滇越鉄道で茶旅2023(4)冷たいサパを歩く

名残惜しい家を出て、皆と別れ、車でサパに行く。かなり霧が濃くかかっており、前が見えないほど。しかも気温が相当に低い。標高は1500m前後だろうか。もしハノイでヒートテックを買っていなかったら、本当に凍え死にそうな雨の夜だった。宿はきれいだったが、外は全く見えなかった。

夕飯を食べるべく外へ出た。濡れた坂道に足を取られる。この季節に観光客は多くなく、どの店も手持無沙汰の様子が何となく可哀そうだった。ただNさんが連れて行ってくれた鍋の店だけが千客万来、不思議なほど人がいた。寒さの中で食べる温かい鍋は格別の味がした。食後周囲を見渡すと、実に立派な建物がいくつもあった。もし夏に来たなら、ホテルも満員なのだろう。

3月3日(金)サパの街で

朝も小雨が降り相当寒いサパ。朝ご飯を食べる気力もなく、下に降りるとNさんがコーヒーを飲んでいたので、一緒に紅茶を飲みながら簡単に抓む。まあこんな天気だし、今日はどうしようかと相談しても仕方がない。取り敢えず車で街中へ行き、有名なサパ教会の前で写真を撮る。裏に回ってみると、初期の宣教師たちの記念プレートなどがあり、ここが1920年代に建てられたカトリック教会だと分かる。

この教会が観光の中心のようで、付近には山岳民族の女性が沢山おり、お土産を売ったり、トレッキングツアーに誘ったりしているが、この雨だから一向に成果は上がらない。我々も彼女らから離れ、道を歩くと古い建物が目に入る。フランス時代の別荘だろうか。その奥にはがっしりした建物があり、今は気象台らしい。その後ろの建物などを見ていると、中国で言う専科楼に酷似していた。第2次大戦後、ソ連の専門家・技術者らがここに入り、宿泊したのだろうか。

その裏にはホテルがあり、軍人用の保養施設なども見られた。そこから階段を上っていくことが出来る。夏は観光客が上っていくのだろうが、この雨では足も滑るので上るのを諦めた。保養施設はホテルになっており、かなり古い建物がいくつか残されていた。フランス時代に開発され、その後社会主義時代にソ連が流用したのだろうか。

バクハ モン族の村へ

運転手と話すと『もし行くところが無ければ、今日はモン族の村へ行かないか』と言い出す。これまた願ってもないことなので、それに乗っかることにした。それにてもヤオ族の彼にモン族の親戚がいるとは。山の中のことは良く分からない。サパからラオカイの方に戻る道に大きな橋が建設中だった。なぜか歩いて渡るのはOKということで、早々に景色を楽しむ。こういうのは日本ではありえないが、昔中国でもあったことを思い出す。

ラオカイ近くで女性を一人乗せた。彼女がモン族だというが、同時に妹だともいうので混乱する。恐らく中国的言い方と同じく、従兄弟なども妹と表現するのだろう。そして彼の親族の女性がモン族の男性に嫁いで生まれた娘なのだろう。まずは病院に寄る。親戚が入院しているとかで、見舞いを運ぶ。それからまた市場で買い出し、更に鶏屋で鶏肉を受け取り、一路バクハ方面へ車は疾走する。

途中トイレ休憩があり、洗車が行われた。雨は止んでいるが、オーナーの車なので、運転手君も気を遣うらしい。それからまた1時間ほど行くと、バクハを越えて、山道を行きそのモン族の村へ入った。昨日の村よりは家はあったが人影はない。山沿いにその家はあった。この家は誰も住んでいないのか、と思うと突然お父さんが現れ、料理が始まる。

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