大分茶旅2021(4)木浦から竹田へ

Tさんから聞いた話の中に、吉四六さんが出てきた。確か大分焼酎の名前として聞いているが、九州ではとんちの一休さん並みに有名な人らしい。彼が茶にも関係あるかもしれないというので、普現寺という寺にその墓を探しに行く。寺は鎌倉中期創建とあり、非常に落ち着いた山間のいい景色が見られた。吉四六さんの墓は外にあったが、吉四六とは代々受け継がれた庄屋、廣田吉右衛門のことで、一人を指すのではないらしい。

ランチは街道沿いの食堂に入る。とり天が食べたいと思っていたが、チキン南蛮や唐揚げも頼み、皆でシェアした。昼からどう見ても食べ過ぎの旅になっている。鳥の天ぷらが意外と美味しいことに気が付く。東京ではなぜあまり見かけないのだろうか。

午後は木浦を目指す。途中の看板に『ととろ』という文字が出てくる。私は見たことはないが、ジブリアニメ『となりのトトロ』のバス停があった。ここは撮影スポットらしく、カフェまであったが、平日でお客はいない。とにかくかなりの山の中へ入っていく。そこから1時間ほどで何とか木浦に着いた。

今回大分に来たメインはここだった。1875年政府の要請で紅茶伝習所が開かれたのが、熊本の山鹿とここ木浦だったのだ。この伝習所は翌年人吉でも開かれたが、残念ながら成果が上げられなかった。その後はインド風製法で再度伝習が行われているが、それも明治でほぼ消えてしまった。国産紅茶の歴史は失敗が多く、残念ながら地元でもほぼ知られていない。現在『木浦』で検索すると、韓国の『モッポ』が出てきてしまい、国内での木浦の知名度は高くない。

Oさんが事前調査してくれ、伝習所の場所は郵便局の裏とのことだった。土産物などを売る町の施設が隣にあり、聞いてみると、その横だった。ただそこは川沿いの空き地で草が生えているだけ。郷土史家が作った本によれば、確かにここが伝習所となってはいたが、そこに『インド風』の文字が見られたので、最初の場所ではなく、数年後の伝習所だった可能性もある。

戦後共同工場が出来るなど、一時は茶業が盛り上がった時期もあったが、現在は茶農家が2-3軒あるだけらしい。その中で、『宇目紅茶』というブランドで、紅茶作りをしている人もいい、小さな茶畑は川沿いに見えたが、残念ながら会うことはできなかった。街の人に聞いてみると『木浦は鉱山で栄えた町。恐らく明治初期は鉱脈を掘りつくし、他業への転換が必要だったのではないか。結局その後三菱が鉱山経営に乗り出し、イギリス人も招かれ、近くには洋館もある』とのことだったが、茶については首を傾げた。

そこから山道を抜けて竹田市を目指した。途中に神楽の里という道の駅を通ったので、何か食べるものはあるかと物色するも、店はほぼ閉まっていた。仕方なく2時間かけて竹田市に着く。予約した宿へ行ったが人影はない。かなり大きな宿だが、今日泊まるのは我々4人だけらしい。自慢の大浴場も閉まっていた。部屋は狭く、居心地が良いとは言えなかった。

宿から歩いて5分ぐらいのところに食堂があるというので出掛けた。この宿の付近は街の郊外にあり、食べるところがちょっと心配だったが、それは杞憂に終わる。唐揚げで有名な店の支店があり、昼に続き唐揚げ、チキン南蛮、そして鳥スープと鶏肉のオンパレード、鶏肉好きとしては大満足。1日でどれだけ鶏肉を食べたのだろうか。店の個室に入り、お茶談義に花が咲く。

木浦の繋がりで言う竹田とは、授産事業で紅茶会社が出来たとか、明治中期に開かれた木浦の伝習所に派遣された教師が竹田の人だったとかいう、断片的な情報だけだった。現在茶業関係のものを見付けることはかなり難しい。

4月9日(金)田能村竹田と広瀬武夫

朝早く起きた。今日は朝食も出ないが、まだ腹が一杯なので、散歩に出た。取り敢えず駅の方に向かって歩く。川に朝日が昇っていくのがよい。豊後竹田駅の後ろは崖になっており、水が落ちている。明治期に建てられたという妙見寺の山門が実に見事だった。駅舎の中には滝廉太郎の像がある。滝廉太郎はこの地で一時期を過ごし、そしてあの荒城の月を作曲した。今回はその舞台、岡城は横を通っただけになった。

駅前には田能村竹田の小さな像が建っている。竹田市に来た理由、それは江戸期の煎茶文化に大きく関わった竹田の故郷を見たかったからだ。駅前から続く通りには、竹田の南画がいくつも表示されていた。取り敢えず一度宿に戻る。Oさんは少し遅れるとの連絡があり、後の二人は既に宿を出てどこかへ行ったという。

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