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大分茶旅2021(4)木浦から竹田へ

Tさんから聞いた話の中に、吉四六さんが出てきた。確か大分焼酎の名前として聞いているが、九州ではとんちの一休さん並みに有名な人らしい。彼が茶にも関係あるかもしれないというので、普現寺という寺にその墓を探しに行く。寺は鎌倉中期創建とあり、非常に落ち着いた山間のいい景色が見られた。吉四六さんの墓は外にあったが、吉四六とは代々受け継がれた庄屋、廣田吉右衛門のことで、一人を指すのではないらしい。

ランチは街道沿いの食堂に入る。とり天が食べたいと思っていたが、チキン南蛮や唐揚げも頼み、皆でシェアした。昼からどう見ても食べ過ぎの旅になっている。鳥の天ぷらが意外と美味しいことに気が付く。東京ではなぜあまり見かけないのだろうか。

午後は木浦を目指す。途中の看板に『ととろ』という文字が出てくる。私は見たことはないが、ジブリアニメ『となりのトトロ』のバス停があった。ここは撮影スポットらしく、カフェまであったが、平日でお客はいない。とにかくかなりの山の中へ入っていく。そこから1時間ほどで何とか木浦に着いた。

今回大分に来たメインはここだった。1875年政府の要請で紅茶伝習所が開かれたのが、熊本の山鹿とここ木浦だったのだ。この伝習所は翌年人吉でも開かれたが、残念ながら成果が上げられなかった。その後はインド風製法で再度伝習が行われているが、それも明治でほぼ消えてしまった。国産紅茶の歴史は失敗が多く、残念ながら地元でもほぼ知られていない。現在『木浦』で検索すると、韓国の『モッポ』が出てきてしまい、国内での木浦の知名度は高くない。

Oさんが事前調査してくれ、伝習所の場所は郵便局の裏とのことだった。土産物などを売る町の施設が隣にあり、聞いてみると、その横だった。ただそこは川沿いの空き地で草が生えているだけ。郷土史家が作った本によれば、確かにここが伝習所となってはいたが、そこに『インド風』の文字が見られたので、最初の場所ではなく、数年後の伝習所だった可能性もある。

戦後共同工場が出来るなど、一時は茶業が盛り上がった時期もあったが、現在は茶農家が2-3軒あるだけらしい。その中で、『宇目紅茶』というブランドで、紅茶作りをしている人もいい、小さな茶畑は川沿いに見えたが、残念ながら会うことはできなかった。街の人に聞いてみると『木浦は鉱山で栄えた町。恐らく明治初期は鉱脈を掘りつくし、他業への転換が必要だったのではないか。結局その後三菱が鉱山経営に乗り出し、イギリス人も招かれ、近くには洋館もある』とのことだったが、茶については首を傾げた。

そこから山道を抜けて竹田市を目指した。途中に神楽の里という道の駅を通ったので、何か食べるものはあるかと物色するも、店はほぼ閉まっていた。仕方なく2時間かけて竹田市に着く。予約した宿へ行ったが人影はない。かなり大きな宿だが、今日泊まるのは我々4人だけらしい。自慢の大浴場も閉まっていた。部屋は狭く、居心地が良いとは言えなかった。

宿から歩いて5分ぐらいのところに食堂があるというので出掛けた。この宿の付近は街の郊外にあり、食べるところがちょっと心配だったが、それは杞憂に終わる。唐揚げで有名な店の支店があり、昼に続き唐揚げ、チキン南蛮、そして鳥スープと鶏肉のオンパレード、鶏肉好きとしては大満足。1日でどれだけ鶏肉を食べたのだろうか。店の個室に入り、お茶談義に花が咲く。

木浦の繋がりで言う竹田とは、授産事業で紅茶会社が出来たとか、明治中期に開かれた木浦の伝習所に派遣された教師が竹田の人だったとかいう、断片的な情報だけだった。現在茶業関係のものを見付けることはかなり難しい。

4月9日(金)田能村竹田と広瀬武夫

朝早く起きた。今日は朝食も出ないが、まだ腹が一杯なので、散歩に出た。取り敢えず駅の方に向かって歩く。川に朝日が昇っていくのがよい。豊後竹田駅の後ろは崖になっており、水が落ちている。明治期に建てられたという妙見寺の山門が実に見事だった。駅舎の中には滝廉太郎の像がある。滝廉太郎はこの地で一時期を過ごし、そしてあの荒城の月を作曲した。今回はその舞台、岡城は横を通っただけになった。

駅前には田能村竹田の小さな像が建っている。竹田市に来た理由、それは江戸期の煎茶文化に大きく関わった竹田の故郷を見たかったからだ。駅前から続く通りには、竹田の南画がいくつも表示されていた。取り敢えず一度宿に戻る。Oさんは少し遅れるとの連絡があり、後の二人は既に宿を出てどこかへ行ったという。

大分茶旅2021(3)杵築から野津へ

その辺を歩いていると、和田豊治の看板がある。朝吹英二や中上川彦次郎らについで留学し、富士紡績を立て直した人。中津には福沢人脈があり、明治期の日本を支えた人物を多数輩出している。その福沢の旧宅も残されており、記念館もある。諭吉の母、順を主人公にした朝ドラ政策を嘆願する動きもあるという。記念館の展示も立派で、その家系と人脈の凄さはもっと勉強すべきだと思った。

宿に帰って一休み。それでも昼ご飯を抜いていたので、腹が減り、近所の食堂へ。生姜焼き定食600円、安い。満足。旅をしているとどうしてもご当地名物を食べようとするが、私は旅が日常なのだから、普通に食べたいものを食べるのが良い、という基本を思い出せてくれた。その後近所を散策して、腹ごなしをする。

4月7日(水)中津を歩く2

今日はOさんが迎えに来てくれ、茶産地へ行くことになっていた。だが佐賀から来るので到着は昼頃とのことで、朝ご飯をたくさん食べてから、午前中は引き続き中津を歩くことにした。黒田官兵衛が宇都宮氏をだまし討ちにした際、その家臣を襲って血塗られた元合寺の赤壁、河童の墓がある円応寺、中上川彦次郎生誕地などを歩き回る。

天気が良いと気持ちが良い。最後には江戸時代に本格的な中華料理の解説書を書いた田中信平なる人物まで発見して、ちょっとびっくり。中津というところは実に多彩で面白い。結構暑くなる中、トボトボ歩いて何とか宿に戻る。少し待つとOさんがやってきて、車に乗り込んだ。

先ずは中津市内のお茶屋さんにOさんの知り合いを訪ねた。創業100年を越える丹羽茶舗。看板には宇治茶と書かれ、店舗も由緒ある雰囲気だった。隣には喫茶部と書かれた建物もあり、ラテなどのドリンクテイクアウトにも対応しているが、かなりお店に格式がある。お茶の歴史の話をすると、奥の座敷に売茶翁関連の掛け軸があるというので、早速拝見した。老舗茶荘らしい、中庭も見える。ただ店舗内はかなりおしゃれな雰囲気もあり、そのバランスが良い。

中津から杵築に向かう。本日のメインは杵築紅茶の歴史を学ぶこと。大分の紅茶といえばきつき紅茶であり、きつき紅茶といえばAさんというぐらい、国産紅茶界では有名な方からお話を聞いた。とても気持ちの良い外のテーブルに紅茶と奥さんお手製のお菓子を頂き、とても良い気分でお話を聞く。マスクをしているので花粉症も気にならない。

医者であった奥さんのお祖父さんが戦後朝鮮半島から引き揚げてきて、無医村だったこの地に招かれ、村を豊かにするために奨励したのが、きつき紅茶の始まりだという。だが最終的に1971年の紅茶自由化で紅茶事業は頓挫してしまう。そしてAさんが奥さんと結婚して、この地にやってきて紅茶作りを始めたのは、それから20年以上経っており、実はお祖父さんともほとんど会ったことがなく、紅茶作りを教わったわけでもないらしい。これは意外な歴史だった。それにしてもべにふうきで作られた紅茶、すっきりした透明感があって美味しい。

お祖父さんの像が、元自宅付近に建っていた。やはりこの村に功績があったと讃えられている。茶工場があった場所にも行ってみたが、今やその痕跡はない。どこでも同じような状況なのだが、50年前に紅茶作りに投資した人々はそれなりに損失を出し、借財の清算に追われたようだ。

そこから車で約2時間、本日は佐伯に宿泊する。ここは魚などが美味しいとのことだったが、Oさんは夜、オンラインミーティングがあり、夕飯の時間が少なかったので、目についた中華食堂に入る。地方都市にはよくあることだが、ここも量が多い。というか、料理2品を選んで定食にする形式になっており、料金も高くない。かなり美味しく、コスパは抜群だったが、胃はもたれた。

4月8日(木)臼杵から木浦へ

翌朝はゆっくり起きて、ゆっくり朝ご飯を食べる。出発まで時間があったので、佐伯の街を歩いてみる。ここは海軍の街で、海軍航空隊の基地があった。港の近くに濃霧山という場所があり、基地はそこにあったらしいが、今は公園になっている。港は非常に穏やかな入り江になっている。

本日午前は臼杵野津町の茶農家を訪ねる。2代目のTさんにお話を聞く。こちらは煎茶ブームの頃に茶業を始め、この周辺でも20-25年前はかなりの茶農家があったが、今は減少傾向にあるという。最近は紅茶を作っていると言い、専門家であるOさんと色々な話をしていた。その後茶畑も見学する。北九州からやってきたMさんらが合流した。Mさんはバーテンダーだが、昼間は和紅茶を出すバーをやっている。

大分茶旅2021(2)宇佐八幡から中津城へ

4月6日(火)宇佐神宮へ

朝も早めに起きた。宿の朝食を食べに行ったが、食べている人は殆どいなかった。やはり宿泊客は多くはないようだ。9時に駅前へ行き、観光案内所で情報収集する。だが宇佐八幡付近の様子はよくわからない。先ずは昨日のバスに乗って、宇佐八幡まで向かう。40分乗って910円、地方のバス料金は安くない(大分空港-中津は1550円)。補助金次第か。

このバスにも乗客は二人しかいない。この路線今後も続いていくのだろうか。宇佐八幡の一つ前、八幡の郷というところを過ぎると、何と県立博物館があった。なんだここで降りて、博物館を見た後、歩いて八幡へ行けばよかったと思ったが後の祭り。次で降りて観光案内所へ行く。ここで大体のルート計画を立て、神宮のお参りへ向かう。

宇佐八幡は広大な敷地を持っており、歩くのは大変だった。先ずは外側から攻めてみたが、何しろ記念碑などが多い。最澄が中国へ行く前にここにお参りし、天台宗を開いた後、また参拝したとか、宮本武蔵と関係があるとか、かつて宇佐参宮線で使われたSLなども置かれている。

広い境内に踏み込むと、木々がいい感じで生えており、雰囲気が良い。『仏様と神様が日本で初めて出会った場所』などと書かれており、面白い。きつい階段を上がると、立派な社殿が現れる。参拝者は殆どいないので、静かにお参りする。下宮もあり、大きな池やきれいな庭園もあり、その歴史に豊かさも見える。

更に少し外れた丘を登っていくと、和気清麻呂の碑があった。そうか、ここは奈良時代に起こった宇佐神託事件の場所だったか。「道鏡が皇位に就くべし」との託宣を受けて、朝廷が混乱し、和気清麻呂が派遣される。最終的に道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育において持ち上げられ、このような碑が建立されているのだろうが、史実はちょっと違うようだ。

道鏡は下野の国に流されており、栃木に住んでいたわが父は、道鏡についてかなり詳しく調べていたのを思い出す。だが残念ながら、その資料は既に私の手元には無く、結局何がどうなったという話も、上の空で聞いてしまい、今や記憶の片隅にもない。確か栃木では道鏡顕彰会などが、道鏡は悪くないという説を唱えていた。

観光案内所に戻るために歩いていると、敷地内には宮や寺の跡などもある。『日本書紀には、』のフレーズで始まる説明書きが多い。またきれいな橋が架かっていた。呉橋と呼ばれており、呉の人が架けたという。近くには夏目漱石の句碑などあるが何とも新しい。観光案内所でレンタサイクルを借りる。1日300円。何と電動自転車でちょっと困惑。初めて乗ったが、こんなラクチンなものとは知らなかった。

電動自転車は急坂もあっという間に上ってくれる。その勢いで3㎞先にあった県立博物館まで行った。バスは一日数本しかないのでとても助かる。そして何より天気が良い。博物館で宇佐八幡の歴史やこの地域のことなど、色々と学んだ。本当はもっと居たかったが、中津に戻るバスの時間を考えて、見学を制御した。

自転車を返した。昼ごはんを食べたかったが、バスを優先する。トイレの壁に『双葉山の里』というポスターがあった。あの69連勝の横綱もここの出身だったか。彼は絶頂期が太平洋戦争中で、昭和20年に相撲が再開された瞬間に引退した悲劇の人だったと聞いている。

バス停で待ったが、時刻表から20分遅れてようやくやってきた。それでも運転手は『遅れてすみません』などとは言わない。この路線は昨日空港から乗ったものだが、今日は飛行機でも遅れたのだろうか。やはりこの路線を使う人は殆どなく、中津駅までほぼ独占状態で戻る。

中津を歩く

駅前には福沢諭吉の像が建っていた。駅前から中津市博物館まで歩いて行く。ここで中津の歴史を学ぶ。中津といえば黒田官兵衛だが、その後は細川が入っているのが面白い。立派な中津城の石垣も見られ、説明も受ける。それから中津城に登る。このお城、かなり格好いい。一番上から見ると、市内も、そして海もよく見える。如何にも官兵衛、海に近く情報を取り易かったらしい。関ケ原の合戦の情報もいち早く得て、九州から天下を狙おうとしたとか。

中津の偉人として、解体新書の前野良沢なども登場している。また江戸期の城主、奥平家は、あの長篠、いや設楽原の戦いの際の、長篠城主だったと言い、そのエピソードなども語られている。それから転封を繰り返し、ここに落ち着いたらしい。お城の撮影スポットには、小さな官兵衛像があって、観光客は城をバックに写真を撮る。

大分茶旅2021(1)中津へ

【大分茶旅2021】 2021年4月5日-10日

2021年も暗いスタートとなってしまった。年初に緊急事態宣言が発令され、また旅を止めてしまった。結局2か月半も緊急事態は続き、もはや緊急事態が常態化した。それでもオリンピックをやると言い、聖火リレーの日程のため、緊急事態は解除されたが、ちょうど花見、お彼岸、卒業式などと重なり、コロナ感染者はむしろ増えていった。

昨年12月の会津以来、旅はできていなかった。どうしようかと思っていたが、Oさんよりお誘いがあり、大分から茶旅を再開することになった。これまで九州には何度も来ているが、何と大分には一度も来たことがない、通過したこともない、未知の場所だった。果たして今回は何が見られるのだろうか。

4月5日(月)中津まで

羽田空港に行くのは、いや飛行機に乗るのは昨年の10月以来だった。これまで10年間、あれだけ乗ってきた飛行に乗るのが何となく怖い。憂鬱だ。これはコロナ禍だからだろうか。歳を取ったのだろうか。そろそろ出掛けなければという時間に、なぜかメジャーリーグで大谷のリアル二刀流をやっていて、出るに出られない。しかも家を出る時小雨が降っており、眼鏡も服も軽く濡れた。それがとても嫌だと感じた。

京急線は遅れているとのことだったが、かなり早く出てきたので、慌てる必要はなかった。品川駅でうどんを食べて、ゆっくり羽田に着いた。それでも時間は余る。外は相変わらず小雨が降っている。ANAで大分行をマイレージで予約したが、フライトはソラシドエアーだという。因みになぜかマイレージは通常の6000マイルではなく、僅か3000マイルで乗れた。キャンペーンだというが、いよいよ航空会社も厳しいのだろうか。

機内も乗客は7割ぐらいだろうか。私の隣も空いていて快適だ。昨年と違い、特に煩い感染予防策はなかった。フライトは1時間半、提供されたスープはアゴユズというご当地物だった。話し声もなく、皆静かにしている。大分空港に接近した時、その動きは面白かった。機体は海上を相当ゆっくりと180度旋回してランディングした。

空港を出ると空港バスのカウンターに行く。今日はこれから中津まで行くのだが、検索したところ、バスで途中まで行き、そこから少し歩いてJRの駅へ行き、そこから電車で中津駅へ向かうルートしかなかった。そのバスもすぐ出るのでどうしたらよいかと聞いてみた。答えは簡単で、『中津行バスもある』だった。しかも料金は高くない。これだとチケットを買って、バスを探すと、何と乗客は私一人、しかも中津駅まで2時間掛かるという。しかしもうチケットは買ってしまったし、そのまま乗っていく。

大分空港は海辺の端にあった。そこから山沿い、狭い田畑を通っていく。車もほとんど通っていない。夕日がのどかさを増して見せる。このバスは空港バスと言いながら路線バスでもあり、乗り降りは自由にできるが、1時間乗ってもだれ一人乗ってこない。ようやく母子がベビーカーを持って乗ってきた。だがたった一停留所で降りてしまい、また運転手と二人となる。

豊後高田市街地を通過して、宇佐駅を過ぎる。そして何と宇佐八幡に至る。私はいつか宇佐神宮には行きたいと思っていたが、検索しても鉄道路線、バス路線共に見いだせず、もし行くとすれば歩きしかなかった。ところが今、その神宮が見えている。やはり地方都市の路線については、来てみないと分からない。明日はここに来よう。

それから宇佐市街地、そして中津市街地を通る。国道沿いには牛丼やうどん、ハンバーガーなど多くの全国チェーンが並んでいた。中にはなぜかタイのタイスキMKの文字すら見える。大分名物のから揚げの看板も多い。そんな中、やはり2時間かかって中津駅前に到着した。まだ夕日は沈んでいなかった。

駅の反対側、予約したチェーンホテルにチェックインした。時刻は午後7時、夕飯を食べるところはあるだろうか。唐揚げで検索すると『ぶんごや』というところが有名なようなので、そこまで10分ほど歩いて行ってみたが、何とそこはショップであり、既に今日の営業は終わっていた。

途中にあった店に入るも『うちには唐揚げ定食なんてないよ』と追い出された。仕方なく宿の食堂に戻ると、何と『ぶんごや唐揚げ定食』があった。食べてみたが、唐揚げはかなりあっさりしていた。あとは部屋で休んだが、久しぶりの旅のせいか、いつものようにすぐに寝付くことができず、少し体調が心配になる。

会津から北関東へ2020(4)那須から水戸へ

12月10日(木)那須から水戸へ

翌朝は食堂で立派な朝ご飯を食べた。このホテルはそもそも病院が研修生のために建てたらしいが、それにしても立派だ。きれいで、しかもGoTo対象だから格安で泊まれた。名残惜しかったがチェックアウトして病院まで行き、バスに乗って駅の方へ戻る。天気も悪くなかったので、電車に乗る前に少し近所を散策する。

昨日は大山巌墓所の前まで行った。大山の別荘は大山農場の中に今もあるらしい。現在は那須拓陽高校が管理しているというが、こちらもコロナで見学はできない。取り敢えず高校の前まで行く。この高校、スポーツが強いことで有名。長距離ランナー渋井陽子なども卒業生だ。正門は四脚門といい、古びているがこれも大山ゆかりだという。

大山農場へ行ってみると、敷地はかなり広く、外から見てみると、遠めに建物が見て取れたが、洋館の姿はなかった。当時那須には山形有朋や松方正義などが別荘を建てているが、大山はここで本気で農業をしようとしていたのだろうか。折角なので乃木神社も参拝する。こちらはとても立派な神社で驚く。乃木希典もここに別荘を持ち、土地を開拓している。途中に鉄道跡が見られた。昔は木材運搬などに活躍したらしい。

駅まで戻り、電車に乗り込む。今回はSuica利用可能とのことで安心する。そうだ、黒磯以南は首都圏なのだ。宇都宮まで乗り、上野東京ラインで小山まで行く。ここから水戸線で行こうと思ったが、水戸線なのに水戸まで行かず、友部で乗り換えとか。何故なんだろう。高校生の頃、何度か水戸線に乗ったが、考えたこともなかった。小山駅で駅うどんを掻き込む。

本当に静かな田舎を水戸線は走っていく。1時間ちょっとで友部に着くと、向かいの常磐線に乗って水戸へ行く。水戸へ行くのは1年先輩の結婚式以来だから、32年ぶりぐらいか。駅に着くと横にある宿に荷物を預けて外へ出た。先ずは県立図書館を目指す。ここで茨城の茶業史を調べ、コピーを取る。

それから街歩き。弘道館など徳川慶喜関連の場所を歩く。ただ彼は幼少の頃しか水戸に居なかったので、実はゆかりの場所は多くない。お城の周囲をグルグル回ると水戸藩関連の施設が多く残っているが、殆どがきれいだ。偕楽園などに行きたかったが、夕方になったので明日にして宿に戻り、チェックイン。

それから待ち合わせの水戸京成百貨店に向かう。京成線が通っていない水戸に京成百貨店というのも不思議だが、駅から約1.5㎞、街の中心部にある。しかも水戸で唯一残った百貨店らしい。地方都市には、このような首を傾げる事象が時々見られるが、それにはきっと事情があるのだろう。今や京成百貨店は水戸市民に必要な存在、という声も聞いた。

待ち合わせたのは香港で何度かあったKさん。いつの間にか故郷の水戸に帰っていたので、訪ねてみた。Kさんの実家はここからすぐの場所で料亭をしていたらしい。非常に博識で、教えてもらうことが多い。何と自宅にお邪魔してしまい、奥さんとも初めて会った。実は今晩Kさんがオンライン勉強会に参加予定なので、一緒にそれを聞くこととなった。

その後夕飯もごちそうになってしまい恐縮だった。香港の昔話や歴史の話なども沢山してしまい、ついつい遅くまで居座った。帰りはスマホを使って何とか歩いて帰った。水戸は東京にも近く、家賃なども安いらしく、意外と住みやすいところかもしれない。ちょっと勉強になる。

12月11日(金)急遽東京へ

明日起きようとすると、何だか頭が重い。それ程寒くはないと思っていたが、どうしてか頭が冷えているように感じられる。一度は治ったので、1階へ行き、朝食を食べたが、何と弁当が配られている。それにみそ汁と納豆が付くのは、やはり水戸だからだろうか。とても食べきれずに残す。

今日は偕楽園に行こうと計画していたが、どうも具合がよくない。1時間ぐらいベッドで横になっていると、何とか起き上がれたので、思い切って東京に戻ることにした。偕楽園や博物館は次回にしよう。宿は駅の横なので便利。GoToクーポンを使っていなかったので土産のまんじゅうを買い込むと、すぐに特急に乗り込む。

普通電車なら2時間かかるが、特急なら特急料金はかかるがわずか1時間。体の負担を考えると1550円払って特急しか選択肢はなかった。座席未指定特急料金というよく分からない切符だったが、乗り込むと座席指定されているかどうか表示されているので、それ以外に座ればよいという合理的なもの。自由席車両を探して歩く必要もなく便利だと感じる。電車が動き出し、目をつぶるとアッいう間に1時間が過ぎ、東京駅直前で起きて何とか下車で来た。

会津から北関東へ2020(3)会津から西那須野へ

また城の周囲を回って、山川捨松の家があった場所を探す。ようやくその看板を見つけたのは、もう日が暮れかかる頃だった。山川家はこの街の名家であり、有名人も輩出している割には、その扱いが小さい理由は何だろうか。捨松が仇敵大山巌と結婚したこともあるのだろうか。

その後まんじゅうを買い込む。日本国内を旅すれば、どこでも土産の和菓子が売られているが、これを箱で買って帰っても、もう喜ばれなくなっていた。それならばら売りしているものを買って、宿で食べる方がよいと考えた。今回はあわまんじゅう、というものだった。

結局雨は降らずにその日の活動を終えた。夕飯も出来るだけ地元の名物を食べようと思い検索したところ、なぜか会津カレー焼きそばというのが登場したので、食べてみることにした。簡単に言えば焼きそばにカレーがかかっている物で、焼きそばもカレーもまずくはないのだが、別に別に食べても良いかと思った。それに普通の焼きそばと普通のカレーで1000円も取られるのは、何となくコスパが悪い。

12月9日(水)会津若松3

会津最終日。今朝は天気も良かったので、半日歩いてみた。西軍墳墓なるものがある。ここでの戦いでは、会津人だけではなく政府軍も相当の死傷者を出したことだろう。七日町通りを行くと、斎藤一の墓に出くわす。剣の達人とも言われた斎藤は会津生まれでもないのに、会津戦の後ここに残り、会津人と共に斗南に移り住んでいる。

その後郊外の方まで歩いて行く。蒲生氏郷がキリシタンだったので、その痕跡はないかと思ったが、教会なども見付からない。郊外に僅かにキリシタン塚という碑が建っており、江戸初期この付近で殉教したキリシタンが埋められた場所らしい。すごくいい天気で、空も青く、雲の感じもよい。

那須野へ

会津での活動を終了し、また電車で郡山方面へ戻る。郡山から新幹線に乗らずに在来線で行く。東北本線も今や細切れ。新白河、黒磯で始発に乗り換えていく。途中でSuica使用不可を知ったが、西那須野駅で精算してくださいと言われ、降りて申し出ると『ちゃんと確認して乗って』と言われたので反論しようかとも思ったが、無駄だと知っているので、黙って精算した。

今日は実に久しぶりに旧友Mと会うことになっていたが、少し早かったので、荷物を持ったまま、散策する。向かった場所は大山巌、捨松の墓所。立派な参道があったが、固く扉は閉められており、お参りすることは叶わなかったので、外から拝む。その向かいの道は大山参道という名前で、もみじ並木と書かれていた。

駅に戻り、言われていたバスに乗り込む。ところがほぼ同じ時間に2本バスがあり危うく乗り違えるところだった。バスで15分ぐらい乗ると、そこに病院があり、そこで降りて予約された宿を探す。ここはMの勤務地であり、宿はその横にある。何と大浴場もあり、部屋も広い。しばし寛いでいるとMがやってきた。10年ぶりの再会だろうか。

彼の車で駅方面へ戻る。車を彼の自宅に置き、奥さんに挨拶する。会うのは20年ぶりだろうか。若い頃から知っている人に会うのは何となく気恥ずかしい。お母さんにもご挨拶したが、『ああ、名前は聞いたことがあるね』と言われる。もう40年以上前の知り合いなのに、何とも記憶力が良い。いずれにしてもコロナ禍なので早々に失礼した。

Mに連れられて近所の美味しいイタリアンへ行き、夕食をごちそうになる。Mの行きつけだというが、最近はコロナの影響を受けて、お客は多くない。そもそもM自体が、以前とは全く異なる医療関係に勤めている訳で、コロナの影響はあるはずだ。だがこの時点では『実は栃木の県北はさほどひどくない』ということで少し余裕が感じられた。コロナ患者は多くないのに、レストランが閑古鳥というのはなんともいえない。

Mとは長い付き合いがあるが、最近10年のお互いの状況はあまり報告していないので、話は長くなる。食事を終わっても話は尽きずに、彼はタクシーで私を送ると言って、そのままホテルまでやってきて、部屋でまた話し込んだ。最近はウクレレを始めたと嬉しそうに言う。二人の娘も成人している。彼の人生のディテールを知っているかといえばそうではないが、大枠、いや若い時期の成り立ちを知っているというのは大きい。夜更けになって彼はタクシーで帰っていった。

会津から北関東へ2020(2)会津の多彩な歴史に触れる

そのすぐ近くには、大河ドラマで主人公にもなった直江兼続の屋敷跡もあった。そう、上杉景勝も会津を領地としており、あの関ケ原の戦いでは家康がここに進軍してきて、途中で小山評定となり、関ヶ原へと反転している。会津というのは考えるまでもなく、日本史上では極めて重要な土地なのだ、だから重要な人物が配置されるのだと改めて実感する。

更に歩いて行くと、日新館天文台跡がある。何だか石垣の上に供養塔でも載っている感じで面白い。江戸時代から天文学が教えられていたのだろうか。この付近一帯には、白虎隊士の実家がいくつもあったようで、その表示がある。更には山本覚馬、八重生誕の地という看板も見える。これは大河ドラマによって発掘?された場所なのだろう。やはり動機が生まれないと歴史は掘り起こせない。

ようやく実に見事な外観のお城が見えてきた。150年前、この城を巡って凄惨な戦いが行われたとは思えない見事さだ。城へ入って見る。本丸跡は広場になっている。入場料を払って城を上っていくと、かなり詳しい展示が目に入る。その多くが会津戦争を戦った人々とその後のことであり、大変参考になった。そして城の上から見ると。会津の街がよく分かる。

広場を歩いて行くと、麟閣という名の茶室があった。この茶室のいわれはすごい。千利休切腹後、高弟蒲生氏郷は秀吉に願い出て、利休の子、少庵を会津に引き取り、この茶室を与えたという。権力者に逆らって死を賜った人間の子供を引き取るとはすごいことだと思うが、同時にこれが後の千家の茶道に繋がっていくのだから、面白い。非常に良い天気の夕暮れ。写真がまぶしい。

その後もグルグルと歩き回る。城近くの小さな公園に、柴四郎、五郎兄弟生誕地の看板を発見した。文士の四郎と軍人の五郎、いずれも興味深い会津人であり、今後彼らの足跡を追っていくことになるだろう。特に柴五郎の『ある明治人の記録』がとても気になっている。城の周りには萱野権兵衛や西郷頼母など、会津藩家老の屋敷跡などの看板も立っている。当然のことながら、現物は全て会津戦争で焼けてしまったことだろう。

12月の会津、その日暮れは早い。5時過ぎには腹も減ってきたので、宿近くの食堂に入る。会津の名物がソースかつ丼とは知らなかった。調べると『大正時代から親しまれてきた会津庶民の味。ごはんの上に千切りキャベツを敷き、その上にソースを浸したトンカツをのせます』となっている。この食堂、狭い店内で高校生が食べている。なかなか美味しい。

12月8日(火)会津若松2

朝起きると頭がボーっとしている。昨日よく眠れたからだろうか。宿の朝食はビュッフェスタイルを禁止して、弁当スタイルになっていた。結構おいしい和定食だったので、テンションは上がる。当然ながら宿泊客は多くなく、朝食を食べている人はさらに少ないので、感染対策の厳格な中、ゆったりと頂く。

今日の天気予報は雨。雨の中を歩いて行くのは厳しいと思っていたが、外を見ると降っていなかったので、先ずは降るまで歩いてみることにした。とにかく会津といえば白虎隊、白虎隊といえば飯盛山だから、そこを目指して行く。心地よい寒さで歩きも軽快になる。その名も白虎通りを歩き、階段を上ると誰もいない、白虎隊墳墓に出た。横には婦女子の墓もある。史実は別にして、ここで多くの若者が亡くなったこと、更には会津戦争で多くの婦女子が亡くなったことに言葉もない。白虎隊の生き残り、飯沼貞夫の墓もある。確かにここからは会津の街がよく見えた。

それから山本家の墓所大龍寺、そして愛宕神社の後方の山中に分け入ると、新選組近藤勇の墓、土方歳三の記念碑を見て、更に松平家墓所で歴代藩主の墓を見ると、新選組と会津、戊辰戦争が目の前に飛び出してくるようだ。その後その昔この地を収めていた芦名氏ゆかりの地を訪ね、なぜかそのまま小田山(芦名氏の山城)を上り始めてしまった。ここまで歩くと相当にきついが、なぜか雨は降らない。

その山の頂上まで登るのは大変だったが、会津が一望出来た。山城とはそのような場所なのだろう。冬枯れの木々、中腹にはあの柴四郎五郎など、柴家一族の墓がきれいに並んであった。ここでは墓参も大変だろう。更に下に降りて、善龍寺に西郷頼母の墓を探したが、その墓の小ささにはちょっと驚く。これは人柄なのだろうか。また西郷の母や妻など21人は、城に入らず、自ら命を絶ち、ここに葬られている。

会津から北関東へ2020(1)真冬の会津若松へ

《会津から北関東へ2020》  2020年12月7日-11日

いよいよコロナ再流行が見えてきた。来年夏のオリンピックも本格的に中止の検討に入っているかもしれない。とにかくこの1年、3月にバンコックから逃げ帰って以来、海外に行けないどころか国内さえ、思うような旅はできない。今年最後の旅として、ひっそりと福島へ向かう。実は47都道府県の内、1泊以上の宿泊経験がない県に福島が入っていたのは自分でも意外だった。子供時代を栃木で過ごしたのだが、栃木市は東京を向いており、北は視野に入らなかったのだろう。

12月7日(月)会津若松へ

福島で行ってみたところといえば会津若松だ。茶旅以外の旅で興味があるのは歴史だから一度は行かなければと思っていた。ちょうど時間が空いたので、寒いだろうとは思いながらも、大宮から新幹線に乗った。乗ってちょっと考え事をしていたら、もう郡山に着いてしまった。これだから新幹線は情緒がなく、つまらない。

郡山駅で会津若松行きの在来線に乗り換えようと自動改札に切符を入れると、切符は吸い込まれ、何も出てこない。在来線ホームにそのまま行けた。だがよく考えてみると、これだと切符もなく、Suicaのタッチもしていないので、何となくおかしいと思い、駅員にその旨申し出ると『駄目だよ、切符持っていないのなら、出口を出て買わなきゃ』と怒られてしまった。確かに乗車券は郡山までしか買っていなかった。

しかし自動改札があるのにお客の方が考えなければならないのだろうか。実はこの路線、郡山から会津若松はSuicaが使えるのだが、東北本線の郡山-黒磯間は使えないという変則になっていると後で分かり、それならちゃんと書いて置けよ、と文句を言いたくなる。JRの年配の駅員にも偉そうな人がたまにいるから気を付けないといけない。

乗り換え時間に間があったので、郡山駅を探索する。土産物屋は充実しているようだったが、ちょうど駅そばが目に入る。そういえば朝飯も食べていなかったので、ここで朝昼兼用うどんを頬張ることになる。やはり温かいうどんは何とも有難い。

磐越西線はゆっくりと走っていく。途中に温泉があり、山もきれいに見えた。冬の東北はもっとうらぶれた印象を持っていたが、これは快適だ。隣の座席では、親戚同士が久しぶりに出会ったようで、話に花が咲いている。コロナで人の往来が途絶えたのは、むしろ地方の方だったようだ。

1時間20分ほど乗って、終点会津若松駅に着いた。駅前には白虎隊の像が建っている。取り敢えず観光案内所に立ち寄り、地図を貰うついでに、『山川捨松ゆかりの場所』を尋ねてみたが、皆さん首を振るばかり。え、今度お札になる津田梅子さんと共に明治初期にアメリカに留学した女性、しかも後年大山巌夫人となった女性が地元で殆ど顕彰されていないとは。係員は申し訳なさそうに『捨松さんが会津に居たのは幼少期だけですから』と説明されて、何となく納得して外へ出た。

会津若松1

予約したホテルは駅から数分歩いたところにあった。昔はいいホテルだったのだろうが、ちょっと老朽化が目立つ。結婚式相談所や旅行会社がホテル内にあるのがそれを物語っている。料金が安いのはそれだけの理由だろうか。フロントの対応は門切り型で温かみはなかった。寒さはそれ程でもないが、天気はどんよりとしており、明日は雨との予報もあったので、今日の内に回れるところは回っておこうと宿を飛び出した。

取り敢えず当てもないのでお城の方に歩いて行くと、会津の商店街があった。その裏側に、ひっそりと寺があった。興徳寺、何とここにあの戦国随一の武将とも言われた蒲生氏郷の墓があると書かれている。蒲生氏郷は40歳の若さで京都に死んだ。その時の領地は会津若松であり、あの城も氏郷が築いたという。天才の寿命は短いということか。

そのままずっと歩いて行くと、お城のへりにぶつかった。そこには藩校日新館にゆかりのある人物が書かれた看板があった。その中には山川大蔵、山川健次郎両兄に下に捨松の名前もあるではないか。その横には山本覚馬、新島八重の兄妹の名前もある。こちらは大河ドラマ八重の桜で、名前が売れていた。

そこから少し行くと、山鹿素行誕生の地という看板があった。あの山鹿流陣太鼓、忠臣蔵でもお馴染みだが、その素行が会津出身とは初めて知った。しかも父親は伊勢亀山から会津に移ってきたというから、蒲生家と何か関係があるのかもしれない。記念碑が建っていたが、その字は東郷平八郎だった。

静岡茶旅2020(4)紅茶史を学ぶ

Mさんに金谷駅まで送ってもらって別れた。先ほど急ににわか雨が降ったが、なぜか駅に着くと止んでいた。そしてきれいな虹が出た。今日の旅は成功だったという印だろうか。金谷から浜松へ、そこで乗り換えて豊橋まで行った。1時間半かかった。豊橋駅前の、最近ずっと使っているチェーンホテルを予約していたが、何だかここの対応は良くなかった。

チェーンホテルと言ってもようは担当者個人の問題もあるし、ホテルの設備の問題もある。それは分かっていたのだが、何となく不愉快になったのは、やはり疲れのせいだろうか。1枚だけもらったGoToクーポンを使って、駅ビルの和幸でとんかつを食べた。何だか嫌な予感がする。天気も良くない。

11月20日(金)紅茶史の基礎を学ぶ

朝ご飯を宿で食べる。豊橋のご当地グルメ、カレーうどんとあるが、どうなんだろうか。やはり外は雨で、外出を控える。本日は国産紅茶を学ぶため、T先生とお会いすることになっていたが、急速にコロナ感染者が増加し始めていた。当初はかなりのお時間を頂くつもりだったが、状況に鑑み、モーニングを食べながらの短時間に変更となった。

T先生から『長く話せないのは残念だ』と言って頂き、貴重な資料を沢山頂戴した。そして先日枕崎へ行ったことや、森永紅茶の話などを始めると、やはり膨大な知識をお持ちなので、話は簡単に止まらず、予定時間をオーバーしてお話を聞いてしまった。ただ一番印象に残った言葉が『国産紅茶の歴史は悲しい歴史』だったことは、なぜこの歴史が語られずに埋もれているのかを一言で言い表していた。もしコロナがなかったら、半日ぐらいT先生を引き留めて話を聞いてしまったであろう、と思うほど、刺激的な時間だった。果たして次回はいつお話が聞けるだろうか。

外へ出ると雨は上がっていたので、今回初めてきた豊橋の街を歩いてみることにした。先ずはJRで一駅乗って二川宿へ行ってみる。線路に沿って東海道があり、古い町並みが少し見られる。15分ぐらい歩くと本陣資料館があったので見学すればよかったのだが、そこをスルーして、落ち着いた街をフラフラして、そのまま豊橋駅に電車で戻った。

駅から何となく這い出す。商店街に安いかつ丼屋があり、腹ごしらえをしてから歩く。少し行くと老舗のかまぼこ屋が見える。この辺は東海道の吉田宿だったらしい。更に行くと昭和初期の立派な建物、豊橋公会堂がある。その向こうには豊橋ハリスト教会がそびえたっている。その隣は旧吉田城跡。公園になっており、散歩するにはちょうど良い。

天気がとてもよくなってきている。だが既に色々と疲れてしまっていた。早めに宿に帰り休む。夕方ちょっと外へ出て、ラーメンを食べて、またすぐに宿へ帰って寝た。やはり体力の衰えは深刻だと案じる。

11月21日(土)レジェンドに会って

今回の旅の最終日を迎えた。豊橋滞在が何となく不完全燃焼だったので、今日こそは、と意気込む。豊橋から袋井までJRで戻り、そこからバスに乗って浅羽支所を目指す。今回は久しぶりにM先生をお訪ねして、胸にあるいくつもの疑問を払拭しようという目論見だった。だが昨日のT先生より年齢が上のM先生は果たして来られるのだろうか。

それは杞憂に終わる。3階に上がると先生はちゃんと来られていて、30分ばかりお話しできた。紅茶の歴史など、モヤモヤしていたものの一部が何となく晴れていくのがうれしい。文献に書かれていなくても、足で稼いだ豊富な経験を持つM先生の一言一言が心に刺さる感じがする。もっと伺いたかったが、万が一のことがあってならないと、大変残念だがお暇する。先生のコレクションも見ずに立ち去った。本当にコロナは困ったものだ。

ちょうどバスが行ってしまった。仕方なく周囲を散策すると、茶畑が見え、神社があり、城跡まであった。30分はあっという間に過ぎて、バスに乗って駅に向かった。だがまだ時間は早い。そして天気がとても良い。荷物は駅のコインロッカーに入れてある。今回は袋井宿付近も散策してみようという気になり、駅より一つ前のバス停で降りて、歩き出す。東海道袋井宿は駅の反対側にあり、ふらふら歩いてみたが、特段見るべきものはなかった。

袋井駅まで戻り、東海道線に揺られて、東へ向かった。疲れていたので、どこかで新幹線に乗って帰ろうと思っていたが、この揺れ心地が何ともよく、少し寝入る。結局小田原まで在来線を乗り継ぎ、小田急に乗って帰宅した。さすがにコロナがうるさくなり、乗客も少なく、ゆっくり読書が出来、考え事も出来た。

静岡茶旅2020(3)中村圓一郎を訪ねて

現在日東紅茶の歴史について書いているので、三井農林さんの大工場を外から眺めた。紹介してくれるという方もいたのだが、今回はコロナ禍なので敢えて中に入ることはせず、遠めに写真に収めた。詳しく調べていけば、相当興味深い紅茶史が出てくるのだろうが、先月枕崎を訪問して少し満足してしまったところもある。

旧藤枝製茶貿易商館(通称とんがり屋根)にも行ってみた。明治35年(1902年)に建設されたというこの建物は、静岡の近代茶業の幕開けを象徴する洋風建築。この可愛らしい建物、現在は使われていないのだろうかと思っていたら、藤枝市に寄贈される予定で、蓮華寺池公園内に移設し、茶文化を発信する観光拠点として整備する方針だという。

最後に以前お世話になった方を訪ねた。とても美味しい料理を出すお店だが、現在は一日数組しかお客を取らず、しかも年内でお店自体を辞めてしまう予定だと聞いた。本当に残念ではあるが、このコロナ禍、お客さんを受けたくてもままならず、疲れてしまったのだという。ゆっくり休んでいただきたい。そしてまたいつか再開してくれたら、と思う。

夕方暗くなった頃、島田の宿まで送ってもらった。そして夜はお知り合いのIさんたちと、お寿司屋さんで会食した。茶の歴史などについてSさんに色々と教えてもらい、勉強になる。皆さん、夜の会食は久しぶりだと言っていた。ここではGoToクーポンが使えたが、店の外には一斉表示しておらず、店に入らないと使えるかどうかわからないようにしていた。どう見ても使ってほしくない様子が窺われた。お寿司屋さんは仕入れを現金で行っているのだろうか。お客が来てもクーポンだと現金化が遅れ、店の経営に影響があるのかもしれない。

11月19日(木)中村圓一郎を探して

翌朝も天気が良かった。宿で待っていると、川根のMさんが迎えに来てくれた。今日は戦前静岡の、いや日本の大茶商、中村圓一郎の歴史を訪ねる旅をすることになっていた。先ずは榛原郡吉田町に向かう。中村家は明治以前から醤油屋であり、その後製茶業にも参入したという。だが戦時中圓一郎が亡くなると、茶業からは手を引き、戦後は醬油屋だけが存続していた。

中村醤油に突撃したが、社員の女性は『昔のお茶のことはよく分かりません』とそっけなく言う。後ろから男性が出てきて、資料と言ってもこれしか、と言いながら会社のパンフをくれた。そこには圓一郎についても触れられているが、茶業についての詳しい情報はなかった。『あとは社長に聞くしかない』と言われたが、あいにく外出中で会うことは叶わなかった。まあ、突然訪問したのだから仕方がない。それでも醤油屋さんに辿り着いただけでもかなりの前進だ。

続いてMさんの家のある川根方面へ向かう。何となく途中までは、昨日通ったような気がする。藤枝の大茶樹へ行くのもこの道だったのか。そして大井川鉄道千頭駅付近までやってきた。駅の近くに中村圓一郎像が建っていたが、そこは分かり難い場所で、訪ねる人も少なそうだった。圓一郎は醤油や茶だけではなく、この大井川鉄道の初代社長も務めていたのだ。

更に近くの水力発電所もあるという。日英水電、イギリスの技術で発電を起こしたものだが、これらにも圓一郎は関与している。Mさんに案内されて、その遺構を見に行ったが、トンネルを掘り、水の落差を利用して発電が行われたようだ。そしてこの電力の一部は川根あたりの茶業にも利用されたというから、その貢献度は高い。今や忘れ去られている感のある中村圓一郎。その貢献を考えればもう少し顕彰されるべき人物ではないか。

それからお弁当を買い、山の上の方まで登っていく。見晴らしの良い場所でお昼を食べた。さすがお茶農家、Mさんはお茶入れ道具一式を持ち込み、ここでお茶を淹れてくれた。こういう環境で飲むお茶はまた格別だった。紅葉はちらほら見られたが、観光客はほぼいなかった。

それから川根を降りていく。途中森の中に突然モダンな建物が登場して驚いた。何とここは茶工場だという。美術館かと思うような建物がなぜ森の中に。そしてそれが茶工場とはどういうことか。更には新しく茶工場を作るということは、作った茶が売れる見込みがあるということだろうが、一体どんなお茶を作り、どこに売るというのだろうか。どうやら海外輸出か?

最後に金谷の方に降りた場所に、ここも最近できた商業施設、KADODE OOIGAWAがあり、見学する。緑茶・農業・観光の体験型フードパークと書かれている。かなり大きな施設であり、大井川鉄道の駅にも隣接している。お客さんも入っており、単なるお茶の販売だけでなく、お茶の体験コーナーなどもある。更に魚などお茶以外の売り物も多く、地元民が楽しめるようになっていた。