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ある日の台北日記2023その6(1)台鐵弁当とうなぎ

《ある日の台北日記2023その6》  2023年5月26日-6月8日

5月26日(金)台鐵弁当

高雄から戻り、どっと疲れた。やはり暑いのだ。朝から外へ出る気にならず、部屋にあるものを食べて過ごす。それでも昼になれば腹が減り、また弁当屋で食事を取る。お目当ては味噌汁でお替りも自由だった。暑くても食欲が出ることは前向きに考えるべきだろう。

先日頼んだ名刺を取りに板橋へ向かう。もう慣れた道なので迷いはない。こんなに沢山名刺を持ったので配りたい気分になるが、実はもう配る機会はそれほどない。なんだか不思議だ、なぜ私は名刺を作ったのか。何となく持って安心したい、という気分だけだったのだろうか。

帰りに板橋駅の地下でパンを買った。水分以外はパンが一番だと思ったのだが、何とその反対側に台鐵弁当屋を見付けてしまう。先日台鐵に乗っても弁当を食べる機会はなかったので、やはり一度は食べようと列に並ぶ。弁当は2種類で、昔安い60元弁当はもうなかった。取り敢えず標準装備の鶏腿100元弁当を買って持って帰った。容器も以前の紙ではなく、プラスチックになっている。まあコロナもあったし、当然変化するよな。

5月28日(日)林森北路を歩く

最近週末よく出かける。今日はTさんのお誘いで、ランチに出向く。場所は林森北路と聞き、少し早く出て、周囲を散策した。ここはその昔は良く出没したエリアだが、現在はかなり変化した街になっている。飲み屋街を観光客が歩き、泊まる場所になっているので驚く。

Tさん指定の店は鰻屋さんだった。この辺でうなぎと言えば肥前屋。その前を通りかかると、相変わらず行列が出来ている。30年前の倒れそうな古い店が懐かしい。かなり暑いので、歩いている人は多くないが、ここだけは人がいる。最近は本当に飲み屋が減り、各国料理、ホテルなどに変身。

Tさんと、そのお知り合い一家と食事。彼らは今度北京に転勤になるというが、小さなお子さんがいて、何となく大変そうだなと思う。今北京、いや中国は昔とは全然違う。まず入国する時からして大変だ。ビザ取得も時間が掛かるかもしれない。現地でも慣れるまでは台北とは大違いだろう。うなぎセットを美味しく頂きながら、ちょっと昔話をする。

5月29日(月)肉巻

今日は先日高雄で訪ねた鄧先生の依頼で、茶商公会に彼の本を届けた。茶商公会には本当にお世話になっており、本を届けるぐらいはお安い御用だ。更に色々と情報を集めたかったが、既に台湾滞在期間も残りわずかだったので、今回はちょっとお礼を述べてすぐに帰った。

折角なのでまた金春発で別のメニューを食べようと行ってみたが、何と月曜日定休を忘れていた。さて、どうするかと歩いていると、旧円環付近に老舗がいくつかあった。その中でどうしても食べたくなったのが、肉巻。それに魯肉飯、肉羹、鴨蛋を並べて食べまくる。もう台湾が残り少ないので、許して欲しい。

それにしてもこの肉巻、実に美味い。タレが独特だ。この店は60年以上の歴史があるようで、思い出してみれば10年以上前に、ここで食事をしていた。日本のガイドブックにも載っているのか、日本人が日本語で注文しても、店員は難なく捌いている。何というべきか。

帰りに中山駅に行くと、地下通路に誠品書店があるので、そこで涼みながら、本を眺める。細長い、広い店内に日本関連の本が目に付く。ドラッグストアーに寄ると、広告の女優さんの多くも日本人のように見えた。今や当たり前になっているが、台湾には日本が溢れている。夜はまた炒羊肉を食べる。

台南・高雄茶旅2023(4)文藻外国語大学へ

一度宿に戻り休息。暗くなった頃、近所を散策して夕飯を探す。1軒、客が外まではみ出している店があった。牛肉拉麺と書かれており、ちょっと興味を持って入っていく。お客が多い中、何を頼むべきか分からず、注文するところへ押し出されたので、牛肉拉麺というしかなかった。他の客は小菜も頼んでいるので、キュウリを頼んでみた。

少し時間は掛ったが、あの大混乱の中でも店員は注文を間違わずに運んできた。さすが高雄の人気店。スープの味が濃厚で、麺はしこしこ。これなら客が集まるわけだ。それにしても台湾人はいつから牛肉を食べているのだろうか。やはり戦後かな。帰りにおーいお茶を買ってみる。日本産茶葉100%使用だ。

5月25日(木)高雄の大学で

朝ご飯は地下にあった。宿代の割には充実した朝食だった。今の台湾、特に若者的には、きれいで機能的な部屋、健康的な朝食が求められているようだ。宿に荷物を預けてチェックアウトしようと思ったが、荷物がロビーに並べられているのを見て止めた。これなら盗まれても分からない。セキュリティーは重要度が低いのだろうか。日本の新しいチェーン店でもスペースが無くて、こんなことになっているのを思い出す。

今日は高雄の大学を訪ねる予定になっていた。台湾で唯一の外国語大学である文藻外国語大学へ向かう。バスを検索すると数分歩いたところから出ているとあったので行ってみたが、バスはいつ来るか分からない。おまけに午前9時でもかなり暑くて、待っているのもしんどい。

何とか来たバスに乗り込む。何と長距離バスだった。20分ほど乗っていると到着する。門を入るとここがキリスト教系の大学だと分かる。まだ少し時間があったので周辺を散歩する。立派な図書館などがあるが、学校自体は大きくない。私も日本の外国語大学卒だから、その小さい理由はよくわかる。

時間に正門へ行くと、連絡していた鄧先生がやってきた。何と広報の人も一緒で、まずは自己紹介をして、写真を撮る。それから先生の研究室へ向かい、横の会議室で色々と話を聞く。先生は1930年代の台湾の茶貿易について調べており、特にシンガポール華人との繋がりについて、現地調査(実在の茶荘)していた。ただ勿論本業は茶貿易ではないので、その調査は関連する一部だけのようではあった。それでも十分に貴重な情報を得ることが出来て満足だった。

昼前に先生の教え子がやってきて、車に乗せてくれ、ランチに行った。しゃぶしゃぶの店だったが、前菜やデザート、ご飯や野菜などは取り放題で、メインのしゃぶしゃぶも豪華だった。私は普段食べないが、台湾では平日の昼間から、多くの人がこんなものを食べているのかとちょっと驚きだった。ご馳走になり感謝する。

それにしても外は35度、日差しも強く南国の強烈な暑さだった。これからどうするかと尋ねられ、取り敢えず高雄駅まで戻りたいというと、また車に乗せてくれ、送ってくれた。途中の道路を見ていると、本当に歩いている人はなく、車も少なかった。そして車が着いた先は高雄駅ではなく、高鐵の始発駅、左営駅だった。台北に帰るものと、気を利かせてくれたのだ。私は元々潮州あたりを歩いてみようかと考えていたのだが、この暑さですっかりその気はなくなり、駅に来たのをよいことに高鐵に乗ることにしてしまった。

自由席だが、始発なので座れる。そのまま疲れた体をシートに沈めるとあっという間に寝込んでしまい、後はただ流れに任せていたら、いつの間にか台北まで運ばれていた。僅か2時間半で着いてしまう。東京‐京都間の距離なのだ。台北に着いてから、急に潮州へ行きたくなったが、それは来年のお楽しみにしよう。

台南・高雄茶旅2023(3)台湾糖業と逍遥園

そこからDさんの案内で食事に向かう。最初に市場を通ると、そこにおいしそうな麺があったが、もっと美味しいものがあるというので通り過ぎる。そして辿り着いたのは、昨日歩いていた赤崁楼の横だった。午前11時頃だったが、その店はお客で溢れている。何とか席を確保して、並んでいるおかずから好きなものを選び、肉燥飯と一緒に食べる。内臓系が旨い。美味い店は地元の人が一番よく知っている。ここでDさんの近況や将来などについて聞く。

台湾糖業で

Dさんと別れ、駅まで歩き、荷物を取りだして台南駅から電車に乗る。今日は高雄に泊まる予定だが、折角なので途中で寄り道。橋頭駅で降りる。駅から遠くを眺めると煙突が見える。その方向に10分ほど歩くと、台湾糖業が見えてきた。特にチェックもなく、自由に中に入り、参観できる。

入るとすぐに古ぼけた建物が見える。これは日本時代の物だろう。その前には巨大な木とそこに作られた防空壕があり、歩いていると時空を越えそうな雰囲気が漂う。ちょっと行くと当時の廠長宿舎がきれいに整備されていて我に返る。この先は糖業博物館と書かれていたが、門番のおじさんに聞くと『ここからすべて博物館だよ』と教えてくれた。そして私が日本人だと分かると、実に親切に対応してくれて嬉しい。

少し歩くと立派な、オランダ風の建屋が見える。ここは事務所だったらしい。その前に胸像がある。台湾製糖初期から携わり、社長も務めた山本悌二郎のもので、台糖と三井の関連を思う。建屋内にも色々と展示があった。その外に観音像が見えたので近寄る。これがあの初代社長鈴木藤三郎が作ったものなのか。つい先日彼の出身地、静岡県森町で見たものと同じようだ。この辺に深いつながりが感じられる。

そこから工場の方へ向かう。今も現役なのだろうか、大きな設備が見られるが、人は誰もいない。その向こうの倉庫跡が整備されて、イベントなどに使われているようだ。敷地がかなり広いので、既に暑さにやられ、疲れが出て来る。さっきの煙突があり、その向こうには鉄道が敷かれている。往時はこれで砂糖が運ばれたのだろうか。

何とか一周回ってさっきのおじさんに挨拶する。『高雄へ行くなら、その先に駅があるよ』とこれまた親切に教えてくれた。敷地を出るとすぐに廟があり、その向こうにMRT橋頭糖廠駅があった。台鐵駅に戻るよりはだいぶ体力がセーブできた。高雄方面も詳しくないので、こんな交通手段があることに驚く。

高雄で

30分ほどきれいな電車に乗っていると、高雄駅に着いた。今日はこの付近に宿を取ったので、楽ちんだと思った。ところが高雄駅は改修中で、結構分かり難い。更に私の宿は駅の裏だったようで、更に分かり難い。何とか辿り着いたそこは、全く賑わいのない裏道。そして新しくできたらしいそのホテルのロビーは殺風景だったが、部屋はまあまあ。

まずは歩いて逍遥園に向かう。ここは日本時代末期、大谷光瑞が建てたもので、熱帯植物研究の基地だった。戦後は完全に埋もれ、近年解体の危機にあったが、何とか保存が決定し、ここに修復されたと聞いたので、見学に出向いた。旧市街地の一角にきれいに整備された場所が現れた。係員はいたが、見学は自由。参観者は多くはない。

和洋折衷の2階建て建物は1940年に作られた。その修復にどれだけのエネルギーが必要であったか、それをここでは展示している。勿論本願寺や光瑞についても語られている。実は私が知りたかったのは、光瑞が投資した茶について。唯一見付かったのは、光瑞の弟子の広瀬の写真かな。

フラフラ付近を歩いていると、何となく古い高雄にタイムスリップした気になる。私が初めてここへ来た約40年前、勿論随分変わっているが、関東煮や山本頭など、懐かしい文字も並んでいる。ただ賑わいという点では、残念ながら今は寂しい限り。全てが台北に回ってしまったのだろうか。

台南・高雄茶旅2023(2)朝は画廊で

取り敢えず外へ出た。台南は4年ぶりで、駅前宿泊も何度もしているが、未だに道を覚えない。ホテル前の広い道をまっすぐ歩いてみる。腹が減ったので食堂を探すと意麺の文字が見える。乾意麺を注文するといい感じだ。台南に来たら、まずはこれを食べないと始まらない。

すぐ近くに赤崁楼があった。ここは1653年にオランダ人が創設、もとはプロビンティア城と言われ、鄭成功も拠点とした場所。今や台南観光の中心地だ。台南に初めて来た1984年には見学したと思うが、今はかなりきれいになっている。近所に天后宮などもあり、古き良き台南だった。

天后宮の横の細い路地を入っていくと、古い茶荘が見えた。その先に武廟がある。先日茶商公会で聞いたのがここの歴史。何とここには1818年に茶商の集まり(茶商組合の前身)が寄進した記録が壁に残っているというのだ。台湾最古の茶商はどこだ、という話を前に追いかけたことがあるが、1836年というのが一番古かった。この茶荘は今でも台南にあるが、それより以前に台湾には茶商がいた、しかも1つではないとなると歴史はどうなるのだろうか。

とぼとぼと駅まで戻る。駅の中は相変わらずレトロだが、改修中の足場などが何となく痛々しい。ここにステーションホテルが出来るのだろうか。我がホテルへ行き、チェックインして部屋に入る。それほど良い部屋でもなく、料金はそれなりだからコスパは良くない。唯一良いのはレトロな雰囲気だろうか。

少し休むと夕飯の時間となる。小雨が降り出したので近くで食べようと探すと、ちょうどよい雰囲気の食堂があった。外にメニューが出ていたので、それをゆっくりと眺めていると、おじさんが『早く注文しろよ』と華語で言い放つ。私は困ってしまい、華語がたどたどしくなる。すると奥さんが旦那に向かい『あんた、外国人が一生懸命中文で話そうとしているのになんてこと言うんだ』と怒ってくれた。何とも有難いのだが、何とも言えない気持ちになる。

台南名物?虱目魚魚肚湯と肉燥飯(南部では魯肉飯はない)を注文して席に着くと奥さんがやってきて『野菜も食べた方がいいよ』と言ってくれたので、追加注文する。ちょうど向こうのテーブルには日本人観光客がいて、楽しそうに日本語で話していたので、思い切って日本語で注文すればよかったな、と思ってしまう。

出てきた料理はとても美味しかったが、何となく後味が悪かった。だが会計をするとおじさんが『あっちの食べ物もうまいぞ。今度また食べに来てくれ』と笑顔でいうではないか。余程奥さんの忠告が効いたのだろうか。本人もかなりバツが悪かったのだろう。何となく晴れやかな気分にはなった。

5月24日(水)朝は画廊で

翌朝はゆっくり起き上がる。食欲に乏しく、部屋でゴロゴロする。朝8時半にチェックアウトして荷物を預けて、出掛ける。今日は台南在住のDさんと会う予定になっていたが、指定された場所は何と画廊だった。しかも画廊が開く前の時間、オーナーに日本語を教えているので、一緒にどうかという。

街の中心にあるその画廊は、かなり奥ゆかしい建物だった。日本的な窓枠、階段、中庭などもある。2階の一室で日本語の授業が始まる。Oさんとは8年ぶりだが、その時は蕎麦屋を開店しようとしていた。その後コロナ禍で蕎麦屋を辞めて、台湾の歴史本を翻訳して出版するなど活躍している。音楽なども行い、実に多趣味な人材だ。

Oさんの授業はかなり実践に即しており、今日はオーナーの娘も参加して、日本の話題を話している。彼女は京都が好きで住みたいらしい。かなり京都関連について勉強している。なんだか楽しく1時間話している内に授業は終了した。こういう授業であれば飽きないだろうな。

その後画廊内を見学する。台湾人の画家の絵が掛かっていたが、何と彼の先祖は西夏だというので驚く。私は潮州人を追いかけてみたが、台湾にはもっと様々な民族がいるということが分かり、益々興味が沸く。この画廊には日本人の作品が展示されることもあり、その作品は人気で、よく売れるという。こんなところにも繋がりがある。

台南・高雄茶旅2023(1)奇美博物館へ

《台南高雄茶旅2023》  2023年5月23日-25日

台北滞在も1か月を過ぎ、一度南部へも行こうと思い立つ。はたしてどこまで行けるのだろうか。今回はちょっといつもと違う感じの旅となる。

5月23日(火)奇美博物館へ

朝起きて台北駅へ行く。ちょうど1か月前台中に向かった時とほぼ同じ感じだ。今回は台中を通り越して台南まで行ってみる。時間的には30-40分伸びるだけで、料金も高鐵で600元ほど増えている。実は台南には何度も行っているが、高鐵駅で降りた記憶がない。なぜだろうか。

高鐵台南駅へ降りてみたが、やはり記憶はない。そしてここから台南方面へ向かう電車がどこから出ているのか、良く分からずまごつく。改札を出ると、珍しく日本人の団体さんと遭遇した。高齢者が多く、ガイドさんが日本語で細かい注意事項を伝えており、大変そうだった。

台鐵沙崙駅を何とか探し当てる。三井アウトレットモールの看板が見える。台中だけでなく、台南にも進出か。電車は既にホームに停まっていた。2両編成の車両は上を走っていく。車内はきれいだが乗客は少ない。中洲駅で高雄方面は乗り換えとなる。私は台南方面に一駅乗って保安駅で下車した。

保安駅の駅舎(1908年建造)は実にレトロでよい。そういえばその昔『保安‐永康』間の切符がブームになったことを思い出す。駅前を歩き出すとバス停もレトロだったが、今はかなり荒れていた。更に橋を渡り、向こう側を見ると広大な敷地が見えてくる。駐車場側から入っていく。ここが奇美博物館だった。

奇美実業は台湾有数の企業であり、その老板許文龍氏の名は各方面で知られている。私ももう30年近く前に一度だけ仕事で会ったことがあるが、実に飄々とした人物であった。ただその事業は極めて合理的で、先進的だったことは良く覚えている。帰りに当時の奇美本社ビルの上にあった博物館を見学した。許氏は自らも芸術家であり、世界中から美術品、工芸品を収集し、台南の子供たちに見せていた。

その博物館がいつの間にか郊外の巨大スペースに移されていた。入場料を払い、中に入ってみると、自然科学から歴史まで、展示物はかなり多い。鎧があると思えば、楽器があり、美術品が納められた部屋があれば、はく製なども自然に置かれている。それでもスペースはかなりゆったり取られており、2階まで上がって一生懸命見た。だが私の今回の目的、許氏が自ら作成した日本人胸像を見付けることは出来なかった。この胸像、先日盛岡で新渡戸さんの物を見たし、新井さんについては魚池と沼田で見てはいるのだが、他の人もまとめて見られれば、と思った次第だ。

仕方なく一回りして外へ出た。インフォメーションへ行き、日本人像について尋ねると『以前特別展をやっていた記憶はあるが、今それがどこにあるのか分からない。メールで問い合わせてみては』といい、メールアドレスを教えてもらった。そこへメールしてみたが、その後も何の返答もない。私の言語が不明瞭であったろうか。

台北に比べて南部はかなり暑い。ここから台南行きバスも出ているようだがいつ来るか分からず、結局また保安駅へ戻り、台南駅まで一駅乗る。台南駅は4年前来た時も改装中だったと思うが、今も尚改装中で驚いた。後で聞いたら、途中で工事が中断したらしい。コロナのせいではあるまい。

今日は駅前の老舗ホテルを予約していた。1時過ぎにチェックインしようと思い行ってみると何と『チェックインは4時からです』で言われてしまう。これではまるで東横インだ、と日本語で言うとフロントの女性は『では3時まで荷物を預かります』と今度は日本語で答えた。後ろでも日本語が聞こえるこのホテル、どうなっているのだ。

ある日の台北日記2023その5(3)名刺を作る

5月22日(月)名刺を作る

実は台湾に来てから予想外のことが起きていた。持ってきた名刺がほぼ底をついたのだ。最近は名刺を出すことも少なくなり、新しく作ろうなどとは思っていなかったが、Tさんの会に何度か参加し、そこにやってくる多数の企業人は必ず名刺を出すので60₋70枚を配ったことになる。

折角なので台湾で名刺を作ろうと知り合いのTさんに聞いてみると『板橋にいい所があるよ』と教えてくれたので行ってみることにした。MRTを乗り継いで板橋駅へ。数年ぶりだろうか。何だか全く知らない駅へ来たようで、出口の位置さえ分からない。何とか地上へ出たが逆側だったので、大回りして向かう。

Googleを使って細い道を行き、その店に辿り着いた。入っていくと珍しそうな顔で若い男女がこちらを見る。印刷屋というより、普通のオフィスだ。名詞というと、『どうしてここに?』と聞かれたので『日本人の友達に紹介されて』と言ったら、それだけでにっこり。後で聞いたら、ここに来る外国人はTさんしかいないらしい。

今使っている名刺を取り出してこれと同じ物を、とお願いすると、紙質を確認され、フォントが全く同じではない、と念を押された。取り敢えずあればよいので、と答え、金額を聞くと50元という。え、50元?50枚?思わず聞き返すほど安かった。100枚、50元、ただ200枚から受付。それでも100元なのですぐにお願いした。

LINEを交換して、後の連絡はLINEで行う。実際1時間後には見本が送られてきて、それにOKすると翌日には出来上がったと連絡がある。日本でこんな早くてシンプルなサービスはあるのだろうか。取りに行った時、別バージョンをさらに200枚注文した。これで当分、いや一生名刺はいらないかな。

折角なので駅近くでランチを探したが、何故か適当なところが見付からない。板橋名物があると思えない。意麺の看板に思わず反応して入ってしまった。もうすぐ台南にも行くというのになぜ。まあそこそこ美味しいので良かったが、きっと検索などすれば、板橋お勧めランチがあっただろうに。

そこからMRTを乗り継いで松山空港へ行く。先月台北に来た時に利用した航空会社のマイルが付いていなかったので確認しに行く。搭乗したエバ航空のカウンターはちょうど羽田行のチェックイン時間で混雑していたが、係員はちゃんと対応してくれた。だがなぜマイルが付いていないのかは解明できない。

続いてマイレージカードを持つ日系会社へ回る。そこでもスタッフが日本語で対応してくれたが、なかなか分からない。そしてスタッフが色々と調べてくれた結果、何と私が乗ったフライトのクラスレベルが低すぎて、マイル対象外だというのだ。これには正直驚いた。コロナ前は東京‐台北往復航空券は安ければ3万円、高くても5万円以内であり、マイルもある程度ついていた。今回の料金は約8万円。それでマイルが付かないのか。もうマイルは飛行機に乗って貯めるものではないとはっきり理解した。

何となくモヤモヤしていたので、近所の床屋に寄った。私が昭和の床屋と呼んでいるところだ。ところが同じ通りに2軒あり、3年ぶりで何と店を間違えてしまったらしい。それでもサービスも料金も変わらない。コロナ禍ではどうしていたのだろうか、これで食って行けるのかとこちらが心配するほど。まあ髪を切り、頭を洗ってもらうとかなりすっきりした。

夜はまたもやTさんの集いへ。今回は香港関係者が集まっており、会場も広東料理屋で飯も旨い。ただ個室利用は最低1万元だったらしく、10人の参加者に1000元ずつの割り当てがあった。日本円にすると大したことはないが、屋台暮らしにはちょっと堪える。そろそろこういう会はもういいかな。

ある日の台北日記2023その5(2)芝山厳事件

帰りに中山駅まで歩いて行くと、途中に横丁があり、そこに路上食堂?があった。なぜか日本のおでんやさしみ、寿司などが並んでいる。如何にも台北ならではの光景だ。駅まで来て新光三越に行く。ここの上に誠品書店がある。ここでドラマ『茶金』の原作本を探す。『茶金歳月』、これはドラマの主人公の実在の夫が書いたものだ。ネットでは300元と書かれていたが、書店では380元した。これが定価だから仕方がないが、日本との違いに戸惑う。

5月20日(土)芝山へ

小雨が降っている朝だった。それでも意外と涼しいからと出掛けることにした。MRTに乗り、降りたのは芝山駅。ここは初めて来る場所だった。歩いて10分ちょっとで芝山厳文化史跡公園に着く。そこには恵済宮がある。その横の長い階段を上っていく。雨で濡れた石段は滑る。

取り敢えず気の向くまま歩いていると、展示館に出くわす。芝山岩の採掘に関する展示のようだが、見学者はいない。そこから何とか頂上?付近まで登ると、芝山厳事件の記念碑が現れる。台湾が日本領になってすぐ、日本人教師が襲われ、6名が命を落としたと言われる事件だ。これを戦後国民党は義民の義挙としたようだが、その後学務官僚遭難之碑が再建され、教師たちの活動は肯定されている。

堂内に展示があるようだったが、閉まっており、見ることは叶わなかった。近くに六氏先生の墓が作られており、お堂も置かれている。実は私がこの事件に興味を持ったのは、犠牲者の中に楫取道明という人物がいたことだ。彼の父親は、幕末長州藩で活躍した小田村伊之助(薩長同盟などにも関与)、維新後楫取素彦と改名し、群馬県令などを務めた。しかも道明の母親はあの吉田松陰の妹寿であり、一時は久坂玄瑞の養子として久坂家を継いでいる。このような人物が台湾で客死した時代背景、もう少し知りたい。

最高点から下が良く見える。暑くないのでとても良い散歩となる。するすると階段を下りて、駅の方へ戻る。すぐそこに朝ごはん屋があったので立ち寄る。もう朝ご飯の人は皆食べ終わっており、サンドイッチだけがあるという。土曜日の午前中とはそんな感じだろう。でもこのサンド美味しかった。

結構疲れたので、部屋に戻り午後は休息する。ちょっとした山登りでも息が上がるし、その後の疲労感が半端ない。先週の水道博物館と言い、高い所へ行くのは今後控えよう。夜はまたお決まりの牛肉湯肉絲麺を食べてご機嫌となる。以前は新しいものを探して食べていたが、今やもう気に入ったものだけ食べ続けている。これもみな歳のせいだろうか。

5月21日(日)牛丼からジャージャー麵へ

昨日の疲れが残っていた。朝も起きられないし、動きも鈍い。天気もイマイチなので部屋でグダグダしている。それでも昼頃になると腹だけは減る。といっても遠くに行く気はない。こんな時は牛丼だな、と思い、吉野家まで歩いて行く。昔ここにある吉野家。1階は狭く、急な階段を牛丼を自ら運んで上がらなければならない。これもまた疲れる。しかも相変わらず店員の愛想は悪い。

日曜日なので、家族連れが大勢食べている。そんな中一人でいるとちょっと孤独になる。やはり牛丼は日本の方がうまい。これは肉の質の問題だろうか。いや米の問題かもしれない。そんなことを考えていると、更にうまくない。食後隣のパン屋が目に入る。3個100元に釣られて、パンを3つ選んだら、何と『下の段だけね』と言われ、100元では収まらなかった。何とも納得がいかない表記だ。

そんなこんなでモヤモヤの午後を送る。こういう時は妙に菓子など食べてしまい危険なので、夕方早めに夕飯を探す。昼がご飯ものだったので、麺でいいやと思い、なんと昨日の店へ行く。そしてジャージャー麺を食す。実は先日この店で注文時の間違いからこの麺が来てしまった。まあいいかと食べてみると存外の旨さに驚き、今日もまた食べることにしたのだ。偶には冒険してみるものだということか。

ある日の台北日記2023その5(1)陳悦記から鉄道博物館へ

《ある日の台北日記2023その5》  2023年5月18日-22日

5月18日(木)陳悦記から鉄道博物館へ

何だかコメダに行きたくなる。確か近所に一軒あったな、と探してみると健在だった。11時前満席で少し待っていたが、案内された席が狭すぎてモーニングを食べるのを辞めた。日本でもこんなに席が狭かっただろうか。それに台湾では当たり前も知れないが、店員の対応はいいとは言えない。

何となくそのままバスに乗って、出掛ける。先日大稲埕で訪ねた同安楽の元、陳悦記の建物が残っていると聞き、行ってみる。大稲埕よりちょっと北に位置していたその場所まで意外と時間が掛かってしまった。一部改修中だったが、そこへ入ることは出来た。如何にも100年以上前のお屋敷の一部だな、という三合院の造り、先祖を祭る廟などが見られた。この陳家は1930年代初め、ソ連人が茶の買い付けに来た際、気に入られた茶を輸出していたらしい。もっと色々と知りたいが、資料などはあるだろうか。

そんなことをしていると待ち合わせ時間がやってくる。急いでバスに乗り、大稲埕に向かう。何だか雰囲気の良い食堂、ランチ時は満員盛況の混雑だった。そこに先日も会った呉さんと、茶を商っているという郭さんが待っていた。二人とも30代の若者、郭さんは大学在学中に茶に可能性を見出し、茶業に乗り出して10年だという。今でも自らのブランドを立ち上げ、ネット通販を中心に有名になっているという。因みに奥さんは日本人、実にさわやかな青年だった。

茶の歴史などについてかなり話し込んだ。それから呉さんと大稲埕を散歩しながらまた話す。王福記の前を通りかかり、ちょっと寄ってみる。お母さんは私を覚えていなかったが、お父さんと話すとすぐに思い出してくれた。初代王泰友さんの奥様は昨年100歳を超えて亡くなっていた。

ついに北門まで歩いて来て呉さんと別れる。ふと見ると旧鉄道部の建物が博物館になっていた。コロナ前に来た時は準備中だったが、今回は中に入れた。つい先日新元鉄道部長の話を聞いたので、そんな展示を探したがなかった。それでもかなりの展示品があり、結構な時間をかけて見ていると、5時の閉館時間になってしまった。隣には旧三井の倉庫跡もある。台北はどんどん古い建物を保存している。

そこから呉さんに教えてもらい、もう一度華西街方面へ向かう。広州街、その突き当りまで歩くと、目的地が見えた。ただそこは改修中で中を見ることは出来ない。古跡学海書院、この辺りに150年前ジョンドットの宝順茶舗があったというが、今やその痕跡は何も見いだせない。まあこの付近と分かっただけでも収穫だ。

それからMRTを乗り継いで、今晩の食事会へ向かう。いつものTさんアレンジ、今晩はタイ駐在経験のある方々の集まりというので興味を持って出席したが、それほどタイに詳しい方はいなかった。そして料理もタイ料理を謳っているものの、ほぼ中国料理でちょっと残念。

5月19日(金)茶商公会で

台北滞在も1か月が過ぎ、少し行き詰ってきた。そんな時にいつもいいアドバイスをくれる茶商公会の総幹事を訪ねた。何の用事ということもないが、フラフラと訪ねていき、雑談していると、絶妙のヒントをくれるので何とも有難い存在だ。今回も訪ねていくと、早々にいくつもの情報を提供してくれた。最高のアドバイザーということだろうか。これも彼が歴史好きであり、世話好きであることに起因している。

それから先日来、なかなか行けていない金春発に向かった。今日は開いていたので、早々に座って注文する。牛雑と牛雑湯、特製のたれをつけて食べると旨い。1897年創業と書かれている。100年以上前、日本時代初期から牛肉を食べている人がいたのだろうか。これはちょっと興味深い。そしてこの料理はどこから来たのか。

ある日の台北日記2023その4(4)久しぶりに青田街へ

5月16日(火)青田街へ

今日は昼過ぎに青田街へ向かった。ここは以前時々来ていた、日本時代の建物が残る場所。今もその雰囲気は各所に残っており、更には古民家を活用したカフェなども増えており、ちょっとお茶するにはいい所かもしれない。ただ平日の午後ということもあり、歩いている人は殆どいない。

Hさんが待ち合わせで指定したカフェへ行く。ここは最近流行りの書店カフェ。聞けばオーナーは出版社をやっており、その打ち合わせなどにも使われているらしい。Hさんが来るまで本棚を眺めてみたが、何だか読みたくなってしまうような本が並んでおり、ちょっと驚く。

Hさんとはもう10年位のお付き合いになる。最近はどんどんビックになり、多方面で活躍しているので、なかなか話を聞く機会がなかったが、わざわざ時間を空けてくれたのは有難い。しかしここでも私はお茶の歴史話に余念がない。それに付き合ってもらって、しかも色々と示唆に富んだ話をしてくれて、本当に有り難かった。時間はあっと言う間に過ぎてしまったが、今後も時々はこのような時間があるといいな、と思ってしまう。

帰りはバスに乗って行く。ふと窓ガラスを見ると、セクハラ&盗難防止ベル?なるものが設置されている。私は初めて見たが、いつからこんなものがあるのだろうか。そして正直この、非常ベルと同じように囲われたベルは有効に使われているのだろうか。私は満員バスに乗ることもほぼないので、その実用性についてはつい疑ってしまう。

宿泊先に荷物を置いて、すぐにまた外出した。今晩は大稲埕で約束がある。MRTに乗り、大稲埕公園を目指した。この公園自体はどうということはないが、一応記念碑が建っており、大稲埕の沿革が紹介されているので、外せない。そこからちょろちょろと周囲を見ながら歩いて行く。

既に暗くなった6時半に、同安楽に着いた。ここは4年ほど前紹介されて一度来たことがある。実はここの先祖は茶商だったこともあり、大変興味を持っていて、現在のオーナーに連絡を取ったのだが、残念ながら不在だった。一応予約はしていたが、行ってみると他に客はなく、本当に静かな場所だった。

お茶を飲みながらゆっくり福建料理の食事をした。料理はセットなので、まとまって出てきた。食後にデザートとお茶を楽しむ。ご一緒したIさんとは北京時代の知り合いで、ちょうど彼女が台北に赴任したと聞き、声を掛けた次第だ。北京駐在時代は実に様々な人々と出会ったのだな、と話しながら思う。

5月17日(水)陳さんが来た

今日は台中の陳さんがわざわざ台北に来てくれた。彼は台湾紅茶の歴史を真剣に調べている人で、日本語も出来、私の書いた文章も読んでくれている。こういう人が現れることが茶旅活動では何より嬉しい。しかも来月は魚池の茶業者と共に来日し、一緒に東京と高知を回る予定になっていた。

私の宿泊先で話をした。まず前半は訪日スケジュールの調整だ。これが簡単なようで意外と大変。それでも台湾の人たちは日本に慣れているので、宿から交通手段まで、自分たちで何でもできて助かる。何だか来月が待ち遠しいが、果たして陳さんにとってどんな成果があるのだろうか。

途中から台湾紅茶の歴史を少しした。といってもテーマは膨大であり、とても1₋2時間で話せるような内容ではない。腹も減り、昼は近所の行きつけの食堂でランチを食べたので、余計時間は少ない。結局今日のところは陳さんの関心がある写真や資料を提供して、それに解説を加える程度で終了となる。それでもわざわざ台北まで来てくれた陳さんの熱意には感服する。歴史調査が如何に地道であるかも再度感じる1日となった。その夜、羽田‐高知便を予約するなど来月の旅が動き出した。

ある日の台北日記2023その4(3)湾生、そして伝統的潮州料理

5月14日(日)湾生の話を聞く

今日は実は誕生日だった。いつもは無関心の子供たちから、早々にLINEが来たのには驚いた。FBでは数年前に誕生日を消しており、今日が私の誕生日だと知る人はほぼいない。私はお誕生日メッセージは好きではなく、こちからも送ることはないので、何だか嬉しくなる。一人でお祝いしようととんかつを食べに行く。

それからKさん主催の講演会に行った。湾生の新元さんという方が91歳で訪台されており、背筋の伸びたお話しされていた。私はこの方が戦後明治製菓にお勤めだったと聞き、明治紅茶について情報を求めに行く。だが何と新元さんのお爺様は、あの新元鹿之助鉄道部長だと知り、かなり驚く。湾生にも色々な方がいる。日本語の講演だったが、会場は満席の盛況。知り合いもかなり来ていた。尚新元さんはあのきのこの山の開発者でもあった。

帰りにいつも食べたいと思いながら食べていなかった豚足麺を食べる。まさにコラーゲンたっぷりの豚足にかぶりつき、麺をするすると啜る。こりゃあ、美味いが、ちょっとくどい。周りのおじさん二人も同じものに食いついている。刀削麺と豚足、これはとてもよいコラボだった。これからも偶には食べることとしよう。

5月15日(月)潮州料理

何となく疲れが出ていた。やはり62歳にもなると、もう無理は出来ない。ゆっくり起きてボーッと茶を飲む。これからはそんな日が続く予感がある。そして腹が減ったら外へ出る。近所に鰻屋という名前の弁当屋があったので、入ってみた。ちょうど値上げの時期で、その弁当は100元を超えている。

店内でも食べられるので、日替わり弁当を注文すると、かなりのボリュームがあり、ビックリ。そして自分でよそえるみそ汁が、何とも昔の日式で、かつおだしが効いていて懐かしい。近所の人がひっきりなしに弁当を数個ずつ買っていく人気店。これからはたまには利用しに来よう。

夕方までジョンドットについて調べる。ドッドが150年前に開設した宝順茶舗は萬華のどのあたりにあったのだろうか。今やそれを知るすべはないのだろうか。先日李さんからもらった資料を読んでいると、どんどんと疑問が湧いてくる。これまではとにかく旅が優先だったが、歳も歳だし、もう少し資料を読み込んでみるスタイルが良いかもしれない。

夕方バスに乗って信義区へ行く。この辺は高級商業地区であり、古き良き台北もないので、あまり行くことはなく、地理が良く分からない。今晩は以前から『台湾に伝統的な潮州料理はあるのか』というお題で探していたレストランがあるというので、そこへ向かったが、何とそこは新光三越の中にあった。食前に濃いお茶は出て来るのか。

しかもこの付近に新光三越の入ったビルはいくつもあって、全く迷子になってしまった。何とか表示板を見てビルを特定したが、なぜ三越は同じ場所にこんなにあるのだろうか。これで集客はどうなっているのだろうか。疑問はどんどん湧いてくる。少し時間があったので、周囲も歩いてみたが、仕事帰りのOLさんたちが闊歩している。高層ビルと青い空はよい。

潮州料理は当然ながら三越にあるのだから高級店だった。料理も高級で、普段屋台暮らしの私には眩しいものだった。そして食前茶などもなく、高級なお茶のリストが出て来るだけだった。料理の質は高く、美味しいのだが、周囲で食べている人もその辺のおっちゃんではない。

どうやらこの店、以前他の場所で先代がやっていた頃は食前茶なども出していたらしいが、今のご時世ではそれもなくなり、潮州料理=高級料理、路線を進んで、三越に出店したのかなと思われる。まあでも誘ってくれたSさん夫妻と楽しくお話したので、良かった。もう伝統的な潮州料理は台北にはないとよくわかった。そんなことを考えながら歩いていたら、帰りのバス乗り場に迷った。