ある日の台北日記2019その2(9)南投で歴史を聞く

5月1日(水)
南投で

日本の元号が令和に変わった。昨日は天皇退位の儀をテレビで見ていたが、何とも淡々とことが過ぎていく。今日は新天皇の即位だが、勿論私の生活には特に変化はない。今日は埔里と魚池へ行くため、またもや早朝の高鐵に乗る。そしていつものようにトミーが車で待っていてくれ、また歴史調査が始まる。

 

今回はまず埔里に行き、昨年突然訪ねた劉さんの所に行ってみる。もし在宅ならば話を聞こうと今回もアポなしで出掛けて行くと、運よく、前回と同じ椅子に座っていた。ただ昨年足を怪我したということで、歩くのが少し大変になっている。それでも95歳にしては、まだまだ元気そのものだ。

 

劉さんは流ちょうな日本語を話してくれる。劉さんも光復後、この付近で茶業に長年携わっていたことから、魚池の分場長だった林復氏とはやはり面識があった。というより、彼は日本時代の持木茶園に勤めており、持木一族が引き上げた後、台湾茶業(後の台湾農林)に接収された持木茶工場の工場長をしていたというので、そちらの方に興味を惹かれた。劉さんは持木工場後、自ら茶の販売を長く行い、今でも一部の贔屓客より注文を受けているらしい。

 

次に魚池に王さんを訪ねた。こちらも89歳になっているが、とても元気で、日本語も話す。王さんは光復後茶業伝習所5期の卒業生であり、林復氏が所長(校長)を辞める頃卒業していた。勿論面識はあり、色々なことを教わったという。卒業後は故郷に戻り、台湾農林の茶工場で働いた(茶業伝習所卒業生の義務)。因みに王さんのお父さんは渡辺茶園の創設と関係が深く、ある意味魚池で最初に紅茶作りをした人々なのではないかと思われる節がある。またお兄さんは新井さんがいた試験場に会計係として勤務していたようだが、早くに亡くなってしまったという。

 

昼ご飯に鶏肉を食べると、まだ時間があったので、王さんの孫が整備中の茶工場へ向かった。ここは魚池農会の真向かい。小高い所に茶畑を配して、露営キャンプ場、横にはホテルも建設中だ。茶工場は最新設備を整えて既に稼働しているが、今月工場の上の階に売店、試飲室などが開業予定で、ついに本格的に動き出す。規模もかなり大きく、日月潭から近いこともあり、大勢の観光客の来場が見込まれている。これからの時代、単なる茶業ではなく、観光も織り交ぜた取り組みが必要かもしれない。

 

午後は8年ぶりに鹿嵩の和果森林へ行く。前回ここの石さんから色々な話を聞いていたのだが、91歳になった石さん、何と以前よりずっと若くみえるのはすごい。水泳、ウオーキングなどを日課としているらしい。記憶力も衰えておらず、こちらの質問にもはっきりと答えてくれるので有難い。

 

石さんは先ほどの王さんより2つ年上で、茶業伝習所の光復後3期卒。ということは、林馥泉所長から、林復所長に交代する時期であり、両者の学校時代、そしてその後の茶業でのかかわりについて、かなり有益な情報を得ることができた。やはり林馥泉氏は光復の時に台湾に渡り、日本の茶業資産を接収したメンバーだったのだ。また午前中に会った埔里の劉さんは石さんの先輩にあたり、何と持木茶工場での劉さんの後任が石さんだということも判明して驚く。

 

石さんは私のことは忘れていたかもしれないが、娘さん夫妻は覚えていてくれたようで、再会を喜んだ。和果森林はこの地域で観光を取り入れた先駆的な茶業者であり、DIYなど、素人に茶を自ら作らせる体験型を導入したところだ。娘さんは最近日本でもセミナーを開くなど、紅茶販売促進に努めている。最後に彼女から『実は持木さんの末裔の方とは交流がある』という有力な情報も得、後日連絡を取り合うようにもなった。やはり現地で聞きこまなければ情報は出てこないものだ。

 

トミーの車で台中駅まで送ってもらった。何と大学の同級生夫妻がGW休みで台中に来るというので、今晩は同じホテルを取り、夕飯を共にすることにしていたのだ。彼らのホテルには私も何度か泊ったことがある、駅前のとても便利な場所だった。台中駅も今や完全に新駅が完成して、様相は一変している。

 

トミーから聞いた鍋の店へ、タクシーに乗って向かった。そこは日本的な入口でちょっと不思議なレストラン。鍋もあったが、なぜか店員は薬膳料理を勧めてくる。まあ折角だから、と薬膳定食を頼んだが、なぜここでこれを食べているのか、よくわからなくなってしまった。翌日トミーにそのことを告げると『なんで鍋を食べなかったの?』と言われてしまう。勧められたものをちゃんと食べるべきであった。ホテルに戻り、そこでお茶を飲みながら、他愛もない話をして過ごす。これも同窓生ならではあり、リラックスできて有り難い。

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