滇越鉄道で茶旅2023(2)突然ヤオ族村を訪ねて

少し離れた場所に古いお寺があるというので行ってみる。ここに祀られていたのは、あのフビライハンによる元寇で、モンゴル軍を撃退したチャン・フン・ダオ(陳興道)。彼はまさにベトナムの英雄であり、その名が付いた場所はいくつもある。またフビライが3回目の日本遠征に来なかった理由としてベトナムでの敗戦があったとも言われており、そうであれば、日本もチャン・フン・ダオには感謝すべきかもしれない。

また小高くなった場所には樹齢数百年という大木が枝を張り出している。ここにも精霊信仰があるようで、この地は元々この大樹を祭っており、そこにチャン・フン・ダオの廟が組み合わされた可能性もあるらしい。今や一大観光地として、ベトナム人が多くお参りに来ていた。

街中に戻り市場を訪ねる。勿論国境だから国を越えて持ち出される商品が並んでいるところもあるが、コロナ禍の今は往来も少なく、商売も低調に違いない。昔の国営市場かなと思える立派な建物が2つもあったが、お客は殆どいなかった。私は何となく地元の茶葉を探したが、売っていたのはタイグエンの緑茶ぐらい。地元の茶が欲しいなら家から持ってくるというおばさんもいたが、遠慮しておいた。

まだ朝なのにどこへ行けばよいのか。Nさんと運転手が会話を始めると驚くべきことが分かる。彼は24歳の若者だが、ヤオ族だというのだ。私がヤオに関心を持っている、近所に茶畑はないか、と聞くと『ある』といい、『折角だから昼ご飯は家で食べよう』と言い出す。そして決め手は『鶏を絞めよう』だった。これはもうこの話に乗るしかない。

彼はまず郊外の市場で野菜や豆腐を買った。ベトナムでは固い豆腐を『ドウフ』、柔らかい豆腐を『トーフ』ということに気づいてちょっと興奮する。市場で買い物について行くのは何とも楽しい。それから知り合いのところへ行き、既に絞められた新鮮な鶏を受け取り、準備が完了する。

突然ヤオ族村へ

車で30分ほど行った山の中。突然向こうからバイクに乗った女性がやってくる。何と彼の母親で食材を取りに来て、これから料理に取り掛かるらしい。我々はそこから山に入ると、本当にきれいな茶畑があって驚く。ここで作られている茶が烏龍茶だと聞き、ここは台湾系が植えたのかと思ったが、どうやらベトナム企業の持ち物らしい。そしてさっきのお母さんや彼のおばあちゃんは、昔からここで茶摘みをして、小遣いを稼いでいたようだ。だから彼も幼い頃から茶畑で遊んで育った。

そして運転手君の家に行った。山の斜面の狭い道を入っていくと、そこにあった。既に食材を持ち買ったお母さんが準備をほぼ終えていた。見ると、薪で火をおこし、スープが旨そうに煮えている。テーブルにはさっきの鶏をメインに、ご馳走が並んでいる。何とも旨そうな鶏だ。塩をつけて食べる。

運転手君のお婆さんという人が出てきた。私より4つ年下だが、何とひ孫がいるというから驚いた。それが横で遊んでいた運転手君の娘だった。運転手君の母親は、お姐さんにしか見えないが、40歳ぐらいということになる。お婆さんが『主人はもう亡くなったので、家の当主として、一献傾けたい』と言い出し、地酒をぐいぐいやりだした。Nさんが応戦するも、とても敵わない。

誰だか分からない人々が数人参加して、いつの間にか大宴会になっている。私はひたすら難を逃れながら、鶏肉を食いまくり、スープを飲み干していた。お婆さんは『私が若かったら日本に嫁に行きたかった』と言い出す。この山の中で一体どんな苦労があったのだろうか。私のような者には計り知れない歴史を持っている。

茶畑について聞いてみると、随分前に茶樹が植えられ、お婆さんもお母さんも茶摘みは何度もしていたという。お婆さんは『最近は足が痛くて辞めたが、いい小遣い稼ぎになった』と笑う。茶畑が村にやってきたことは、村人にとって良いことだったと分かり何となくホッとする。ただ彼ら自身に喫茶の習慣はないように見え、食後に出された茶も、茶葉ではなく、薬草のようなものだった。食後のミカンを頂き、周囲を散歩する。大きな池がある。水も大事だろう。

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