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三重 亀山茶旅2024(3)三重茶業史は重要だ

その近くの茶畑の一角には、べにほまれの畑もあった。ここは奇跡の会が管理しているという。F4は残念ながら、脚光を浴びる品種ではなかったが、べにほまれは品種登録1号として、戦後紅茶の主力品種だった。だが紅茶自由化以降、緑茶への転換が図られ、残念ながらその多くが抜かれてしまった。一部残っていたべにほまれを探しだし、和紅茶ブームの中、亀山の茶農家が復活させたということだ。

昨日会ったNさんが「良かったら茶業研究室に来ませんか」と誘ってくれたので、行ってみた。ここを訪ねるのは4年ぶり、前回は森永紅茶の歴史で大いにお世話になった。敷地内にはお茶室もあり、その一角には資料室もあった。そこには三重茶業にまつわる歴史を示されており、大いに勉強になる。

続いて、茶畑へ行き、静岡から分譲されたF4の後継の畑を見学した。勿論ただ行っても全く分からないので、そこはNさんの説明に感謝しかない。因みに違う時期に導入された台湾山茶も植えられており、試験場というのは、本当に多様な品種を管理していると知る。また三重という場所が一般人の思っている以上に、日本茶業にとって重要だということも分かる。

お昼は街中に戻り、皆で食べる。エビフライ定食がお勧めだということで、頼んでみると、本当に大きなエビフライがやってきて驚く。7人でやってきて皆がエビフライを頼んだので店の人も驚いたかもしれない。ここでまたNさんと少し意見交換して、その後別れた。

午後は茶農家Dさんの家に向かった。Dさんご主人は不在だったが、奥さんが対応してくれた。奥さんは何とブラジルから来ており、ご縁あってDさんと結婚し、今は2人で茶業をしているという。今年の尾張旭の紅茶フェスでグランプリをとったという茶を飲ませてもらい、更にブラジルのお菓子まで驚く。D家は奇跡の会の中心メンバーでもある。

そこからD夫人の車に乗せてもらい、川戸さんの家に行く。4年前に茶業研究室でお会いし、お父様について色々とお話を伺った。お父様、川戸勉氏は戦前台湾で日東紅茶、戦後は三重に戻り、森永紅茶を作った人。恐らく戦後の日本で紅茶作りが一番上手かった人ではなかろうか。

それをコラムに書いて息子の利之さんに送ったことを覚えてくれていて、懐かしい再会となった。Oさんも含めて、森永紅茶の歴史をもう一度振り返った。大変楽しいひと時を過ごした。最後に庭に植えているべにほまれを見せてもらった。お父さんの時代にべにほまれは全て抜いてしまったので、家にも全くなかったが、最近植え直したらしい。

今回の亀山茶旅、全日程を終了して、D夫人の車で最寄り駅まで送ってもらう。実はJRより近鉄の方が便利ということで向かったが、途中で渋滞にはまった。今日が今年の仕事納めという人が多いのだろうか。当初の目的駅より前の平田町で降ろしてもらい、電車に乗る。途中で混雑する電車に乗り換えて、何とか名古屋まで辿り着いた。

そこでちょっと用事があるというOさんと別れ、一人新幹線で品川まで戻った。新幹線に乗ったら急に腹が減り、品川駅で改札を出て食事をしようとしたら、何と山手線内同一運賃の特権がはく奪されるというので?駅ホームでかき揚げそばを食べてから、トロトロと帰宅した。これで2024年の茶旅は全て終了した。疲れた。

三重 亀山茶旅2024(2)幻の品種F4

実はYさんらは、このF4を使って紅茶などを製造しているのだが、F4は元々台湾の山茶で、戦前日本に導入され、静岡から三重に分譲されていた。最近台湾ではある種の山茶ブームが起きており、台湾の研究者からもF4の歴史に関心が寄せられていた。山茶について台湾での重要性が高まった背景には、中台関係が影響していると勝手に思っているが、どうだろうか。

結局三重茶の歴史を含めて、4時間以上話し込んでしまい、気が付くと周囲は暗くなり始めていた。Nさんが帰り、入れ替わりにスタッフさんらがやってきて、夕飯の準備が始まった。今晩はここで美味しい創作料理を食することが出来た。野菜は自ら育てていると言い、新鮮で甘い。

食後はお茶室に移り、お茶を飲みながら話を続けた。皆さんが帰って行くと疲れが出てしまい、すぐに部屋に行って布団に入ってしまう。古い家なので部屋は寒いかと思ったが、エアコン、ヒーターと電気毛布でとても暖かく、あっという間に寝入ってしまった。まあ一泊なのでPCも持ち込まず、こんな日があっても良い。

12月27日(金)幻の品種を求めて

朝は早く起きた。戸外はかなりの寒さで、散歩を控えた。それでも家を一周するだけでも楽しい。私の部屋はかなりこじんまり(暖房という観点では有難い)していたが、Oさんの部屋は一段上がったところに入り口があり、趣が全く異なる。中庭は四合院作りの庭のように見え、玄関もかなり広い。藍染をする部屋もある。天井の梁も太い。

朝ご飯は用意されていた物を温める。基本的にOさんがやってくれたが、初めての場所で勝手が分からず、右往左往する。お茶一杯飲むにも、電気ポットではないので、色々と探す羽目になるが、そういう環境もまた楽しい。何だかとてもゆったりとした気分で過ごす。ここはエアビーなどで予約するようだが、外国人に好まれそうな宿だ。

9時頃、関宿にあるYさんのお店を見学する。極めて素敵な内装だ。骨董なども集めており、興味のある人にとっては嬉しい参観だろう。裏の倉もまた開放されていて、かなり広い空間でお茶を飲んだり、話をしたりすることが可能だ。基本的にお客が来れば開けるというスタイルのようだ。

茶畑に向かうメンバーが集まった。何とその中に見知ったNさんがいたのには、本当に驚いた。彼は無類のお茶好きで、その歴史から現代まで、何でも吸収してやろうという意気込みがあり、あらゆる機会を捉えて参加し、知識を得ている。基本的に関西か関東にいると思っていたが、まさか三重で会うとは。もう一人の男性も茶旅活動に興味があるという。喜ばしい。

車で20分ほど行くと、べにふうきなどが整然と植えられている茶畑が出てきた。その脇に、ちょっと鬱蒼とした場所があった。そこに植えられていたのがF4という品種。葉が大きく、日本にある品種とは明らかに違っていた。この付近を10年ほど前、Yさんたちがきれいに整備して、茶葉を摘み始めたという。

更に林のようになっている場所にもF4は見られた。元々茶畑があった場所、茶が必要なくなり木を植えたが、F4は元気に育っている。だが、他の品種は枯れてしまい、そこに山茶の強さが感じられるという。耐寒性、日差しの必要度など、こういうあたりから色々と学べるようだ。暖かくなれば、この木の下でお茶を飲めるらしい。

三重 亀山茶旅2024(1)古い街並みの関宿

《三重茶旅2024》  2024年12月26日‐27日

お誘いがあって三重に行くことになった。こんな年末に旅をするのは久しぶりのような気がする。三重の亀山に行くのは3年ぶりだろうか。何が発見できるのか、楽しみだ。

12月26日(木)関宿へ

三重県亀山に森永紅茶を調べに行ったのは、2021年の秋、既に3年が経っていた。今回はその関連で知り合ったOさんのお誘いで、訪ねることになった。忙しいOさんが年末に時間があるというので、クリスマス後の日程が選ばれた。こんな時期に旅をするのは何年ぶりだろうか。ちょっと楽しみ。

朝早く起きて品川まで行き、新幹線に乗り込む。名古屋まで1時間半で到着するのは有難い。まずは朝ご飯を新幹線ホームのきしめん屋で食べることにしたが、かき揚げきしめんを自販機で購入しようとしてまごつく。何と朝8時台で売り切れとは思ってもみなかった。結局牛肉(卵入り)きしめん、800円を食べる。旨いのだが、朝から散財した気分だ。

新幹線から在来線へ移動するとOさんと合流できた。JR亀山行に乗り込む。約1時間揺られて亀山駅に到着した。ここで降りるのかと思ったが、乗り換えて関駅へ向かう。亀山は関西なのか?関西線なので、京都のお茶、という宣伝が車両に描かれているのが目に付く。実は亀山でJR東海から西日本へ移行するらしい。何と列車に乗り込むとSuicaは使えないと言われて又まごつく。小銭を用意して待つ。

1駅乗ると関駅。なんかとても雰囲気のある駅だった。ここに今回お世話になるYさんが迎えに来てくれた。駅から歩ける範囲に古い町並みが残る関宿があった。それにしても、まるで時代劇のセットそのもの、という完璧さ。なぜこれほどの街並みがきれいに残っているのか、驚きだった。

明治の初めに創業した老舗お茶屋さんに入った。何だかいい感じのお店だった。古い茶樹の葉から作ったお茶やほうじ茶が美味しそうだった。このお店もここの景観に嵌っていてよい。他にも菓子屋、薬局など、100年そのままといった風情の家が並んでいる。電線は後ろに隠されて見えない。Yさんによれば「関は地元民が、観光誘致などにそれほど積極的ではなかった」ことなどにより、この風景が保たれているらしい。確かに平日の年末、歩いている人は少ない。

福蔵寺という寺があったが、そこには織田信孝の菩提所と書かれている。信孝は信長の3男だが、なぜこんなところに菩提所があるのだろうか。信長の死後、次男信雄は伊勢にいたと思うが、信孝はどこで死んだのか。時間が無くて、墓を探すことも出来ず、次回に持ち越しだ。

宝蔵寺という大きなお寺に歴史の道という碑があった。そこに会津屋というお店があり、昼ごはんを食べるために入った。ここは山菜おこわが美味しく、セットで出てきたそばも美味しい。そして建屋の雰囲気も抜群。いつも開いている訳ではないようで、ラッキーだった。でも何で会津屋という名前なのか、会津と関連があるのか。

歩いて今日の宿に戻ると、旧知のNさんが来てくれていた。この宿はYさんらが運営しており、元は実家であったらしい。リノベーションされており、広々とした平屋で、中庭もある。そこでOさん持参の貴重なチョコを食べ、お茶を頂きながら、三重の茶、そして幻の品種と言われるF4の歴史について、情報交換を始めた。

静岡川根森町茶旅2024(4)丸子で偲ぶ

村松家に伺う。前回訪問したのは新しい家が出来る前、確かコロナ中だった。今回新しい家でお線香をあげる。やはり思い出すのは二六さんが「多田元吉の足跡を訪ねて一度インドを旅したい」と言っていたこと。私も考えてはみたのだが、インドの山中で150年前の場所を探すのはなかなか難しい。

村松夫人はどうしているかと心配してきたのだが、ご近所や親せき、茶業関連の人など、次から次へと人がやってきて応対に忙しい。来年の春も取り敢えず茶作りを継続すると聞いてホッとする。お茶の話をゆっくりしようかと考えてやってきたが、その暇はなさそうなので、仏壇を拝んで早々にお暇して、またバス停を目指していく。

静岡には戻らず、藤枝に行く。バスはすぐに来たので乗り込んだが、乗客は多くはない。藤枝までは意外と時間がかかる。30分後、千才という場所でバスを降りた。大慶寺にある「久遠の松」を見に行った。日蓮上人ゆかりの黒松、樹齢750年ということで、確かに大木で見栄えがする。

そこから藤枝駅までフラフラ歩いて行く。この近くは旧東海道、茶町もあり、以前も来たことがあった。橋を渡ると、そこに田沼街道という文字が見える。田沼意次はここと彼の領地である相良を結んでいた、ということか。この辺の道は茶も運んでいたのだろうか。このあたりの歴史は興味ある領域だ。

ランチは駅近くのすし屋で食べた。IさんとNさんが同席してくれ、お茶話で盛り上がりを見せたが、時間が短く、タイや雲南の茶旅話までは至らなかったのは、残念だった。藤枝からJRに乗り、静岡へ帰った。何だかとても疲れてしまったのは、温かいと言っても冬の道をかなり歩いて体力を奪われたのだろうか。部屋で休み、大浴場で体を癒す。

夜また腹が減り、夕飯に出掛ける。お城のライトアップがきれいだ。ネットで検索した良さそうな店へ向かったが、なんと閉店していて困った。仕方なく、いつものそば屋へ行って、いつものかつ丼セットを頼んだところ、何とかつ丼が売り切れていた。また仕方なく天丼を頼んだが、これは意外とよかった。偶には違うものを頼んでみるというチャレンジは必要だ。夜のクリスマスイルミネーションもきれいだった。

12月18日(水)静岡で

今朝も思いっ切り朝食を食べてから出掛けた。静鉄に乗り、県立図書館へ向かう。もうこれも慣れた道だったが、いつもの新静岡駅ではなく、隣の日吉町から乗る方が近いと分かる。図書館では、もう調べるものは限られてしまい、以前のように長時間の滞在は不要だったのが寂しい。

昼前に静岡へ戻り、ランチを探した。ちょうど目の前に「中華飯店 新京」という看板を見付けて思わず入った。ほぼ満席だったが、何とか滑り込む。店はかなり年季が入っており、雰囲気は良い。新京という名前だから、当然餃子が中心の店だと思っていたが、チャーハン、ラーメンなどの町中華だった。ラーメンもチャーハンも極めて素朴な味でよかった。

帰りはバスにした。平日なので混んではいなかったが、一応ネット予約した。新静岡駅のバスターミナルが始発だというので、そちらに回ったが、乗車したのは私一人。私は予約時、静岡駅から乗車するとなっていたが、特に問題なく乗せてくれた。結局静岡駅他で乗った人も3人程度で、実にゆったりと帰った。途中のSAで富士山がきれいに見えるかと思ったが、雲に覆われていた。

静岡川根森町茶旅2024(3)森町から丸子へ

帰りに小國神社の境内を散策すると、既に紅葉シーズンではないが、ほのかに色づいた葉が残っており、何とも言えない風情を醸し出していた。参道は高い木で囲まれており、脇には昔の参道、土の道が続いている。こういうところにいると、何だか妙に落ち着く。それが元々の神社なのだろう。

次に向かったのは、藤江勝太郎さんのお墓。森町城下が良く見える場所にあった。以前は古いお墓があったように思うが、今は新しい墓に纏められている。その内に名士の墓として、案内板などが立つのだろうか。彼の茶業への貢献は大変大きいが、彼はそれを望んでいるだろうか。

町役場に行く。突然町長と面会すると言われ、ちょっと驚く。今の町長は台湾との関係の非常に理解のある方で、町長として台湾を訪問し、茶業改良場との相互交流も図って来られた。何とも素晴らしい、としか言いようがないのだが、森町茶業史が刊行されたのだから、この機会により一層森町茶業の歴史を全国及び世界に発信して頂きたいとお願いした。

最後に天宮神社を参拝した。こちらも由緒正しい、歴史ある神社。普段は入れない社殿にも入れて貰い、その木造建築を見学した。さすが歴史の街だなと感心する。Mさんの車で街を1日散策して、思いがけず多くの物を得た。駅まで送ってもらい、また一両列車に揺られて帰る。

掛川で宿に戻り荷物を取り、また駅へ引き返して静岡へ向かった。だいぶん腹が減っており、静岡駅で降りると、そのまま寿司屋に入ってサックと食べてから今日の宿へ向かう。定宿なので慣れており、すぐに大浴場へ行って疲れを癒し、そのまま寝入る。今日はちょっと疲れてしまったようだ。

12月17日(火)丸子で

定宿の朝ごはんはいつも通りだったが、昨日の掛川の宿のクオリティーには勝てない。同じチェーン店でも定宿はやはり、廉価版ということだろうか。まあ、朝から腹一杯食べて良いかという問題も出てきており、今後はクオリティーに重点を置くべきかもしれないが、宿代が払えるかが問題だ。

今朝はバスターミナルからバスに乗り、丸子に向かった。2か月前に亡くなった村松二六さんにお線香をあげに行くためだった。これまで丸子に行く時は村松夫人に車に乗せてもらっていたが、今日は自ら行こうとネット検索して、バスを探した。意外とバスの本数もあり、近くまで行けることが分かり安堵。

ちょうど一本早いバスに乗れた。40分ほどで丸子の街を抜けて、目的地に到着した。あの多田元吉も明治初期に、この道を通って静岡方面へ向かったのだろうか。バス停から10分ほど旧東海道を歩くと、長源寺というお寺があり、その一角に多田元吉翁記念碑や丸子紅茶発祥の地という碑が建てられている。

以前はここに茶工場があり、二六さんによる製茶体験などが行われていたのを思い出す。そして少し上っていくと多田元吉の墓がある。多田元吉は68歳で亡くなった。紅茶は勿論、日本茶全体に大きな貢献があるのだが、そこはあまり知られていないように思われ、残念だ。いつか「多田元吉と日本茶業」について、簡単に纏めてみたい。

静岡川根森町茶旅2024(2)森町の1日

金谷から掛川までJRに乗り、今晩の宿に辿り着く。腹が減ったので、すぐに外へ出て一番近い食堂で焼肉定食を食べた。この食堂で食べたのは数年ぶりだが、思ったより美味い。値段はちょっと高くなっていたが、店があるだけ有り難い。掛川の夜はかなり寂しい状態で、風も冷たい。宿には大浴場があるので、ゆっくり浸かって疲れを癒す。更にこの宿には夜泣きラーメンもあるので、つい食べてしまう。

12月16日(月)森町の1日

宿の朝ごはんは立派だった。いつもは結構高いこの宿、冬のせいかかなり安くなっていたので予約したのだが、十分満足できた。何だかコロナの頃の宿代を思い出す。部屋の窓から冬の掛川城がくっきり見えた。チェックアウトして、掛川駅へ向かう。天竜浜名湖鉄道の駅はJRの脇にひっそりとある。

既に学生の登校時間も過ぎ、乗客はほぼいなかった。列車の車両にはミツバチのキャラクターが描かれている。この付近ではハチミツも有名なのだろうか。30分乗ると森町に到着する。駅にMさんが迎えに来てくれ、早々活動が始まった。元々はMさんにちょっとご挨拶のつもりで来たのが、どうやらそうはなっていない。

まず訪ねたのはKさん。ちょうど今月、「森町茶業史」が10年の歳月をかけて完成し、出版されたのだが、その編集を行ったのが郷土史及び茶業史に詳しいKさんだった。Kさんとは以前から交流はあったが、さすがに本が完成してホッとしている様子が見られた。やはり大作業だったんだな、と感じる。Kさんの家は江戸時代から続く麹屋さんで、その本業も忙しいらしい。昨日学んだ殿岡家の話しもちょっと出て面白い。

続いて、森町の茶業組合の会長さんのところへ行く。8年前初めて森町を訪れた頃は、藤江勝太郎という名が出ることはなかった。だが今日は会長の口からその名が出てきて、嬉しい。実際に台湾も訪問したという。歴史は着実に掘り起こされていき、そして動いていると強く感じる。

ランチに森のレストランへ行く。大自然の中にある施設で自然薯の定食をご馳走になる。このエリアの開発にはその昔、Mさんも関わったとのことで、思い出深いようだ。午後は遠江一宮、小國神社へ行く。この神社はとにかく、雰囲気が良く、悠久の歴史を感じさせる荘厳さがある。

神社の祢宜さんにお話を聞いた。何とタイのシーラチャに分社を建てたというのだ。仏教などの宗教団体の海外進出はよく見かけるが、神社も海外進出の時代なのだろうか。しかもタイの大手財閥の要請だというからちょっとビックリ。華人系のこの財閥、その昔ちょっと付き合いがあって懐かしい。

この神社に「台湾サクラ」が植えられているというので、見学しに行く。神社の裏手にまだ幼い状態だった。このサクラは台湾から送られ、皇居の次に数か所に植えられたものの一つだという。タイだけではなく、今後は台湾との関係も視野に入れているようで、非常に興味深い。

神社の横に、お店がいくつかある。森町でも老舗のお茶屋さんがあり、ちょっと覗いてみる。この茶舗の歴史を知りたかったが、ご主人は不在だった。今はあまり知られていないが、森町は江戸から明治の重要な茶産地、森町茶業史で確認すれば、老舗茶商の歴史も分かるかもしれない。

静岡川根森町茶旅2024(1)川根の講演会へ

《静岡茶旅2024(2)》  2024年12月15日‐18日

チェンマイから戻って1週間。川根で講演会があると聞き、急遽静岡へ向かった。日本はそれほど寒くはないが、ちょっと疲れが溜まっている。

12月15日(日)川根で

静岡に行く場合、最近はバスが多い。ゆったりしていて楽なのが理由。ただ急いでいる場合はそうはいかない。今日は午前10時過ぎには、金谷駅に着かないといけない。仕方なく品川から新幹線に乗る。その前に品川駅のホームで朝食。立ち食いそば屋に入り、イカ天そばを食べる。これがなかなかイケる。

日曜日の朝の新幹線。自由席でも意外と混んでいる。それでも2席並びの窓側に座り、富士山をゆっくり眺めながら向かう。新幹線はバスの2倍の料金だが、まあスピードとこの景色があればよいかと納得する。約1時間で静岡駅に着き、トイレに寄った後、JR在来線で金谷へ向かう。

金谷駅で降りて、大井川鉄道に移る。今回行く川根本町、以前は千頭まで鉄道が通っていたが、2022年秋の台風被害により、川根温泉笹間渡~千頭間が現在も不通になっており、復旧の目途は立っていないという。取り敢えず家山駅まで行き、知り合いのMさんに迎えに来てもらって、会場に向かうことになっていた。

帰りの列車の時間、ちょうどよいのが無いので、バスの時刻表を探したが見付からない。駅で聞いたら「バスのことは知らない」と素っ気ない。仕方なく観光案内所へ行くと、ここは無人。時刻表もなく、バス会社に電話を掛けるしかない。結局問い合わせると、午後のバスのいい時間はやはりない。

駅のホームに戻ると、団体さんが列車を待っている。駅の先端からは富士山が見える。列車は僅か1両。何とラッシュ時の電車のように混みあって出発する。隣の新金谷駅で少し止まり、トーマス号がすれ違っていく。それからゆっくりと列車は進み、40分ほどで家山に着いた。大井川鉄道に乗ったのは10年ぶりだろうか。以前は観光客向けと同時に地元民の足であったが、今や地元は顧みられない。

駅前には列車を降りた乗客が結構いた。皆さんバスで上に上がるらしい。Mさんが車で迎えに来てくれたので、私はそれに乗る。講演会場は千頭駅のすぐ近くらしいが、途中でランチを食べてから行く。会場である役場の横には、あの戦前茶業界の大物、中村円一郎の像が立っている。数年前にMさんに連れてきてもらった場所、懐かしい。

会場には既に沢山の人が来ていた。「殿岡家文書」への関心は高いらしい。今日の講演に関連した展示物も沢山置かれていて興味深い。この文書の検証は6年に渡って大学の先生らが行ってきたと言い、今日はその集大成の発表だという。殿岡家はこの地区の名家で、明治期には茶業もかなり行っていたらしい。今日の講演は、その茶業に直接触れるものは少ないが、文書から読み取れる茶の関わりなどが紹介され、また万博と茶についてもお話があった。

講演終了直前に抜け出した。帰りの列車に間に合わないのだ。Mさんに運転してもらったが、悪いことをした。列車が来る5分前に家山駅に着き、何とか乗り込んだ。帰りはそれほど混んではいなかった。車内の表示では、未だに千頭まで繋がっているようになっていて混乱する。

北京半日散歩2024(3)老地方の変化

既に朝ご飯を2回食べ、煎餅も食べており、昼ごはんは想像できない。どこへ行こうかと話していると、「白塔寺へ行こう」となり、車を呼んで向かう。何とも懐かしい場所だが、何かあるのだろうか。その入り口まで来ると、入場料が必要だという。というか、まずは微信で登録を行い、それから微信支付で料金を払うのだが、私には複雑すぎて出来ず、Kさんに任せたが、最後の決済がどうしてもできない。係員も困っていた。後から来た女性は「現金でもいい?」と聞いていたが、どうなんだろうか。

何とか中へ入れて貰い、見学する。15年位前、北京歴史散歩で来て以来だとは思うが、この白い塔には覚えがある。元代にネパールから来た建築家が建てたらしい。お天気が良いので観光客は多いが、外国人はほぼ見ない。お寺の横には白塔寺薬店があり、老舗薬局として漢方薬などを売っている。ここは薬師如来のお寺なのか。薬にご利益はあるのだろうか。

その薬店の建物の屋上がカフェになっており、白塔を見ながらコーヒーを飲むというコンセプトになっていた。所謂インスタ映えを狙っており、それに合わせて白塔を模したケーキなどが売られている。白塔の周囲には、屋上をカフェにして客を集めているところが何軒もあり、北京の新しいスポットになっているという。まあ日差しが出ていて風が無ければ、ここで休息するのも良いか。因みにカフェの物価は東京より北京の方が高いかな、というイメージだ。

恐ろしいことに、そんなことをしているとまた腹が減る。沢山は食べられないので麺でも食べようとなり、また車を呼んで懐かしいジャージャー麺の老舗に行く。午後1時過ぎでもお客は多かったが、辛うじて席を確保して、久しぶりのジャージャー麺と腰花を食べる。チェンマイでは食べられない、この濃い味が何とも嬉しい。

さすがに空港に戻る時間となり、また車を呼ぶ。北京も便利になったものだ。かなり西側から北京空港まで、車で1時間もかからない。懐かしい北京の街の一部を眺めながらウトウトしていると、途中でKさんが降りていき、空港まで戻って来た。既に東京行きのチケットは持っているので、出国審査に直接進んでいく。以前と比べて空港内の人が少なく感じられるのは、偶々だろうか。それとも経済低迷で出国者が減っているからだろうか。

出国審査もあまり待たずに終了する。空港内は何となく寒々としている。ここで初めて昨年香港で買った、LINEやFB使用可能なシムカードをスマホに入れてみたが、何故か起動しなかった。まあ半日滞在なので問題はなし。ここはゆっくり休んで、後は東京に戻って作業しよう。機内はかなりの乗客が乗っていたが、夜の到着便だから、観光客というより日本在住者、そして少しだが日本人が乗っている。

ビザ免除復活で入りやすくなった中国だが、はたしてこれからどれだけの日本人が訪れるのだろうか。色々と懸案の多い日中関係、まずは相手の国に行き、その実情を見た上で判断したいところだが、中国に入国するのはビジネスマンばかりか。決してマスコミが流す中国情報に惑わされないのが良いと思うのだが、日本人の中国固定イメージは意外と強固だ。そんなことを考えていると、フッと羽田空港に降り立ち、今回の旅は終了した。

北京半日散歩2024(2)北京で朝飯をはしごする

12月8日(日)北京散歩

北京の朝の気温は零下5度となっており、前回(零下8度)より寒さを感じない。車窓から見える北京は薄暗くて寒々としているが、空気はキレイですっきり感がある。待ち合わせは前門近くの胡同にある食堂。車は渋滞のない道をスイスイと走っていき、どこまで行くのか分からない。因みに服装は前回チェンマイのユニクロで買ったウルトラライトダウンとトレーナーという格好だが、何とかなりそうだ。

何だかとても久しぶりに湯気が立ち上る胡同へやってきた。夜明け直前の胡同にしばし見とれる。「尹三豆汁」と書かれた店で待ち合わせ。朝から観光客が豆汁を食べ、地元民はテイクアウトしている。しかし驚いたのが、その地元のおじちゃん、おばちゃんが、手に人民元を握りしめていたことだった。何でもQR決済の中国で現金とは。これもまた機内ビデオの案内通りか。若者は当然QRだけど、この寒いのに現金を握って嬉しそうに注文する人が奇異に映る。

豆汁と焦圏、更に面茶まで注文してしまう。これぞ北京の朝ごはんだろうか。だが私は北京に住んでいた頃、こんな朝飯を食べた記憶はほぼない。豆汁の酸っぱさやB級感はちょっと相容れなさを感じてしまっていた。だが今日食べてみると、酸味もそれほど感じない。寒いからかスルスルと入ってしまう。店内は温かいし、気分も良い。

さあ、どうしようかと思っていると同行してくれたKさんとIさんは「朝ご飯のはしごです」ときっぱり。そしてすぐ近くの野菜市場に入る。昔に比べると実にきれいになっている。何となく野菜もきれい。ただそこで売っている人たちはそれほど変わっていないように見えた。お客と談笑しながら、野菜を勧めている。Iさんがツッコんでも軽く受け流していく。

端の方に煎餅屋があり、並んで買う。前の人も現金で支払っている。店側もちゃんとお釣りを渡している。明かに北京の支払い事情は変化している。よく見ると野菜売りもQRコードを置いているが、現金を使っている老人も多い。まあ勿論若者はQR決済だが、老人は現金が使いたかったのだろうか。久しぶりの煎餅を立ち食い、美味かった。

朝ご飯のはしごに出掛ける。すぐ近くの店だったが、何とかなりの行列で断念(なんせ零下の世界で並ぶのはキツイ)。その横の店に入り、豆漿と油条を頼んで食べる。この店、昼以降は別の店として使われており、朝だけの営業のようだ。賃料が高い北京ではこういう店も多いのだろう。

腹がくちてしまったので散歩する。チェンマイで買った帽子はさすが薄くて、頭がスースーしたが、Iさんから温かいものを貰い被ると幸せな気分。風もなくそれほど寒さは感じない。少し行くと、ちょっと面白そうな場所に着いた。何だか芸術村の一角、という感じで、壁に絵などが描かれている。美術館と書かれた建物の中に入ると、子供たちが何やら見学している。現代アートの展示室という感じか。アニメ好きの子供たちが歓声を上げている。

我々は横のカフェでまったり。やはり寒さの中を歩いていると、温かい場所は有難い。カフェのメニューに「KYOTO LATTE」という飲み物があった。何で京都、と思っていたら、Iさんが「京都と関連があるらしい」という。まあ抹茶でも入っているのだろうが、中国の若者にも京都の認知度は高いのだろう。Iさんは用事がるというのでここでお別れし、Kさんと話を続けた。

北京半日散歩2024(1)チェンマイからビザ免除の北京へ

《北京半日旅2024》  2024年12月8日

長かったチェンマイ暮らしに終止符を打ち、冬の東京へ帰ることになった。だが昨年同様チェンマイから安いフライトで帰ろうとすると、荷物代込みでは、どうしてもエアチャイナという選択になる。そして北京経由なので、北京に寄りたい気持ちになる。実は昨年は3泊した。そして1月の折り返しでも3泊した。

もういいんじゃないか、と上海や広州経由を検討したが、やはり北京経由が一番良いのだ。一応今回は僅か半日程度の滞在に留めた。何といっても北京は零下の気温であり、前回は3泊して東京に帰り、大風邪で数日倒れてしまったので、反省していた。しかし何より、1週間前より日本人はノービザ30日になっており、ビザの面倒がないのは何とも有難い。

12月7日(土)チェンマイから北京へ

チェンマイ空港は小さい。出国審査は簡単だが、それから先はすることが無く、北京対応の服に着替えて、ひたすら搭乗を待つばかりだ。今回はわずか半日なのでSIMカードすら買わない。ほぼ定刻に搭乗が始まったが、やはり乗客は多くはない。中に日本人夫妻が東京に行くために乗り込んでいたが、大半は中国人だった。

前回はあっと言う間に寝落ちたが、今回は眠りが浅かった。食事は勿論断った。周囲も静かだったが、なぜだろうか。やはり今晩のスマホ騒動が尾を引いているのだろうか。着陸1時間前には電気がついて明るくなる。時差が1時間ある。ほとんど眠れなかったようだ。ビデオで入国案内が始まったが、何とその中に「中国では多様な支払い手段が使えます」というのを見て思わず目を疑った。現金でもクレジットカードでもOKだというのだが、実態とかけ離れていないだろうか。

ほぼ予定通り、午前4時には北京に着いた。寒々とした空港内を歩いて行くと入国審査がある。前回まではその前に臨時入境ビザを得る必要があり、それが面倒だったが、今回はそのまま入国審査ゲートへ行けるのでかなり楽だった。しかも乗客は多くなく、すぐに入国できてしまう。

荷物はバッゲージスルーなので、ピックアップ不要。あまりにスムーズなので、まだ街中へ行く電車も動いていない。休む場所もないので、その辺をフラフラするしかない。荷物受取場を通り抜けるとそこに両替所があった。サラっと通り過ぎたが、よく考えてみれば以前はあっただろうか。出口階には両替所はない、と1年前に確認していたのだが、これは現金流通の兆しだろうか。

午前5時でも開いているカフェはあった。そこには充電設備がある。今の中国で最も重要なのは充電ではないか。何しろスマホがあっても充電が無ければ、何もできない。街中行きの電車の始発は何と6時半頃だと分かる。これだとさすがに約束の時間に間に合わない。仕方なく、空港内の配車待合場へ行ってみた。途中に日本製(いや中国製)のフィギャーを売るガチャを見付ける。

以前は配車を呼んでも、広い北京空港では見付けられない、と聞いていたが、今やかなりシステマチックになっている。そして当然ながら充電器も沢山あるので充電を始めた。それから車を呼んでみたら、すぐにやってきた。基本的に中国シムがあれば、スムーズに事が運んでいくのは有難い。