《ビエンチャン散歩2006》(1)

7月20日(木)
1.ビエンチャンへ

(1)前日
チェンライから戻って前回同様のホテルにチェックイン。時間は午後6時。夕食はYさんと7時に待ち合わせていた。ところが何とその部屋はエアコンが故障していた。直してくれるよう頼んで食事に出る。

エンポリアムで待ち合わせ。しかしパンツと靴下を洗濯する暇がないため、エンポリアムで購入。タイとしては非常に高いのだろうが、久しぶりに質の良い下着を買った気がする。しかしバンコックは暑い。パンツは極めて薄い。

Yさんには明日ビエンチャンに持って行く色鉛筆とノートを頼んでいた。これはボランティアなのだから、自分でしなければいけないのに、つい甘えてしまった。反省。30人分の物資を受領。自然野菜を食べさせる日本料理屋に入ったが、コースが日本円で1500円ぐらい。どうしてバンコックの日本料理はこんなに安いのだろうか??毎回不思議に思う。YさんのアシスタントY女史(現奥さん)にタイ語を習う。中国語、特に広東語に近いものを感じるが、やはり難しい。習うのはちょっと大変だろう。Y女史はタイ東北部イーサンの出身。明日向かうビエンチャンはイーサンとメコン川を挟んだ向かい側。ほぼ同じ文化圏、食事も似ているようだ。何だかビエンチャンが楽しみになってきた。

9時半にホテルに戻る。ところが部屋に入るとエアコン修理のための道具が置かれたまま。フロントに聞くと後30分はかかると言う。この30分は曲者である。部屋を変えるように交渉すると満室だと断られる。私は明日5時起き、しかも昨日風呂に入っていないため、どうしても入りたい。フロントに強行に交渉、更に携帯でYさんを呼び出し、フロントと交渉してもらったが、埒が開かない。この辺がタイののんびりしたところ。最後はホテルを替わる事に。歩いて2-3分、はす向かいのホテルのフロントは小ぎれい。

部屋も広く、ベットも大きい。こっちの方が良いのでは??風呂の湯の出は良くないが、辛抱強く待つことにする。しかしその間に土曜日の約束をしようと先日会ったFさんに電話すると土曜は香港に行くと言う。メーサローンのお茶を渡したいと言うと何と今から来ることに。風呂の湯を溜めたまま外出することに。

Fさんは新しいホテルの場所が分からないので、前のホテルのロビーで待ち合わせ。ところが道が工事中でFさんの到着が遅れる。フロントは不機嫌に出て行った客が舞い戻ってソファーに居座った訳であるから、緊張した様子。Fさんに旅行のあらましを話し、茶を渡す。F夫人は台湾、香港で中国茶を習っており、今回の香港旅行でお茶の先生であるIさんにこのお茶を渡すことに。何だか面白い展開になってきている。ホテルの部屋に戻ったのは12時過ぎ。それから風呂を入れ直し、ようやく寝たのは1時半。

(2)出発
翌朝は良く眠れないまま5時半に起床。荷物を整えて6時にロビーへ。奥に食堂があり、朝食が取れる。しかし電気は点いていない。まさかこんなに早く来る人はいないと思ったのだろうか。オーダーしてから荷物を預けようとフロントに話すと、何とそんなサービスはないと言われる。仕方がないので食事後、タクシーを拾う前に前のホテルのフロントに持ち込むと名前も聞かずに預かってくれる。昨夜の出来事は結構堪えているようだ。

タクシーはメーターを使う。交渉しないで済む。平日の朝は6時半でも既に少し混んでいた。と言っても空港まで30分あれば着いてしまう。前回はチェンライ行きの国内線であったが、今回は国際線。飛行時間は同じなのに空港使用料500バーツを払わなければならないし、チェックインも大分混んでいる。搭乗すると機内は空いていた。西洋人が目立つ。隣にきつい香水をつけた西洋人女性がやって来て困ったが、見ると一番前の席が空いていたので、難なく移動する。快適、快適。一番前だと空港でビザを取るのも有利だ。

僅か1時間で到着。一番先に飛行機を降りたが、途中で空港の写真を撮っていて追い抜かれる。更に何処に並ぶか迷っている内に慣れたフランス人などの後ろになってしまう。丁度前にはこれもかなり慣れた日本人がいた。彼は写真すら持たずに何故かビザを取得してしまった。申請書は機内で貰って書いておいた。10ドル札と写真1枚を提出して直ぐに発給される。

ビザを取得してから、今度はイミグレに並ぶ。日本人ビジネスマン、韓国人、西洋人観光客などでビザを持った者(タイ人はビザ不要??)が前にいたので、結局は30分以上掛かってしまった。しかし10年前に行ったカンボジアのプノンペンを思い出すとかなり効率的な対応と思われる。

2.ビエンチャン
(1)ホテル
それにしてもきれいな空港である。途上国に有り勝ちな暗い雰囲気は全くない。エスカレーターを降りるとガイドが外で待っていた。サングラスを掛けた男性、一目でお笑い芸人TIMのゴルゴ松本に似ていると思ってしまう。その後心の中ではゴルゴと呼ぶ。

今回はYさんのアレンジであるが、一人の為にガイドをつけるのは贅沢である。しかも車(トヨタのバンで新しい)まで。早々に街中へ。先ずすることは帰りの航空券のリコンファームである。昔の中国や現在のミャンマーを思い出す。現物をオフィスに持ち込む。

小川があり、並木道がある。僅か10分でホテルに到着。これがなかなか予想外に洒落たホテルである。ブティックホテル、グリーンパークはロビーもきれい。そして何より従業員の愛想が良い。『サワディー』と笑顔で言われると思わず微笑み返してしまう。

ロビーは気持ちよい吹き抜け、中庭は真ん中にプールがあり、その周りを2階建ての建物が囲う。南国風の椰子の木、所々に配置された水。このホテルの一角だけが別世界である。部屋の中は広く、新しい。そしてシック。薄暗い中に心地よいライトアップ。ベットも大きく、快適そう。更に浴槽が深い。スパをイメージしている。エアコンは自動的に調節されている。バルコニーも付いている。うーん、プーケット辺りにあるリゾートホテルのようだ。ラオスにしては意外な展開。

インターネットは別室にPCがあり、無料で使える。誰もいないので気兼ねなく使う。長閑でゆったり。フロントの従業員は英語が流暢、ラオ大学で英語を専攻したそうで、地図をくれて色々と説明してくれた。このホテル、なかなか良い。気に入った。

(2)昼
12時にゴルゴが迎えに来る。昼飯に向かう。街はあまり大きくはないらしい。バイクが多い。二人乗り、家族四人乗りが普通なのはハノイと同じ。ホンダ製は1500ドル、中国製は500ドル。公務員の月給が60-100ドルのこの国では大金である。尚民間の月給与は80-150ドル程度。

では皆どうやって買うのか??ゴルゴに寄れば、何年も預金するらしい。テレビはビエンチャンなら何処の家にもある。次はバイク、その次は車。最近韓国現代の小型車が1万ドルで発売され、人気がある。中古は5000ドル。今乗っているトヨタのバンは2万ドル以上するので手が出にくい。

昼ごはんはフレンチレストラン、ナーダオへ。ここは有名な店のようだ。凱旋門の直ぐ近く。公園の前にひっそり建っている一戸建て。室内はラオ伝統の建築。私の為に一人用のテーブルがセットされている。ガイドは連れてくるだけである。詰まらない。

 

 

ここのオーナーはラオ人。但し革命でフランスに亡命、フランスで修行を積んだ後に最近凱旋帰国してあっと言う間にビエンチャン一のフレンチ店となった。ランチのコースは6000k程度。スーツを着た西洋人が一人やって来て、やれやれと言った表情でパンを頬張る姿がこの店の力を現している。

かぼちゃのスープ、牛肉の煮込み風ステーキ、フルーツポンチ。上品な味である。そして予想通りパンが美味しい。フランスの植民地はパンが美味しいのである。飲み物は冷たいレモングラスティー。ほのかに甘い。食後のお茶は桑の葉茶、ティーパック。ポットに入ってくるのだが、うーん、味が薄い。日本語のフリーペーパーが置かれている。見てみると主なレストランの宣伝が中心。日本料理屋も何軒かあるらしい。パクセーと言う場所は世界遺産に指定されているが、この近くではお茶が採れるらしい。

(3)観光
①バトゥーサイ(凱旋門)
レストランの前から凱旋門が見える。歩き出す。日差しが強い。フランスの凱旋門を模して1958年以降建造されているが、現在まで上に登る階段が完全には完成していない。資金がないらしい??

門の上にはヒンズー風の塔が3つ。真下まで行って上を見上げると天井にもヒンズーの絵が描かれている。ラオは元々ヒンズー文化圏。12世紀にヒンズーを捨てて小乗仏教に乗り換えている。

尚真下は何故か風が吹き抜けて実に気持ちが良い。ゴルゴは言う『ここは昔から涼しい場所だ』。前に池があるからだろうか??テーブルではバイクタクシーの運転手達が王冠を使って将棋??に熱中していた。憩いの場所なのであろう。

周りには大蔵省、外務省など旧フランス時代の建物をそのまま利用した官庁が並んでいる。この辺はベトナムなどと全く同じ。尚2004年のアセアン会議に併せて周囲の公園が整備され、中国から寄付があったことが記念碑に記されている。

②ホープラケオ
ホーは博物館の意味。1563年セタティラート王により建立された。ワットプラケオ(エメラルド寺院)であったが、戦乱でエメラルド像をタイに持ち去られ、名前を変えている。尚タイ側は奪い去ったのではなく、取り戻しただけと主張している。この辺が隣国は微妙である。

現在の建物は1942年に再建、なかなかバランスが良い造り。多くの観光客が訪れている。正面階段の両脇には『ラーイ、ラーオ』と呼ばれる龍のレリーフが配されている。中国の影響かと思ったが、角が一本の龍は中国にはいない??

この博物館には全国から仏像や遺品が集められている。伽藍に置かれた仏像は殆どが目を刳り貫かれている。そこには翡翠など宝石が嵌められていたのだ。痛ましい。仏像は全体的に柔らかい。石碑も並んでいる。読めない文字が書かれている。

中は暗い。やはり全国から集められた漆喰の箪笥??(経典を入れる物)やかなり大きな金の仏像が安置されていた。しかし中が狭いためあまり整理されている感じはない(雑然と置かれている)し、説明がないと何も分からない。

庭の向こうには旧大統領官邸、現在の迎賓館が見える。フランス風の建物であるが、如何にも古い。

③ワット・シーサケート
ホープラケオの向かいにある寺院。ビエンチャン最古の寺院。1818年アヌ王により建立される。本堂を取り囲む回廊には無数の小仏像が埋め込まれている。これまでのタイとの戦乱、フランスのとの戦乱などを生き残ってきた唯一の寺院。

モナストリーがある。小坊主が顔を出し、外国人観光客と英語で会話している。しかもその建物が半分は道路にはみ出しているのが面白い。何か由来があるのだろう。しかしゴルゴがいないので分からない。

庭には大小の仏塔がある。飾りかと思っていると全てがお墓だと言う。見れば写真が埋め込まれたものもある。お金持ちが多額の寄進をすると作れたらしい。現在は場所がなくて作ることは出来ない。鐘楼もある。しかし中には鐘ではなく鼓がある。毎日この鼓が鳴らされる。

本殿の中には黄金の仏像が3体。かなりの大きさがある。輝いている。多くの人々が祈りを捧げている。ラオは小乗仏教であり、男子は一生に一度は出家する(一週間程度)。しかし日常はミャンマーのように常に祈っていると言うことはないようだ。祭りの時に行くと言うことは形骸化している。

 

④タートルアーン
少し離れた小高い丘の上、タートルアーンがある。歩いて来るのはちょっと大変な場所である。入口には土産物屋、食べ物の屋台が出ている。焼きバナナが目に付く。少女が氷で冷やした飲み物を売っている。

中は広々している。その起源は3世紀まで遡ると言われているが、セタティラート王が1566年に建造を開始したらしい。これはルアンバパーンからビエンチャンに遷都した直後のことだ。王の遺言で建物の前の広場には王の像が鎮座している。何ともユニークな感じで座っている。

現在の建物は85mあるが、元々はインドで修行した僧がブッダの骨を持ち帰り小さな建物を建てた。その後戦乱の度にタイやミャンマー軍が財宝を求めて破壊、掘り返している。骨以外はない。その度毎に更に大きな建物が建立されて現在に至る。

毎年盛大な祭りがあり、全国から僧侶が大量にやって来て、回廊に寝泊りしている。その場所取りが大変だと言う。3日間泊り込むとなると本当に大変だ。暖かいとはいえ、老僧などは大丈夫なのだろうか??現在脇に大講堂が建設中。出来上がればここに泊れるようだが、資金確保がままならず、いつ完成するか分からないようだ。(既に建設開始から5年経っている)

一般民衆は塔の周りを3回回る。夜は塔がライトアップされてきれいだそうだ。ミャンマーと違って、ここでは男女の区別なし。金箔を貼るなどの習慣もない。人々は穏やかで、タイの様にギラギラしてはいないが、一方特に信仰が深いとも思えない。ラオ人は何ともつかみ所のない人々である。

ゴルゴが突然女性に手を振る。向こうも振り返す。何と日本人。彼女らはJICAのプログラムでやって来て田舎にホームステイした看護士たち。ゴルゴも彼女らに着いていき、一昨日行動を共にした。一緒に一泊して仲良くなったらしい。

口々に『田舎はいい、人々との触れ合いが素晴らしい』と言う。田舎のこと、医者も一緒だったが、酒が出て大変だったらしい。数人は二日酔いで倒れていたとか??日本では忘れられた世界がラオの田舎にはあるらしい。次回は私も田舎に行きたい。

⑤タラート・サオ
朝市。中心部にあり、名前は朝市であるが、今は観光地化して9時から4時まで。普通のオフィスと変わらない。中は広く何でもある。携帯は凄い勢いで普及している。基本料金は10ドルだが、プリペイドなら2-3ドルから使える。機種はノキアが目に付く。中国で買った携帯と同タイプは値段が全く同じ。66ドル。

店員は北京語通じず、英語片言。冷蔵庫は中国のハイアールの他、東芝、シャープなどタイで生産されたもの。デジカメもある。そういえば、某中国系ホテルではデジカメに入っていたSDカードだけが盗まれる事件が発生したとか??

たこ焼き器やホットケーキプレートがある。美味しそうなパンケーキが出来上がる。フランスパンも売られている。ここは観光客用の市場なので野菜などは売っておらず、直ぐ食べられる物を扱っている。

服はシンという名のスカートが売られている。木彫りのカエルはミャンマーに比べて音が良い。ドリアンなどのフルーツは豊富。尚場外には薬草を売る少数民族がいた。漢方薬である。尚少数民族はいるが、現在のラオには実は制度上はラオ族(高地、中地、平地)しかいない。それはラオの歴史上悲しい出来事があったからである。

モン族の悲劇、アメリカに加担した右派モン族とパテトラオに組したモン族が同族で戦う羽目になり、最後はパテトラオに追い詰められた右派モン族が大量虐殺されてしまう。その後民族間がギクシャクしたため、政府は同一民族の共同を強調したのである。しかしこれは如何なものであろうか??

CDショップを覗く。まだDVDよりVCDである。何故CDを見たのか??実は明日ラオの歌手と会う予定が在るので、彼女のCDを買って置こうというものである。しかしなかなか見付からない。

現在は西洋人とのハーフであるアレキサンドラという女性歌手の人気が高い。彼女のCD を見てビックリ。何とスポンサーとしてトヨタの名前がある。私のお目当ての歌手のCDは何とか1枚あったのみ。明日はどうなることやら??

 

 

 

 

 

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