上海・江蘇美食旅2025(2)懐かしの外灘を歩く

5月9日(金)呉覚農を調べる

目覚めると雨は降っていない。窓からはオールド上海が見える。何となくいい気分で迎える朝。ただ宿に付いている朝ご飯を食べに行ったが、特に上海らしいものはなく、お粥などで軽く済ませる。この宿のお客は華人などが多そうだ。今日は天気が良いので、すぐに外へ出る。南京東路をブラブラしてみると、当たり前だが歴史的建造物のオンパレードだ。私が上海留学中の38年前に見たくすんだ建物が、今は輝いている。

外灘まで歩いてきた。懐かしい和平飯店が見える。中に入ってみるとかなりきれいになっているが、ジャズバーは朝食を提供している。博物館があるようだったが10時からというので後にした。聞けば今も上海料理が8階にあるという。ここで38年前に人生初、しかも偉い人の通訳を経験した。「プラタナス」という木の中国語名が言えなくて恥ずかしかった。勿論食べ物の味など何も覚えてはいない。因みに我々がいつも食べていたのは南楼1階のレストランだった。

その横には中国銀行上海支店が今もある。東京からの送金を受け取りによく来た。あの頃銀行内では現金を投げており、自分のお金が無事に窓口まで到着するか気が気ではなかった。また白人優先、黒人蔑視もここで学んだ一つだった。お金を下ろして外へ出ると、ウイグル人が「チェンジマネー」と言って近づいてきたのも忘れられない。兌換券(FEC)は当時人民元の1.5倍で取引されていたから、兌換券しか持たない我々は常に優遇されていた。

今日外灘に来たのは、「宝順洋行」のあったと言われている場所を確認するためだった。ある資料に外灘14₋15号とあったのでそこへ行ってみると、100年ほど前の建物が建っており、そこには説明書きもあったが、残念ながら1870年頃に倒産した宝順については触れていなかった。

15号は1900₋02年に建造されたとあり、銀行が入っていたらしい。今は外貨交易センターになっている。この辺のバス停を見ると、55番とある。留学時代は大学から都会へ出る唯一の交通手段だったので、38年経ってもこの番号は忘れない。14号はかなり新しく、1948₋49年に建てられた。元は交通銀行だったが、上海市総工会になっている。いずれにしても宝順は往時かなりの規模だったことだけは分かる。因みに27号にはジャーディンがあった場所と紹介されている。

北に向かって歩いて行くと英国総領事館跡の広い庭が見え、その先に外白渡橋、その向こうには古ぼけた上海大廈が見えてきた。1907年に作られた外白渡橋といえば、戦前「犬と中国人は入るべからず」の看板が立っていたと言われる租界の名所。さすがに今それは無いが、何となくここに来ると緊張する。上海大廈は周囲がどんどんきれいになっているのに、ボロボロのままなのが何となく愛おしい。上海大廈には淮揚料理で有名な店があったが、今も存在はしているらしい(ドアボーイは自分の勤めているホテルに何料理があるのか知らなかった)。

上海大廈の横のビルに入っていく。今日はお茶の専門家である王さんを訪ねた。復旦大学修士卒の王さんとは同窓という関係で東京で親しくなったが、会うのは何と9年ぶりだ。しかしビルの警備員のおじさんが「不動産屋の王さん」と呼んだのでちょっと驚いた。コロナも経て、人には色々と変化がある。

ただ我々二人が会えば、話はほぼお茶になる。色々と聞きたいことが溜まっていたので、上海の茶貿易や台湾に渡った人々、更には王さんのお父様のことなど、あっという間に2時間ほどが過ぎてしまった。ランチはデリバリーを利用してワンタンをご馳走になる。ワンタンもスープが美味いと更に引き立つ。これも美味しい上海料理だ。最後は午後に予定のアレンジまでしてもらい、別れる。

上海・江蘇美食旅2025(1)雨の中いきなり老舗レストランと出会う

《上海・江蘇美食旅2025》  2025年5月8-14日

3月の広東旅、結局茶旅になってしまったが、美食も堪能できた。今回は8年も行っていなかった上海とその周辺を散策してみたい。上海留学以来38年ぶりの揚州、鎮江はどうなっているのだろうか。興味津々。

5月8日(木)8年ぶりの上海へ

上海行なら普通は羽田‐虹橋を選ぶだろうが、今回は敢えて成田‐浦東にしてみた。成田への行き方も3月とは変えてみた。何でも変化してみないと分からないことがある。成田のエアチャイナのチェックインは2時間半前からで到着が早過ぎた。荷物は3つ持っていたが、何も言われなかったので預けずにそのまま搭乗した。因みに空港自体はかなり空いていたが、その中で中国語が響いていた。

この便、意外なほど乗客が乗っている。日本人はほぼいないので、日本語が出来るCAがわざわざ接客してくれた。機内食はいつもの通りだったが、ハーゲンダッツのアイスを食べながら機内誌を読むと、中国人プロゴルファー、セキユウティンの広告が載っている。蘇州の碧螺春茶の記事もある。そんなものを眺めていると3時間で上海に着いた。雨が降っていた。

浦東空港は大きかったが意外なほどスムーズに入国審査に進み、気が付くと入国していた。係員がなぜか「中国語できるか?」「観光なのか?」と聞いてきたが、特に問題はなかった。そこから地下鉄2号線の乗り場まではかなり遠かったが、切符は広東同様現金で簡単に買えた。車両はキレイで乗客は少ない。

最初は田園地帯、少しずつ住宅が増えて行き、浦東に近づくと駅間隔が狭くなり、乗客がどんどん乗ってくる。それでも退勤前の時間なのでラッシュではない。約1時間で南京東路駅まで辿り着く。外はかなりの雨が降っており、傘を差しても濡れた。まあ駅近の宿を予約したので安心していたが、その場所に辿り着いても宿が無い。いやそこには「南京飯店」という別の名前が掲げられている。探しまくった挙句、そこの係員に聞いてみると予約があるというので驚く。ネット予約名取りあるホテルネームは是非一致させてほしい。

部屋はかなりクラシカル。建物も90年以上前のものらしい。それなりの料金なので、それなりの作りとなっており、特に外が見えるのが有難い。この付近には高層ビルは建てられないので、昔の上海の屋根が窓の隙間から見える。雨の中、夕飯を探して外へ出た。少し行くと雨が強まり、風も強くて吹き込まれ、コンビニに逃げ込んでドリンクを買う。

雨に降られて仕方なく宿まで戻ると、正面に中国老字号というレストランがある。こういう古いお店が私にはよかったが、一般中国人の評価は高くない。徳興館、1878年創業とある。伝統的な麺はと聞くと、三鮮麺を指す。小籠包と生煎包で生煎包を選ぶ。生煎包33元は4個皿に載って来た。大きめだが何となくぼんやりした味わい。汁はすぐに外へ出てしまう。

三鮮麺は醤油味のスープ。椀はかなり大きく、スープは飲みきれない量だ。麺はあのふにゃふにゃ麺。だから私は上海で麺を食べないのだ、と気づく緩さ。揚げ魚、タウナギ、鶏肉の塊が載っている。いや沈んでいるものもある。脂身は豚だろうか。まあ35元ならこんなものだろう。部屋に戻って料理の歴史の本を見てみると何と徳興館の名前が載っているので驚いた。それほどの老舗とは思えなかったが、何気なく残っているのが実に良い。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(10)深圳 懐かしのレストランを見付ける

深圳駅の前を通りかかると、実に懐かしい店の名前を見付けた。20年ほど前は深圳に来ると通っていた高級店。だが当時はそれを高いとは思わず、旨いとだけ思っていた。コロナ中に入居していたホテルが無くなり、もう食べられないと思っていたら、なんとこんなところに移転していたので、思わず入ってしまった。

店内はかなりきれいで昔の雰囲気を残している。マネージャーらしき人は20年前と同じではないだろうか。ここは香港人の年配者が常連という顔をして食事をしており、広東語が普通に使われていた。一人で食べられる量は決まっているのだが、ちょうど目に留まったセットメニューを頼んでしまった。鶏肉と魚香茄子、どちらも極めてうまい。ああ、懐かしい。料金は20年前の2倍ぐらい(円換算では4倍?)だろうか。それでも満足して引き揚げた。

3月22日(土)東京へ帰る

ついに東京へ戻る日が来た。もうやりたいことはない。早めに宿をチェックアウトしたが、チェックインはあんなにうるさかったのに、アウトはノーチェックだった。ふと気づくと微信には即座にあのデポジットが戻ってきていた。さすが中国、この辺のスピードは極めて速い。だがデポ要請には未だに納得はしていない。

地下鉄駅へ降りていき、乗り込む。始発なので座れたが、意外と乗客は多い。途中の車公廟駅で乗り換えがあり、乗客はさらに増えており立っていく。空港へ向かう人々は一様に大きなスーツケースを抱えている。満員電車に揺られながら思い出したのは、この路線、追加料金を払えば座っていけるサービスがあったはずだと。でももう後の祭り。

何とか合計1時間ほどで深圳宝安空港に到着した。かなり広いが古びた空港、10年前と大きくは変わっていない。ただ国際線の便数は非常に少なく、ほぼ国内線で占められているように見える。国際線のチェックインカウンターでパスポートを出したら係員が英語の出来る人を呼んできたので、ちょっと驚いた。乗客もほぼ中国人なのであろうか。

出国審査場も当然人は多くなく、予想よりかなり早く出国してしまった。今日は何も食べていなかったので、ラウンジに行ったが午前10時台は食事もない。と思っていたらスタッフが「麵はあるよ」と教えてくれ、最後に牛腩麺を食べられたのは良かった。成田行きの前に大阪行きがあるようで、IT関連の出張者や工場長といった感じの日本人男性の姿は数名あったが、そもそも外国人は本当に少ない。

午後1時出発の便なのでのんびりと12時過ぎに搭乗口に向かったら、何と既に搭乗が始まっていた。バスに乗り込むと何と10分以上かけて飛行機の駐機場まで行く。地元の深圳航空なのに、国際線が如何にマイナー路線であるかを思い知る。この空港もアジアのハブを目指したのかもしれないが、やはり香港には敵わないということかもしれない。

深圳航空は中国国際航空の傘下ということで、基本的にサービスは同じような感じだった。食事の味も普通で、映画などは見られないが、特に可もなく不可もなく、かな。でもやはり英語が出来るCAは少ない?4時間ほどのフライトで成田空港まで帰って来た。マカオより1時間近く短いのは何とも有難い。

成田から電車に乗り、京成八幡で降りた。時刻は午後8時過ぎ、マカオへ行った日と同じように、ここの日高屋に入り、タンメンと半チャーハンを食べた。広東省であんなに中国料理を食べたのに、との声も心の中で響いていたが、「日本の中華料理は立派な日本料理」だと実感しながら完食し、旅は終了となった。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(9)深圳茶葉世界をちょっと覗く

いつもなら1周して各店の様子などを伺うのだが、今回は最初から李さんの店を目指していき、店が開いていることを確認してホッとする。もうすぐ25年の付き合いになる李さん、あんまり変わらないので驚く。今回は単叢を購入するという仕事があり、どれがいいか選んでもらう。

李さんの実家も鳳凰鎮にあることは知っていたが、今回訪ねて地理が分かっており、理解が深まった。先日会った林一族はやはりあの鎮の有力者だった。李さんの旦那が戻ってきてまた色々と話す。私は潮州料理が好きだというと、湖南料理もいいぞ、という。彼は湖南出身なのだ。因みに深圳にも潮州料理はあるが、美味しい所はあまりないともいう。

なんだが急に腹が減って、引き留める李さん夫婦に別れを告げて外へ出た。だが何を食べたらいいのか分からない。これまで順徳・広州・潮州では、地元の名物を探していたが、深圳名物には残念ながら、全く思いつかない。目の前に牛肉麺の店があったので、まるで名物の呪縛から解き放たれたように、入ってしまった。シンプルな牛肉刀削麺、とっても美味しく感じられる。これからは自らの赴くままに食べて行こう。部屋に戻ってバスタブに浸かり、疲れを癒す。

3月21日(金)深圳散歩

何だかかなり疲れてしまい、元気が出ない。朝食は付いていないので外へ出て何か食べようと思ったが、どうも食欲がない。やはり中国で10日以上の旅は体に堪えるらしい。宿の近くを歩いていると銀行があった。何となく眺めると「広東語、香港人専用」などの文字が見えた。

25年前にここに通い始めた頃は、香港人と香港ドルは歓迎されていたが、その後中国の勢いが増し、香港がどんどん小さくなっていった。またその関係に変化があるのだろうか。そういえば「最近香港の物価が高いので、香港人が週末深圳に大挙して買い物に来る」との話が出ていた。この地域にはある種のバロメーター機能がある。

ATMで人民元を下ろしてみようかと眺めていると係員が「ATMより窓口の方が早いですよ」という。その昔では考えられない言葉だが、今や銀行に来る中国人は本当に少ないと感じる。言われるままに窓口へ行ったら、何と「この銀聯カード、期限が切れています」というではないか。その対処法はと聞くと「カード無し口座にすればよい」だったので、更に驚く。海外でも使うのでカードがいると食い下がると、何とか新しいカードを発行してもらえ、現金も手元に入った。それにしても銀聯カードに期限があったとは。

気を取り直して近所で朝ご飯を探した。飲茶したいなと思ったが、どうも適当なところが無く、次の駅まで歩いてきてしまい、結局地下鉄に乗って深圳博物館まで行ってしまった。ここも初めて来る場所だったが、実に立派で驚く。展示室もかなり充実しており、見ごたえはあった。ただ深圳の歴史、どこまでの規模だったのだろうか。改革開放前はほんの小さな村だったと香港では何度も聞いていたが、本当のところはどうなんだろうか。

地下鉄駅まで戻ったが、もうどうにも腹が減って動けない。地下鉄駅直結の食堂街に迷い込み、香港在住時大好きだった鹽焗雞を食べることにした。この料理は客家の物と聞いているが、本当はどうなんだろうか、と最近はなんにでも疑いの目を向けてしまうのは良くない。まあとにかく腹が減っているので、何を食べても美味しい。ちょっとしょっぱいのはいつものことだ。

宿まで帰ってきたが、疲労はピークに達しており、午後は完全休息となってしまった。まあ仕方がない、よく頑張ったと言っておこう。夕方羅湖口岸前のビルへ入ってみた。その昔はブランドバッグや時計のコピー商品販売所、といった感じだったが、今やきれいな店が並んでおり、雑多な感じはあまりない。香港人も最後にここに寄って夕飯のおかずを買っているのが面白い。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(8)潮州から深圳へ

3月20日(木)潮州から深圳へ

今日は深圳へ向かうことにしていた。朝は潮州最後のご飯を探しに外へ出た。フラフラしていると、笑顔でこちらを見ているおじさんがいた。何と一昨日鳳凰鎮から潮州まで送ってくれた運転手だった。何と奇遇なことだろう。これも何かの縁、と彼に潮汕駅まで送ってもらうことになった。そして彼が指した方向へ歩いて行く。

その辺にはいくつかの食堂があった。海鮮粥でも食べようかと思ったが、鍋で煮る粥はとても一人で食べ切れないと言われてしまった。更に行くと尖米圓と書かれた看板が見えた。なんだろうと思いながら思いついたのはバンコクで見るクイジャップ。文字からするとそのようであり、実際に来た麺を見てもそのように見えた。だがタイ料理に詳しい人によれば、「これはタイではギアムイー。潮州語の尖丸(チアムインぐらいの音?)の転訛で、クワイジャップ(粿汁)はもっとくるくるしている」とのこと。取り敢えず潮州由来のタイ料理を1つ見付けた。

荷物を纏めてロビーに降りると運転手がやって来た。駅まで40分、色々な話をして過ごした。潮州の良い所も出てきたが、息子2人は広州の大学生でお金がかること、なども出た。コロナ中は大変だったことだろう。数年後に軌道車が開通すると、またかなり景色も変わり、彼の仕事も変わっていくだろうか。

駅に到着するとかなり暖かかった。来た時とは大違いだ。私は深圳へ行くのだが、予約した列車は何と香港西九龍駅まで行くらしい。本当に便利になったものだ。以前深圳北駅まで行ったことがあるので、今回は敢えて香港との境、福田駅まで行くことにした。途中の景色は田んぼや畑、また山々が見えていたが、深圳に近づくにつれてビルが並び始めた。今回本当は恵州でも泊まろうかと考えていたが、次回に回した。

多くの乗客が深圳北駅で降り、車両はスカスカになった。福田駅で降りた方が羅湖などに近いと思ったのだが、ここで20分以上停車しており、福田駅で降りた後も、地下鉄駅までが遠く、北駅下車が正解だと分かったが後の祭り。まあ初めての福田駅が見られただけでも良かったか。いっそのこと、香港まで行きたかったな。福田で降りる乗客は少なかった。

羅湖行き地下鉄を探して乗り込む。終点で地上に上がると、そこには何となく安心感がある風景が見える。しかも今日予約したのは、その昔の憧れホテル。期待感満載でロビーに行ったのだが、チェックインが面倒くさい。そして何とデポジットとして、宿泊費の2倍を請求される。だが私はTrip.comで予約する時、既に1泊分のデポを払っている。フロントの男性は英語を話すが実に偉そうな態度だ。

一体どうなっているんだ。だがいくら言ってもらちが明かず、結局2泊するのに約5泊分のデポを微信で収めた。掃除のおばさんはとても愛想がよかったが、部屋は何とも古い。しかも機能性が本当にない。コンセントは少なく不便。お湯を沸かす場所もなく、何と床にポットを置いて掃除機用コンセントで凌ぐ。こんな状態だから、中国人ビジネスマンは泊まるはずもなく、泊まっている人を見るとイベント系か、東南アジア華人の団体が多いように見られた。

取り敢えず深圳に立ち寄った目的である、茶葉世界を訪ねる。ここは2001年以降、私のお茶勉強の場であり、中国茶に一番触れた場所である。そして今も尚付き合いのあるお茶屋さんがある。宿からは歩いて3分という近さ。エスカレーターで2階へ上がると懐かしい風景が広がるが、2年前に来た時同様、ほぼお客らしき人はいない。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(7)潮府工夫茶文化博物館で

そこから湖を半周し、更に歩いて行くと、何となく昔の街の雰囲気が出てきた。取り敢えず潮州に来たのだから、三山国王宮へお参りに行く。宮は改修されていてかなり新しい。だが周囲には大きな木があり、古い家もあった。かなりいい雰囲気であったが、観光客などは全くいない。

そこから川へ出て歩いて行く。今日は天気も良く、気温も上昇していて暖かい。川はかなり大きく、その昔はこの川が重要な交通の中心だっただろうと思われる。天気に誘われて地元の老人たちが散歩している。私はまた旧市街地に足を踏み入れた。古い家々、路地をずっと歩いて行くと、潮府工夫茶文化博物館に出会った。

何となく中に入ると入場料がいるという。10元を払うと、年配の女性が色々と展示の説明をしてくれた。「日本の煎茶道との関係を知りたい」と言ってみると、それは館長の書いた本に書かれているというのでその本を購入した。すると女性が「ちょうど館長がいるので会ってもいいと言っている」というので、話を聞いてみた。

館長は如何にも文化人といういでたちで、優雅にお茶を淹れてくれた。その歴史などもかなり調べているようだった。勿論煎茶道もしており、恐らくは明代に中国にあった煎茶道?が日本に伝わったでは、という。この視点は私にはなかったので参考になる。彼は2冊目の本を執筆中で、その中でこの疑問にも触れると言っていたので、期待したい。

腹が減った。博物館から少し歩くと観光客が沢山いるエリアに出た。勿論食べ物屋も沢山あるのだが、私はどうしても鳳凰山の豆腐が食べたかったので探してみる。何とか見つけたその小さな店の店先に揚げた豆腐が置かれていた。食べたいというと、もう一度揚げ直して出してくれる。何となく臭豆腐の匂い無し版かなと思う。

フラフラしていると開元寺に出た。この寺の名前はその昔泉州で見た。そこは孫悟空関連場所と書かれていた記憶があるが、ここにも所縁があるのだろうか。とにかくこの付近だけやたらと観光客がいる。かなり広い境内を散策後、土産物屋などがある一角を抜けていく。潮州に来た観光客は誰でもここに来る、という感じだったので脱出を図る。

車を呼んで潮州博物館に向かう。運転手が「あんたはエライな」というので驚いていると「潮州には長い歴史があり、多くの伝統文化があるが、普通の観光客はどこへ行っても買い物に浮かれ、美食に酔うだけ。博物館へ行こうなどという客を乗せることなど滅多にないんだ」と嘆く。

博物館はご多分に漏れずきれいだったが、確かに見学者は少なかった。そして運転手の言う通り、かなり長い歴史が展示されている。私は潮州をどのようにとらえて良いのかかなり迷う。唐代からの歴史的な流れ、そして潮州が移民受け入れ地から移民排出地に変わる流れ、少数民族との融合など、重要事項目白押しながら、その繋がりがやや判然としないのはなぜだろうか。何かが引っかかっている。

かなり疲れを覚えてしまい、全てを見ることなく博物館を離れた。次回以降の課題としたい。また車を呼んで宿へ逃げ帰る。部屋で休んでいたが、早めに宿のレストランへ行ってみた。先日の順徳に習い、一人で地元飯を食べるならここに相談しようと思ったわけだ。だが相手をしてくれたのは若い女性スタッフで、こちらが紹介を頼んでもいまひとつピンとこない。まあ適当に頼んでみたら、案の定ベテランがやってきて、お粥は多過ぎるから野菜にしようね、などと的確な指示をしてくれた。

結局名物の鶏肉、煎蚝烙(牡蠣オムレツ)、炒芥蘭に収まった。これにプーアル茶で120元ほど。鶏肉はさすが名物だけあって、鶏自体が美味い。芥蘭も柔らかく、広東風のXO醤ではなく、あっさりした味付けが美味い。煎蚝烙は台湾でいうところオアジェン。これも潮州からの流れなのだろう。同じ宿に3日も泊まっていると不便も感じなくなり、ぐっすりと休んだ。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(6)ついに石古坪へ

昼ご飯を食べようと林さんが地元の食堂に連れて行ってくれた。いや2人しかいないのに、5皿ぐらい出てきて嬉しい悲鳴。鶏肉、旨いよね。野菜も柔らかいし、細めの米粉は抜群だ。浮豆腐という看板が見えたが、注文されず残念。かなりの量を食べまくったが、勿論完食できず、心残りとなる。

そしてついに車は石古坪に向かって動き出した。細い道をくねくねと15分ほど走ると、ちょっと小高いところに「石古坪」と書かれている。10年以上前から一度は来たいと思っていた場所に、思いもしない形でやってきてしまった。やはり茶旅恐るべし。古い廟の横には、茶葉が干されている。既に春茶の生産は始まっており、茶摘みに行く女性たちの姿も見えた。聞けば地元民はおらず、ほぼ福建省からの出稼ぎ者らしい。

のどかな村には畲族を示すものはいくつもあったが、展示館に入っても人もいないし、展示内容にも茶は入っていない。それでも周辺には茶畑が点在し、茶作りは行われていた。「石古坪烏龍」が話題になってから、製茶は盛り返しているのだろうか。文化館で聞いた通り、ここに住む畲族は数百人、というのも頷ける寒村だった。

また茶荘に戻り、お茶を飲む。林さんが「さっき松下先生の話が出たが、確かうちのおやじも案内していたよ」というので俄然興味が沸いたが、お父さんの姿はなかった。その内林さんの息子がやってきて車で茶畑に案内してくれた。そこは鳳凰山とは少し違っていて、鳳南という地域だというが、人家はほぼ見られず、自然の中にかなり大規模な茶畑があった。

茶工場がある所まで行くと、何とお父さんがお客を連れてきており、再会した。私が松下先生の名前を出したら、「そうか松下先生の弟子か(誤解ですが)」といって、急に親しげになり、何と「日本産電気シェーバーを買って送ってくれないか」と言い出した。そして微信でお金を私に送ろうとしていたので慌てて止めた。こういう話し、20年以上前は時々あったが、最近は聞いたことが無かった。しかもお父さんとは初対面、ほぼ話もしていない私を信じてお金を渡そうとしており、昔中国で日本人は信用されていたな、と思い出す。

また茶荘に戻り、茶を飲む。だが息子も林さんもどこかへ行っており、姿が見えない。そろそろ夕方なので帰ろうかと思ったが挨拶も出来ずにいると、何と車を呼んでくれており、運転手がやって来た。結局挨拶せずにその車に乗り込む。聞けば、潮州から車を呼んで山に来ることは出来ても、鳳凰鎮で普通に車を探すことは難しいらしい。林さんの配慮により、無事に潮州まで帰った。

そういえば運転手は帰りがけに寄り道した。何と山に上がってきた時、豆腐を買っており、それを知り合いに届けたのだ。彼によると鳳凰山の豆腐は美味いらしい。ついでに彼が言うには、潮州人は外のレストランであまり食事をせず、いい素材を市場で買って来て自分で調理して食べるらしい。

私はそうはいかなので、宿に戻ると夕飯を探した。近所にあった小さな食堂に入ると、そこの鶏も美味しかった。おばさんとちょっと話をすると、「確かにお客が沢山来ることはない」らしい。それで旦那は潮州賓館でバイトしているという。食堂は沢山あり、地元民は市場で買って家で食べるのでは、商売人は大変だろう。

3月19日(水) 潮府工夫茶文化博物館

朝はまた散歩に出た。昨日と同じ西湖付近を歩いて行くと、ちょっと良さそうな麵屋があったので入ってみた。牛雑粿条を注文して席を探したが、意外と混んでいて、長テーブルで相席した。ふと見るとその席の殆どの人が美味そうな粥を食べている。私も粥が食べたいなと思ってみてみると、何と彼らはここの従業員で食べていたのはまかない飯だった。これは中国あるある、だな。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(5)突然の鳳凰山で畲族文化館へ

3月18日(火)突然の鳳凰山で

昨晩は寒くて色々と着込んで何とか寝た。まあ南国あるあるかな。朝も晴れているが、爽やかな天候。朝飯を探しに外へ出た。旧市街地の方へ歩いて行くと潮州西湖という公園に出くわしたので、その中を歩いて行く。そこを抜けていくと6年ぶりの旧市街が出てくる。何とも懐かしい光景だ。前回は茶旅だったはずだが、張さんのお陰でこの辺を中心に1日4₋5食は食べていた気がする。

潮州の朝といえば腸粉かなと思い、一軒の店に入る。あの懐かしい大きな、卵入りの腸粉があっという間に出来上がる。広東の白っぽい腸粉とはまるで違うものだ。ごまだれのような物を掛けて食べる。この周辺には、民国時代に共産党に入党し、犠牲となった人々の家にプレートが嵌められ、今も称えられている。実は革命に参加した人は多いようだ。

一旦宿に戻り、もう1泊する手続きをした。色々と問題はあるのだが、新しいホテルは郊外にあることが多く、立地と料金を考えて延泊となる。そしてこれから鳳凰山に向かうのだ。昨日ご馳走してくれた柯さんが「折角潮州に行くのなら」とお茶屋さんを紹介してくれたので、当初の予定にはなかった山登りとなる。車を呼べばすぐだと言われたが、本当に40分ほどで鳳凰鎮に着いてしまった。なんとも便利になったものだ。

指定された茶荘には林さんが待っていてくれた。ただ彼も私が何の目的で来たのかは分からないから、取り敢えずお茶を淹れて様子を見ていた。私も予定外の行動だったので、どうしようかと思ったが、車が上って来る時、地図に「石古坪」という地名が出てきて気になっていたので、それとなく「石古坪は近いのか」と聞くと「興味があるなら行くか」とすぐに腰を上げたのでびっくりした。

石古坪は畲族発祥の地とも言われており、茶にも大いに関連がある場所。いつかは行ってみたいと思っていたが、こんな簡単に実現するとはなんという幸運。ところが車は僅か3分で停まってしまう。見ると畲族文化館と書かれた建物があった。そして林さんはいう。「俺の奥さんは石古坪の畲族なんだ」と。これには心底驚いた。

館内に入ると若い女性が案内してくれた。畲族の婚礼衣装などが飾られていたので「あなたもこれを着るんだね」というと、彼女は「これは昔の物だから着ない」ときっぱり言うので驚いた。漢族化はかなり進んでいる。同時にこの地域の畲族は今や福建、江西、浙江などに分散していて、僅か数百人しかいないという現実もあった。そして肝心の茶の歴史関連の展示はほぼなかった。

ちょっと拍子抜けしながら入り口でお茶を飲んでいた林さんのところへ戻る。お茶を淹れていたのは、何と林夫人のお兄さん、つまり畲族であり、この館の責任者らしい。藍さんに「畲族と茶の歴史」について知りたいのだが、と聞いてみると、何とその答えが「知りたければ日本の松下先生に聞け」だったので、もう本当にびっくりした。

「40年前に松下先生がここへ来て色々と調べてくれた。その時村に居て案内もした」というではないか。私は数年前松下先生から石古坪の畲族についての話を長時間聞いた記憶が蘇り、何だかとてもワクワクしたが、それから誰も深く研究していないらしいことが、今の中国と少数民族の関係を何となく示しているように思われた。いや、結構微妙なテーマなので、知っていても発表されないだけかもしれない。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(4)広州の絶品汕頭料理

私は李さんの車で芳村市場横の地下鉄駅まで送ってもらった。車に乗っている間に、その昔偶にやってきた場所をいくつ通り、懐かしくなった。宿に帰ると夕日がきれいだった。何となく温かみも感じられた。夕飯は近所まで戻って牛腩麺を食べる。結局広州で広東麺を見付けることは出来なかった。

3月17日(月)広州から潮州へ

今日は広州を離れて潮州へ向かう予定となっていたが、その前に久しぶりに柯さんを訪ねることにした。柯さんの店は広州東駅の方が近いと思い、宿をチェックアウトして荷物を持って車で向かう。言われた住所に行ってみると、8年前とは違い、お店は随分と大きくなっていて驚く。

コロナ期間中に移転したというが、中に入ると相当に広くなり、2階には個室まであった。柯さんはお茶屋さんというより、茶芸師さんという感じの人であり、コロナ中でも彼の周りにはお客さんが沢山いて、今の景気低迷もあまり関係ないのかもしれない。コロナ後はちょくちょく日本にも来ており、特に京都などに関心が高いという。

柯さんを訪ねた目的は、ここで単叢を調達することだった。汕頭出身の柯さんなら手ごろなお茶を持っているだろうと考えたのだ。その目的はすぐに達せられたので、ゆっくり駅へ向かおうかと思っていると「汕頭より美味い汕頭料理をご馳走する」と言われて、思わず柯さんについていってしまう。

車で着いたレストランは、まだ客が来る時間ではなかったが、何と柯さんは2人しかいないのに6品も注文して食べさせてくれた。港町らしいあっさり味の海鮮や潮汕系の滷味、そして鍋粥など、確かに唸ってしまうほど旨い。これならもう潮州へ行かなくてもいいかなと思うほどのご馳走だった。勿論大皿料理は大量に残ったが、これは店のスタッフへのお土産になるという。

車で広州東駅へ向かった。何とか予約した列車の時間に間に合った。この駅はその昔香港との直通列車があったので、偶に来たことがあったが、その時とあまり変わらない。その古びた雰囲気が懐かしくてよい。今回チケットはネットで予約したが、チケット発券の必要もなく、問題はなかった。そしてパスポートでも改札ゲートを通れることも分かり、随分と気が楽になった。中国の進化、便利さを肌で感じる。

列車はほぼ満員で広州を出発。途中特筆するべき風景もないままボーっとしていたら、約3時間で潮汕駅に到着した。既に日はかなり西に傾き、ちょっと涼しい。駅を出て車を呼びたかったが、待ち合わせ場所までかなり遠い。でも中国人もみなそこに歩いて行くので従う。車は広州などに比べて料金が高いと感じた。競争が無いのだろうか。そして何より市内までが遠い。途中軌道車建設工事などもあり、低速でしか走らないので、結局40分もかかって、懐かしの潮州賓館に到着した。

この宿、2001年の第2回茶旅で泊まったので、今回24年ぶりに泊ってみることにした。昨年改修したとのことで、室内はキレイだったが、機能性はやはり古い。トイレの便座が突然自動で上がるのには驚いてしまったが、何より部屋には机が無いので何となく不便。更にはなぜか気温が低い中、部屋にいると寒くて仕方がない。

ウルトラライトダウンで装備して外へ出て、暖かそうな麺を探す。この街には粿条を出す店が山のようにあるが、今晩はちょっときれいなお店で現代の肉入り粿条を試してみる。お客は若者が多く、ちょっとスパイシーなスープ。因みにタイではこの麺をクイッテアオと言い、タイの国民食といっていい存在だが、潮州に起源があるとはタイ人も知らないらしい。タイでは量が少ないが、中国は当然多い。29元なり。

《広東茶食旅(広州・潮州・深圳)2025》(3)十三行博物館からデジタル茶淹れ機械へ

3月16日(日)十三行博物館

今朝はだいぶ調子が良い。ただ何となく寒い。宿の中はそうでもないが、外は結構風もある。今日は先日東京の銀座で会った陳さんと会うことになっていた。陳さんは温州出身と聞いていたが、なんと家族は広東省におり、ちょうど里帰りしていたので、広州で会うことになった。

待ち合わせ場所は広州十三行博物館。彼女は茶歴史を研究しており、茶貿易についても興味があるという。博物館内では、買弁についての情報を探していたが、よく考えてみれば十三行は洋行ではなく、洋行に売込む中国企業であり、ある意味で彼らは官僚なのだ。そして洋行で実務を仕切るのも、ここから送り込まれているのだろう。マカオや珠海で出会った宝順洋行の買弁はアヘン戦争後に洋行が直接雇うことを認められた人々だった。

この博物館には8年前に来たと思うのだが、2階にはその時なかったお宝の展示があった。どうやら収蔵家が自らのコレクションをここに置いているらしい。そういえばマカオの鄭家の子孫も自らの先祖について色々と発表し、その功績を広めていると聞いた。「買弁は売国奴」という概念は薄れたのだろうか。

博物館の近くには、川沿いに100年前に建てられた旧税関の立派な建物があった。この川沿いで十三行が貿易をしていたのだろう。宝順洋行の場所の書かれた地図も博物館にあったが、その場所もこの辺だろうか。近くの橋が目印か。でも人民橋って書いてあるな。そんなことを考えていると、陳さんは近所のおばさんに「広東の地元麵屋」を聞いている。

私が「広東には日本の広東麺のような麺はあるのか」と話していたら、彼女はそれが気になっていたらしい。おばさんはわざわざ店まで案内してくれた。おじさんも「これが広州の麺だ」と胸を張ったが、それはワンタン麺だった。そしてついでに広州焼きそばも作ってくれた。これらは美味しかったが、あんかけ麺ではなかった。

そこから車を呼び、またまた芳村方面へ向かい、陳さんが紹介されたという人物を訪ねた。そこは昨日までの芳村茶市場からは少し離れており、ちょっとオフィス街のように見えた。目指すお茶屋さんが見付からず、まごつく。やはりお茶屋さんというより会社のオフィスのような場所に辿り着く。入口に万里茶道の地図が描かれているのがちょっと不思議。

この会社のオーナー李さんは、30年ほど前に茶業に入り、様々な茶葉を扱ってきたが、10数年前からは雲南でプーアル茶を生産しているという。だがいま彼が力を入れているのは、デジタルサーバーで、簡単にお茶を淹れる機械の開発だった。実際彼はいきなり大紅袍のミルクティーを作り始めたので驚いたが、それは機械ではなく、手作りだった。ただ非常に美味しかった。

李さんは茶葉・薬剤などを含めて様々な材料を小さなパックに詰め、それを機械に放り込み、温度などの条件のボタンを押してお茶を淹れている。これなら確かに極めて簡単だ。李さんの主張は「標準化」。誰が淹れても一定の味になるように淹れられる機械ということだ。茶藝のような技術とは異なり、ティスタンドなどで重宝される機械ではないか。これがもし流行れば世界は変わっていくかもしれない。

陳さんはここから直接実家に戻るという。今や中国では100㎞以内なら、長距離バスに乗らず、指定先まで数名を乗せていくシャトルサービスがあると言い、それを予約するとすぐにやってきて驚く。料金はバスとあまり変わらず、便利になったものだ。そういえばベトナムでもこんなサービスがあったのを思い出す。