滇越鉄道で茶旅2023(3)もう一つのヤオ族村で

もう一つのヤオ族村へ

名残惜しかったが、村を離れた。それから舗装道路を1時間ほど走る。途中山も越えた。本日は観光地のサパに宿泊予定だが、サパの少し前の村に寄り道する。そこは4年前Nさんがテレビ番組のコーディネーターとして訪れたと言い、郊外には修道院の跡が残されているというので興味を持った。

今日はずっと曇りだったが、小雨も降り出し、肌寒くなる。その修道院はかなり大きかったが、今や中は空洞で、随分前に使われなくなり、放置されたようだ。聞くところによると、第2次大戦中、日本の北海道にいた外国人シスターたちが、日本に居られなくなり、ここへやってきたという。日本とベトナムの間にはこんな歴史的秘話もあるのかと、ちょっと驚く。周囲には観光客に土産物を売る山の人たちが何人かいたが、我々にちょっと声を掛け、買わないと見るとすぐに諦めた様子で、子守をしたり、縫物に精を出している。これが彼女らの日常なのだろう。

そしてその先へ進むときれいな棚田が広がっていた。ここは雲南などでも見られる風景区だったが、今は冬で作物はない上に、モヤっていて写真もうまく撮れない。Nさんが知る村へ入り、車から降りると、何人もの女性が我々に近づいてくる。土産物を売るヤオ族の女性だった。Nさんはその中の一人を見付けて、親しげに話している。4年間の取材の時、彼女と出会った(番組にも登場した)のだという。

彼女らと一緒に村の道を歩く。皆籠を担ぎ、中には商品である土産物が入っているようだ。村の中には立派な家も見られ、ここが観光村としてホームステイなどでヨーロッパ人などを受け入れてきたことが分かる。村はずれの洞窟まで行き、折り返すが、特に見るべきものはない。そこで『家に茶の木がある人?』と聞いてみたら、一人がさっと手を挙げた。

その家へ行って見るとかなり立派なさっき見た家だった。コロナ前はここのお母さんが外国人のホームステイを受け入れ、かなり賑わっていたらしいが、そのお母さんが亡くなってしまい、言葉の問題とコロナで現在は閉鎖状態だという。彼女はお嫁さんだが、ご主人の祖父は村の代表だったこともある家柄だった。

お茶を缶から取り出すのかと待っていると、彼女は外へ出て行く。庭に一本、茶樹が見えた。あれはタリエンシスだろうか。すると彼女は物干し竿のような物に釜が付いた棒を茶樹に向け、上の方にある茶葉を枝ごと見事に切り落とした。すばらしい技だった。そこから茶葉をむしり取り、両手で大きく揉みこみ、何とそのまま大きなやかんの中に放り込んだ。やかんには既に薪で火が起こされており、その茶葉が煮込まれていく感じだった。

生葉を火であぶってから揉んで、という話は聞いたことがあるが、生葉をそのまま揉んで、煎じるとは、何と言うことだろうか。ある意味でこれは極めて初期の原始的な茶の飲み方ではないのだろうか。こういうものが目の前で見られるのが茶旅だろう。かなりワクワクする。入れられたお茶は、時間の関係もあり、かなり淡白な、そしてすっきりした味わいだった。彼らはこれを飲料としてではなく、薬として病気の時などの飲んでいるとのことであり、まさに茶の歴史の教科書に出てきそうな光景を目撃した。

私がヤオ族の歴史に興味を持っていると知ると、彼女は家にあったご主人のノートなどを持ち出してきた。そこにはまさに漢字が書かれている。私は2015年に松下先生に同行してベトナム山中に入り、そこでヤオ族の家系図を見せられたことが忘れられない。ヤオは漢字を使う数少ない少数民族なのだ。ここのご主人も当主となるべく、漢字の勉強に励んだのだろう。

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