台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(2)埔心 徐先生と茶葉改良場

5月25日(水)
5.徐先生とお会いし、茶葉試験場へ

翌朝今回の最大の目的である徐先生を訪問すべく、台北駅に居た。徐先生からは「各停に乗るように」と注意があり、従う。現在高速鉄道あり、特急ありの中、各停に乗るのは久しぶり。自動販売機で目指す埔心駅までの切符を買い、ホームへ。

電車は韓国大宇製。確か数年前、歌鶯に行った時に乗った。歌鶯は陶器製作が盛んな場所として行ってみたことがある。朝7時台のこの電車は通勤用。板橋や中歴などで降りる乗客が多い。

約1時間乗って、埔心駅へ。正直周囲には特に何もない。駅に着いたら電話するようにと言われていたが、何故か何度電話しても留守電になる。これは困った、と思っていると黄さんから渡された手書きの地図を思い出し、住所を見ながら訪ねて見た。結局駅から10分ほど歩いた所で徐先生宅に到着。先生もずっと待っていたらしく、驚きの表情。

先生のご自宅は駅前の通りに面していたが、そこから奥にかなり長い構造となっていた。実に雰囲気のあるいいお宅。居間を通り、物置を通り、ようやく家の中心であるご先祖が祭られている間へ。ご先祖は1700年代に広東省より渡ってきた客家。先生が子供の頃、この辺りは全て茶畑で人家はあまりなかったよし。

先生は既に私の来意をご存じで、早速新井さんの資料を下さる。先ずは写真。集合写真に各人の名前が入っており、誰が誰かすぐ分かる。そして最近書かれたいくつかの雑誌のコピーなど。貴重な内容であった。

先生は光復後の1952年にここ埔心にある茶葉試験場に入場。以来45年間を茶葉の研究、発展に尽くされてきた。その成果は退職直前に書かれた試験場の「場誌」及び最近出版された「台湾の茶」に詳しい。ただ先生が入場した1952年には既に 日本人研究者はおらず、その後の日台茶業関係者の交流の中で幾人かの人々をしている様子。実に流暢な日本語がそのことを物語っている。尚ご本も初めに日本語で書いてそれを翻訳していると言うから凄い。

先生は数年前に足を悪くされたが、私の案内をするためにわざわざ車の運転をして下さり、試験場へ連れて行ってくれる。感謝の言葉もない。80歳を越しておられるが、その行動力は実に精力的。今も日本人の書いた論文を翻訳していると言う。

試験場は駅から歩いて10分も掛からない所にあった。皆が「本場」と呼ぶ試験場、魚池や台東などにある試験場は「分場」であり、ここが本家。ただ正直何故ここに本場があるのか、不思議であった。先生によれば1903年に日本が試験場を作った頃はこの辺も一面茶畑(今は全く見られない)。鉄道が通り、政府のえらいさんがやって来るにも便利であった。昭和天皇が皇太子時代にこの付近を訪問、記念に植えた木もあったとか。当時は急行列車も停まる駅であったようだ。

本場はそこそこの広さがあったが、しんと静まり返っていた。製茶課に行くとようやく2人の職員がおり、徐先生に丁寧に挨拶する。退職したとはいえ、徐先生は権威ある顧問であり、一目置かれている。ここではあらゆるお茶の研究をしているとのことであったが、当日は場長以下、各地に品評会出席のため不在であった。

先生は慣れた手つきで事務所の電話を取り上げる。魚池の分場に電話し、誰か私の相手をするように依頼してくれている。これは力強い。分場も本場同様品評会などで人が出払っているが、課長の一人が対応可能とのことで、再び魚池へ向かうことが確定した。「結局本場には日本人の資料はない。あるとすれば魚池しかない」との結論だ。

その後本場内をご案内頂き、日本時代の建物などもかすかに残っていることを確認。そしてすぐ近くの壊れかけた日本家屋を眺め、「あれが試験場に派遣された昔日本人が住んでいた場所だよ」との説明を受けた。今やその面影を殆ど留めない埔心のかすかな記憶である。

6. 美味しい永康街
徐先生のご厚意に感謝しつつ、お別れし、台北に戻る。夜は前回色々と世話をしてくれた台湾人Jさんと会うことになった。彼は明日から日本出張と言う、忙しい時期にもかかわらず時間を取ってくれた。感謝。

Jさんの豊富なレストラン情報がきっと役に立つと思い、ゲストハウスオーナーHさんも誘う。待ち合わせ場所は古亭駅。正直私はここに来たことがなかった。しかし聞いてみるとかなり大きな駅で、若者が集まる場所だと言う。ゲストハウスに集う若者たちもこの辺りのディスコに繰り出すらしい。

Hさんのバイクで待ち合わせ場所へ。もう慣れた光景である。遅れてJさんが車で登場。また場所を移動する。Hさんはバイクで追走。永康街、今や台北でもおしゃれなスポットとなり、レストランや茶芸館が並ぶ一角。私はその昔回留という茶芸館に来た程度で、興味津々。

Jさんが入ったお店は普通の台湾料理屋。しかし出て来た物は創作料理でこれが美味かった。突出しで出て来た豆腐干はいい味出していたし、特に牡蠣と油条の炒め物は絶品。思わず唸ってしまった。Hさんは以前も来たことがあったようで、ちょうど仕事帰りの奥さんも合流して賑やかに食べた。

オーナーはアメリカでレストランをやっていた台湾人。味へのこだわりはかなりのもので、突出しのピーナッツを作る場面を実際に見ていたが、唐辛子をちょっと振ったりして、相当の時間を掛けていた。美味い物は簡単には出来ないらしい。

周囲にも気になるお店がいくつかあり、今後台北に来たら、毎回一度は永康街に行こうと考えるほどだ。

5月26日(木)
7. 再び埔里へ

翌朝先月訪ねて非常に気に入った埔里を再訪。バスで直接行く、自強号で台中へ行きバスで行く方法もあったが、何故か起き上がれず、高速鉄道で台中に行く。この方法だと前述の2つに比べてかなりの割高だが、速さは非常に早い。8時半に台北を出て埔里に10時半に着いてしまう。



本日も宿は民宿。既に連絡も入れており、バス停に妹さんが迎えに来る。昼ごはんはどうするかと聞かれ、埔里の名物を聞くと、肉圓と言うので、買いに行く。お店はシンプルで入り口で作り、持ち帰るか、中で食うか。持ち帰りを選択し、待つ。日本人だと分かると皆出て来て、色々と言う。何だか昔懐かしい光景である。

民宿に到着。早速肉圓を食べたが、ドロッとしたスープに丸まった肉が入っており、実に美味しい。あっと言う間に平らげたが、他にクリアーなスープまで付いており、満腹。しかも先月と違い相当暑いため、汗だくとなる。

そこへお父さんが登場し、これからの打ち合わせを兼ねて、お父さん秘蔵の紅茶を頂く。何にも入れていないのに甘い。民宿の泊り客にも勧める。何だかいい感じだ。

午後民宿夫妻と共に台湾農林の所有する茶工場へ向かう。今回のために、Jさんが三井農林時代を知る台湾人を探してくれていた。何と現役で働いていると言う。「日月老茶廠」と言うその工場は今や観光スポットであり、前回お父さんに案内してもらっていた。

お話を聞いた方は77歳。子供の頃この付近は全て茶畑であったと言う。しかも持ち主は三井農林(日本時代に日東紅茶などを台湾で生産していた三井財閥系企業)ではなく、渡辺さんと言う個人だと言う。個人がこんな広大な茶畑を、しかも紅茶を植えていたのか。しかし残念ながらこの方も子供であったので渡辺さんの印象などは全くない。

戦後台湾農林に接収されたこの工場でお茶作りをしていたが、その後故郷を離れ、別の仕事をしていたという。恐らく紅茶生産が下火になり、職を変わったと思われる。最近になり紅茶ブームが起こる。お茶作りが分かる人と言うことで呼び戻され、製茶指導に当たっている。確かにこれが戦後の紅茶史であろう。




コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です