台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(3)魚池 ついに茶業改良場へ

8. 紅茶の伝統を守る森林紅茶の葉さん

台湾農林を訪ねたが、情報を得ることは出来なかった。前回の旅でもう一つのヒントがあった。それは大来閣と言うホテルの陳さんと言う方が、新井さんの親族を最近案内していたと言う情報だった。この話をしてくれた天福茶荘の童さんを再び訪ねる。

童さんはお父さんの同窓生、相変わらずにこやかに迎えてくれた。高山茶から紅茶まで色々なお茶を飲ませてくれた。そして「お茶を買ってくれる必要はないんです。この場所から見る日月潭の眺めは最高なんです。日本人にも是非来て欲しい。無料で台湾の良い所を見て行ってほしい。」と言う。見ると外はスコール。激しい雨が降る中、我々はかなり長居した。

しかし肝心の陳さんは今日から3日間休暇とのことで、結局今回も会えずじまいに終わる。陳さんは日本語も堪能で熱心な方のようで、是非会ってみたかったのだが。どうやら台湾財界の重鎮、許文龍氏に新井さんのことを伝えたのも、陳さんらしい。

お父さんがもう一つ連れて行ってくれたのが、少し林の中に入り込んだところにある、森林紅茶。ここのオーナー葉さんも前回訪問した和果森林の石さん同様、日本時代の紅茶樹を守り、紅茶作りに専念している人だ。

ちょうど雨も上がり、製茶工場を訪ねると先客があり、2階に人がいた。何とエレベーターで2階に上がる。そこに製茶機が並んでおり、作業場になっていた。先客の2人はちょっと変わった服装をしている。聞けば大陸で修行した道教の導師という。お父さんとお母さんは痛く興味を持ち、帰りに民宿に連れ帰って話を聞いていた。

葉さんははじめ少し取っ付きにくい人かと思ったが、色々と話をしてくれた。ここ10年、紅茶の復興に尽力、自らも世界紅茶大会で入賞するまでになっている。基本的に夫婦二人で行っており、今後どうするのか、ちょっと心配ではあった。

日本時代のことについては、あまり記憶はないようだ。その昔日本人がやってきて、蓮華池という所に最初に紅茶を植えたことは聞いていたが詳しいことは分からないとのこと。雨も完全に上がったので退散する。それにしても森林の中で紅茶を飲む、涼やかな気分になった。

5月27日(金)
9. 車を丁寧に使う

埔里の朝はいつも快適である。太陽が昇ると日差しは強い。民宿内の木の下に居ると何とも言えない気持ち良い風が吹き抜ける。

朝ごはんは相変わらず素晴らしい。⇒http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/4354

そしていよいよ魚池へ向けて出発。何だか胸が高まる。ところがお父さんが行ったところは麓の自動車修理工場。実は昨晩夕飯に牛肉麺を食べに行った帰り、お父さんは微かな車の異変に気が付いたと言う。そして私を民宿に送り届け、そのまま車をここの工場へ持ってきたと言う。

夜の10時頃で工場の人も寝ていたが、起き出して来て、深夜に修理作業があったようだ。エンジン部品に異常があり、交換しただけさ、と平然と言うが、そんな簡単なものではないだろう。道理で出発する時に息子の車で息子も一緒に乗ってきた訳だ。修理が無理なら彼らの車を使うつもりだったと言う。多大な迷惑を掛ける。

お父さんは息子に言う。いつも言っている通り、車は丁寧に使わなければならない。毎日ほんの少しずつケアーしてあげることで、長持ちする。私はこの車に10年以上乗っているが、毎朝必ず点検し、異常個所を探す。

私の父は80歳で亡くなるまで自転車に乗り続けた。この自転車は20年以上使っていたが、いつも乗り心地が良かったのを覚えている。父が死んで、タイヤの空気を入れようと近くの自転車屋へ行くと、「あー、あんた息子だね。お父さんは自転車の手入れは欠かさなかったよ。どこ行くのも自転車だから元気だったよ。」と言われて、お金も取らずに隅々まで丁寧に点検してもらった。思わず涙が出そうになったことを急に思い出した。

10. ついに魚池茶葉改良場へ

そして修理なった車に乗り、ついに魚池茶葉改良場へ。前回は門前までであったが、今回は事前連絡があり、すんなり中へ通される。製茶課長が対応してくれた。彼は台東の試験場に20年勤務し、ここ4年こちらで働いている。単身赴任で週末は台東へ帰るらしい。

彼は1冊の分厚い本を差し出した。ここに全ての資料があると。それは「場誌」と書かれた本で、1996年に出された茶葉試験場の90年間の歴史が刻まれた極めて有益な本であった。中身は好きなだけコピーしてよいと言うので早速確認に入る。

新井さんの記述などを見るとこれまでの資料や徐先生の話のままであったが、試験場の歴代所長に関する記述や茶葉伝習場の卒業生名簿、など興味深いものがいくつかあった。しかし一体誰がこんな詳細記述をしたのだろうかと裏を見るとそれは何と退官直前の徐先生本人であった。確かに一番詳しいのは先生と言うことになる。

裏側に1938年建造の茶葉工場があったが、外観からの見学となる。檜造り、ということで、当時としては極めてモダンな建物であったろう。今でも現役で使われていると言うから凄い。中の設備もごく一部は当時のままとか。日本が台湾に入れた力の一旦を見ると思い。

更にその裏に、茶業文化展示館と言う建物があり、特別に中を見学させてもらった。そこにはあの許文龍氏が製造した4つのブロンズ像の一つが置かれていた。そしてこの試験場の歴史が語られていた。

更には資料として、新井さんから讃井元さん(京都帝大卒で新井氏の部下、戦後は農林技官)への直筆の引き継ぎ書が展示されていた。ここで初めて、文書ながら、生の新井さんと出会った。しかしその文字からは彼の人となりを読み取ることは出来ない。

何とか他に手掛かりはないかと、徐先生からもらった写真を製茶課長に見せると同じコピーを持っていた。そしてこの写真に写っている人で今も生きている人が二人いる、と言い出す。一人は日本人のTさん、この写真を持っていて提供したご本人である。この方の名刺は直ぐに課長の手元から示された。東京に戻ったら連絡を取ることとした。

そしてもう一人は台湾人。実は先月朱さんという方が無くなり、先週納棺したと言う。誠に残念であるが、歴史はどんどん遠ざかる思い。では、もういないのか、いや「楊さんは生きていますよ」との天の声。

製茶課長は電話機を取り上げ、何か大声で話している。そして「今から行きましょう。楊さんが待っています。」と言うではないか。突然の展開に戸惑う。

11.新井さんと働いた台湾人
製茶課長の車に先導され、埔里へ戻る道を行く。この辺りは昔紅茶畑であったと聞いていると運転席のお父さん。彼も興奮気味である。道から少し入った所に、いくつか家があった。坂を少し上ると向こうで手を振っている人がいた。それが楊さんであった。とても90歳には見ない。課長とは懇意らしく、握手を交わす。私に向かっていきなり「よくいらっしゃいました」と日本語で声が掛かる。

突然の訪問で驚いただろうが実に快く迎えてくれた。お手伝いの女性が果物を置いていく。家はこの辺りの伝統的な家屋か、平屋で風通しが良い。楊さんは既に日本語を殆ど忘れており、耳も少し遠くなっているため、課長が大声で通訳する。さっきの電話も本人と話していたことが分かる。

新井さんについては「熱心で厳しい人でした。いつも事務所に居るタイプではなく、茶畑などを歩き回っていました。」と印象を語る。よく覚えているのは亡くなった時のこと。自分は立ち会っていないがと断ったうえで「亡くなった晩、泊まり込んでいた同僚が茶畑のほうに歩いて行く新井さんの姿を見たんです。思い入れがあったんでしょうね。」と。

1947年2月、当時すでに日本時代は終わり、試験場も接収されていたので、新井さんの葬儀などは行われずに、ただ数人で遺体を茶園に持っていき、そこで荼毘に付したと言う。それがその時出来た新井さんへの最高の敬意だったようだ。

ただ新井さんの考え方、日常生活、などについては、「私とは身分が違う方だったので」と特にコメントは得られなかった。しかし新井さんと実際に一緒の働いた方から直接お話を聞き、感慨ひとしおであった。

お父さんも途中で「新井さんに霊を感じる」と、何やら神秘めいたことを言い出し、いよいよこの旅もある種のクライマックスを迎えた。



 

 

1 thought on “台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(3)魚池 ついに茶業改良場へ

  1. 懐かしい日東紅茶。高校生のころは毎朝この紅茶とトーストでした。それにしても当時の技術者の熱い心にふれる想いです。

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