鉄観音の故郷を訪ねる2013(2)安渓 極上の鉄観音茶とは

5月5日(日) 3. 大坪  大坪まで

翌朝、安渓の大坪から迎えの車が来た。香港の茶荘、茶縁坊の高さんがわざわざ来てくれた。茶縁坊との付き合いは長い。2001年2回目の香港勤務になった時、上環に新しくオープンした茶荘が茶縁坊だった。それから12年、これまで何度も茶園に行ってみたいと思っていたが、実現しなかった。それが今回・・。

車は厦門市内を抜け、洋風の学校がある集美地区を通り、一路安渓へ。13年前も安渓を目指したが、その時は手前の官橋にある安渓茶廠までしか行かなかった。茶畑は見なかったのだ。その時は道も悪く、相当の時間がかかるとのことだったが、今や舗装道路だけでなく、高速道路まで出来ており、道もよかった。

途中同安という街で停まる。昔ペナンだったか、シンガポールだったかの華人関連の博物館で福建省同安出身者を見たことがある。この辺りから安渓まで、山が続き、作物が取れず、厦門まで歩いて行って船に乗り、東南アジアへ出稼ぎに行ったのだろう。一体どんな思いでここを歩き、海を渡ったのか。

農家では基本的に自分の食べる野菜は自分で植えるが、今は時期的に野菜が少ないので、買い足すらしい。実に昔の雰囲気の野菜売りが並ぶ。聞けば値段は相当に値上がりしているらしい。高さんは慎重に野菜を選び、値段を確認し、買っている。この辺は農家出身、見る目は厳しい。

それから山道へ入る。途中で安渓へ行く道と分かれ、山登りとなる。安渓と言っても相当広い範囲の土地を指すらしい。これまでの茶旅のように単に安渓の街を目指しても、茶畑には容易に辿り着かなかったことが分かる。かなり急な坂道を上る。それらしい山の風景となる。標高が上がり、空気が変わる。そして、ちょっとずつ茶畑が見えてくる。気持ちがワクワクする。それは毎度のことだが、いいものだ。

昼ごはん

村に入った。高さんの故郷、安渓県大坪郷萍洲。静かな山間の村だった。道沿いの建物に入る。薄暗い2階ではおばさん達が麻雀卓でも囲むように、作ったばかりの鉄観音茶の枝と雑物を取る作業をしていた。我々が入っていくとすぐに『ご飯、ご飯』とばかり、茶葉を片付け、小さなテーブルを出し、炊飯器と鍋が置かれた。椀を一つ渡され、食べろ、という。スープをすくう。

スープにはのりと豆腐が入っていた。いやー、これは台湾だ。台湾と同じスープだ。美味い。どんどん飲む。台湾でも中国でも農家では椀一つでご飯を食べる。スープを飲み終わらないとご飯にありつけない。ご飯はなんと野菜ときのこの炊き込みごはんだった。何とも懐かしい味。思わずお替りした。

面白いのがおばさん達はご飯をよそうとそのまま立って食べている。低い椅子もあるので、座って食べる人もいる。皆忙しいからだろうか。私は物を置いている台に座って食べた。何となく好ましい。こんな飾らない昼ごはん、いいな。

食後は昼寝でもして休むのかと思いきや、またすぐに茶葉を出し、作業が始まる。この時期、仕事はまさに掻き入れ時。その細かい作業には恐れ入る。これを一日中やれと言われれば頭が痛くなりそうだ。誰が誰かよくわからないが、紹介はない。オイオイわかるだろう。

茶作り

茶縁坊の息子はいなかった。どこにいるのだろうか。尋ねると高さんが『行こう』という。そして家から出て村を出て山へ向かう。今にも雨が降りそう。既に地面が濡れているのは午前中も雨が降ったのだろう。今日茶摘みはなかったそうだ。足を滑らしながら何とか着いて行くと、茶畑が段々畑になっている。1つずつはかなり小さい。

ようやく山間の家に着いた。斜面に建てられたその家は古風で何ともいい感じだった。中へ入ると息子とおじさんがいた。このおじさん、高さんのご主人のお兄さん、張さん。彼が茶縁坊の鉄観音茶を全て作っている。今日茶摘みはなかったが、昨日摘んだ茶葉の処理を行っていた。ちょうど重要な火入れの最中。かなり気を使って何度も手で籠を掻き回していた。この作業が茶の味を決める。

先ずは出来立ての茶を飲んでみる。非常に地味だが、甘い香りがした。そして飲んでみると口の中に甘味が残る。何だこれは、茶杯がまるでワンワン言っている感じで、実に、実に美味い。その一言しか出ない。カップに残った香を嗅ぐ。これはすごい。天然の水を使っており、水そのものがほんのり甘いのだ。これは昔行った潮州の山中で出会ったものと同種だった。やはりここと潮州、雰囲気も似ており、文化を一にしているようだ。

「昔は家族でここに住んでいた。空気もいいし、環境も良かった。でも不便だということでかなり前に今の家に引っ越し、ここは作業場になった」のだという。20年も前に、日本人を含めた外国人調査団がこの村にやって来て、皆がこの家に泊まりたがったという。それは分かる気がした。因みに当時は貧しい村の様子を写真に撮られるのを村の役人はひどく恐れていたそうだ。時代は変わった。「夜ここで寝ているとお化けが出るぞ」、張さんがおどけて見せた。

シンプルな夕飯と夜なべ

雨がしとしと降っていた。張さんは相変わらず、火を入れた茶葉を時々混ぜている。そして黙って茶を飲む。その寡黙な姿勢が伝統的な農民を感じさせる。製茶作業は茶葉を摘んでから2日間、ほぼ寝ずに行う。「俺はもう歳で正直しんどい。引退したい」、と張さんは笑いながら話すが、そういう話が出ること自体、本当に大変なのだろう。来年は作らないかもしれない、この言葉が現実味を帯びてくる。もし香港の店でこの話をしていたら「こんないいお茶、勿体ない、ずっと作ればよいのに」と暢気なことを言っていただろうが、現場を見ながらだと、とてもそんなことは言えない。

高さんと先に帰ることにした。高さんは茶畑を歩きながら「この辺りは実は毛蟹の産地なんだ。勿論鉄観音もあるが、量は多くない。毛蟹を作る茶葉は一目で分かるよ。このちょっと薄いヤツ」と言いながら、葉を手に取る。残念ながら私には直ぐには違いは分からない。高さんは20歳過ぎまでこの地で育ち、茶を見て、実際茶葉を摘んで、育ってきた人。まさに年季が違う。

家に戻るとおばさんが「芋、蒸かしたぞ」と手に持って食べている。私も貰って食べてみると、何とも懐かしい蒸かしイモの味がした。炊飯器で蒸かしている所が面白い。この家、家具はあまりなくシンプルだが、茶を作る道具や籠などは骨董品の部類に入るほど、見た感じが良い。

夕飯は昼ご飯の残りをおじやにしていた。このシンプルさ、実によい。そして美味い。決して豪華ではないが、健康的で、かつ物を無駄にしない生き方。芋も食べていたので、これで十分だった。人間は良い生活環境があり、適度な食事があり、適度な仕事があれば、健康的な一生を送れるのだろう。昔の人は皆このようにして暮らしてきた。それが経済成長だとか、お金だとかいうものに全てを狂わされてしまった。自分の作った物を自分達で食べていく、その生活が壊れて以降、人々には余裕が無くなり、お金の奴隷になってしまったようだ。この村へ来て、感じることは実に多い。

夕食後、張さんが茶を淹れてくれた。お客が来た、ということで、村の人も顔を出す。みんな張さんに「今年の茶はどうか」と聞いている。彼は黙って茶を淹れて出す。基本的に閔南語で話すので良く分からないが、「雨が多い」とでも言っているようだ。そして張さんが私に「今年の春茶は終わった」と一言。でもまだ茶葉が沢山あるだろうというと、「雨で伸びすぎた、良い茶はもうできない。あれだけ苦労して不味い茶を作る気はない」ときっぱり。職人さんなのだ、張さんは。

2階では午後9時まで作業が続いていた。茶作りのシーズンだけとはいえ、男も女も重労働だ。これであまり儲からないとなると若者が逃げ出すのも分かる気がする。しかし美味しいお茶を作るとはそういうことなのだ。



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