台湾茶の歴史を訪ねる旅2011(6)埔里 ご縁で魚池茶業改良所へ

4月24日(日)
16. ついに魚池へ

翌朝起きると、民宿のご主人、兄妹のお父さんである梁さんが待っていてくれた。先ずは朝食を頂く。眺めが絶景の母屋でテーブルに着く。腐乳、卵焼き、ゴーヤの煮物、アスパラガスのお浸し、そして地瓜のお粥、実に丁寧に作られており、コンパクトで美味しい。日本の旅館の朝ごはんを思い出させる。

そして荷物を纏めて、梁さんの車に乗り込む。はて、どこへ行くのだろうか。何と家族連れのお客さんと一緒にブドウ園に行くと言う。何だか久しぶりだったので着いて行く。そのブドウ園は不思議であった。何とブドウが木になっていた。それも幹に直接ブドウが付いていたので、ビックリ。ちょっとグロテスク。ブラジル産とのこと。子供たちは大喜びで盛んに採り、そして頬張る。

お客さんと別れ、梁さんと二人旅へ。日月潭に道を取る。20分ほど行くと最近出来たという向山遊客中心へ行く。ここからの眺めが良いと梁さんが気を使ってくれたのだ。日本人が設計したと言う建物は低く湖を捉えており、なかなか優雅な造り。中には日月潭の文化や歴史が展示されており、日月潭紅茶の宣伝にも余念がない。

そして愈々魚池の茶葉試験場へ向かった。ここは日月潭の水里から少し行った小高い山の上にある。本来であれば歩いて散歩がてら上るらしいが、今日は時間もないので、車で上へ。アッサム種の茶樹を両側に見ながら上ると、試験場へ到着。ここからの眺めはよく、日月潭が一望できた。今日は土曜日であり、多くの人がここからの眺めを楽しむ。

梁さんは門番に「知り合いがいるので中へ入れて欲しい」と交渉を始めたが、頑として聞き入れたれない。土日は開放しなようだ。それはそれで仕方がないが、試験場の建物の後ろに見える木造の建物が気に掛かる。梁さんによれば、あれが日本時代に建てられた茶工場で現役だと言う。やはりここで紅茶の研究をし、紅茶を作っていた日本人がいたのだ。

写真を撮りながら少し下る。するとそこに記念碑が見える。「故技師新井耕吉郎記念碑」と書かれており、その横の解説を見ると何と「台湾紅茶の守護者」とあるではないか。この人は一体誰なんだろうか。どうしてここに碑があるのだろう。よく読むと新井さんは日本時代の最後の所長だったようだ。それでも碑が建つのだから余程の貢献があったのだろう。実に興味深い。しかし梁さんに聞いても分からないと言う。この碑は古いが新井さんのことが語られたのはごく最近のことらしい。兎に角よく分からないが面白い物が出て来た。

山を下り、水里へ戻り、大来閣というホテルに入る。何故ここに来たのかは分からない。何と天福銘茶でお茶を飲むらしい。正直天福はお土産物屋さん、というイメージしかなく、ちょっと身構える。梁さんは駐車スペースが無いとボヤキながら、いきなりホテルの横に停めてしまう。いいのだろうか。すると店から女性が出て来て、駐車スペースを空けた。

この女性、童さんは梁さんと同窓生。30年に渡り、茶の販売に携わってきたベテラン。淹れてくれたお茶もどうやらお店の物とは違うらしい。「お茶が美味しいよ」、とか「買ってね」、などは全く言わず、返って、「ここからの日月潭の眺めは最高よ」と言い、外へ出るドアを指さす。確かにここは絶好のロケーション。写真を撮る。

童さんの話によると「試験場の新井さんに関してはこのホテルの総支配人が詳しい。3年ほど前、新井さんの親族がここを訪れた際も、彼が案内していた」と言う。これは貴重な情報だ。新井さんの子孫は台湾に関わりがあるようだ。しかし残念ながら総支配人は休日で出勤していなかった。次回を期そう。

埔里へ戻る途中、製茶工場を見学する。ここも魚池にある。行くと古そうな工場であった。日本時代の建物ではないとのことであったが、年代を感じる。中は最近の流行を取りいれ、ショップがある。その奥には現役の製茶場が見える。「台湾農林魚池茶葉製茶工場」と書かれている。周辺には茶樹が植えられており、この付近が茶園であることも分かる。

ここはもしやすると終戦後日本から接収した場所ではないだろうか。そう思いながらも確認できるものは見付からない。辛うじてこの工場が1959年に建造されたものであることがプレートから見えたのみ。日本時代の紅茶との関わりは謎のまま、取り敢えず黄さんの指示にあった魚池訪問は一応無事に終わった。

17. 埔里の日本人ロングステイヤー
ランチの時間になる。夕方には台北に戻りたい私。梁さんが最後に連れて行ってくれた場所は何と日本食堂。埔里の街中にはあるが、ちょっと分かり難い場所。梁さんによれば、「日本人で定年退職した方と台湾人の夫婦がやっている。週に二日は休みだから、今日はやっているか心配。」と言う。

到着すると驚くことに民宿の家族全員が集合している。しかも私が部屋に忘れたタオルも持ってきてくれていた。これには感激。既に大分待たせたらしく、美味しそうにカレーを食べていた。私もすかさずチキンカレーを注文し、席に着く。純日本風のカレーに味噌汁が付く。うーん、なかなか良い。

ここ楽活小屋は日本人で長く台湾で勤務し、定年後ここへ移り住んだOさんと台湾人の奥さんが絶妙のコンビで経営していた。このお店にはカレーなど日本食メニューが並び、カウンターの上には煮物や卵などが置かれていた。かなり庶民的な感じであるが、店内の天井が非常に高く、山小屋風でもあり、何だかのびやかな気分となる。またOさんに台湾茶の歴史に関する資料を訪ねるとあれこれ考えてくれたが手掛かりは得られなかった。

Oさんに何故埔里に引っ越してきたのか聞いてみると「気候が良い、特に台中や高雄と比べて湿気が少ない。高速鉄道の開通もあり、交通が便利。物価も台北などより安い。」とのこと。埔里と言えば、台湾でのロングステイ受け入れの窓口的な存在。但し日本人第一号であるN夫妻が何かと話題をまき散らし、日台双方にちょっとした行き違いを発生させた場所でもある。

それでも近年埔里に住む日本人は少しずつ増加、大学の先生なども含めて10名程度が住んでいるという。確かに今回泊まった民宿を見ても、なかなか住み易そうな場所であり、空気もよい。避暑地としてはよいかもしれない。ロングステイ先としてリストには入れておこう。

そして親切にしてくれた梁さん一家と別れ、バスに乗り、台中へ。今回は行きとは違い、慣れたもの。直ぐに高速鉄道にも乗り継ぐことが出来、あっと言う間に台北駅に着いた。確かに台北は暑く感じられ、すぐに埔里が懐かしくなった。

因みに台湾の高速鉄道の乗り心地は快適。シートも広いし、台中‐台北間だと1時間掛からない。自強号だと今でも2時間以上掛かるから、かなりの短縮。しかし料金が700元は高い。バスなら140元だそうだ。次回はバスを検討しよう。



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