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香港でちょっと茶旅2018(3)懐かしい人々と会う

12月12日(水)
懐かしい再会

今朝はホテルの朝食でスタート。やはりここのご飯はそれなりに充実している。常に混んでおり、席の確保が大変だ。ビジネスマンがさっさと食べている傍らで、妙齢の女性がゆっくり食べている。中国人男性はここでも山盛り、そしてスマホで電話しまくる。洋食からインド系、和食まで、何でもあるので私は食べまくる。部屋代は朝食込みながら、一応サインをさせられるとドキッとするのも変わらない。

 

昨日支店で断られたHSBC、今日はわざわざ本店に行って見る。すると対応がまるで違う。ただATMで現金が引き出せなかった原因は『カードの破損』と認定され、再発行になってしまった。ところが別の部署でこの話をするともう一度確認すると言ってカードをATMに入れると見事にお金が出てきた。『カードは壊れていないが、すでに再発行が行われたので、すぐにこのカードは使えなくなる』とは困った。

 

因みにHSBCは外資銀行だ、とのコメントを頂いたが、香港に10年住んだものとしては、最大の発券銀行であり、名前に香港が付き、何より地元民が『香港バンク』と言っているHSBCこそ、地場銀行の代表だと勝手に考えている。この銀行の長い歴史を考えると、往時は茶葉金融もかなりやっており、興味は尽きない。

 

昼頃、今回のメインイベントに出掛ける。場所は懐かしの?日本人クラブ(移転後2回目の訪問)。久しぶりに事務局のSさんにも会って昔話に花が咲く。今日はアジア情勢というより、お茶から見るアジア、アジア茶の現状をお話ししたが、果たしてどれほどお役に立っただろうか。

 

それから中環へ向かった。ちょっと慌ててMTRに乗り込んだのだが、中環駅で降りると、オクトパスカードがない。最近のボケはここまで来たか。遅れてはいけないのでかなり焦ったが、窓口で失くしたことを話すと、即座に臨時カードで出してくれ、改札を出られた。新しいカードを買うと『今回は災難でしたね、次回気を付けて』と言って今回の乗車運賃は取られなかった。日本なら説明だけで大変だっただろうな、さすが香港。

 

香港に来る前、Wさんという方からメールをもらった。香港に来るなら会いたい、という。誰かと思っていたら、北京でご一緒した方で、アメリカに行っていると思っていたら、何と2週間前に香港に赴任していた。そのWさんは今や香港日本人社会のトップだった。ちょっと緊張してエクスチェンジスクエアーに伺ったが、偉くなられても相変わらず気さくで柔和。そして滋賀のお茶をアメリカに売り込んだと言い、お茶の勉強までされており、お茶談義をしてしまった。確かに北京でうちのお茶会にも時々来て頂いていたが、実に多趣味だ。

 

中環から上環まで歩いて行く。もう夕方だが、旧知の堯陽茶行に行き、いつもの王さんに挨拶しながら、鉄観音茶の香港での歴史を聞く。彼らは安渓の出身だが、元々鉄観音の取り扱いは多くはなかったようだ。1970年代までは炭焙煎だったが、量が増えて電炉に変わったという。先日訪ねたバンコックの集友茶行や王有記ともやはり繋がりはあった。

 

更にはお向かいの林奇苑に飛び込み、ちょうどいた先代老板(以前に何度も会ってはいる)にいきなり、『林奇苑という名はどこから採ったのか』と不躾な質問を始めた。実はこの名前、戦前厦門の大茶商であったことは、先日のバンコックで確認していたが、今の老板は潮州人。やはり何の関係もないことが分かり、すぐに退散。

 

部屋に戻って最後の夕日を眺め、夜7時に銅鑼湾のタイムズスクエア―に行く。今晩は北京繋がりで、最近香港に越してきたIさんと会う。市場の横の食堂で海鮮を食べるというので、旧知のOさん、Yさんにも声掛けし、更に知り合いの知り合いというO夫妻も加わり、賑やかに食事をした。Iさん以外は香港歴20年以上のベテランで、香港話の内容もそれなりに濃い。涼しいので鍋が体に沁みる。

 

12月13日(木)
茶縁坊に寄って

今朝はエクセルシオールにお別れした。実にあっけない。まあこういうものが歴史になっていく。荷物を引いてバスに乗り、また上環に向かった。高さんには連絡してあり、香港を離れる前にちょっとの時間を茶縁坊で過した。こことのお付き合いももうすぐ20年になる。やはり老舗お茶屋の話や鉄観音の話を聞く。

 

香港の喧騒の中で、ここにいる時は何とも落ち着くのがよい。安渓大坪からも沢山の華僑が排出されており、先日のヤンゴン、張源美のように有名になった茶商もいる。だが大多数は無名で終わる。ただその人々にも人生があり、日々の営みがあったのだ。歴史はそれを全て掘り起こすことは出来ない。自分が今体験している付き合いでしか、分からない。

 

空港に行く時もやはり空港バスに乗ってしまう。先日に失敗があったものの、上環からなら、渋滞も避けられるので問題はなかった。今回の3泊4日の旅はあっという間に過ぎてしまった。やはり香港にはなにがしかの愛着があり、もう少し長居したい場所だ、としみじみ思いながら、帰路に就く。

香港でちょっと茶旅2018(2)観塘の出会い

12月11日(火)
大学駅へ行くはずが

今回1泊したホテルは近くのホテルの系列店として出来たばかりでとてもきれいだったが、如何にも香港らしくかなりコンパクトな作り。ボーイのおじさんは日本語を話しているので、本店から回って来たのだろう。部屋の冷蔵庫の飲み物は無料だったが、やはり4本中2本はビール。お客の嗜好に合わせて替えて欲しいな。わがままか。

 

朝部屋をチェックアウトして、荷物を預けて、バス乗り場に向かう。この時期の香港としては気温がかなり低く、厚着が必要だった。今日は新界まで行くので、バスでハーバーを渡り、そこから列車で大学駅まで行くつもりだった。100番台のバスは全てハーバーを越えると思い込み、来たバスに乗ったのだが、どうも様子がおかしい。香港島の中へ切り込み、ついにはアバディーントンネルに入ってしまった。

 

完全に方向を間違えたと思ったが、トンネルは長い。どこで降りれば反対方向へ行けるか考えているとトンネルを抜けた。そこにはなんとMTRの駅があるではないか。海洋公園、そんな駅、いつから出来たんだ。祈る思いでそこへ行き、このMTRの行先を確認すると金鐘だった。しかも乗車僅か10分で金鐘に着いてしまった。さすが香港のスピード感。

 

金鐘で満員のMTRに乗り換えて、旺角でも乗り換えて、何と約束時間の少し前に大学駅に着いてしまった。これには正直驚いた。バスの時間が読めないので少し早く出たとはいえ、こんなことってあるのだろうか。それにしても、バスを乗り間違えるとは本当にボケが進んでいる。

 

今日は旧知のKさんと会った。駅前の中文大学の施設、最近は試験シーズンとかで、かなりひっそりしていた。そこでブランチを頂きながら、話をした。ここ2回ほど香港に来ると必ず、彼に会っていた。何しろ話していると、歴史に関する新たな視点が見えてきて、とても面白いのだ。言語学、民俗学、アジアの歴史、凝縮された内容で、歴史は一方向からのみ見ていてはダメだ、と思わされる。

 

2時間はあっという間に過ぎてしまう。昼を過ぎて少し時間があったので、MTRでホンハムまで戻り、香港歴史博物館を訪ねてみた。前から行きたいと思いながら、なかなか時間が取れなかったので、いい機会だと思って勇んでいったが、火曜は休館日だった。何と間の悪いことだろうか。次回を期して、黙々と去る。

 

お茶ビルとの出会い
午後は観塘に向かう。25年来の知り合いであるNさんから先日『香港で茶のイベントをやっている人たちがいる。紹介しようか』という話が舞い込んだ。正直茶の歴史は、イベント活動とは、合わないのではないか、と思っていた。だが折角ご連絡を頂いたので、どんなところか一度訪ねてみることにした。

 

観塘は昔繊維などの工場が立ち並ぶ場所というイメージがあったが、訪れることは稀だった。駅前にはショッピングモールがあったが、ちょっと歩くと、昔の香港が少し垣間見られる。指定されたビルに着くと、やはり昔の工場ビルの雰囲気が残っていた。そこで日本人のHさん、Nさんと合流した。

 

お二人の香港歴は私より長く、既に30年に達していた。元はやはり繊維関連の仕事をしていたというのだが、それがどうお茶と結びつくのか。ビルに入ると、きれいなティーショップになっていて驚く。更に上の階に上がると茶館のようなスペースがあり、様々なお茶が飲めるようになっていた。

 

このビルのオーナーは不動産などで財を成した方で、香港だけではなく、北京の有名地区の開発も手掛けていた。そのお嬢さんがお茶事業を行っているという。元は福建出身で岩茶などがメイン、武夷山に茶工場も持っているという。そしてこのビル一棟のスペースを使い、茶館、イベントスペース、博物館などを作り、ビジネスを広げようとしていた。

 

特に私の目を引いたのが、お茶関連の骨董コレクション。昔の茶缶や茶などがふんだんに置かれており、ちょっと圧倒される。現在喫茶スペースを整理して、今後は定期的にイベントを行い、茶の普及に努めるという。何だかとても面白い、不思議な空間に紛れ込んだようで、興味をそそられた。Hさんはここで音楽と茶をコラボしたライブなどの開催で、検討が進んでいるようだ。会話は英語と普通話が半々。

 

観塘からMTRに乗り北角経由で天后に戻る。こういう便利なルートが出てきており、今まで遠いと感じていた観塘が非常に身近に感じられた。ホテルに荷物を取りに行き、そのままエクセルシオールに向かう。ここに初めて泊まったのは1980年代後半だろうか。場所が便利なのでここには何度も泊まった。2階のカフェにもよく行った。

 

チェックインは混んでおり、クリスマス前のこのシーズンは繁忙期だと分かる。部屋に入ると、ビクトリアハーバーが見えたので思わず写真に収める。いつの間にか日本人客用のグッズ(浴衣と煎茶)も届き、懐かしい雰囲気となる。夕暮れを見ながら、ゆっくりと部屋で過した。

 

夜は翌日の打ち合わせを兼ねて食事。銅鑼湾の海鮮料理屋で、蝦やホタテをご馳走になる。この会社の責任者がちょうど交代する時期で、ご挨拶を兼ねていたが、新任は女性だった。今はあいさつ回りの最中で、忙しい中、付き合って頂き、感謝。

香港でちょっと茶旅2018(1)波乱の初日

《香港でちょっと茶旅2018》  2018年12月10-13日

今年2回目の香港。30年以上前から泊まっていた銅鑼湾のエクセルシオールホテルがもうすぐ無くなると聞いた。閉鎖前に一度行って泊まりたいな、と思っていたら、ちょうどいいお話が飛び込んできたので、少しタイトなスケジュールの中、香港に飛び出してみた。

 

12月10日(月)
香港まで

香港行きのフライトは近年、中国行きや台湾行に比べて割安状態が続いていた。だが今回出発1か月前に日系航空会社を予約しようとすると、非常に高い。しかも某社はネットでは羽田往復の予約を受け付けず、片方が成田でなければチケットが買えないという前代未聞?の事態に遭遇する。ビジネスクラスを買え、とでもいうのだろうか。

 

仕方なくそれなりの料金を支払い、成田へ向かう。午前10時発の成田便に乗るには、始発に近い時間に家を出なければならない。そしてちょうどよい電車がないので、珍しく馬喰町からJRに乗ってみる。同じ成田に行くのに、スカイアクセスより時間が掛かる上、料金も高いのだから、乗る人は多くない。外国人が大きな荷物を持って、まごまごしながら、階段を下りてくる。エレベーターすらないのだろうか。

 

以前は日系航空会社に乗るのはある種のステイタスだったかもしれないが、最近はサービスの質の低下を感じることが多い。台湾に行くならエバ航空の方が余程気が利いているし、食事も美味しいと思う。日系がいいのは映画が充実していることぐらい、と知り合いが言っていた。今日は『日々是好日』という樹木希林の遺作であり、茶道が題材の映画をゆっくりと見る。

 

そうしているとなんとデザートにハーゲンダッツアイスが配られ始めた。この寒い季節にアイス?正直信じられない思いだった。私は意地汚いのでもらって食べたが、ちょっとお腹に堪えた。何人もの人、特に香港人、中国人は拒否していた。南国に行くわけでもないのになぜ、こんなものを出すのだろうか?ハーゲンダッツの時代は本当に終わったのだろうか。

 

香港初日は波乱含み
空港では今回、手荷物しかないので、あっという間に外へ出た。これは早くて助かる。香港用のシムカードを買いに中国移動のブースへ向かう。実はこの後すぐに、中国へ行くので、ついでに中国用を買うためだった。ところが私のスマホには中国移動の香港用シムスら適応しなかった。

 

何故だと聞くと、『時々そういうお客さんがいる。こちらでは対応しないので香港の会社へ行ってくれ』と追い出されてしまった。仕方なく香港キャリアに行き、香港シムを買い、合わせて中国シムもこちらで買ったが、何と8日間で238香港ドル、私は2週間の予定なので、2つ買わなければならなかった。すると店員が2つ目は半額だからお得だよ、という。何とも割り切れない思い。

 

空港エクスプレスに乗ればよいのに、いつもの癖で銅鑼湾まで空港バスに乗った。午後4時前ならそれほど混んでいないだろうと思っていたが、それは大きな間違いだった。香港島に入ると渋滞が続く。途中で降りてMTRに乗ればよかったのだが、まさかこんなに渋滞とは予想せず、最後まで乗っていたら、何と2時間近くかかってしまった。後で聞くと近くで大きな事故があり、一時道が封鎖されていたらしい。

 

夜の予定があったので余裕を持った日程を組んだのに、時間がギリギリになってしまう。エクセルシオールの宿泊は明日からなので、今日は近くの新しいホテルに投宿した。ただちょうどチェックインが混みあっており、時間がもったいないので荷物だけ預けて、すぐに外へ飛び出した。

 

中環で約束があったのだが、その前にどうしてもしなければいけない手続きが銀行であり、結局待ち合わせに遅れてしまう。だが、HSBCなどの銀行は午後5時には窓口を閉める中、外資系は対応してくれているので、文句は言えない。しかもかなり親切で有り難い。後日、全く同じ手続きをしにHSBCの支店に行ったら、『こんなものは自分でやれ』と若い行員にいわれ、『でも外資は対応してくれたよ』というと、『我々はHSBCだ』と言い放ち、文句あるかという態度だったので、よほど解約しようかと思った。

 

夜はKさんに誘われてFCCで食事した。30年前の香港の話から、最近のトピックスまで、色々と教えて頂き、為になる。FCCと言えばやはりカレーなので、毎度のことながらこれを注文し、美味しく頂く。本当に昔と比べれば混んでいる。特派員の人はもういないのだろうか。

 

帰りは銅鑼湾駅より近いと思い、隣の天后駅で降りる。ここは4年間住んだ場所であり、とても懐かしい気分で、周囲を少し散策した。ほとんど店が変わっているように見える。唯一セブンイレブンだけが昔のままのようだ。不動産屋の看板を見ると、昔でも結構高かったが、今では日本人が住める家賃ではなさそうだ、この街は。

ある日の台北日記2018その3(15)包種茶の謎

12月2日(日)
仁愛路散歩

土日は人と会うのも少なく、図書館に行く気も起きない。いつもブランチを食べる店も混んでおり、そこも敬遠すると食事の場所にも困る。今日は天気も良いので少し遠くまで散歩してみることにした。仁愛路、30年前に台北にいた時から高級住宅街、というイメージがあったが、大きな街路樹が植わる広い道は今も堂々としている。

 

きれいな道、そして立派なビル。いかにも高級住宅街らしく、高価な骨董や絵画を売るギャラリーなどがある。だが、ビルの1階には空き店舗が目立つのも事実だ。家賃高騰に商売が合わなくなっているのだろう。台湾経済の低迷?はこんなところにも表れているように思える。

 

途中に飯屋があったので入ってみる。仁愛路から少し外れており、庶民的な店だ。ここで内臓系のスープを飲む。こういうスープ、日本にはないのかな。美味しいのになあ。腹ペコだったのであっという間に平らげる。すると腹が膨らみ、またゆっくりと散歩することになる。

 

東門外市場という昔からありそうな市場へ迷い込む。何となく懐かしい雰囲気がある。屋根のある屋内から外へ出ても市場は続いていた。狭い道の両側に露店が並び、盛んにお客に声を掛けている。そこへ突然救急車がサイレンを鳴らして入って来た。道の真ん中に野菜や果物を並べていたおばさんたちは急いで片づけをして道を開け、救急車は何とか通り抜けていく。特になんだということはないが、さり気ないこういう光景には癒される。

 

12月3日(月)
包種茶の謎

先日トミーから『包種茶について、SNSで面白い議論があるよ』と連絡があった。それは1840年の新聞広告に、Pou Chong Teaという名前が出ているというのだ。Pou Chong Teaといえば、中国語名は当然包種茶のはずだが、この時期、一体どこに包種茶はあったのだろうか。

 

その新聞記事を送ってもらうと確かにNYに輸入され、売り出される茶の中にこの名前がある。中国福建で包種茶を発明したのは、1796年の王義程という歴史も見ているので、当時福建からアメリカに輸出されても不思議ではないが、やはり現実にこのような証拠があると、本当にあったのだな、と妙に納得する。

 

そしてこの新聞記事を持っていたのは、以前紅茶の調査で出向いたこともある、新竹関西の台湾紅茶という会社の子孫で、現在の紅茶館(博物館)を作った羅さんだと聞き、一度会って見たくなる。トミーが連絡してくれ、すぐに会うことができたのは幸いだった。羅さんも当然ながら茶の歴史に詳しく、特に自分の実家の茶業や紅茶の歴史を独自に研究しているという。いわば同好の士だ。

 

例の新聞記事については、実は記事を入手しただけで詳しいことは何も分からないと言い、それでSNS上で歴史好きが議論していたのだという。実は私もちょっと聞いてみたところ、東京の紅茶専門店のKさんから、『イングリッシュ ブレックファースト』という紅茶はブレンドだが、その中にはPou Chongが含まれている、と教えられていた。しかもこのブレンドが発売されたのは1843年だというから、大体符合する。これは面白くなってきたが、今日はここまで。次はいつ新しい発見があるだろうか。

 

因みに食事をした場所は、どんぶり屋という名前の和食店。海鮮丼が一押しということで食べてみたが、魚も新鮮で美味しかった。このレベルなら、十分に堪能できる。確かに最近どんぶりを売り物にする店が増えているようだが、一種の流行だろうか。また食べに来たい。

 

12月4日(火)
新店へ

明日は日本へ向かう。2018年台北最後の前日。荷造りなども終わり、少し時間が出来た。散歩も飽きたので、バスに出乗ってみようと思う。ちょうど新店行きのバスが来た。新店と言えば、先日1つの廟の名前が出てきていたので行って見る。バスは高架を走りMRT新店駅を越え、橋を渡る。そこで降りて太平宮を目指した。少し登った場所に思ったより大きな、立派な廟があった。参拝する人は誰もいない。3階まで登るとかなりの景色が見える。建物自体は建て替えられているのだろうが、最初の廟は200年ぐらい前に樟州から渡って来た人々が建立したらしい。

 

実はここは、現在調べている王添灯氏の故郷に近い。そして説明文を読んでいくと、この廟の管理を光復後長い間行っていたのが、添灯氏の兄、王水柳氏だと書かれている。王家にゆかりの廟なのだ。この規模からして、茶業で儲けた資金でここの管理をしていたのだろう。家もすぐ近くらしいが、どこにあるのか見つけることは出来ない。周囲を歩いていると、お墓に突き当たった。それもかなり大規模な墓地だった。何とここは空軍墓地。1950-60年代に亡くなった人、そしてその遺族が多く葬られていた。

 

夜は旧知のKさんと食事。いつもと違うところにしようというので、歩いていると、新しい小籠包屋さんが目に入る。きれいな作りだ。中はなぜか回転すし屋のようになっており、何と注文したものが、レールに乗って運ばれてくる。日本のどこかでも見たサービスだったが、それを模倣したのだろうか。相変わらず台湾も色々とやってくれる。翌日は何事もなく東京に戻った。

ある日の台北日記2018その3(14)懐かしの床屋&包種茶コンテスト

11月28日(水)
懐かしの床屋へ

昼まで原稿を集中して書いており、何も食べていなかった。午後1時を過ぎ、さすがに腹ペコとなって、外へ出た。魯肉飯が突然食べたくなることがある。今日がその日だったようだ。更には暖かい大根スープも欲しい。そして付け合わせに?三層肉を頂く。生姜と一緒に食べると絶品だ。こういうものが簡単に食べられることにとても満足している。

 

実は9月に東京で床屋に行って以来、髪の毛を切っていなかった。これまでは埔里で世話になっていた家が美容院だったので、暇な時に下に降りて行って切ってもらう習慣がついていたのだが、台北で髪の毛を切るのは恐らく30年ぶりではないだろうか。どこへ行って切ればよいか全く分からずに迷う。

 

勿論きれいな美容院は沢山あるが、私にはそんな必要はない。駅の近くには日本のQBハウスの看板も見られたが、料金は300元と、埔里の美容院より高い。日本の10分、1000円よりも感覚的にかなり高いので、入るのはためらわれた。因みに東京の家のすぐ近くにはランチサービス、690円という床屋があるので、どうしても高く感じてしまうのだった。

 

実は宿泊先のすぐ近くに屋台街のような場所があり、その裏通りには何軒も床屋がある。これがまた流行りの美容院とは完全に一線を画す、レトロな床屋ばかりで、こちらに入るのもなかなか勇気がいる。ただもう髪が伸び切ってしまったので、一度は体験、ということでそのうちの一軒に突撃してみた。

 

本当にそこにあったのは、私が子供の頃に行った床屋さん、椅子もそうだし、頭を洗う流しもそのままだった。愛想のいいおばさんが一目で『あんた、日本人だね』と言ったのにも驚いた。台南から出てきてこの道40年、昔は日本人駐在員が沢山来たのだという。その頃のことを懐かしそうに話してくれると、私も懐かしくなり、ついつい話が弾む。

 

勿論最近はお客も減ってはいるようだが、台湾のおじさんたちはこの辺へ来て、髪を切るらしい。古いビルの狭いスペースだから、家賃も安いのだという。頭を洗ってもらう時、鼻に水が入らないように、息が詰まらないように呼吸を整えていると、本当に小学生に戻った気分になる。髪を切り、シャンプーで頭を洗い、多少剃ってくれる、これで300元なら、QBハウスに行くよりはずっといい。そして何よりも楽しく会話するのは何とも良い。

 

11月29日(木)
坪林へ

先日台中で張瑞成氏と会った時、コンテストの話が出た。1976年の鹿谷コンテストはとても有名でその後の凍頂烏龍茶の発展に大いに貢献したと聞いているが、実はその1年前に新店で包種茶コンテストがあったことはあまり知られていない。張氏によれば、1975年に鹿谷、新店で同時開催を目論んでいたが、鹿谷は道路工事があり、1年遅れたのだとか。この新店のコンテストがどんなものだったのか、それを知るために、坪林に向かった。

 

午後2時頃行くと伝えていたが、何と新店から坪林に行くいつものバスはちょうどよい時間が無い。そういう時は大坪林から羅東行に乗ればよいと思い出し、MRT大坪林で降り、バス乗り場に向かった。ちょうど1時発のバスがあったのだが、その前後はなく、もし1時過ぎに来ていたら、大変なことになっていた。やはりバスは確実に時刻表を確認した方がよい。

 

バスは空いていた。道も空いていた。30分ちょっとで坪林に着いてしまった。このバス停は川沿いに着く。向こうには博物館が見えるが、改装は終わったのだろうか。随分と転じない夜が変わると聞いているが。歩いていつもの祥泰茶荘に向かう。大体いつも誰かお客がいてお茶を飲んでいる。ちょうど店では昼ご飯の時間だった。

 

コンテストの話を切り出すと、お父さんが『あの時は現場にいたよ』とサラっという。その時のコンテストは初めてだったから出品も多くはなかったらしい。そして『うちもちゃんと受賞しているよ』と言って、見せてもらったのは、農林庁から得た特等賞のプレートだった。優勝記念、とも書かれているから、この年のトップを取った。しかもその後4年連続優勝したらしい。ちょっと感動した。

 

実はこの祥泰茶荘の歴史は古く、一番古いコンテスト受賞プレートは1960年のものだった。この時も優勝記念だから、何ら変わらないのではと思ってしまうが、以前のコンテストは製茶技術コンテストではなかったろうか。1975年以降は、内需促進のため政府が仕掛けたコンテストだから、かなり趣は違ったはずだが。

 

因みに75年の主催者は農林庁だが、78年は坪林農会になっているのは何故だろうか。相変わらず謎は深まるばかりだが、その答えは見いだせず、凍頂烏龍茶が絶頂を迎える中、包種茶はさほどのヒットを飛ばすことが出来なかったようだ。当時は既に清香型が主流だったようだが、台湾人は濃厚な凍頂を好んだということだろうか。

ある日の台北日記2018その3(13)選挙結果、そして日台交流

11月26日(月)
静岡旅行団との夕食

24日夜に厦門から戻って来た。この日は統一地方選挙があり、その開票状況などを見て過ごす。予想以上の民進党敗北、これをどう考えればよいのだろうか。4年前の選挙で中国との関係をノーと言い、蔡英文政権を生み出した台湾民衆をすごいと思い、台湾老人からは『武士は食わねど高楊枝』という言葉まで聞いた台湾だったが、やはり経済悪化は堪えているのだろうだろう。

 

特に中南部の落ち込みは埔里にいる時もかなり感じていた。若者に仕事がない。しかしこの選挙結果はそういうことだけを反映しているのだろうか。蔡総統の失政?中国の選挙妨害(金銭圧力)?台湾の選挙は決して一般人の投票だけで動いている訳ではなく、むしろ何か得体のしれないものに左右されているような気がしてならない。

 

そんなことを考えていても、福建で食べ過ぎたせいか余り腹も減らないので、近所で刀削牛肉麺を食べる。私は牛肉麺が大好きだが、つるつるした丸い麺より、ごわごわした、モチモチ感のある麺が好きだ。刀削麺は北京にいる頃、時々食べたが、台北でも食べられるのは嬉しい。さすが中国料理の宝庫、台北。いや、東京にも沢山あるかな。

 

トミーが台中からやって来た。彼に台中の選挙結果を聞いても『台中の人間も意外に感じている』という。林佳龍市長は、この4年間、色々な政策を積み上げてきたので、市民には一定の評価があったはずだが、思わぬ大敗。国民党候補がよいと思う人が多いとも思われない中、なぜそんな結果が出たのかと、首を傾げる。

 

今晩トミーから呼び出しがあったのは、静岡県日台友好協会の旅行団が来ているからだった。その中に、私もお訪ねしたことがある、和紅茶製造の第一人者、Mさん夫妻が入っており、トミーはどうしても会いたいということで、特別に夕食に入れてもらっていたのだった。

 

トミーは静岡を訪ねる度にM家を訪れ、紅茶談義をしている。今回は私がにわか通訳になって、この二人の会話を聞いていたのだが、内容的には茶の品種、その栽培法、製造法など、かなり専門的な話が多く、とても私では通訳し切れなかった。ただ二人の間では、言葉が通じなくても何となく分かり合える部分が多く、そこがとても面白かった。

 

M夫人は、いつもFBなどで発信をしておられ、私のFBもよく見ていてくれている。突然現れた私に驚き、そして再会を喜んでくれた。一緒に旅に来た人々も、台湾や中国にご縁のある高齢者の方が多く、90歳を越えた湾生の女性が来られていたのには驚いた。実はこの旅行のスケジュールを見ると、台中、台南などを回る強行軍。明日の朝静岡に帰るというので、さぞやお疲れだったろうが、M夫妻は元気にトミーと話しをしてくれた。

 

外交部の関係者も臨席しており、記念品の交換も行われ、日台の草の根交流を大切にしていた。トミーは旅行団全員に自らの茶をお土産として渡していた。まるでM夫妻の台湾の息子と言う感じで、大いに喜ばれていた。こういう交流もあるのだな、と再認識した。

 

11月27日(火)
講演会を聞きに行く

選挙結果について引き続きモヤモヤしていたところ、本日ジャーナリストの野島さんの講演があるというので、聞きに行くことにした。これは旧知のTさんの所属するロータリー主催であり、絶好の機会だった。野島さんとは5年ぐらい前、未だ彼が朝日新聞に在籍しており、台北支局から戻ったばかりの頃、私が主催していた寺子屋チャイナで、台湾情勢のお話をしてもらった、というご縁があった。その後フリーになり、どうやってあれだけの場所、人を取材して、どうやって資料を集め、あんなに沢山の文章を短期間に発信できるのだろうか、と思うような、スーパーマンになっていた。

 

会場は市内中心部で、かなり立派な設備がある。バーなどとしても使える場所らしい。エレベーターを上がると、既に多くの日本人、そして台湾人が詰めかけており、会場入りする野島さんに、チラッと挨拶するのがやっとだった。今や台湾でも超有名人である。会場には、お知り合いも数人きていた。

 

話の内容は、相当細かい選挙分析、それも日本のマスコミが伝えるような中台関係を基本としている物ではなく、台湾内部の問題、蔡政権の問題などを地道な取材の成果から検証しており、豊富なエピソードを交えて語られる内容は興味深かった。選挙終了後僅か3日目だが、以前より相当なシミュレーションを行い、選挙速報を流している感じだった。

 

講演終了後に挨拶しようと思ったが、既に大勢の聴衆に取り巻かれており、出版本のサインに忙しいようだったので、黙って失礼してきた。私はお茶の歴史を学んでいるが、野島さんほどには力を入れて取り組んでいるようには思えない。所詮遊びだと言いながらも、もう少し何とかするべきだ、と自分に言い聞かせながら帰った。

厦門で歴史茶旅2018(5)昔のアモイを思い出しながら

華僑博物館へ

午後はホテルで過すつもりだったが、やはり外に出てしまう。バスに乗って博物館へ行こうと思ったが、厦門には大きな博物館はないらしい。こういうところは福建省の省都は福州だ、ということだろう。検索すると近くに華僑博物館があったので、そこを目指す。

 

バスを待っていたが、博物館行きバスは一本しかなく、なかなか来ない。そしてようやく来たバスには多くの老人が乗り込んだ。なぜだろうか。バスは昨日行った張乃英さんの家の横を通り過ぎ、海辺を離れた。それからすぐに博物館に到着する。ここも午前中に行った集美大学を創設した陳さんが作った博物館らしい。陳嘉庚氏は東南アジアで一体どれだけの財を為したのだろうか。

 

立派な建物が建てられている。思ったより観光客が多い。中には日本人の団体もいて、ガイドが説明をしていたが、興味を持ってみている人は少ない。中国人でも田舎から来たちょっと金のあるおじさんが、大声で話して係員に窘められていた。展示物は陳さんを初め、東南アジア各国の華人に関するものが多く、特に福建から大勢の華僑が海を渡り、その内の一部が成功した様子を窺わせる内容だった。

 

中国、特に清朝時代には幾度も動乱があり、その度に民衆が移動を余儀なくされ、アメリカの炭坑や鉄道建設に行き、アジア各地で体を張って労働している。私個人は、成功した有名華僑より、海を渡った名もない人々がどうしたのかが気に掛かる。でもそのような人々の歴史は残されることもなく、消えていくのみだ。故郷に帰りたかった人もいるだろうが、当時故郷に錦が飾れたのは成功したものだけだった。

 

帰りはバスに乗らずに歩いてみる。途中まで行くと立派なお寺があり、入ってみたかったが、かなりきつい崖の上にあったので、下から眺めるだけに留めた。既に足が痛い。コロンス島の夕日を見ようと海辺に出た。この風景は18年前とそれほど変わっていないように思えるが、海沿いの道路脇は、観光客向けのきれいな店が並び、歩いている人もきれいな格好をしており、やはり大幅に違うのだな、と感じる。

 

夕飯は厦門らしいものを食べようと近所を歩き回り、蟹肉入りの小籠包、蟹黄湯包と牡蠣オムレツ、海蛎煎を注文した。どちらも一人分としては多い量だったが、完全完食してしまう。中国に来るとどう見ても食べ過ぎだろう。料金も観光地価格のように思えるが、今の中国は正直なんでも高い。

 

11月24日(土)
台北に戻る前に

今朝はホテルの朝ご飯を楽しみにしていた。これまで泊まっていたホテルでも朝ご飯は提供されていたが、ありきたりの物で、あまり満足できていなかった。このホテルは先ず1階のレストランの内装が良い。そして料理もかなりいいものが出てきて満足できる水準だった。

 

あとは時間までホテルでゆっくりしようと考えていたが、今日も何となく外へ出た。行くところもないので、30年前に行ったきりの古刹、南普陀寺へ行って見ることにした。バスは何と昨日の博物館行きと同じ、終点だったから、要領は分かっていた。今日は土曜日で更に観光客が多かった。

 

バスの終点に寺はあったが、その前には厦門大学の校門が見えた。ここも30年前にちょっと歩いた記憶がある。中に入ってみようかと思ったら、一般人は簡単には中に入れないことが分かり、諦めた。今は観光客が大学に押しかける時代だから、致し方ないだろう。向かい側の寺に向かって歩き出す。

 

ところが寺にも入れなかった。今日は何かイベントがあるようで、門の前では人が入れないように、係員がロープを持って立っている。観光客はそれを取り巻いている。信心深い人は外から祈っているが、多くは写真を撮るだけだ。それにしてもこのお寺もきれいになった気がする。経済力とは真に恐ろしい。

 

帰ろうとしてバスを待ったが、乗るべきバスは運転手が中にいるのにドアを開けようとせず(本人はスマホゲームに夢中)、更に彼は鍵を掛けてどこかへ去ってしまった。乗客が乗ろうと詰め掛けているのにこの態度はどうだろうか。一言いつ発車するというだけで待つ方も楽なのだが、そういう気づかいを中国のバスに期待するのは難しい。別のバスで途中まで行き、降りてまた散策する。

 

ホテル近くの路地に入るとそこは別世界。道に迷ったかのように、30年前の中国の面影が次々現れ、何とも幸せな時間を過ごした。ほとんど開発されている中にも、一筋の道が残っていたとはすばらしい。空港に向かうまでの僅か時間、この路地で遊んでいた。最後は本当に迷子になってしまい、スマホを取り出すと現実に戻る。

 

ホテルをチェックアウトしてすぐ近くの乗り場から空港バスに乗り、1時間弱で空港に着く。チェックインはすぐに出来た。あまりにも時間があったので、出国審査後にバーガーキングで軽く食べた。他のレストランの食べ物はビックリするほど高かった。中国各空港の高額な食事料金は改めるべきだ。厦門航空便は順調に飛行して、松山空港に戻った。

厦門で歴史茶旅2018(4)漳平水仙、そして集美へ

今日重要な二人に会うことができ、今回の目的はほぼ達成され、気持ちはぐっと楽になる。というか、疲れているのにその興奮が収まらない。夜は以前魏さんから紹介されただけで、会うことがなかった、もう一人の張さんに会いに行った。彼の店は軌道で10駅ほど離れており、意外と遠かった。

 

スマホを使って何とか辿り着いた店に張さんはいなかった。夕飯を食べに出てしまったらしい。私も腹が減ったので一人で付近の店を探す。だが食堂はあまりなく、仕方なく、初めて沙県小吃に入って見た。ここはチェーン食堂で、中国ならどこでも見かける店だが、なぜか一度も試していない。だが何と東京にまで店が広がったと聞き、どんなところか見てみたのだ。

 

そこは店を改装してきれいになっていたが、メニューは完全な定食屋。何でもある感じで、纏まりはない。定番の西紅柿炒鶏蛋を頼んでみたが、量がやたらに多く、味はちょっと薄く、油は多い。ご飯が山盛りに盛られ、冷めたスープが付く。これで15元、何だか肉体労働者の食事で、食べ切れずに店を出た。

 

店に戻ると張さんがお客の若者と茶を飲んでいた。この店は漳平水仙を扱うことで有名らしい。張さんは漳平の出身で、その歴史も探求しており、話を聞く。最近日本でも話題になっているお茶だが、思ったよりも幅が広い。その歴史は100年を越え、地元には紙で包む時に押される印判が残り、型を取る道具も残されていた。

 

味は以前飲んだ物よりは美味しく感じられる。これは張さんの淹れ方か、茶葉が良好なのか。話題になっているということは少なくとも品質は向上しているのだろう。週末は漳平で水仙祭りがあり、張さんも明日から故郷へ帰るらしい。というか、今後は活動拠点を漳平に移し、用事がある時だけ厦門に来るというから、今日が最後の日だったのかもしれない。やはりご縁はあるものだ。

 

11月23日(金)
集美へ

もう厦門に用事はなかったが非常事態が起きていた。今日台北に帰るつもりだったが、昨日の段階で、金門経由の便はすべて満席、このルートは週末台湾旅行に向かう中国人に占拠されていた。いや、実は明日台湾で重要な統一地方選挙が開催されるので、台湾人が帰国するのかもしれない。いずれにしても満席、そして直行フライトは何と日本円で4-5万円もしている。とても帰れない。

 

日曜日に帰るフライトを予約し、さてホテルも延泊しようかと考えたが、何と部屋はあるが、料金は当初の2倍だという。元々今回の期間中、厦門では大規模ない医療関連イベントが開催され、ホテルが取れない状況だった。知り合いが何とか抑えてくれていたが、優遇レートは最初の1泊だけ、次の日は200元上乗せになっており、私はこのことすら知らなかった。そのことをきちんと説明してくれなかったと抗議したが、私は何も見ずに書類にサインしていたので、ホテルはそれを盾に、私が悪いという。

 

まあそんなホテルに泊まることは愉快ではないので、早々他を探したが、どこも軒並み高い。どうせ高いのならばと、18年前に泊まった思い出のある鷺江賓館を予約した。チェックインは12時以降なので、それまで天気も良いので時間潰しの旅に出た。軌道の駅へ行き、どこへ行こうかと見ていると、集美というのがあったので、そこを目指す。

 

軌道で40分ぐらい乗っただろうか。そこは随分と遠かった。しかも乗る線を間違えてしまい、大橋を渡ってから、思っていた方向と違う方へどんどん進んだので、慌てて降りた。だがそこは住宅以外全く何もないところ。タクシーすら走っていない。近くのバス乗り場から集美大学に行けるというので探したが、バス停すら見付からない。

 

かなり歩いてようやくタクシーを拾い、大学の門まで行った。ここがいつも車からきれいな校舎が見える大学だ、写真でも撮ろうと入って行ったが、とても広いキャンパスでまた歩いく羽目になる。ここはシンガポール華僑の陳さんが建てた学校でちょうど100周年を迎えるらしい。南国風のキャンパスと中国風の校舎、その取り合わせが面白い。バスケットとバレーのコートが20面ぐらいあって、その広さは尋常ではない。

 

結局あの川沿いのきれいな景色の場所へ出られず、写真も撮れず。正門から出てバスに乗り、宿へ帰る。何とバスは1時間近くかけて走る。これで2元。すごい。腹が減ったので、先日連れて行ってもらった店を再訪し、鴨肉などのセットランチを食べる。これで20元は価値がある。

 

それからホテルをチェックアウトして、またバスに乗り、鷺江賓館へ。外から見るとちょっときれいにお掃除した程度に見えたが、中は全面改修後で、18年前の面影はない。とてもきれいなロビーで驚く。今日の料金は18年前の3倍だが、まあ高くはないのかもしれない。私自身は会社を辞めてから中国で泊った最も高いホテルだろう。

 

窓のない部屋だがおしゃれに加工されている。古いホテルの部屋という印象だったから、かなりの変化に戸惑う。フロントの愛想が凄く良い。冷蔵庫のドリンクは無料だが、4本のうち2本はビール。ビール、替えて欲しいな。あの18年前、21世紀の最初の日を過ごした場所、1月1日に小三通の船が初めて台湾からやってくるというので大勢の人が港に溢れていた光景、もう完全に歴史だな。

厦門で歴史茶旅2018(3)厦門茶業のレジェンドと会う

11月22日(木)
厦門茶業のレジェンドと会う

厦門3日目。今日は昨日会った張理事長が、『安渓大坪の大先輩、レジェンドのところに連れて行ってあげる』というので、有り難くついて行くことにして、待ち合わせ場所の地下鉄駅まで歩いて行った。ところが到着直前になって、『急な用事が出来たので、一人で行って。場所は息子に電話して聞いて』というではないか。

 

仕方なく電話を掛け、ご自宅の住所を聞き、タクシーを拾って向かった。そこは海が見えるマンションで、環境がとても良かった。言われた部屋に行くと、1928年生まれ、90歳の張乃英さんが、暖かく迎えてくれた。大坪に生まれた張さんは、解放後厦門のお隣、樟州茶廠(厦門、安渓と並ぶ三大茶廠)に長年勤め、その製茶及び評茶技術は周囲に一目置かれる存在だった。

 

お名前からも分かる通り、安渓大坪で、あの台湾に鉄観音を持ち込んだと言われている張乃妙とは同郷、同族。乃妙の一族は今も大坪におり、かなり標高の高いところに家があるのだという。乃英氏の家とは2㎞ほどしか離れていないそうだ。戦争中、集美中学(厦門)が安渓に疎開してきたので、中学に行くことができた、これは日本のお陰だね、笑って話してくれる。その笑顔が実に穏やかだ。

 

1950年代初め、厦門に出てきて茶行で働いた経験もあるという。現在の鎮邦路付近に店があり、今もその建物は残っているかもしれないという。この辺りには往時、大茶商が沢山ビルを構えて店を出し、賑わっていたらしい。それも国営化の波で今やすべて消えてしまっている。

 

1989年に樟州茶廠を定年退職するまで、特に80年代に改革開放が始まると、多くの外国人がやって来た。その中には日本の松下先生もいたよ、という。またコンテストなども始まり、張天福先生と一緒に評茶した写真なども残っている。鉄観音茶が盛り上がったのもこの頃だった。ただ100年前鉄観音は既に大坪にもあり、その形状は半球形だったという。現在の安渓鉄観音茶の惨状を見過ごすことは出来ずに、2016年には個人で安渓政府に意見書を提出し、その結果、豆腐機の使用禁止など、改善策が示されたという。

 

乃英氏の息子は茶業に就かなかったが、父親のそばで色々と見聞きし、現在はその資料を整理しているようで、こちらも歴史にかなり詳しかった。2時間も話し込んだら昼時になり、ご自宅でご飯をご馳走になってしまう。食後も安渓産の水仙など珍しいお茶を淹れて頂き、大いにお話しを聞いた。乃英さんは終始元気だったが、実は半年前に同い年の奥様を亡くされたばかりだった。次回また再訪したい家だ。その機会はあるだろうか。

 

乃英家を失礼し、バスに乗ってバスターミナルへ向かう。そこから開元路に切り込むとレトロ感が溢れてくる。教えてもらった鎮邦路にも一部古い建物が残っていたが、そこが元の茶行かどうかは分らない。Y字路などがあり、道は面白いが、唯一洋行の名前が記された壁があったがそれだけしか発見できなかった。

 

更に歩くと水仙路に出た。この道には聞き覚えがある。先日バンコックで林奇苑という戦前の大茶商の名前を聞いたが、その厦門本店の場所が水仙路だったはずだ。だが現在の水仙路は非常に短い道で、しかも完全に開発されており、現代的な大きなビルが建つなど、往時の面影は全くない。残念ながら厦門で古い茶商を探すことは、国営化と再開発という二つの壁に大きく阻まれ、もはや不可能だと思われた。

 

そこから18年前に宿泊した鷺江賓館の前を通り、人が大勢いるフェリー乗り場からコロンス島を眺め、そのまま歩いて行くと人通りがなくなり、寂しくなる。ここに最初の港があったようだ。軌道の始発駅、第一码头駅まで辿り着き、それに乗って宿に帰る。さすがに歩き疲れて休養する。

 

すると、張理事長からまた微信が入ってくる。ミャンマー、ヤンゴンに本店があった張源美の厦門支店を管理していた末裔と連絡が付いたぞ、というビックリする内容だった。疲れも忘れて飛び出し、指定されたバス停に向かう。何とそこはバス停2つしか離れていなかった。こんな近いところにいたのか。

 

そこに張一帆さんが迎えに来てくれ、今はほぼ休業状態の茶荘をわざわざ開けて見せてくれた。何とそこには古い張源美茶行の看板が掛かっているではないか。私がヤンゴンにいる末裔に会ったというと張さんは驚いて『今は連絡も途絶えている』という。張源美が国営化された時代、張さんのお父さんが店を経営していたが、それ以前の話を聞いたことは一度もなかったという。

 

その理由は文革だった。資本家は打倒されるので、子供に類が及ばないように伏せていたらしい。そのお父さんは、そのまま厦門茶廠に務め、茶業界では有名な方だった。実は昨日厦門茶廠で『中国烏龍茶』という本をもらったが、それはこのお父さんが書いたものだったのだ。僅か3年前に亡くなったという。もしお父さんが生きていれば、今であれば詳しい話が聞けたかもしれない。張さん自身は90年代に茶業が儲かると聞いて、茶の輸出などはしていたが、今は引退の身だという。2000年代の鉄観音茶が緑化していく話などは参考になった。

厦門で歴史茶旅2018(2)茶業商会と厦門茶廠を訪ねて

11月21日(水)
茶業商会理事長を訪ねる

今回中国で使うシムカードは松山空港で購入してみた。中国国内のシムカードでは残念ながらFBやツイッターを見ることは出来ないが、長い期間連絡を絶つこともできないので、海外のシムカードを買うことになる。今回買ったシム、7日間で630台湾元だが、十分に使えた。電話は使えないが、これがあれば、中国内でもなんとかなるので有り難い。

 

そんなスマホを使って向かった先は、厦門茶業商会の張理事長。彼の茶荘は、地下鉄嘉禾路駅の近くにある。取り敢えず一番近い駅、斗西路口駅から軌道に乗り、地下鉄1号線の文灶駅に乗り換えようとした。ところが同じ名前の駅なのに、実はこの2つの線は全然繋がっていないことが判明。スマホで位置を確認して歩いて10分も掛けてようやく乗り継いだ。1年前に出来た地下鉄はとてもきれいだったが、空いていた。こんな不便があるからだろうか。

 

何とか嘉禾路駅に辿り着き、歩いて指定された茶荘まで来たが、まだ朝早く、店は閉まっていた。そこへちょうど今回の紹介者である郷土茶業史家の沈先生もやってきたので、電話してもらい、中へ入った。張理事長は茶商として、日本企業との付き合い(茶葉輸出)も多かったと言い、簡単な日本語を話したので驚いた。

 

長年厦門市茶商協会の理事などを務めていたが、お役所である協会に限界を感じ、2013年に茶業商会を設立したという。当然多くの茶商を知っているが、その資料は協会にも商会にも殆どないという。ただ張理事長もやはり安渓大坪出身であり、鉄観音茶の歴史、いや歴史的人物の紹介を受ける。これはとても有り難いことだった。また鉄観音茶は100年前からその形状はそれほど変わっていないこと、そしてそれほどには有名ではなかったことも教えてくれた。

 

張氏は茶商としてよりむしろ評茶師として有名だという意外な話もあった。そのため様々な茶が中国中から持ち込まれ、美味しい茶も手に入り易いらしい。ただ近年の中国茶全般についての評価はかなり厳しく、彼は厳選した茶だけを売るようになったらしい。お土産に雲南の高山紅茶をくれたが、何となく台湾的だった。

 

一度宿に戻る。乗り換えるのが面倒で、中山公園まで地下鉄で行き、そこから歩いた。また厦門にも古い街並みがそこここに残っている。腹が減ったので、沙茶麺を食べる。今では厦門中どこにでもある沙茶麺、私が入ったのはチェーン店で、器は紙で味気ない。値段はどんどん上がっている感じで、いくつかトッピングを加えると20元にもなってしまう。

 

午後は銀行に出掛けた。窓口でちょっと手続きをしたのだが、何と支付宝への入金の仕方を忘れてしまい、係員が親切に教えてくれた。実はその時、パスポートから書類を落としてしまっており、後で電話がかかってきて知らせてくれた。今や銀行窓口は比較的すいており、対応も親切になっている。

 

沈先生が午後のアポも取ってくれた。鉄観音茶輸出の歴史なら、輸出入公司に行くべきだと言い、私はバスで指定された場所へ向かった。そこは旧市街からは少し離れていたが、茶工場がまだ残っており、周囲に微かに茶の香りがした。元の国営厦門茶廠(移転後)がここだった。

 

今は中茶で統一され、その傘下となっている厦門茶廠。1954年に中国茶業公司の厦門事務所としてスタートし、その後周辺の茶廠、茶商を収容して国営化していく。実は先日ヤンゴンで訪ね当てた張源美という茶商もこの時、ここに併合されている。その後文革を経て、1979年に改組され、改革開放を歩んでいく。その頃に出てきたのが鉄観音茶だったともいえる。

 

オフィスではなく、その販売店舗で先生と待ち合わせた。そこへ日本向け輸出担当スタッフなどがやってきて、烏龍茶輸出の歴史を語り出す。特に1970年代の終わり、日本向け輸出が始まった頃の話、その後急速に輸出量が伸びていく辺りは、面白い。ただ烏龍茶ではあるが、鉄観音茶とは誰も言っていない。

 

1970年に製造された鉄観音茶が残っていた。水仙もある。さすが中茶だ。だが『こういうものは飲まない方がよい』と言われ、写真を撮るだけになった。80年代の茶缶も登場したが、鉄観音茶はその頃ようやく名前が売れ出したのだろう。安渓県政府が鉄観音茶のブランド化に尽力した話なども出てきていた。

 

最近は利益優先の企業集団として、様々な茶の開発に取り込んでいるという。今回飲ませてもらったのは、烏龍茶を後発酵させたブロック茶だった。この茶葉は口当たりも悪くなく、体にも良い、として、売り出す予定らしい。茶葉が大量に余り、売り先に困る昨今、企業は様々な工夫をしている。

 

バスで宿に戻り、そのすぐ横にある梅記に立ち寄る。ここには以前お世話になり、安渓西坪の工場にも2度お邪魔し、泊めて頂いていた。1875年に厦門に店を出した老舗であり、歴史調査でも重要なところの1つである。店長の王さんは若いが歴史に興味があり、今日も西坪出身の茶商の話をしてくれ、参考になった。

 

夕飯は近所の鴨肉屋でご馳走になったが、そこの燻製鴨肉は実に味が良かった。更にはかなりあっさりした鴨肉麺を食べながら、叉焼などを頬張ると幸せになれる。こういう食事が簡単に出来るのは実にありがたい。