伊那・名古屋散歩2013(2)伊奈 ロウメン

伊那散策

雨は上がっていたが、腹が膨れすぎて困る。散歩をするしかないと歩き始めた。すぐに天竜川へ出た。船着場、という石碑が見える。江戸から明治の一時期、船が往来したという。ここ伊那は、陸の孤島のような場所、船を運航させるのもなかなか難しかったようだ。本日見る天竜川は、水嵩も少なく流れも穏やか。伊那はこの川が物流の中心だったはずだが、どのように機能したのだろうか。

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小高い丘を登っていくと、由緒正しげな神社があった。伊那東大社、19もの祭神が祭られており、由緒書きを見ると、明治政府により7つの神社が統合されたとある。日本の西洋化は、このような形で従来の日本を壊してったということだろうか。丘の上から伊那が一望できる。急に晴れ間が見え、寒さが和らいだ。

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伊那は特に何もない所だ、と地元に人は言っていたが、山々に囲まれて景色もいいし、何よりも空気が澄んでいる。これで雪でもちらつき、温泉でもあれば、グッとくるところ。また癒しを求める都会の中国人などを、こんなところに連れてくれば、大喜びするのではないだろうか。

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一仕事終えて、夜は地元の方々との宴席に出た。やはり中華食堂だったが、最初にカツが出てきたのにはギョッした。地元では卵でとじるカツ丼の上を『煮カツ』といい、ソースかつと区別していた。

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更には名物ロウメンも登場。羊の肉を使った焼きそば、と聞き、新疆ウイグルのラグメンと名前も似ていることから、興味津々だったが、戦後の食糧難の時代、1955年に萬里というお店のご主人が冷蔵庫の無い環境で麺を蒸すことで日持ちさせる方法として開発したそうな。ロウメンの名前の由来は中国語の肉麺かららしい。

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現在はにおいが残るなどの理由で普通の豚を買うなど、日本の焼きそば化しており、ラグメンとの共通性は見いだせなかった。満蒙開拓団などから日本に戻った人々が羊などを使って食べ始めたのかと思ったが、そのような説明はなかった。モンゴル風焼きそばなど、似ているような気もするのだが。

 

伊那地区は戦中、満蒙開拓団として多くの人が移民していったという。長野県が全国で一番多いとは聞いていたが、この辺りから組織されていった人が多かったということか。伊那についてはもっと歴史をよく勉強した上で出直して来ようと思う。

 

3 thoughts on “伊那・名古屋散歩2013(2)伊奈 ロウメン

  1. 茶旅は毎日読んでおります。
    私の父はJR神戸駅で100年以上続いた関西では有名な「菅園」と言う茶商の三男で茶とは関係ない外交官でした。この菅園は京都山城に自家用茶園を持ち「玉すだれ」という茶菓子も有名で、私の従兄の代まで続きましたが神戸大震災後数年で廃業しました。私は東京で生まれお茶とも縁がなく、戦後米軍に雇用され1958年復帰前の沖縄の基地に転勤し、ラオスのCIA代理戦争からヴェトナム戦争まで拘わり、90年に現在のタイに隠居しております。沖縄には本島北部大宜味村喜如嘉が唯一の茶の産地で、琉球王朝末裔の尚家に抹茶を泡立てたブクブク茶と言う飲み物が伝わっています。
    タイ北部には既に20余年住み、現在86才です。

    1. 菅様。
      突然、失礼します。
      私は、現在、びわこ湖畔の秀吉公所縁の古い城下町で小さな店を営んでいます。
      自分でホームページを持っていますのと、ツイターもしておりますので、ネットサーフィンしておりましたら、偶然、菅様の書かれましたものを拝見しました。
      神戸の駅前にありました「お茶の菅園」は神戸大震災後閉店されたとの事、今から半世紀ほど昔になりますが菅達夫(お名前は記憶間違いかもしれませんが)と、ご結婚されました奥様(たしか、旧姓石野千鶴子さま)のご実家の竜野市の近くに住んでおりました。
      同志社に通っておられて、ときどきご挨拶を交わさせ頂いておりました。
      もう、お孫さんもいらっしゃるご年齢になられていると思いますが、
      ご健在でお暮らしでしょうか。
      思いがけないことから遠い日の思い出が甦って、とても懐かしく、失礼を省みずお問い合わせのメールを出させていただきました。
      とりとめのない文で、失礼がありましたらお許し下さい。
      ご寛容のほどを

      菅様
                滋賀県長浜市.三木。

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