台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(7)台北 台湾茶のルーツを

18. 二二八事件発祥の地

翌朝一番で恵美寿の黄さんを訪ねた。勿論魚池を行ったことを報告するためだ。黄さんは私の報告を満足そうに聞いてくれ、色々と話をしてくれた。そして一言、「新井さんや日本時代の日本人の功績は大きい。しかしそれを誰も書いていない。我々は既に日本語世代ではない。もし我々がいなくなれば、もう後は日本時代の話が分かる人間はいなくなる。日本人として是非とも新井さん達のことを書き残して欲しい。」と。

これには大きく頷いたものの、難題があった。「黄さん、何か資料ないですかね?」思わず尋ねた。すると黄さんははっきりと「ない」と言う。あれば誰かが書いていたということだろう。それにしても一体どうやって書けと言うのか。黄さんも勿論考えていた。

「徐先生しか分からない。紹介するから徐先生の所へ行け。」また指令が下る。しかし徐先生とは何者で、どこにいるのだろうか?それを聞こうとしているとお客さんが入ってきた。それはお客ではなく、雑誌の取材に来た女性記者2人組。黄さんは私の方から意識が離れてしまい、記者に向かって昨今の茶業について語り出す。

茶の特集記事を書くと言う記者は事前に質問をメールしており、話題はそちらへ。黄さんは質問に対して熱弁を持って回答。20分ぐらいで話を切り上げ出掛ける。私も当然のようにお供する。どこへ行くのか?ちょうど店の向かい側で媽祖の周年行事が行われていた。台湾人にとって如何に媽祖が大切な存在であるか、それは海を渡ってきた大陸系にとり、命を預けた相手であり、無事に台湾へ運んでくれた恩人なのである。粗略には出来ないと言う。

「材木街」と呼ばれ、木材加工業が今も軒を連ねる寧夏路を南へ下る。直ぐに警察署が見える。市政府警察局大同分局。昔の台北北警察署。台湾に議会を請願した林献堂、蒋渭水両氏が逮捕・拘留された場所だそうだ。建物は日本時代によく見られる赤レンガ。

更に下ると静修女中と言うカトリック系の女子高がある。1917年スペイン人神父により創立されたと言うが日本時代は日本人も学んでいたのだろうか。それとも台湾人のためにあったのだろうか。

南京西路で右折。ここは昔円公園(円環)と呼ばれた繁華街。私が初めて台湾に行った1984年には道の両脇びっしりと屋台が並び、非常に賑わっていたが、現在では円形の建物を作ってしまい、結果的に機能しなくなっている。夜市としては、北側の寧夏夜市が有名で、ここの食べ物は美味しいと評判。残念ながら最近は朝寧夏路に来ることが多く、夜の味わいを知らない。

黄さんが立ち止まる。向かい側に巨大な法主公廟と書かれた建物が聳える。何だ、あれは。2階から4階まで廟である。元々はこの辺りで茶葉取引で財を成した商人たちに信仰されていたという。何故このような形になったのだろうか。

しかし黄さんが立ち止まったのは、別の理由からだった。男装社と書かれてビルの前に碑があった。「二二八事件発祥の地」。1947年に闇タバコ取り締まりのいざこざから端を発したこの事件は国民党による台湾人数万人の殺戮に発展、台湾全土を恐怖に包み込んだ。その様子は1989年に公開された「悲情城市」と言う映画に詳しい。当時私は台北に駐在していたが、戒厳令解除が間もなくのこともあり、二二八を公に語ることはタブーであった。東京でこの映画を見て「こんな映画を作って大丈夫か」と言うのが率直な印象であった。

官吏によるタバコ強奪、それがこの場所で起き、そして今では碑が建っているが、残念ながら気に留める人は多くない。時代は過ぎて行ったのだ。今や中国大陸との経済交流の活発化が、台湾人、特に若い台湾人の抵抗感をかなり薄めている。

19.茶葉公会を訪問

台湾には茶に関する組合が3つ存在する。その理由が行政による縦割りと聞けば、日本を想起する。先ずは台湾区製茶工業同業公会へ。南京西路よりちょっと入ったビルにあり、普通では分かり難い。

ここでは総幹事の藩さんが対応してくれた。中国大陸各地の茶処との交流を物語る茶餅や額など記念品が展示されている。日本語で作られた茶に関するDVDも流してくれたが、話は専ら法輪功へ。何故なら2人の記者は「新紀元」という法輪功系の雑誌社の人間であったからだ。中国大陸では法輪功はご法度だが、ここ台湾ではごく普通に活動しており、健康のために修練する人が結構いると言う。

ここで1冊の本を貰った。「台湾の茶」と言う題名。著者は先程黄さんが紹介すると言っていた徐先生だ。徐先生は元茶葉改良場研究員とある。この本を徐先生は先ず日本語で書き、日本で出版、その後製茶公会が国語に翻訳して出版したそうだ。これだけの立派な本を日本語で書けると言うだけでも尊敬できる。お会いするのが楽しみになる。手掛かりは得た、と思えた。しかし公会にも日本時代の日本人に関する資料・情報は残念ながら残されていなかった。

昼の時間となり、黄さんより「台北で一番美味しい魯肉飯を食いに行こう」と声が掛かり、出掛ける。お店は小さく、満員。何とか席を確保し、魯肉飯(沢庵が一切れのっている)と肉のスープを食べる。私は元々魯肉飯が大好きであるが、確かにここのは昔懐かしく、旨い。大満足。

午後は台湾区茶輸出業同業公会と台北市茶商業同業公会へ行く。この2つは同じ場所にあり、スタッフも兼業のようだ。公会には台湾茶の歴史が飾られ、早期の買弁、李春生が台湾茶業の父と書かれていた(ちょっと驚き)。昔茶葉を包んだ包み紙の展示もあり、なかなかいい雰囲気。

ここには媽祖が祭られており、皆で拝する。以前は別の場所にあったものを、ここへ移したと言う。早期には中国大陸から海を越えて台湾にやってきた人々、そして茶師を招き、茶を作り、その茶を輸出した。全てにおいて海が関係し、今より遥かに危険な航海の中、無事でいられるのは媽祖のご加護という訳だ。その精神は現在でも続いている。

20. 大稲埕
黄さんに率いられて大稲埕へ。河沿いに城門のようなものがあり、「大稲埕」と書かれている。大稲埕は清末から日本統治時代にかけて,経済、社会、文化の中心地として台湾の発展の中心地であり、かつ人文等の学術の中心地でもあった。

埠頭から淡水河を眺める。往時を偲ぶものはあまりなく、僅かに清代に台湾で使われていた唐山帆船の模型が展示されるのみ。対岸には高層マンションが並び、橋がきれいに架かっている。なかなかいい風景である。

この埠頭付近には1860年代以降、茶商が並び、淡水側上流から運ばれた茶葉を収集し、中国大陸へ送り出していた。特に1880年代、地方有力者であった林維源と李春生は、大稲埕に建昌街(現在の貴徳街)を整備し、ここに洋風店舗を設立、それの貸し出しを開始し、洋風建築を用いた商業活動が行なわれるようになった。日本時代に入った1896年には人口3万人の一大都市となり、茶商は252を数えたという。

その貴徳街に行って見た。非常に細い道であり、当時は広い道がなかったのかと訝る。今は殆ど昔の面影はないが、道の真ん中まで来ると古いバロック風のがっしりした建物が目に入る。これが1923年に建造され、唯一取り壊しを免れた錦記茶行である。

3階建てでバルコニーもあり、窓も独特でかなりおしゃれな様子。台湾初の水洗トイレがあったとか。ちょうどこの年台湾を訪問した昭和天皇(当時は皇太子)も見学に来たとの話がある。1階部分は数段高くなっているが、これは淡水河の氾濫に備えたもの。

現在は使用されておらず、何となく薄暗い印象を与える建物ではあるが、当時は相当豪華な風情であったことだろう。ここにも茶商の力がどの程度の物であったかが見て取れる。

更に行くと「李春生記念教会」がある。李は外国人宣教師と出会い、洗礼を受け、クリスチャンとなった。同時に英語も習得し、1865年に樟脳の視察で訪れたイギリス商人ジョン・ドッドの買弁として、大いに活躍した人物である。当然巨万の富を築き、この教会もその資産の一部で作られたのだろう。

またその反対側にあるレンガ造りの建物は「港町文化講座」。1921年林献堂、蒋渭水両氏により設立された非武装の民主団体。後に両氏は台湾の議会を請願して逮捕される。因みに蒋渭水氏の記念公演は黄さんのお店のすぐ近くにある。

最後に老舗の茶荘を訪問。王錦珍茶荘という名前のその茶荘は大稲埕埠頭の脇、貴徳街に入る道の所にあった。中に入ると先客がおり、話が弾む。聞けばこの主人、広東の方で商売をしており、現在茶葉収穫の季節に合わせて、帰郷しているらしい。店は昔の造りで、奥には茶の缶が並び、如何にも茶商と言う雰囲気が出ている。

我々の横をスーッと通り抜け、外へ出た老人がいた。主人の父親だと言う。にこやかに、そして無言で去る。この人が先代、王明徳さんかなと思ったが、誰も尋ねないので聞きそびれた。




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