝を求めて破壊、掘り返している。骨以外はない。その度毎に更に大きな建物が建立されて現在に至る。

毎年盛大な祭りがあり、全国から僧侶が大量にやって来て、回廊に寝泊りしている。その場所取りが大変だと言う。3日間泊り込むとなると本当に大変だ。暖かいとはいえ、老僧などは大丈夫なのだろうか??現在脇に大講堂が建設中。出来上がればここに泊れるようだが、資金確保がままならず、いつ完成するか分からないようだ。(既に建設開始から5年経っている)

一般民衆は塔の周りを3回回る。夜は塔がライトアップされてきれいだそうだ。ミャンマーと違って、ここでは男女の区別なし。金箔を貼るなどの習慣もない。人々は穏やかで、タイの様にギラギラしてはいないが、一方特に信仰が深いとも思えない。ラオ人は何ともつかみ所のない人々である。

ゴルゴが突然女性に手を振る。向こうも振り返す。何と日本人。彼女らはJICAのプログラムでやって来て田舎にホームステイした看護士たち。ゴルゴも彼女らに着いていき、一昨日行動を共にした。一緒に一泊して仲良くなったらしい。

口々に『田舎はいい、人々との触れ合いが素晴らしい』と言う。田舎のこと、医者も一緒だったが、酒が出て大変だったらしい。数人は二日酔いで倒れていたとか??日本では忘れられた世界がラオの田舎にはあるらしい。次回は私も田舎に行きたい。

⑤タラート・サオ
朝市。中心部にあり、名前は朝市であるが、今は観光地化して9時から4時まで。普通のオフィスと変わらない。中は広く何でもある。携帯は凄い勢いで普及している。基本料金は10ドルだが、プリペイドなら2-3ドルから使える。機種はノキアが目に付く。中国で買った携帯と同タイプは値段が全く同じ。66ドル。

店員は北京語通じず、英語片言。冷蔵庫は中国のハイアールの他、東芝、シャープなどタイで生産されたもの。デジカメもある。そういえば、某中国系ホテルではデジカメに入っていたSDカードだけが盗まれる事件が発生したとか??

たこ焼き器やホットケーキプレートがある。美味しそうなパンケーキが出来上がる。フランスパンも売られている。ここは観光客用の市場なので野菜などは売っておらず、直ぐ食べられる物を扱っている。

服はシンという名のスカートが売られている。木彫りのカエルはミャンマーに比べて音が良い。ドリアンなどのフルーツは豊富。尚場外には薬草を売る少数民族がいた。漢方薬である。尚少数民族はいるが、現在のラオには実は制度上はラオ族(高地、中地、平地)しかいない。それはラオの歴史上悲しい出来事があったからである。

モン族の悲劇、アメリカに加担した右派モン族とパテトラオに組したモン族が同族で戦う羽目になり、最後はパテトラオに追い詰められた右派モン族が大量虐殺されてしまう。その後民族間がギクシャクしたため、政府は同一民族の共同を強調したのである。しかしこれは如何なものであろうか??

CDショップを覗く。まだDVDよりVCDである。何故CDを見たのか??実は明日ラオの歌手と会う予定が在るので、彼女のCDを買って置こうというものである。しかしなかなか見付からない。

現在は西洋人とのハーフであるアレキサンドラという女性歌手の人気が高い。彼女のCD を見てビックリ。何とスポンサーとしてトヨタの名前がある。私のお目当ての歌手のCDは何とか1枚あったのみ。明日はどうなることやら??

 

 

 

 

 

《ラオス散歩2013》(11)ルアンプラバーン 日中合弁ゲストハウスに出会う

日中合弁ゲストハウスに出会う

そしてまたメコン川へ出た。河沿いをぶらぶら歩く。気持ち良い風が吹くがかなり暑い。あてもなく歩いて行くと、河沿いに駐車している車が目に入る。何と中国雲南ナンバーだった。こんなところにまで、中国人は車でやってくるのか、と写真を撮っていると、後ろから中国語で『中国人か?』と声を掛けられる。慌てて『日本人だ』と中国語で答えると、相手が『え、日本人なのか?』と日本語で返してくる。

DSCN6726m

 

何とも奇妙な出会いだった。彼は何と北京出身で日本にも留学経験のある中国人だった。中国生活に飽き、環境の良い、ここルアンプラバーンに移住したのだという。そして彼が『私は日本人と一緒にそこでゲストハウスをやっている』というのを聞いて、興味を覚える。

DSCN6736m

 

ゲストハウスは本当に河沿いのすぐそこにあった。日本人もいた。そこへ長老がやってきた。聞けば、華人で中国語が話せるとのことで、早々に話を聞く。おじいさんのお父さんは広東人。『親父は広東から船でハノイへ行き、そこから陸路、カンボジアへ。そしてまた船でメコン川を遡り、ここへ着いたんだ。俺も大学はベトナムのホーチミンへ行ったよ。ベトナムは兄貴分だからな。ずいぶん昔の話だが』。ルアンプラバーンには華人は多くはない。その中でこの老人は華人のまとめ役らしい。

DSCN6731m

 

一日1回は立ち寄るという老人が去り、日本語を話す中国人もどこかへ消えていた。日本人Sさんと話し始めた。驚いたことに90年代香港に駐在し、2000年代は上海や青島にもいたサラリーマンが縁あって、ここまでやってきたという。私と似通った部分もあり、話が弾む。

 

そしてここへ来る前に雲南省のシーサンバンナで仕事をしていたとの話から、先日バンコックのお茶屋で会ったシーサンバンナの不動産屋さんが彼の勤め先であると知り、あまりのご縁に双方驚いた。そんなことがあるのだろうか。彼は今でも時々シーサンバンナへバスで行き、プーアール茶を持ってベトナムへも行くという。まさに昔の物流ルートを行っている。実に興味深い。

DSCN6735m

 

昼飯も食わずに3時間も話しただろうか。話は尽きなかったが、時間が尽きた。空港へ向かう時間となり、次回の再会を期待して別れた。

 

それから急いでホテルへ取って返し、荷物を受け取り、トゥクトゥクを探すが見つからない。暑いから皆昼寝中のようだ。1台のソンテウが停まっており、聞くと6ドルで行くというので乗り込む。空港までは20分ぐらいで着く。

DSCN6738m

 

ルアンプラバーンの興味深い旅も終わった。ラオセントラルで一端ビエンチャンへ戻り、国内線から国際線のターミナルへ移動し、再度チェックイン。乗り継ぎ時間は1時間しかなかったが、そこはローカル空港。何事もなく、バンコックへ戻った。

《ラオス散歩2013》(10)ルアンプラバーン 托鉢に思う

9月29日(日)

托鉢に思う

翌朝も早く起きた。外が明るくなっていたので、ホテルの前に出ていくと、各家の前に女性たちが出て、托鉢のお坊さんを待っていた。この光景はミャンマーで見て以来。何となく、好ましく思い、お坊さんの一団について歩く。

DSCN6694m

 

相当数のお坊さんが歩いてくるので、ツボの中にご飯やお菓子を入れるのも忙しい。ここでは毎日こんなに大々的に托鉢をしているのだろうか、などと考えていると、向かいのおばさんが手招きする。こっちにきて、お前もやれ、という仕草だ。

 

おばさん3人ぐらいがやってきて、次々に渡す物を置いて行き、お坊さんにあげる仕方を教えてくれる。本当にスピードが速い。お坊さんの歩くスピードに追い付かず、四苦八苦。お坊さんの中には小坊主もかなりいる。こんなに托鉢を受けてどうするんだというほど、抱えている子もいた。

DSCN6697m

 

ようやく一団が通り過ぎ、辺りが平穏になると、おばさんが手を出してきた。確かにお坊さんにあげる品々を貰ったのだから、おれをしなくて行けないと、5ドルを取り出すと『20ドルだ』といきなり英語でいう。これには参った。いつもなら『そんな話はしていない。そんな高いはずはない』などと口論になるところだが。

 

その時、ちょっと怒っている自分に向き合う自分がいた。『確かにこのおばさん達はいいことはしていない。この托鉢自体が一種の観光イベントであり、宗教的には疑問もある。だが私自身の気持ちはどうなんだ?』そしておばさんに黙って20ドルを渡し、合掌して去る。おばさん達は一瞬きょとんとしていた。

 

そしてホテルで気持ち良い朝食を取り、少し横になる。庭でPCをいじり、時間を過ごしたが、今日の午後にはバンコックに戻る身であり、再度街をぶらつくことにする。先ほどの托鉢の終点は、ワットシェントーン。実に立派なお寺だった。拝観料を払う必要があったが、時間が早すぎ、誰もいなかったので、外から写真に収めて去る。

 DSCN6699m