《昔の旅》麗しの島台湾編1984(2)

6.日月潭
台中駅に戻り、昨日の青年が言っていた日月潭に行く。日月潭は台中の東、バスで2時間ほど行った内陸にある観光地で、天然湖がある。雨上がりをバスに揺られていくと直ぐにバナナ畑が広がる。気持ちが良い。台湾といえばバナナ、私が子供のときの印象はこれだ。大きなバナナの葉が道にはみ出して、歓迎の手を差し伸べているようだ。

日月潭に着くと昨日の青年に言われた宿を探す。ちょっと交渉して1泊NT$200でまあまあの部屋を確保。もう午後3時なので急いで湖を回る路線バス乗り場に行く。平日なので観光客はほとんど見られない。切符売り場で切符を買おうとするとなかなか売ってくれない。不思議に思っていると要するに次回のバスが最終なので途中で降りると戻れない可能性があり、それを心配してくれていたことが分かる。兎に角バスに乗ることにする。

乗り込むと何と今まで押し問答をしていた切符売り場の若い女性も乗ってきた。『バスを降りて湖を見たいの?』突然彼女が聞いてきた。さっきはバスを降りられないと言ったのに。『私と一緒に降りれば大丈夫よ。』という。訳は分からないが途中で降りてしまう。

彼女に着いていくと又『ボートに乗りたい?』と聞く。台湾では女性が親切なのは空港で会った留学生で理解していたので、素直に乗せて貰う。湖に小型モーターボートが1隻。彼女は自ら操作して岸を離れてしまう。あっけに取られる。切符売りのおねえちゃんが行き成りボートを動かすのだから台湾は面白い。彼女は巧みにボートを操り光華島という浮島に着けてしまう。上陸して2人で話した。何の話かは覚えていないが、かなり気持ちの良い風が吹いていたことを思い出す。帰りに彼女の家が土産物屋であることが分かり、ここできれいな蝶の標本を買う。栃木の実家に今もあるのでは?

さすがバスの仕事をしているだけのことはあり、帰りはさっき乗ったバスがUターンしてくる時間を知っていて乗せてくれた。これも忘れがたい思い出である。

7.台南
5日目、昨日来た道をバスに揺られて戻った。隣に座ったおじさんが日本語で話しかけてきた。一人で旅行しているというととても嬉しそうに『そうか、そうか。何かあったらここへ連絡してくれ。』と言って名詞をくれた。台湾にはたくさんの日本人が観光に来るがほとんどが団体でかつ年配の人が多いとのことで、若輩者が一人でうろうろしているのを好ましく思ってくれたようだ。

台中駅からは鉄道で台南に向かった。車窓から見る風景も台北―台中間より南国風の景色となってきている。3時間ぐらいで台南に到着。駅はどこも同じで昔の日本の駅舎といった感じ。因みに台南は今でも当時の佇まいを保っている。

駅前で安い旅社(ホテル)を探したが、既にバックパッカーの感覚が身について妥協できず、港の方にかなり歩いたところでNT$150の部屋を見つけて落ち着いた。ここで初めて全く日本語の通じない宿に泊まったことになる。おばさんはあまり愛想が無く、今までとはかなり違った雰囲気に戸惑う。

台南は当時港周辺にたくさんの屋台が出ており、食べるものには困らない。港町だけあって海産物はどれも新鮮そう。また特に小椀に入った担仔麺は名物で、上にそぼろが乗ってなんとも美味。何杯でも食べられる。非常に活気のある町である。魯肉飯というそぼろを上に乗せたご飯もめちゃくちゃ旨い。

6日目の朝早々に宿を出て銀行に向かう。例の三和銀行のT/Cを両替するためだ。歩いていると紅毛城と呼ばれる17世紀にオランダが作った城跡があり、其処へ寄る。庭園で休んでいるとフランス人の若者と出会う。英語で拙い会話を交わす。彼はアジアに興味があり、日本にも関心が深かった。フランスで『楢山節考』という映画を見たと言うことで、彼から質問を浴びせられたが、満足に答えられず情けなかった。フランス人は映画の表面ではなく、何故姥捨てが行われ、家族はどう考え、また現代の日本人はどう考えるかといった事を盛んに聞く。表面的な答えに彼は納得しない様子であった。日本人は先ず日本の文化を勉強すべきであることを痛感させられる。

彼と別れるとき、何気なくT/Cに手をやった。『えっ?えっ?無い、無い。』T/Cだけでなく、パスポート、帰りの航空券、全てを入れた袋を首から提げていたはずだが・・?あっ、忘れた。昨夜寝る時心配で枕の下に敷いて寝たのをすっかり忘れたのだ。目の前が真っ暗になった。お金も無い。日本に帰ることも出来なくなった。きっと顔は引き攣っていただろう。あの宿のおばさんは愛想も良くなかったし、行っても無駄ではないかと思ったが、兎に角戻ってみた。

入り口を入るとおばさんが2人で、そら帰ってきた、という顔で待っていた。直ぐに袋を出してくれた。涙が出そうだったが、それから30分ぐらい北京語で猛烈に説教された。言葉は速くてよく分からないが、言いたいことは良く分かる。説教されながら感謝したことはそれまでの人生であったろうか?やはり台湾だ。戦前の日本のおばさんはきっとそうだったに違いない。怒られながら感動した。

台南駅で年代物のホームのベンチに座りさっきのことを考えた。何と幸運なんだ。でも偶然でも何でもないのだ。台湾と私は何か運命めいたもので繋がっているのだ。台南駅のホームはいつもいい風が吹く。2002年には態々この風に吹かれたくて台南駅を再訪したほどだ。ベンチは決して高級とは思えないが、今もそこで人を待っている。

8.高雄
台南―高雄は電車で30分。鈍行電車で行った。途中に岡山と言う名の駅があり、戦前付けたのかと考えたりした。台北の近くにも三重や板橋何て地名もあり、由来が知りたいような気もする。当時は小さな駅は無人で、ホームも無く、人が走り出す電車に飛び乗る姿を見た。まるで昔の映画の1場面のようだ。

台南は古都といった風情もあり、活気はあるが落ち着いた町でもあった。だが高雄はまるで違った。ごちゃごちゃした猥雑な感じのする町であった。駅から歩き出し、狭い路地を入って旅社を見つけた。NT$120、窓なし、鍵はおばさんが預かるという恐らく最低クラスの部屋であろう。部屋には汚いベットが1つあるだけ。

出かけようと思い、おばさんを呼ぼうとしたが、北京語で何と呼べばよいか分からない。思い切って日本語で『おばさん』と言ってみた。見事に振り返った。何だ日本語が分かるのかと思ったが、そうではなかった。台湾では戦前の日本語時代の名残で適当な日本語が外来語として残っている。但しこれは台湾語の範疇にあると考えるべきである。他に看板、バイクなどが今もそのまま使われている。

今は何処にあるのか分からない公園の下に大きな地下市場があったのが印象的であった。中に旨そうな餃子屋があったので、注文しようとしたが、言葉が通じない。餃子ぐらいは通じると思っていたので、ショックだった。南部は北京語の訛りが強く、聞き取りにくい。また日本では餃子と言えば1皿と決まっていたが、当地では水餃子または蒸し餃子の為、1籠とか、10個とか言わねばならないことも学んだ。授業にろくに行っていないので偉そうなことは言えないが、やはり語学は実地が一番だと痛感した。これが後に上海に留学した際、10ヶ月に45都市を旅行する複線になったと思う。台湾ほどの広さでも北と南で言葉に違いがある。ましてや大陸では通じなくて当たり前と言うことである。

尚この地下市場は防空壕を兼ねているとの話であった。台湾は当時何と1949年以来ずっと戦時体制化に置かれており、大陸の攻撃に備えていたのだ。戒厳令が解除されたのは蒋経国が亡くなる前の年、1987年であった。庶民は既に誰も大陸反抗など思っていない時でスローガンとして掲げなければならない国民党は哀れな気がした。その時は蒋経国とは単なる2代目でたいしたことは無いと思ったものだが、その後台湾の民主化を考えていたことなどを知り、見直した覚えもある。
尚当時は国民党及び蒋一族を誹謗するような発言は公には許されておらず、『特高に睨まれるぞ』などという日本の戦前のような話を本当に耳にした。

高雄には1泊したが、あまり印象が無い。高雄牛乳大王でパパイアミルクを飲んだのを覚えているぐらいだ。理科の実験用ビーカー(?)にきっちり500ml入っているのが特徴でパパイヤが南国的で良かった。
兎に角3月とは言え、南国なので暑かったが、部屋にはクーラーも無く、夜も遅くまで外で涼んでいたはずだ。

9.再び台北へ
7日目、自強号に乗り、台北に戻った。駅の北側に円環というロータリーがあり、この周りには無数の屋台が店を開いており、安い旅社も幾つもあった。台中で会った青年の情報で、NT$170の宿に泊まる。高雄よりは相当ましで、何といっても深い風呂が共同で使えた。勿論戦前からの名残であろうが、1人が入ると湯を抜いて、次に入る人は自ら湯を汲む仕組み。綺麗とは言いがたいがホッとして喜んで入った。

台湾での唯一の拠り所であった東京で同じ下宿の陳さんに電話した。実は到着した夜、夜中に電話したきり、連絡していなかったので、相当驚いていた。彼女のお姉さんが台北に住んでおり、彼女の家に会いに行った。3月は陽明山の桜が綺麗とのお姉さんの勧めで、突如花見に行った。お姉さんの運転でいったその山の桜は確かに綺麗であった。また日本的な感じがした。勿論戦前日本が植えたのだろう。
陳さんは私の旅行話を聞いて本当に驚いた様子であった。考えて見れば彼女も私も21-22歳であり、国内と言えども一人で旅行することなど無かったであろうから、北京語も満足に出来ない私が、色々と経験しながら、彼女の知らない台湾の旅をしてきたことは驚きであったろう。

その日彼女らと別れて宿に戻ると宿の主人が夕食をご馳走すると言う。屋台でステーキを食べさせて貰った。格別旨かった。ウサギの肉も食べたような気がする。コショウをふんだんにかけたもので、肉に相当の臭みがあったのだろう。宿代NT$170でステーキやウサギの肉では主人の持ち出しだろうが彼もまたこれまでの台湾人のように私の1人旅を歓迎してくれていた。50歳ぐらいの人々がお前と会えて嬉しいといってくれのは実に不思議な感じだが。

10.中壢
8日目は前日約束した通り、陳さんの実家のある中壢市へ行った。台北からバスで1時間半ぐらいだったか。台中に行く途中にある町だが鉄道は通っていないため、バスで行く。市内は思ったより大きく、デパートなどもあった。何と彼女の実家はその町一番のデパートの横にある4階建ての病院であった。はっきり言って東京で4畳半1間、月1万円で暮らしている彼女の実家とは思えない大きさだ。そこには両親が既に半引退して暮らしており、お兄さんが医者として病院を取り仕切っている。お父さんは仕切りに『君は肝が太い』などと言って私の旅行に感心していた。また台湾は本当に治安が良かったが、先日殺人事件が近くであり、物騒になったなどと言ってみたり、近くの山では今もトラが出るとの話があったり、なかなか面白かった。因みに会話は全て日本語で行われたが、家族間は客家語である。陳さんは実は客家なのである。客家は優秀であると本で読んだことがあるが、この家の人も4つ以上の言葉をいとも簡単に話していた。尚台湾には客家が200万人程度いると言われている。

病院内で家族と一緒に夕食を食べたが、白衣を着た人と一緒に食事をしたのは初めての経験であった。
夜はお兄さんが最近建てた家に泊めてもらったが、これが凄かった。病院に住んでいると夜中も急患で起こされる為引っ越したと聞いていたが、行って見ると田んぼの中に突如4階建ての豪邸が出現。1階にはリンカーンが2台駐車するスペース。2階は客間と書斎。3階はカラオケルームと寝室。4階は畳の客間となっており、その広さは相当のものであった。私は4階の畳の部屋でゆっくり寝かせてもらった。お兄さんはかなりの体格であり、風呂も3人は入れる浴槽を備えており、大満足であった。

9日目の朝起きてみると、見知らぬ女性が入ってきて、手招きする。階下に朝ごはんが支度されている。おかゆだ。女性はお兄さんのフィアンセでやはり客家。客家は原則客家同士で結婚する。彼女は日本語が出来ないことを恥じていたが、私からすればそれは当たり前のこと。但し当時の台湾では日本語が出来ないことに引け目を感じる人がいることにまた感動してしまうのである。おかゆも態々私の為、作ってくれたもので彼らは普通パンとコーヒーであるようだ。

朝食後病院に戻ると陳さんが『山へ行きましょう。』と言う。よく分からないが同行する。中壢から大渓行きのバスに乗り、そこの山に上ったと思う。今ではよく覚えていないが、結構キツイ上りだった。途中山道で顔の黒い男性2人と擦れ違った。通り過ぎてから違和感を覚えた。『あれっ。』男性の話していた言葉が日本語のように聞こえたのだ。陳さんは当然のように『日本語。かれら山の人は昔言語を持たなかったので、植民地時代に入ってきた日本語を今でも使っているのよ。』などと言う。戦後40年、言葉が出ない。日本の統治時代とは台湾に何をもたらし、何を奪い去ったのか?私などには到底理解できないと思った。

その後またバスに乗り、慈湖に行く。ここは蒋介石の別荘があったところで、現在は遺体が安置されている。湖の周りは樹木が生い茂り、何か荘厳な雰囲気が醸し出されている。建物の前に来ると、厳重な警備がなされており、パスポートの提示を求められる。ここが別荘跡で遺体のある場所であると分かると何故か非常に緊張する。
遺体の安置場所に行くと、衛兵が直立不動の姿勢でおり、突然館内に響き渡る声で『帽子を取れ。直立。礼。』と指示を出す。咄嗟の事で、思わずお辞儀。礼を3回させられて解放される。後で考えると蒋介石と何の関係も無い私が、何故頭を下げなければならないのか訳が分からなかったが、兎に角歴史に触れた感じは味わった。
尚蒋介石の墓が建てられないのは遺言で、将来大陸復帰を果たした際に、南京に建立されるためと聞いて、思わず永久に墓は建てられないなと思ってしまったのは不謹慎であろうか?

11. 台北最後の夜
中壢に戻り、陳さんに別れを告げて、台北に。いよいよ明日は日本に戻る日だ。格安チケットだから、朝は早い。例の旅社に戻り、最後の1泊とする。屋台で最後の夕食。台湾名物カキのお好み焼きをたらふく食べた。

宿の隣の部屋には出張で台北に来ていた台湾人がいて、先日も少し話をしていたが、部屋に戻るとその人がやって来て、落花生をたくさんくれた。『これお土産。日本のお父さん、お母さんにね。台湾は良い所だから是非来てと伝えてね。』彼は名残惜しそうに何時までも私の部屋で話している。日本だったら、『うるさいオヤジだなあ。俺は明日早いんだ。勘弁してくれよ。』などと思っていたはずだが、ここでは微塵もそういう感情が出てこない。ただ他愛も無いことを何時までも話している。とうとう空港行きのバス停を夜中に教えてもらった。台北は日本の地方都市の佇まいであるが、それはまた数十年前の日本そのものに思えた。建物が低いのも昔風。但しこれも国防上の観点である。

殆ど寝ないうちに宿を出発し、市内から50km離れた中正国際空港に向かう。到着したあの日からわずか10日間。その間自分が途轍もなく成長したような気がした。きっと何時かここに戻ってくるような予感を胸に帰国の途についた。

終り

追記
この旅の総費用は、航空券6万円、1泊目の宿賃5千円以外は合計で僅か3万5千円であった。総額10万円、10日間の旅。陳さんはじめ名前も忘れてしまった多くの人に親切にしてもらい、この費用となった。今では考えられないような、そして2度と味わうことの出来ない『麗しの島台湾旅行』であった。

 

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