《ビエンチャン散歩2006》(3)

(3)昼食

昼にゴルゴがやってきた。本当は今日も立派なレストランでラオ料理を食べる予定であったが、昨日予定を変更してもらった。麺屋に連れて行け、と頼んだのである。彼はお安い御用と切り替えてくれた。勿論食事代は既に払っている。店がキャンセルできれば彼にはそこそこの収入があるはずだが、細かいことは言わない。私は自分の食べたい物を食べるだけでよい。

連れて行かれた店は少し外れた普通の庶民の店であった。これが良い。12時過ぎるとあっと言う間に満員になった。人気店である。何故か赤いワーゲンで乗り付けてきた若いカップルもいた。

味王と漢字で書かれたエプロンをした店員がきびきびと料理を作っている。ここは美味そうだ。オーナーはおばあさんのようでゴルゴと話し込んでいる。ラーメンに似た麺にチャーシューが載っている。スープが美味い。ゴルゴは自分で醤油を入れたりして味を調えているが、このままで十分ではないのか??

隣が頼んだチャーハンも美味そうなので追加注文。タイ米で作っているが、刻んだチャーシューが入っているところは日本風??全体的にあっさりしていて、生もやしなどを入れて更にあっさり食べる。どう見ても食べ過ぎ。ゴルゴも2つ平らげた人はいないと言う。

ラオには麺とライスを一緒に食べる習慣はないという。ゴルゴは日本流のラーメンライスにアレンジしたのだ。ラオ人はお昼に麺一杯で大丈夫なのか聞く、腹が減ったらおやつを食べるとの答え。

兎に角立派なレストランで食べるより余程よい。高級よりB級を好む自分を発見。ゴルゴのアドバイスは次回から旅行社を通さないこと。旅行社の人間はお客を庶民の店に連れてきては、全然儲からない。

(4)庶民の市場
時間調整のため、庶民の市場へ行く。昨日既に市場には行ったが、あれは観光市場。Aさんからのメールに書かれていた漬物文化も確認したい。入るとやはり先ずは野菜が山積み。キャベツ、きゅうり、なす、トマト、色が極めて原色。

かえる、皮をむかれた鶏など日本の観光客などは目を向けられない物もいくらでもある。市場は昼下がりでお客もなく、市場の女性達は何と昼からビールを飲んでいる。しかもコップを持たずにビンから直接。この光景、何だか私は好きである。

樽に魚の切り身が漬けられている。大量の小魚が漬けられている樽もある。これがAさんから貰ったパーデーク(魚の塩辛)であろう。正直かなりの臭気がある。

【Aさんから貰ったメール】
東南アジアにおける米食、魚醤と野菜の生食
1.概要
(1)東南アジアは、高温多湿であることから米と魚の発酵食品(ナレズシ、塩辛、魚醤)が発達し、麹を使った東アジアの米、大豆の発酵食品(味噌、醤油)とは異なる。
(2)味噌に比べて醤油の歴史は新しい。同様に魚醤の歴史は新しいが、そのもととなった塩辛の歴史は古い。
(3)魚醤発祥の地は、ラオスから東北タイ、あるいは雲南省から貴州にかけての地域である可能性が高い。
(4)東南アジアでは、ウルチ米の嗜好が主流だが、ラオス、東北タイ=イサーン、チェンマイを中心とする北タイでは雲南省西双版納地方と同様にモチ米が好まれ、照葉樹林説との関連性が想起される。

2.内容

(5)ラオスの塩辛の汁、ナムパーデーク
海のない国であるため、これまで見てきたような小エビの塩辛ペースト(カピの類)とベトナムのマムに当たるものは存在しない。が、それ以外は豊富である。
たとえば、パーデーク。塩辛、あるいは塩辛のペーストである。小魚の姿のままのもの、大きな魚の切り身を漬け込んだもの、そして、それらを潰してペースト状にしたものがある。ペーストの場合、頭、内臓を抜いて切り身にしたものを竹籠に入れて重石をし、水分を抜く。それに塩を加えて突き砕き、また重石をして数日置く。さらに塩と少量の米ぬかを加えて搗き、瓶にいれて熟成させる。一般的には、かつての日本の味噌造りのように、家庭で作られる。また、この塩辛作りの副産物である塩辛の汁、ナムパーデーク、そして、工場で生産される魚醤油、ナムパーがある

・・・この国の場合もパーデークやその汁の利用は古いが、ナムパーは比較的新しい、おそらくは100年と経っていないものかと思われる。・・・上記以外にも沢ガニを塩漬けにしたものなどもあり、すり潰して、先のパパイヤのサラダ、タムマックフンなどの味付け(塩味と旨み付け)に用いられたりする。 

(6)魚醤が生れた地?
このあたり(ラオス)の地域がその(水田漁業)のその起源であるという話であるが、石毛氏はその著書『魚醤とナレズシの研究』の中では、断言まではしていない。
可能性としては、こういった条件(水田漁業・自然塩・ナレズシ・塩辛類)に合致する場所ということで、ラオスから東北タイにかけてのあたりが、一番可能性が高いのではないかということである(あるいは、雲南省から貴州にかけての盆地という可能性もあるという)。

もとより、すべての魚醤、ナレズシの類が一ヶ所から生れたと言うわけではなく、ややこしい面はあるのだが、このような食のセットが生まれた地として、考えられるということである。ただし、念のためにいうと、それが、現在のラオ族であるということではない。前述のように、この地域にラオ族がいくつかの小国を形成するようになるのが10世紀の頃である。それよりずっと以前の、可能性としては、扶南国などのモン・クメールであるとされる。それ以前の少数民族のもとで形成された可能性もないではないが、クメールの可能性が高いというのが石毛説である。
(「世界の食文化4」『ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』森枝卓士 著 ) 
驚くべき文化である。東南アジアの食文化は塩辛、魚醤である。香港でも歴史博物館に行けば、魚醤の製造工程などが解説されている。なまじ文明が発達した所には残っていない貴重な文化を見る思いである。

キンマの葉も売られている。ビンロウが横にある。ここでも老人がビンロウを噛んでいるらしい。きのこやたけのこの横にさり気なく置かれたビンロウ。これも東南アジアの伝統文化である。

ドリアンなど独特のフルーツも置かれている。『梨』と書かれた紙に包まれたナシ。日本に輸出しているのだろうか??仏具を売る店が大きく張り出している。仏事用の茶器が売られている。造花が一面に花を咲かせている。

市場を出て車を走らせる。次の約束まで少し時間がある。郊外に向かう大きな道を走る。道の脇に十字架がいくつも見える。墓である。植民地時代のフランス人の墓であろうか??近づいて見ると『公教義堂』と言う漢字も見える。ゴルゴによれば、ベトナム人の墓だそうだ。

ベトナム人キリスト教徒の墓。華僑もいただろうし、西洋人もいたかもしれない。彼らは異国でも他の墓には入ろうとしないし、異教徒はこの墓地に埋葬できない。午後の陽射しの中で、十字架をつけた墓がリンと輝いていた。

 

(5)ノイワールド
1時半、約束の時間がやってきた。今回ビエンチャンを訪れた理由は1つ。バーンタオ氏の紹介でノイに会うことだった。車は指定された学校に向かう。時間に余裕があり、事前に調べていたにも拘らず、見付からない。

ゴルゴも流石に慌てるかと見えたが、やはり悠然としている。2回ほど辺りの人に聞いてようやく到着。そこは商店や民家が並ぶ一角、幼稚園と言うかプレールームと言った感じ。入口を入ると奥から女性が出てきた。それがノイ。周りには5-10歳ぐらいの女の子が数人遊んでいた。

ノイ、5歳頃から父母と共に音楽を始め才能を発揮、国の代表としてロシアに行ったことも。奨学金を得てオーストラリアに留学し、建築学を勉強。アイドル歌手としてデビュー、2002年ミスビエンチャンの才媛。29歳。現在はラオインターTVの英語ニュースキャスター、そして知的障害を持つ子供の為の学校を運営するスーパーウーマンである。

その笑顔は多くの人に愛されているであろう。奥のクーラーの効いた部屋に通される。甘いラオアイスコーヒーが出てきた。ノイは甘過ぎないかと心配したようだが、ゴルゴが昨日のことを説明する。

椅子に座るとノイが流暢な英語で話し出す。今年の6月に東京に子ども達を連れて行き、チャリティーコンサートを開いたこと、障害を持つ子供を飛行機に乗せることが非常に心配だったこと。今月は名古屋、常滑でコンサート、日本の人々には親切にされたという。常滑焼の湯飲み茶碗を見せてくれた。

彼女の話し方はハキハキ、頭のよさが見える。そして実に情熱がある。バーンタオ氏が『ノイはラオのアウンサンスーチーになるかもしれない』と言っていたことを思い出す。いきなり彼女がベトナム琴を取り出して耳掻きの長いの??を使って鳴らし始める。そして『すばる』を日本語で歌いだす。その姿はプロの歌手そのもの。驚いた。

ラオは貧しい。特に田舎は子沢山。一部屋に10人以上で生活している。障害のある子供は働くことも出来ず、邪魔者扱いとなり、生きていけない。現在そういった障害児を63名預かっている。但し政府は宿泊を認めないため、通える子しかいない。田舎は時々訪問して音楽を教えていると言う。

脳に障害のある子供は普通の勉強は難しいが、音楽や美術を習うことは脳に良い刺激を与える。実際言葉を覚え難い子供が歌や踊りは直ぐに覚える。将来政府に許されれば寄宿舎を造り、ラオ全土の障害児に歌や踊りを教えたいと言う。この年齢でこの志、日本では考えられない。

その資金作りのため、コンサートを開き、CDを売る。コンサートは先日トップアイドルであるアレキサンドラとジョイントを開いたばかり。アレキサンドラはお母さんが西洋人のハーフ。昨日見たトヨタがスポンサーをしていたCDの子。

 

ノイは日本で発売したCDを見せてくれる。驚いたのは日本ではレコード会社がOKすればCDが出せるのに、ラオでスポンサーがいないと無理なこと。ラオではCDの値段が1枚2ドル。消費水準が低く、コストをカバーできない。1枚出すのに2500ドルほどのコストが掛るようだ。これを企業に支援してもらう必要がある。

彼女の素晴らしい歌声を聞いているとスポンサーは簡単に集まるのではないだろうか??以前は大林やクボタといった日本企業が支援してくれたそうだ。子供達のためにもスポンサーを探したいとのこと。

彼女の母親がやってきた。流暢な英語を話す。昔は歌手だったようだ。現在はノイのマネージャー役であろうか??ノイは母から歌を習った。しっかりした親の元でノイの考え方が発達したのだと思う。

子供達が歌と踊りを披露してくれると言う。ノイが音楽を流し、号令を掛けると一斉に踊り出す。とても障害があるようには見えない。しかも既にコンサートなど大舞台を経験しているだけにどうに行っているカメラを向けるとカメラ目線になる子もいるほど。

モダン音楽に続いて、ラオ伝統音楽に合せて踊る。東京でも踊った曲で、可愛らしい。歌が終わり、持参した色鉛筆とノートを渡す。彼女らは『こんにちは』『ありがとう』などは日本語で言える。本当にこの教育は素晴らしい成果を出している。

ノイが後ろで一緒に踊る。その仕草は実に愛らしい。しかし彼女は真剣そのもの。踊っている子の中に2人色のついたメガネを掛けている子がいる。遊び用かと思ったが、それは障害をカバーするものであった。

踊りが終わるとノイは一人の少女を紹介した。その子は少数民族の出身、重度の障害を持っており、踊ることは難しいらしい。聞いてみると何とノイは彼女を養女にしているという。これには驚いた。ノイがこの事業を生半可な気持ちでやっていないことの証明。

 

ゴルゴも帰りに『こんなラオ人を見たことがない。素晴らしい。可愛い、ファンになった。』と言っていた。実際行く前ゴルゴは『ノイのことはよく知らない』と言っていたのであるが、ドネーションはするし、サインも貰っていた。

時間が来たので立ち上がると少女達は、アカペラで『Top of The World』を歌いだす。素晴らしい英語の発音で。そして2番はラオ語で歌う。才能が感じられる。更に皆で手を繋いで何と中島みゆきの『地上の星』を歌いだす。完璧な日本語である。感動した、素直に感動した。こんなことがあるなんて、たまには人生良いこともある。そして歌が終わると全員で声を揃えて『さようなら』。

これは大変な経験をしてしまった。涙が出そうになった。ここ前来るには物凄い努力があったのだろう。自分の才能を人に伝えるノイの姿勢には改めて脱帽した。家の前で全員が元気よく手を振ってくれた。ゴルゴも感動して手を強く振る。

ノイワールドを見てしまった。今後私は何が出来るのだろうか??

(7)夕飯 
ホテルに帰っても余韻に浸っていた。最近感動することなどなかなかない。気持ちが高ぶっている。これは一体なんだ??また風呂に浸かり、心を静める。

6時半に出発。今日こそはメコンの夕陽を見に行こう。到着すると陽は既に雲の中へ。しかし十分にメコンの夕暮れを堪能できた。雲間から輝く夕陽を微かに浴びるメコン、そしてそれを眺める子供。いい風景だ。

西洋人はそんな風景を眺めながら、ビールを美味そうに飲んでいる。何で日本人はいないのか??ゴルゴに文句を言うと『日本人観光客をこんな所に連れてきて、焼き鳥でも食べさせたら、衛生面でクレームが必ずつく』とのこと。

本当に日本人は楽しみ方を知らない。または楽しいと思わないのだろう。バックパッカーはOK。若者がバックパッカーに憧れたのは、この自由さだったはず。しかし最近は若者が冒険をせず、きれいな世界だけを求めるらしい。嘆かわしいことだ。

落ちた夕陽をいとおしく思う。川面を眺める。静かな流れがある。焼き鳥の甘い匂いが食欲を刺激する。確かこのたれは非常に甘いはずだ。昨日は暗かったので良く分からなかったが、川べりには多くの焼き鳥屋台が出ており、もも肉をぐるぐる回して焼いていた。テーブルがたくさん用意されており、注文した物をそこで食べる。贅沢だ。

夕食はまたもや一人。ゴルゴは中華料理屋に案内した。福満楼と漢字で書かれた立派な門構えの店。中に入ると何とゴルゴは店員と北京語を話し出した。驚いた。彼は一体何ヶ国語を話すのだろう。聞けば北京語よりは広東語の方が更に得意らしい。

 

北京語か通じるならば問題ないと早々にゴルゴを帰して食事を開始。調子に乗って店員に北京語で話し掛けたが、何と誰も通じない。分かるのはオーナー一家のみであった。鶏スープ、くらげの前菜、エビの揚げ物、餃子、イカ野菜炒めが次々に出てきた。その勢いで食べて行ったら、あっと言う間に食べ終わる。味はうーん??

その頃お客が着始めた。どう見ても中華系。宴会があるのか、大物と思われる老人が皆に迎えられてやってきた。ここに来る客は顔なじみが多いらしく、皆挨拶を交わしている。華僑の交流の場になっている模様。

気がつけば店は満員。その中でたった一人食事をしている私は異様に見えたであろう。早々に退散する。

7月22日(金) 
4.ビエンチャンを去る 
(1)朝の散歩 
6時に起床。身体は快調。早速散歩に出る。ホテルの前を道沿いに歩いて行くと5分ほどで市場へ。前日雨が降ったため道はグチャグチャ。パイナップルを大量に積んだトラックが何台もある。今が旬なのであろうか??

市場は掘っ立て小屋といった感じで柱を組んで布を掛けている程度。当然天井も低く、通路も狭い。足元も悪い。しかし買い物客は多い。朝ごはんを買ってこれから家で食べるのであろう。それが本来の生活なのかもしれない。

 

カオチーサイクアンという名前のフランスパンにハムときゅうりを挟んだ美味しそうなサンドイッチがある。香菜がはみ出しているのが魅力的。カオダーイという目玉焼きも売っている。ここで朝ごはんを食べたい誘惑に駆られるが、ホテルの食事を考えて我慢する。(ハエが多く、衛生面は若干心配)

 市場の隣にはバスターミナルがある。近郊向けのバスが停まっている。韓国現代製である。そしてタイとの国境を越えるインターナショナルバスも出ている。これは恐らく友好橋行き、45分ぐらい掛るらしい。

 

 

因みにこの橋、1994年にメコン川に架かる最初の橋としてオーストラリアの無償援助で作られた(事前調査は日本が行っている)。橋の前兆は1174m。バンコックから国際線でビエンチャン入りするより、国内線でウドンタニに行き、バスに乗り1時間でこの橋につく方法もあると言う。

(2)朝食
昨日と違って今日はアラカルト。年代物の扇風機が回る中、散歩後で食欲があった。しかしゆで卵を注文すると何分茹でるかと聞かれた。アジアでそんな質問をされることはないので咄嗟に答えられない。3分と言うと半熟以下で出てきた。食べて大丈夫だろうか??

 

西洋人の老夫婦が楽しそうに食事をしていた。朝から笑顔の夫婦は日本にはなかなかいない。エンジョイ、とはこういうことだろうか??今回のラオ訪問について考える。後で読んだ本『ラオス』(青山利勝著 中公新書)にラオ人の特徴が上手く表現されていた。インドシナ人の定義は『稲を植えるのがベトナム人、育つのを眺めるのがカンボジア人、育つ音を聞くのがラオ人』だそうだ。かなりの酷評であるが、一方『人柄から民族の資質まで中国、ベトナム、タイより優れている』としている。

ラオ人が日本に対してよい印象を持っているのも感じられる。ラオは昔からタイ、ビルマ、ベトナムなどと争い、フランスの植民地化、アメリカの支配を受けた国。異質な国に対する警戒心が薄い。というより異質なものを受容していかなければ生きていけなかったということだろう。そのため外国人がラオに住んでも違和感が少ないらしい。

電気なども停電することがない。水力発電があるからだと聞いたが、資源は豊富でも資金がないため開発は進んでいない。それを『ラオスは鍵のない宝の箱に腰掛けている乞食の子供のような存在』と表現しているのは分かりやすい。人々は穏やかであくせくしていない。潜在力はあるが、分相応の生活を送る。それで幸せなら一番良いのではないか??余計なことを他国民が言うのはどうだろうか??その中でノイの活動が気に掛る。

(3)ノイ再訪
実は前日夜ホテルに戻り、ノイから貰ったCDを開けて見た。プロフィールを見るためであったが、何とCDが入っていなかった。何かの手違いであったと思ったが、名刺を貰ったので思い切って携帯に電話してみた。もう一度会ってみたかったのだ、本音は。ノイは直ぐに電話に出た。事情を話すと分かってくれた。明日朝もう一度オフィスに行くことになったのだ。何だか得した気分。ゴルゴにも電話し、迎えの時間を早めてもらう。

8時30分気にいっていたホテルをチェックアウト。実に名残惜しい。フロントも笑顔で送り出してくれる。しかも初日に預けた松茸もちゃんと渡してくれる。今度来る時もこのホテルにしよう。ノイと再会。彼女は一人で待っていてくれた。昨日よりカジュアルな服装。黒いスカート姿でシックなイメージ。子供たちと接する時と、そうでない時は分けているのかもしれない。相変わらず爽やかな笑顔。しかしフライトまで時間がなかった。

CDを受け取ると直ぐに別れた。残念ではあったが、再会できただけでも良かったと思うべき。手を振る彼女を後ろにそのまま空港へ向かった。

空港には結構人がいた。フライト時間が重なっているのだろう。バンコックとハノイから便が到着するところだ。私が2日前に乗ってきた便である。この2日間も長かった。中身が濃かった。

ゴルゴとはあっさり別れた。と思ったら急いで引き返してきた。名残惜しいのかと思うとそうではなく、旅行社からアンケートを回収するように言われていたのだ。何だかユニークなキャラである。次回は直接Faxで依頼してくれ、と言って去っていった。

2階に上がると土産物屋がある。そこで私はお茶セットを買った。パクソン、バンビエン、ポンデサリーの3種類のお茶がパックになっている。パクソンはラオ緑茶、バンビエンは桑の葉茶、ポンデサリーはスモーク緑茶だそうだ。

次回はお茶見学で是非訪れたい。

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