大分茶旅2021(5)竹田から大分へ

街中まで車で行き、先ずは老舗和菓子屋但馬屋に入った。創業200年、但馬の国ともかかわりがあるらしい。菓子販売部と喫茶部がある。土産の菓子を買い、開放されている店内を見学する。それから生菓子付きのお茶セットを注文して朝ご飯とした。これだけの老舗があるこの街、侮れない。

それから近くにある竹田市歴史文化館へ向かう。ここに滝廉太郎や竹田に関する展示があった。併せて岡藩や中川家の歴史も学ぶ。この文化館の後ろに竹田荘がある。田能村竹田の住まいや墓がある、私のお目当てはこちらだ。ここはかなり高い場所があり、エレベーターで昇った。

家がきれいに残っている。茶室もある。敷地が思いの外、広い。頼山陽など多くの客人がここに泊まったのだろう。竹田の文化人らしい様子がよく見える。石碑類も沢山あり、その中にはちょっと気になるものもあったが、さすがに古いものは文字が読めない。何気なく受付に居た方に聞いてみると、何と文化館に資料があるはずだと言って、自ら下へ行き、コピーを取ってきてくれた。何とも有難い。

竹田の墓はこの家の裏山の中にあるというので、一度外へ出てまた登っていく。かなり急な坂があり、更に横道を入っていく。かなり奥の方にその墓はひっそりとあった。表示がなければそこへは行かないだろうという場所だった。如何にも竹田らしい眠り方かもしれない。

その山道を降りて行かずにそのまま歩いて行く。何故か『広瀬武夫の墓』という表示を目にしてしまったのだ。あの日露戦争で英雄になった広瀬は竹田の生まれだった。ところがその表示からかなり歩いても辿り着けなかった。Oさんは車を取りに戻り、後から来てくれた。茶屋の辻、というこの場所は、西南戦争の激戦地であり、薩摩も政府も双方多くの兵が亡くなった、千人塚と呼ばれる塚があるところだった。

実は広瀬家もこの戦いで家を焼かれて、飛騨高山へ引っ越したという。ようやく見付けた記念碑は『広瀬武生誕の地』だった。そしてその先のちょっと高い場所にその墓が現れる。広瀬はロシア語が堪能で、ロシア娘との恋も伝わっている。柔道六段。そしてそこから車で街中に戻る。巻き寿司が評判という店で買い込んで、ふと振り返ると、そこは広瀬神社であり、広瀬の像も建っている。彼はいつの間にか神になっていた。

大分で

駅まで車で送ってもらい、Oさんと別れた。ここから大分まで電車で行く。先ずはホームで巻き寿司を頬張り、電車に乗り込んだ。そこからのどかな田舎を眺めながら、揺られていく。乗客も多くはない。全く何のストレスもない春の日、思わず目を閉じてうたた寝してしまう。

大分駅に着くとそこは都会だった。ちょっとそのギャップに悩む。駅では大友宗麟の像が出迎えてくれた。キリシタン大名宗麟については、非常に興味がある。そこから荷物を引っ張って、宿まで歩いた。いつもよりちょっといい宿が安かったので泊まることにしたのだが、駅近の方が楽だっただろうか。

荷物を置くとすぐに外へ出た。先ず向かったのは大友氏の館跡。今は庭園など一部が復元されていた。これからその遺構が整備されるのだろう。それから城まで歩いて行く。今日はワクチン接種会場となっており、中を見ることはできず、外堀だけで終わる。急に腹が減ったので、とんこつラーメンと餃子を食べる。そして広いお部屋、大きなバスタブに帰って、ゆっくりと休んだ。偶には広い、快適な部屋で寝るのもよい。

4月10日(土)大分をフラフラ

翌朝はゆっくり起き上がる。特にやることもなかったが、フライトは夕方だったので、朝から歩き回る。駅の反対側のなだらかな丘を登ってみる。大友氏の拠点の一つ、上原館跡に碑が建っている。その向こうに宝戒寺が見える。弥栄神社は荘厳な雰囲気があった。恐らく普通の観光客は行かないだろう場所を巡った。

それから図書館に寄って、大分の茶業、そして田能村竹田などの大分出身の偉人の資料を見た。農学者大蔵永常が気になる。それにしても腹が減ったが、周囲に食べるところがない。図書館内のカフェでオムライスを頂く。何故大分まで来てオムライスなのかとは思うが、腹が減ったから食うのだ。

宿まで歩いて戻り、荷物を引っ張ってまた駅前まで来た。大友宗麟だけでなく、フランシスコ・ザビエルの像も建っていた。宗麟はザビエルを招き、そこからキリスト教が広まったという。ここから空港行きのバスに乗る。行きは空港から中津まで2時間も掛かったが、今回は1時間も掛からない。飛行機に乗ると、なぜか宮崎の茶が配られた。

本当は今回、別府温泉に浸かり、フェリーで四国愛媛に渡る計画も立てていたのだが、コロナも怪しくなり、また自分の体力にも問題が発生してしまい、帰ることになったのは、残念だった。

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