台湾茶の歴史を訪ねる旅Ⅱ2011(1)台北 お茶とグルメ取材に付き合う

【台湾茶の歴史を訪ねる旅2】

4月に行った台湾茶を訪ねる旅、自分の中でその反響は大きかった。全く台湾茶の歴史を知らなかったことに愕然とした。と同時に台湾の人々、お茶に関わる人々でもそれほど詳しく知っている人はいないことを発見。私の中にちょっと燃えるものが芽生える。

前回帰国前日に徐先生と交わした約束を果たすため、私は香港行きを延期して、台湾に再度向かった。2011年3回目の台湾である。しかし直前まで北京に行っていたこともあり、徐先生には直前のFaxで行くことを伝えたのみ。また黄さんにも連絡もせずに出掛けることになる。大丈夫だろうか、いやきっと大丈夫、それが台湾だから。

5月23日(月)
1. 雑誌に台湾茶の記事を寄稿

実は前回台北から戻って直ぐに1つの記事を依頼された。「台湾茶について」という非常に漠然としたテーマであり、歴史・産地・種類・淹れ方などを網羅して欲しいと言う内容。しかも期限は20日間。その間に北京に2週間行くこともあり、とても出来そうになかったが、まあ、好きな物が向こうからやってきたのだから、という安易な理由で引き受ける。

ところがお茶の淹れ方などは正式に習ったこともなく、困っていると、何と北京在住者の中に台北陸羽で本格的にお茶を習った日本人女性がいたのを思い出し、早々連絡を入れ、北京の自宅にお邪魔し、淹れ方を教えてもらった。特に陸羽はそうなのかもしれないが、日本的な文化が随所にちりばめられ、勉強になった。特に後片付けの作法やうまくいかなかった時の動作など、実にきめ細かく、感心した。

台湾の茶芸の歴史は僅か30年。また日本時代の名残で日本文化が入っている台湾ならではの茶道である。また台湾茶の歴史もちょうど旅をした後であり、より理解が深まった。こぼれ話として、魚池の新井さんの話と和果森林の石さんの話も載せてみた。今後はこぼれ話を連載化できないか検討したい。

今回記事を依頼してくれた編集長Oさんと会う。Oさんは最近締め切りに追われており、忙しい中、時間を割いてくれた。元々今年1月知り合いの紹介でお目に掛かり、同郷であることが判明。特にOさんが新聞社時代、私の実家のある街に駐在していたと言う奇遇。相変わらずご縁に支えられて、生きている。

2. 中央図書館で資料集め

今回も泊りはEz Stay。混んでいて個室にならず。何と東京のオフィスで隣に座るMさんがたまたま台湾出張にきていて、2人部屋となる。前回の15階から18階の部屋に移ったが、ネットが繋がらずちょくちょく15階に出入りする羽目となる。4月と違い、5月後半ともなると台北はかなり暑い。Mさんと二人、眠れぬ夜を過ごすこととなった。

翌朝、Mさんと朝食を食べに外へ出た。ホテルの裏には何軒もの朝食を出す店が並ぶ。サンドイッチも麺もある。我々は今回、おにぎり、に挑戦。おにぎりと言っても日本のおにぎりではなく、かなり巨大な物体。中に好きな具を詰めるのだが、肉あり、卵ありでギューギュー詰めている。これはこれでなかなかイケル。

その後Mさんと別れて、徒歩で中央図書館へ。二二八公園を超えて、少し歩くと中正記念堂がある。その真ん前。しかし二二八事件の時、この辺りをデモ隊が占拠。そこがその後中正記念堂になるとは何たる歴史の皮肉。

図書館はかなり大きい。大きなバックは全てロッカーに預ける。外国人でも入ることは出来るが、何と私はパスポートを忘れてしまう。ダメもとで聞いてみると、入ることは可能とのこと。取り敢えず入り、PCでお茶関係の書籍を検索。

そして係の女性に本が見たいと言うと「あれ、カード持ってないの」と聞かれる。万事休すかと思うと、快く本を探してくれる。この辺が規則にうるさい日本と柔軟性が高い台湾の違いか。更に検索を掛けたいと言うと「本当はダメなんだけどね」と言いながら、数冊の本を探し出し、見せてくれた。これはもう外国人に対する個人的な親切だろう。

結局思うような資料は見付からなかったが周辺資料をいくつかコピーして帰る。それにしても、戦前の日本時代の資料は殆どなかった。国民党が入ってきた時に焼いてしまったと言う話は本当だろうか。歴史は全て中国史となった台湾に、日本時代の資料は不要なのだろう。

3.台湾をよく知る日本人と会う

ゲストハウスオーナーのHさんに誘われて、お昼に向かう。Mさんも一緒だ。Hさんから地下鉄バスカードを借り、早々乗ってみる。北京でもバスを使い放題に使った私だが、台北のバスは地下鉄と料金はあまり変わらず、面白味は少ない。それでも降りる乗客に向かい「謝謝」などと頭を下げる運転手もいて、如何にも台湾的。

しかし20年前台北でバスに乗るのは命がけ、などと揶揄されるほど、安全面に問題があった。何しろ運転手は早く運転するのが良いとされ、上極の安全を顧みない急な追い越し、バス停飛ばし、急ブレーキ、などが横行。実際に知り合いの駐在員は赴任早々急発進で手を着き、骨折。また別の人は急ブレーキでむち打ちになっている。今が如何に改善されたか。

そごうで待ち合わせ。このそごうも懐かしい。20年前の駐在時、何かと言えばそごう、であった。日本食もあったし、日本の本も売っていた。当時は地下鉄もなく、不便な印象があったが、現在では街の中心。そこへLさんはやってきた。台湾在住30数年?ジャーナリストとして、数々の人脈を持ち、蒋経国時代の台湾を知る人物だ。

皆で近くの広東料理屋へ。台湾の広東料理は昔懐かしい味で大好き。昼から大量の注文で大満足。その中でLさんに台湾の政情について意見を聞く。「来年の総統選挙、接戦には成るが、最後は国民党だろう」との結論。但し選挙は水物、何が起こるか分からない。それにしても馬英九が再選されれば、中国と更に接近し、その内一緒になるのではないだろうか。以前であればそんな話はなかったが、最近の経済的な影響力は中台を相当近づけている。しかしそれは日本にとって良いこととは思えない。

その後広東料理屋の向かいにある和昌茶荘に移動する。和昌茶荘は渡辺満里奈の本で紹介され、日本人に有名なったお店。現在は女性を中心に常に日本人客がいる。私が初めてこのお店に行ったのは20年以上前。当時は先代の張さんが頑張ってお店をやっておられた。勉強熱心な人だった。最近はあまり来ていない。

Lさんがつかつかとお店に入ると、現在の店主の張さんが親しげに迎える。先代時代からの古い付き合いだと言う。店に居た台湾人客とも旧知の仲で、日本語で挨拶が飛び交う。何だか不思議な感じ。台湾茶の歴史について聞くと、2-3人が色々と考えてくれる。有難い。

しかも我々はお客ではないと断りながら、1つのテーブルを占拠。ここでミーティングを始めたが、誰も気にしない。店の人は時々お茶を淹れてくれ、いつまでもいていいよ、という顔をしている。何だか申し訳ないような、営業妨害のような、なんというか。これぞ台湾かもしれない。

4. 取材に付き合う

ゲストハウスのオーナーHさんにはもう一つの顔がある。それは「歩く台北」と言うガイドブック(http://www.yyisland.com/yy/tpe/)の製作者。そもそも私がゲストハウスに泊まったきっかけも、こちらのルート。

Lさんのお話を聞いた後、肩が凝ったなと言うと「いいマッサージ屋がある」とHさんに紹介され、ゲストハウスの道の対面にあるビルへ。「知足健康中心」は脚マッサージに店かと思ったが、全身もやっている。症状を告げると即座に全身マッサージへ。

女性ではあったが、揉み方は強く、的確。そして首の周りの凝りを解していく。先日北京で行き付けの「邱和堂」(http://qiuhetang.at.webry.info/)で何回も解してもらいながら、また凝ってしまっていた。ようは体に力が入り過ぎ。生活を考えなければならない。特にPCの時間を減らさねば。60分間、じっくり揉んでもらい、かなり回復。「歩く台北」ガイドブックを持参すると割引も得られ、ちょっとお得な感じ。

そして夜はHさんの取材に参戦。ちょうどガイドブックの改変期であり、自らが食べて美味ければ掲載すると言うHさんに付いて、再びそごう付近へ。行ったお店は四川料理、客家料理、海鮮料理と書かれており、かなり庶民的な、しかしこぎれいな所。中に入ると会社帰りのサラリーマンがビールなんか飲みながら楽しそうに話している台湾の居酒屋?

料理はなかなか美味い。特にいんげんと揚げた大腸の炒め物が絶品。酒のつまみに丁度良い。このお店は一皿100元を売り物にしているようだが、130元、180元などもあり、メニューは非常に多彩。そして何と日本語メニューも備えており、日本人にも是非来て欲しいと老板は言う。彼は元コックで自らの店を持ったようで、味にはうるさい。独創性もありそうだ。こんな店が台北にはひしめいている。食の質が上がるのは当然と言えよう。

更にすぐ近くにティーラウンジ、御茶園を見学。現在台湾では烏龍茶や緑茶とフルーツなどを混ぜて飲む飲料が流行。このお店はかなりきれいで店内で飲むこともでき、場所が良いことから流行っているのだろう。夜も9時過ぎでも、行列が出来ていた。はて、このお店はHさんに採用されるのだろうか。我々は何も飲まずに撤退した。




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