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福建茶旅2019(1)旅遊特色小鎮とは?

《福建茶旅2019》  2019年4月5-14日

年に一度以上は必ず訪れている福建省。今回は3年ぶりの武夷山、初めての福安、そしていつもの福州、厦門に行って見る。武夷山の茶工場見学ツアー、福安、福州では近代中国茶業のルーツ、台湾茶業との関連にも迫っていく。

 

4月5日(金)
武夷山に着く

フライトは順調で武夷山空港に着いた。この空港を利用するのは2000年12月以来ではないだろうか。相変わらず小さな空港だが、さすがにきれいにはなっている。先日のハルピン同様国際線の入国審査ゲートは少なく、更に外国人用は少ない。並んでいたら今回も最後の一人になってしまった。私の預け荷物は同行者が確保してくれており、既にターンテーブルは止まっていた。

 

夜の8時、周辺は暗くてよく見えない。外は予想以上に涼しい。車に分乗して街中に向かう。少し行くと見慣れた市街地が登場する。そのままホテルに行くかと思いきや、突然裏道に入り、車は停まる。そこは街の食堂、飛行機内でちゃんと夕飯は出ていたが、やはり夜食は食べるらしい。人数が多いので店の外にテーブルを出して、スープや餃子を食べる。身体が温まってとても良い。

 

それからホテルに向かった。今回のホテルはまるで役所の建物のようにいかつい、立派なものだった。そしてまだ正式開業していない試運転段階の5つ星ホテルだそうだ。ロビーは豪華でだだっ広い。私の部屋はなぜか3階の1番端だったので、部屋まで行くのが大変だった。部屋もきれいで広かったが、そこはやはり中国スタンダードの5つ星。心地よさ、というポイントが少し不足しているようにも思うが、それは中国人客のニーズに合わせているのだろう。まあ取り敢えず疲れたので、置かれていたリンゴをかじると、すぐに眠りに就く。

 

4月6日(土)
街を作る

朝はしっかり早めに目覚める。窓の外は霧に覆われており、あまり爽やかではない。まあ、武夷山と言えば、19年前に初めて来た時も、朝は靄っていたように思う。ホテルの朝ご飯は5つ星ホテルらしく、とても豪華だった。試運転中なので、宿泊客は少なく、何だかもったいない。私はお粥や目玉焼きなど、いつものメニューにしたが、きれいな和食まで並んでいて、もっと食べればよかったと後悔する。

 

今日はまず今回の主要目的である、香江集団の茶工場見学に出掛ける。武夷山は狭いので車に乗ればすぐに着いてしまう。2006年にこの茶工場に出資した、とだけ聞いていたのだが、その規模は想像をはるかに超えるほど大きく、そして何よりもきれいだ。何と団体旅行客を受け入れ、入場料まで取っている。茶の歴史展示から、茶工場見学、製茶体験コーナーまで、既に観光茶園がきちんと作り上げられていた。

 

裏庭もまた大きく、池には舞台まであった。そしてもう一つの建物に入ると、そこには大きな急須のモニュメントがあり、若い男子によるお茶淹れパフォーマンス(茶芸)が見られ、完全に舞台化している。ちょっとお茶を紹介するといったレベルではなく、ショーを見ながらお茶を味わい、購入したいお茶を選んでいく感じだろうか。やはり茶旅にはお茶購入タイムが必要なのであり、それがビジネスなのだ。

 

我々は更にここのプランナーから話を聞いた。この茶工場はきっかけに過ぎず、これから8年かけて1万人が暮らす、茶を主題とした街、『香江茶工場旅遊特色小鎮』を作るというのだから驚いてしまった。総投資額は50億人民元。さすが香港の開発業者、考える規模が違うと思わざるを得ない。この茶工場に出資する時、既にこの構想をもっていたのだろうか。因みにここのブランド、『曦瓜』は、元々の国営茶廠民営化に伴い、香江集団も出資した後作られた。今では武夷山を代表するブランドとなっており、茶業者なら誰もが知っている。

 

お昼は少し離れた農家菜のレストランへ行く。ここも規模が大きく、池がデカい。武夷山は、いや今や中国の観光地は、どんどん巨大化しており、どこに行っても驚いてしまう。料理は武夷山の地元のものかと思っていたが、そうとも限らない。武夷山は福建省にあるが、料理は山向こうの江西の影響を強く受けており、かなり辛いというのだ。こういうところにも、労働力流入の影が見える。

 

香港から来たお客は辛い物は苦手、ということで、山菜やら、辛くない肉など食べられそうなものが出てくるという訳だ。今日のお客は我々以外に上海から来た3人が加わっており、既に大人数、アレンジする方も各地の味を考えてオーダーしなければならず、この時期は毎日お客があるようで、大変なことだ。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(8)成都散策

3月25日(月)
四川を去る

翌朝早く、Mさんは北京へと帰っていった。私のフライトは午後3時半なので、午前中は暇だった。実は今回、ロシアから持ち越した課題があった。銀聯カードが使えなくなっていることに気が付いていたが、銀行に行く暇がなかったので、まずはその処理をしようと考えた。

 

その銀行はホテルから2㎞弱あったが、歩いて行くことにした。成都の街を歩くことがあまりなかったからだ。大きな通りを歩いていると、やはり昔とは違い、きれいで大きなビルが多い。それでも上海などよりは随分と落ち着いて見えるのはこの街の特性といえるだろうか。

 

銀行での処理は予想外に時間の掛かるものだった。そしてあまりにも不可解な理由でカードが止められたことに納得は行かなかった。やはり中国はどんなに支払いアプリが進歩しても、人の進歩が追い付かないところだと痛感する。それにいわゆる管理強化が加わると、もう何が何だか分からない。

 

銀行を出て地下鉄に乗る時も、よく見るとチケットの自販機に支払方法が4つも表示されている。よほど支付宝を使って切符を買ってみようかと思ったが、スマホを開けて、支付宝を選び、その金額を入れてパスワードを入れるとは、何と面倒な作業だろう。Suicaなら一発なのにと思いながら、しわを伸ばして現金を突っ込む。本当に中国は便利になったのだろうか。いや勿論以前より便利だが、驚くほど進化したかというと正直疑問だ。

 

地下鉄で錦江飯店にやって来た。32年前、あの暗い夜道をバスに乗り、ここまで来たことが懐かしい。当時成都には外国人が泊まれる宿は少なくて、錦江飯店にチェックインできるとホッとしたものだ。同時にここの朝食でパンを食べると、辛い物を食べなくてよいので何よりも有難かったのを鮮明に記憶している。

 

現在のホテルは外から見ると同じようだが、中は凄くきれいに改装されている。これで500元ぐらいであれば、一晩泊ってみてもよかったかもしれない。恐らく水回りなどに問題があるか、部屋はきれいではないのかもしれない。とにかく敷地内を一周すると、いくつか新しい建物も出来ており、なかなか面白い。

 

そこから川沿いに歩いてみた。薄暗い夜の川しか記憶はなかったが、今や市民の憩いの場と言う感じだろうか。ちょっと暖かくなり、風がさわやかで歩きやすい。途中で道を曲がると、先日歩いた錦里辺りに出てくる。このように歩くと地理が少し理解できるが、やはり全体像はよく分からない。

 

バスに乗って帰ろうとしたが、ホテルまで直接行けるバスは見当たらない。仕方なく地下鉄駅まで歩いて行くと腹が減る。その辺で店を探したら、何だかチベット僧が何人も歩いているではないか。よく見ると付近にチベット寺院があるようだ。彼らの現在の境遇はどうなんだろうか。

 

小さな食堂に入る。帰る前にどうしても回鍋肉が食べたくなって注文したつもりだったが、 出てきたのは炒飯だった。何とその名も回鍋炒飯、ところがこれが意外とイケる。肉の油が炒飯に沁み込んで美味い。辛さも全くなく、思わず笑顔になる。これで10元か、コスパも抜群だ。

 

地下鉄でホテルに帰る。駅を出るとパイナップル売りのおじさんがいた。突然興味を持ち『甘いか』と聞くと、ぶっきらぼうに『当たり前だ』というので買ってみると、本当に甘かった。これも8元で、腹一杯になるまで食べた。私にはやはりこんな旅が合っているに違いない。

 

午後1時に居心地の良いホテルをチェックアウトして、タクシーを呼んでもらう。待っている間、本を読むスペースに座ったが、隣でおじさんがタバコをスパスパ。この空間でそれはないでしょう、と思ったが、タクシーが来たので、何も言わないで外へ出た。何とすぐに高速になり、僅か15分で空港に着いてしまった。

 

国際線の方はそれほど混んでいないだろうと思っていたが、今は成都から東南アジアへ向かう便なども多く、意外と混んでいる。出国時に外国人の列に並ぶ人も予想外に多い。そして本日乗る、エアチャイナの成田行きは、恐らくはさくらの花見に行く中国人団体観光客でほぼ満席だった。席の隣の女性はガイドさんで、何と26人分の入国書類を一人で書いて、皆に配り、事細かに説明している。

 

無事に成田に着いたが、雨が降っていた。翌日見ると、桜の花は一部にしか見られない。それでも花が見られただけでもよいと思い、早々に台北に向かった。今回の四川の旅、従来の茶旅とはまた違ったアプローチで、なかなか行けない茶産地や歴史を旅した。今度はゆっくり一人で四川を回ってみたいと思う。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(7)突然彭州へ

3月24日(日)
突然彭州へ

久しぶりに一人で寝たのと、朝ご飯を食べなかったことにより、今朝は身体がすっきりしていた。9時に陳さんが車で迎えに来てくれ、Mさんと共に今日の旅が始まった。成都市内を抜けて高速道路を走る。北西に約1時間、彭州市に至る。そこから田舎道をまた1時間ほど行って、目的地に着いた。

 

そこはきれいな観光茶園のようだった。一体ここはどこだろうか。宝山村とある。迎えてくれたここの責任者、徐さんは茶師で、やはり福建省武夷山から招聘されて、ここで数年前に茶作りを始めたらしい。きれいな建物も、中にある最新設備の製茶機械も、福建の投資家が準備した。『正直この地は歴史的な場所ではあるが、近年茶業はあまり盛んではなかった。我々が再度茶業を始めるためにここに来た』という。

 

裏山に登ると、そこには茶畑が広がっていた。『ここは60年ぐらい前に、茶樹が多く植えられたが、その後放棄された場所。それを数年前に借り受け、茶作りが始まった』という。ということは、ここは中国でよく見かける、政府に指示で茶樹を植え、その後の混乱で捨てられた土地だった。その茶樹も数年の管理で見違えるように復活した。

 

実は昨晩この辺りには雪が降っていた。『本当は向かい側の龍門山系に入れば、樹齢100年を越える茶樹が沢山植わっているのだが、そこはとても滑りやすく、残念ながら今日行くことは出来ない』とも言われてしまう。やはり茶旅だ。そんな簡単に目的地に行ける訳がない。確か昨日陳さんの雑誌で見た、梯子を掛けて茶葉を摘む様子、あの茶樹が見られないのは残念だが、仕方がない。この葉っぱで徐さんは紅茶を作っているという。

 

昼ごはんを食べに行く。ここも誰かが投資して、きれいに整備された場所。野菜も鶏も地元産でこりゃ美味い。その横にはかなり古い建物があり、茶館として使われていた。近くには中国のどこにでもある老街が観光化されている。この地は古くは2000年前の書物にも出てくる要衝の地、茶処であり、唐代の陸羽も茶経にこの地について書き残しているというが、今はその面影はない。

 

実は彭州市は北海道の石狩市と姉妹都市だ、と地元の古老が教えてくれた。きっかけは30年以上前にこの地の若者の農業実習を石狩市が受け入れたご縁だという。全く性格の違う都市が結びつく、こんなこともあるのだな。近年この地はほうれん草の産地だとも言い、1990年代には日本に盛んに輸出していた歴史もあるというのは何とも意外な話だ。

 

午後は寺に行くという。丹景山にある金華寺。幹線道路から山道に車が突っ込み、ちょっと行くと、階段が見えた。その手前の駐車場から、道なき道を突然歩き始めたので驚く。どこへ行くのかと思っていると、そこには古い石碑のようなものが建っていた。『これは唐代にここで出家した新羅の王子の墓だ』というではないか。何の話だ、それは。

 

階段まで戻り、登り始めるときつい。先日の蒙頂山最古の茶園ほどではないが、既に膝を痛めていたので、上がるのは大変だった。何と陳さんは車で上がっていたので、ちょっと恨む?喘ぎながら寺の門に到達した時は、もう死にそうだった。しかもそこで終わりではなく、そこが寺の始まりだった。

 

奥に入っていくと、お坊さんたちが何かしている。その中には、韓国の茶雑誌の社長も混ざっていた。先ほどの新羅の王子の話から、韓国との縁を感じ、やってきたという。見ていたのは、何と王子の遺骨だというではないか。先ほど見た墓から掘り出されたものらしい。急な展開にちょっとまごつく。しかし王子は何故こんな山奥に来たのだろうか。国に後継問題でもあったのだろうか。

 

寺院内でお茶を頂く。お坊さんがお茶を淹れてくれるのだが、このお茶、紅茶を煮出している。渋みなどはない。徐さんのお茶を使っているらしい。ここには市の観光局の人も来ており、今年中に韓国人社長と今年中に何らかのイベントをする話が進んでいた。さすが韓国、日本はこういうのはなかなか出来ないな。

 

今日の集まりの意味がようやく分かり、我々二人の日本人はお邪魔だった?と悟る。因みにこの寺には見るべきものが沢山あったようだが、殆ど見ないで帰ることになった。例えば寺院内の柱には龍が施されており、これは皇帝だけに許されるしるしだと言われた。ここは皇帝が建てた寺院なのだろうか。

 

陳さんの車で成都市内に戻る。午前中は曇りや小雨だったが、帰り道で晴れてきたのは何とも恨めしいが、これも仕方がないことだ。夕日が車の窓に反射してまぶしい。日曜日の游がンで市内はやはり渋滞だ。ホテルの近くで軽く夕飯ということで、魚麺を食べる。これは今流行りらしく、大勢のお客が入っていた。何とか席を確保して、大型どんぶりの麺を頂く。スープが特にうまい。また完食してしまい、腹がくちる。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(6)本当の茶旅が始まる?

3月23日(土)
本当の茶旅が始まる?

ついに茶旅行最終日。今日ご一行は成都から成田へ帰る。そのフライトは午後なので、朝は雅安の博物館を訪れる。あまり期待はしていなかったが、ここには文成公主から始まる茶関連の歴史がかなり展示されており、旅の纏めてしては一見の価値はあった。今回はお茶の歴史に殆ど踏み込んでおらず、不完全燃焼だったので有り難い。

 

更には茶馬古道や蔵茶の歴史に関する本も何冊か売っており、既にパンパンのカバンにも拘らず、また買い込んでしまう。私が昨年北京で買った四川茶に関する本は、ここの元館長が作者だったらしい。だからここの展示が比較的詳細なのだと理解した。清代の大商人の歴史など、もう少し突っ込んで知りたいところだ。

 

高速道路をひた走り、2時間ほどで成都まで戻ってきたが、街中で渋滞に遭う。本当は空港近くで軽くお昼を食べるはずだったが、折角だから老舗の陳麻婆豆腐で、本場の辛い物を食べる事に切り替わっていた。渋滞でロスして時間があまりない。取り敢えず店に入り、席には着いたものの、ちょうどイベントなどと重なり、思ったようなスピードで料理は出て来ず、全部出てこないうちに時間切れ。八宝茶の切れのあるパフォーマンスが見られただけでも良しとするか。実はガイドは前日店側に昼のメニューを連絡していたが、厨房には伝わっておらず、残念な結果に終わる。

 

渋滞は続いたが、何とか出発1時間半前に空港に到着。空港に着くまで、ガイドは一人ずつの名前を呼び、その思い出を語っている。私は鉈先生との漫才コンビの相方、として記憶されている。そして最後に『今日の日よ、さようなら、また会う日まで』と歌った。日本語ガイドの需要は本当に少なく、また次回彼女に会えるのか、ちょっと心配だ。

 

皆さんはチェックインカウンターに並ぶ。北京に帰るフライトがキャンセルとなり、夜便を取り直したMさんと私はそこでお別れし、街に戻ることにした。私はホテルを予約しており、Mさんの検索により地下鉄が早そうだというので、空港から初めて地下鉄に乗る。今や中国の地下鉄はどこもきれいだ。1度乗り換えたが、意外と近い。そこは最近泊まり歩いているチェーン店だが、部屋は広く快適そうだった。

 

それから魏さんに紹介されたお茶屋さんに出向く。ホテルから近道(地下道?)を行けば歩いて10分もかからない。そこは小さなお茶屋さんだったが、オーナーの陳さんは何と福建人で雑誌の編集などもやっており、自らも茶産地に出向いて、取材を重ねている人だった。現場を踏んだ彼の話には説得力があり、とても参考になる。因みにお茶屋の方は奥さんに任せて、本人は年に数か月は中国各地を飛び回っているのだという。茶旅の先達だ。

 

陳さんが鉄観音茶の歴史を話しながら、工夫茶のセットで古い鉄観音茶を淹れてくれた。それをじっと見つめていたMさんは『この人のお茶の淹れ方、なんて丁寧なんだろうか』と感心している。後で彼の経歴を見て頷くMさん。陳さんは国家級高級茶芸師でもあった。お茶を丁寧に淹れる、とても新鮮な言葉だった。私の最近の興味は歴史だけなので、人の口元は見ても手元を見ることはない。

 

陳さんと色々と話していると突然、『実は明日彭州へ行く予定だが、良かったら一緒に行かないか』という喜ばしいお誘いがあった。明日はもう一軒お茶屋を訪ねるつもりだったが、そこは次回にお願いして、すぐに同行することにした。何しろ彭州は約2000年前から茶があったという記載がある場所だと記憶しており、四川茶の歴史上では重要な場所だと思ったからだ。それを聞いたMさんも迷いに迷った末、何と先ほど取り直した今晩のフライトをまたキャンセルして、明日一緒に行くことになった。これぞ茶旅だろう。

 

明日の再会を約して店を出た。ホテルに戻り、突然泊まることになったMさんもチェックインする。まあこれまでいくつか泊まったが、成都のここが一番広々としており、何だか寛げる。料金はそれなりだが、余計なことを考えなくてよい。おまけにゴールド会員に昇格したらしい。何かいいこと、あるのだろうか。

 

夕飯は近所に食べに行った。フロントでは『道を渡れば色々あるよ』と教えられたが、そんなに色々な選択肢はなかった。食堂に入ると、一皿が大きいので二人では食べ切れないように思う。これまで食べ過ぎなので、抑えたかったが、出てくるとまた食べてしまうのは、何とも悲しい。胃袋が大きくなっていた。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(5)雅安茶廠と茶馬古道

3月22日(金)
雅安茶廠と茶馬古道

今日はホテルをチェックアウトしなくてよい。茶葉ホテルには2泊するので、それだけでも気が楽だ。茶葉枕も快適のようでよく眠れた。これからこの旅の最終目的地、雅安茶廠に向かう。ここが昔から蔵茶を作っている拠点だ。外側から見ると、トレードマークの『中国蔵茶』も見える。

 

メンバーにはあまり自覚はないと思うが、蔵茶もある意味で国家の戦略物資、湖南省安化のように、『国家機密だから見学できない』といわれそうな場所。しかも雅安といえば、チベットとの最前線という感覚もあり、ちょっと緊張する。『謝絶参観』の文字まで見える。だが我々の前に既に上海から来たという団体が、中に入っていく。

 

まずは蔵茶の製造法を説明した展示室へ。この茶作りが如何に力仕事であるかを示している。明代から作り始めたというこのお茶、歴代の茶葉が展示されている。1970年代製造の蔵茶も飾られているが、そこには『川』の文字が。これは湖北省趙李橋で作られるお茶と同じマークか。何だか色々と歴史的な資料があり、とても時間内で見て回れるものではない。

 

マニ車が設置されるなどチベット色も出ている。実際の製造工場も見学できるというので驚きながら中を見る。作られた茶葉は長く保存されるため、竹?にくるまれて積み上げられていく。この茶は如何にしてチベットまで運ばれたのか、実に興味深い。お茶を飲みながら説明を聞く。説明者は地元出身でアメリカ帰りの若者。広報担当だという。ネット販売に力を入れるという。これからの雅安茶廠はどんどん変わっていくかもしれない。

 

バスは高速道路を走っている。これからどこへ行くのだろうか。途中のサービスエリアでランチを取るという。皆がバスを降りて行った時、私はあることに気を取られており、一番後ろの席で、身をかがめていた。少し経ってバスを降りようとしてビックリ。何と既にバスは施錠され、外へ出ることが出来ない。閉じ込められてしまったのだ。メンバーは既にトイレなどに行ってしまっている。遠くに鉈先生の姿が見えたが、叫んだところで聞こえない。どうしたものかと悩んでいると、スマホで連絡することを思いつき、スンでのところで救出された。

 

まあ運転手もガイドも、まさか人が残っているとは思わなかっただろうが、こういうことは過去一度もないと言われると、私の方が悪いのだろうか。確かに出発前の乗車確認はするが、降車確認はしたことないかも。今後気を付けよう。ランチはビュッフェだったが、それほど食欲はなかった。それにしても高速道路のSAも少しずつ質が向上しているような気もする。

 

それから約1時間、ゆるゆると山道を登っていくと、とある街に着いた。既に標高は2000mに近く、小雨が降っていて肌寒い。そこから更に少し上がった村、そこに茶馬古道の起点、といわれる場所があった。ただこの村、村人の服装は昔のままなのに、住宅の建物がやけに新しく、車も停まっている。古道とマッチしていないように見えた。地震後の補助で再建したのだろうか。

 

その先の何もないところに、石が敷かれた道があり、そこが起点だという。どうも観光用として整備されたとしか思われないが、往時この辺りに茶葉を担いだ人足が行き来していたのだろう。茶馬古道は茶葉を馬が運んでいく場面もあるが、実はその多くは人が担いで行く。茶と馬は交易市場の交換商品という意味だとは意外と知られていない。人足のその苦労は想像できないほどであったろう。

 

今日も吹きっさらしの高地は、凍えるほどの寒さで、チベットの方を指して歩いて行く気量はない。防寒対策なしの我々は早々に撤退を余儀なくされる。帰りの道を見ると、政府の奨励で花椒がたくさん植えられており、今や名産品となっているという。また桃の花などがきれいに咲いており、特産品と観光地化を進めている様子も見えた。

 

街に戻って来た。今晩は食べ過ぎなので軽い物が良い、というのでホテルに帰る前に麺を食べることになった。昔某総書記もここで麺を食べたという食堂。地元の人が入れ代わり立ち代わりやってくる中、団体さんが席を占めてしまうのは申し訳ない。辛いのは避けたところ、なかなか美味しい麺が出てきて満足。

 

夜は茶葉ホテルの上の階にあるお茶部屋?に案内される。ここから見る夜景はきれいだ。このホテルの女性社長の招待。2004年のお茶会議に合わせて作られたという部屋は、まさにお茶だらけで、その香りに包まれていた。そこで美味しいお茶を飲みながら、蔵茶の歴史に思いをはせる。社長も2000年頃始まった西部大開発プロジェクトで浙江省からやって来た一人だという。これももう一つの歴史になりつつあるが、西部も常に進化を続けている。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(4)蒙頂山で、そして雅安へ

3月21日(木)
蒙頂山で

翌日もまた朝粥を食べてホテルをチェックアウト。毎日ホテルを変わるのは意外と疲れる。今日は峨眉山から蒙頂山へ移動する。天気は今一つの中、バスは高速道路を走り、1時間半ほどで、蒙頂山と書かれた門をくぐった。そこからすぐのところに、今日の訪問先があった。

 

躍華茶業とは4代目で、ここの茶業を改革開放後に発展させたお父さんの名前が付けられている。とてもきれいな展示館には、茶業の歴史などが書かれ、昔の文物が展示されている。炒青の実演なども行われる。蒙頂山の緑茶も近年かなり有名になってきており、団体のお客が次々にやってくる。外には樹齢100年を越える茶樹が移植されていた。

茶工場の見学、前日同様見学ルートが決められておりそこを歩く。マイクロウエーブ殺青という機械が目を引く。これで鮮やかな緑色を保持するらしい。昨日の工場にもあったので、昨今の流行りだろうか。工場は大型投資により現代化され、展示室にある製茶道具が遠い過去に思える。

 

蒙頂甘露などのお茶が出され、試飲する。ちょうど新茶のシーズン、すっきりした味わい。蒙頂黄芽という珍しい黄茶も作られており、台湾人にぜひ買ってきて欲しいといわれる。それほど珍しいお茶ということだろう。5代目、イケメン社長が登場して、更に説明してくれる。メンバー女子のテンションが明らかに上がっているように見え、お買い物もヒートアップ。まさかこんなに細かな注文を、しかも現金払いで、10人以上から受けるとは思っていないスタッフは大混乱に。

 

それからバスに乗り、少し山を上がっていく。『茶之都』という石碑が見える。その付近の斜面には茶畑が広がり、茶摘みしている人が見える。1軒のお茶屋さんに入り、そこで昼ご飯を食べる。いわゆる農家菜。地元で採れた野菜中心の優しい食事を味わう。毎日食べてばかりだが、カボチャやゼンマイなど胃腸にも良さそう。何だか食べている皆も、ちょっとホッとしている様子が窺える。

 

そしてここからが今回の旅のハイライトの一つ、中国最古の茶園、を訪ねる。しかしその道のりは想像以上に険しかった。ロープウエーがあるのは分かっていたが、皆歩いて登るという。大きな急須のモニュメントの脇を通り抜け、その急な階段を一体何百段登ったのだろうか。足が痛い鉈先生はお留守番で、逐次メッセージで状況を伝える。こちらまで膝が痛くなってきた。途中の廟で少し休むも、体力の衰えを痛感する。

 

30分ぐらいかかっただろうか。石の門が見えた。潜ると井戸が見えた。古蒙泉とある。その辺には観光客がちらほら歩いている。石の壁には茶が運ばれる様子などが描かれているが、これは後世の物だろうか。治水の神様、大禹像も登場してくる。茶畑は斜面に続いている。

 

ついに皇茶園に到着した。7株の茶樹が植えられているが、周囲は壁で囲まれており、少し高い位置でないと写真には入らない。ここが文献上、人が植えた茶畑で最古だということだが、確か日本でも最古の茶園という石碑を三か所で見た記憶がある。歴史は歴史、物語は物語。呉理真という人の名前も出てくるが、正直あまりしっくりとは来ない。それは私が不勉強だからだろうか。

 

足も痛いので、帰りはロープウエーに乗せてもらう。2人乗り、スピードが速いので、乗り損なう危険あり。高い所は嫌いだが、この程度なら問題はない。まあ脚で登ってこそ、価値があると思うので、この選択は妥当かな。お茶屋に戻ると、なぜか四川茶芸の練習をしており、鉈先生もその人々とお友達になっている。

 

そこからバスで30分ぐらい行くと河沿いで停まる。今日の宿に到着。部屋に入ると、何と蔵茶が置かれている。よく見ると壁にも茶餅がはめ込まれており、いい香りがする。これが噂の茶葉ホテルか。食事のためにホテル内のレストランに行くと、もっとすごかった。至る所に茶葉があり、お茶に埋め尽くされているようにさえ、思えるほどだった。そしてここで頂くのは、やはり茶葉料理。きれいに盛り付けされた全ての料理に茶葉を使っており、その徹底ぶりは見事といえる。

 

食後は小雨の降る中、河沿いを少しお散歩。辿り着いたのは1軒のお茶屋さん。入っていくと、オーナーが出てきて、色々と話してくれる。出てきた蔵茶を飲むと、妙にスッキリしており、イメージが違う。『これは2000年以降、漢族に飲ませるために開発した蔵茶だ』というではないか。

 

確かに長年チベットに運ぶために作られてきた蔵茶は、正直質の良くない茶だった。だが、茶業が民営化されると、儲からないチベット向けではなく、漢族向けに商売するのは道理だろう。ただ小声で『今でもチベット向けの蔵茶は政府の要請で作り続けている。これをしないと事業は続けられないよ』と漏らす。メンバーも蔵茶に対する認識が一変し、美味しい、飲みやすいという。製法も変化しているようで、次回はこちらの工場にも行って見たいと思った。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(3)庶民の茶文化に触れ、そして峨眉山へ

3月20日(水)
茶文化に触れ、峨眉山へ

翌朝は7時にホテルで朝食。前日食券を渡されたのに、鉈先生はなくしたと言い出すが、フロントに言うと難なく再発行。どういう管理になっているのだろうか。とにかくお粥を食べて1日が始まる。外へ出ると濃い霧に覆われており、視界はあまりない。これはスモッグだろうか。

 

ホテルをチェックアウトしてバスに乗り込む。日本人の団体だから時間に遅れる人はいない。まずは朝の人民公園に乗り込む。庶民の茶文化体験ということだが、天気も良くなったので、屋外で茶を楽しむのはとても気分が良い。そして池のほとりでお茶を飲み始めると、隣に座っていた老人たちと何となく交流が始まってしまうのが、何とも面白い。

 

一人は息子が日本にいると言い、簡単な日本語を話し、スマホで家族の写真を見せ始める。もう一人は中医の医者だといい、朝から何やら難しい本を読んでいる。中医学を勉強している人はすぐにそこで即席の勉強を始めて、教えを乞う。庶民が安い料金で皆が仲良くお茶を飲み、談笑する。これは私が思う茶文化の一つの形であり、決してお茶は高貴なものではない、と考える所だ。ただここのお茶も随分をいい値段を取っている。お湯だけでも10元する。

 

成都にはこのような茶文化が残っていて、何と羨ましい限りだ。実は中国でも以前あった厦門の路上茶や広州の廉価な飲茶がどんどんなくなってきており、とても残念に思っている。経済成長と共に、儲かるシステムが優先され、金の取れない従来のスタイルは淘汰されている。ある意味では仕方ないことだが、結局誰のためにもならないことのように思えてならない。そんなことを考えながら、緑茶を啜る。

 

1時間ほどそこにいた。今日はずっとここに座っていたかったが、茶旅行には日程が決められており、そんな自由は全くない。歩いて正門から出る。ガイドはスルーしたが、そこには抗日兵士の像が立っていた。路上では新疆のウイグル人が旨そうなナンを売っている。これも一つの現代の光景だ。

 

次に向かったのは、昔の陝西会館。今はホテルになっているようで、その奥には改修中の古い建物が残っていた。1885年に建てられたものだとある。今回のメンバーの中には、『なんでこんなところに来たんだろう?』と首を傾げた人もいたと思うが、陝西商人が四川茶、蔵茶に果たした役割が分からなければ、確かにそうだろう。そして全中国になぜ陝西会館、山西会館があるのか、お茶とどんな関係にあったのか、それは旅に出る前、事前に学習する必要がある事柄だろう。ここは私の茶旅、茶の歴史を追う場所としては必須の地である。唯一中国茶の歴史を研究しているI先生だけが大きく頷いて、石碑をじっくりと眺めていた。

 

成都市内を離れ、高速道路に乗る。2時間ほど走って、サービスエリアで停まる。何とここは、あの天福銘茶が作った、お茶がテーマのSAだった。中では子供たちのケーキ作り教室が行われており、賑やかだ。ここには茶畑、博物館、お茶屋などが併設されており、このSAに入れば、お茶のことが一通り分かるシステムとなっている。しかも規模がデカい。我々は時間が無いので、ここでランチを食べ、ちょっとお茶を見ただけ。博物館は入場料30元も取るらしい。天福の中国ビジネス、スケールが大きい。

 

さらにバスは1時間走り、峨眉山に到着した。山の中に入っていき、峨眉雪芽と書かれた看板を目にする。有機茶園に桃の花が咲いており、何ともきれいな光景だ。建物もきれいで、ここがある意味で観光茶園であることが分かる。最初にちょっと茶工場を見学すると、メンバーは早々に茶摘み体験に繰り出したが、私はMさんと足の悪い鉈先生と残り、お茶を頂きながら、下の茶畑の活動を見ていた。40分ぐらいすると、摘まれた茶葉が運ばれ、すぐに鍋で炒め始めた。店長自ら炒めたが、その手つきは慣れてものだった。子供の頃からやっているのだという。

 

元々ここは国営茶廠が母体。2006年に峨眉市の旅行会社が出資して、茶業が民営化された。だから観光茶園に力を入れているのだと分かる。峨眉市にはもう一つ、今回は行かなかったが竹葉青という有名ブランドがあり、街中に大きな茶工場が見えた。この街の二強らしいが、広告宣伝では完全に竹葉青が全国展開して有名になっている。メンバーはお買い物タイムとなり、張り切ってお茶を買い込んでいる。

 

それから山を下り、市内のホテルにチェックイン。どこのホテルもまあまあキレイだ。夕飯もホテルのレストランで食べる。ここでもきれいに盛り付けされた料理が出てきたが、やはり辛さはない。旅行会社とホテルの契約があり、最低消費に満たないと言われ、料理がいくつか追加される。この辺が団体旅行だ。食後は特に予定はなく、早々に部屋に戻り、眠りに就く。このホテルには温泉もあると聞いたが、見てみると、中庭に小さなプールのような場所。勿論入っている人などいなかった。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(2)成都 お茶も見ずにパンダ見学

3月19日(火)
いざ成都で

翌朝は5時台に起床、6時過ぎにはホテルをチェックアウト。まだ薄暗くて周囲の景色も見られない。残念。この時間だとバスは期待できないので、フロントでタクシーを呼んでもらい、昨日来た道をまた空港に引き返していく。何だかとてももったいない気分になるが、仕方がない。

 

国内線空港は国際線よりはかなり大きい。確か5年ほど前にこの空港が霧に包まれ、フライトがディレーして北京で東京行きに乗り継げなかった悪夢を思い出す。今日はそんなことないよな。中国の国内線は、国際線同様に2時間前に行くことが基本になっている。チェックインの行列に加えて、荷物検査が厳しく、相当に時間が掛かるからだ。

 

ところが朝が早かったからか、さほどの行列もなく、荷物検査の混乱もなく、搭乗ゲートに辿り着いてしまった。仕方なく、朝ご飯を食べようと、店に入る。粥やまんとうを売っているが、正直美味しいとは言えないし、結構高いが、ここでPCをいじって、時間を潰して待つ。

 

搭乗時間が近づいても、飛行機が来ていない。これはディレーか、と焦っていると、なんとゲートから下に降り、そこからバスで駐機している場所まで向かった。何故ここに飛行機を停めないのか、と考えるより、遅れないでよかった、と思う。フライトはほぼ満席状態だ。

 

中国南方航空のサービスはエアチャイナより笑顔があってよい。それとこちらが言わなくても飲み物を頻繁にくれるので有り難い。といっても朝早いのですぐに寝入ってしまった。ところで、なんで南方航空がこんな北の方を飛んでいるのか。思い出したのが、ここは北方航空と合併したからだろう。何ともややこしい。

 

約4時間の飛行時間で、ほぼ定刻に成都空港に着いた。荷物は預けていないので、そのまま外に出た。待ち合わせ場所は国際線到着ロビー。ところがターミナル間はかなり距離があるらしい。どうやって行けるのか聞いてみるとシャトルバスがあるというので、1回出たターミナルにまた入ると荷物検査が面倒。それでも係員が親切に案内してくれて感激。シャトルバスは小さかったが、1㎞以内を走行して、無事国際線ターミナルに到着。

 

そこで北京から来ていた旧知のMさんと合流。その10分後にはM会長率いる茶旅の会ご一行が成田から到着し、何食わぬ顔でお出迎えしたが、内心はギリギリでかなりホッとしていた。今回の一行10数名、半数以上はお知り合いなので、緊張感はあまりない。ガイドが先導して大型バスに乗り込む。

 

茶旅の会なのに、なぜ最初の訪問地がパンダ基地なのか、という疑問は封印した。ご一行の大きなスーツケースを見た時から、『これは私がいつも行っている茶旅ではなく、茶旅行(団体旅行)だな』と感じていたので、既に諦めていた。1時間半ほどでパンダ基地に着くと既に夕方になっていた。

 

そこにはパンダが沢山いて、しかも上野と違って動いているので、皆さん大はしゃぎで歓声を上げている。周囲の中国人から『あれ、誰?』という目を向けられても『可愛い』を連発して、写真を撮っている。我々は韓国人と間違えられていたフシがあり、それほどに日本人観光客を見ることは少ないのだな、と痛感する。閉館時間までたっぷりパンダを味わった。

 

それから市内に戻ると夕方の渋滞に巻き込まれる。何とかたどり着いた、雰囲気のある老舗レストランで夕飯。そこには今回のコーディネーター王さんも来ており。いよいよ旅が始まる。ただ四川出身の王さんはなぜか辛い物が苦手らしく、出てくる食事は殆どが辛くなかったので驚いた。32年前、1年で2度訪れた成都では、辛くない食べ物を探すのは至難の業だったが、今は省外から来る中国人のためにこんな料理になっているのだろうか。薬膳スープの優しさが疲れを癒してくれた。

 

食後は夜のお散歩。レストランからほど近い、武侯祠の横にある錦里という観光街、老街を歩く。成都10年ぶりの私としては、見るもの全てが新鮮だ。本当に沢山の人が歩いていて、我々の団体もすぐに人込みに流され、離れ離れになってしまった。でも大したものは売っていない。中国人は何でこんなところが好きなんだろうか。今回久しぶりに同室となる鉈先生が、はぐれて集合時間に来ない。これももうお約束か。

 

夜10時前にようやくホテルに入る。正直お茶も見ていないのにもうクタクタ。鉈先生とは以前に2度ほど長い旅で同室になっており、そこは慣れたもので、すぐにお互いの寝る所も決まり、シャワーを浴び、あっという間に寝入ってしまう。最近いびきをかいているようなので、こちらが迷惑をかけている。

茶文化の聖地 四川を茶旅する2019(1)なぜかハルピン

《茶文化の聖地 四川を茶旅する2019》  2019年3月18-25日

1か月ぐらい前だろうか。突然Mさんからメールをもらった。『この度、茶旅の会を立ち上げるので参加してください』という内容だったが、何のことやらさっぱり分からなかった。ただ私が茶旅を長く続けているので声を掛けてくれたことは分かったので、端っこで参加することにした。

 

すると『第1回茶旅は3月に四川です』という。四川といえば、私の茶旅では未踏の地であり、茶文化発祥の地として、是非とも行きたい、確認したい場所であった。しかもナビゲーターは四川出身の王さん。王さんとは昨年大阪で四川について話していたので、益々行きたくなる。だが既にハバロフスク行きが決まっており、ハバロフスクからどうやって行くかが問題だった。

 

日程的には直接行けば何とかご一行と合流できる。検索してみると、何と韓国系エアラインは仁川経由で同日に着けるフライトを飛ばしているではないか。条件はそろった、これは行くしかない。だがハバロフスクで思わぬハプニングがあり、何と降りたのは仁川ではなくハルピンだった??

 

3月18日(月)
なぜかハルピン

オーロラ航空のフライトは順調の夜の空を飛行した。食事はやはりサンドイッチのみ。食べ終わると全員が目をつぶって寝入る。まるで夜行列車のような暗さだが、僅か1時間半でハルピン空港に到着する。またロシア人男性が列を押しのけて前に進もうとする。何か余程中国に対する恨みを感じする。昔たまにいた白人、中国ではこうするんだという無礼を見せつける態度だった。

 

ハルピン空港は恐ろしく小さかった。目の前にターミナルがあるのにバスに乗せられたのは、見栄としか思えない。ターミナルに入ると全員の動きが止まる。何してんだと思ったら、何とイミグレの部屋が小さすぎて満員で入れず、係員に止められていた。15分位足止めを食い、ようやくイミグレに並んだら、『外国人は一番端の1つだけ』という。

 

その列だけなかなか進まない。指紋取りに時間を食っているのだ。その機械、よく聞いてみると、パスポートによってその国の言語で指示している優れもの。ロシア語が多いが、なぜか韓国語も聞こえてくる。そして日本語まで。あれ、あの飛行機に日本人が乗っていたのか、と思ったがそんなはずはない。

 

私は何と最後になってしまった。手を機械にかざしていると、係員が『中国語できるか』というので『うん』と頷くと『お前はどっから来たんだ』と聞くので『ハバロフスクからさ』というと、『なんでそんなところから来たのか』と問われ、言葉に詰まる。私だってハルピンに来るとは思っていなかったからだ。どう説明しようかと悩んでいると上官が『もういいよ』といって、指紋も取らずに通してくれた。何だったのだ??

 

空港を出たが、そこには空港バスもなく、とても疲れていたので目の前のタクシーに乗った。運転手が『ちょうど韓国からのフライトと重なり、人が多かったよ』というのを聞いてようやくガテンした。ハバロフスクから来る日本人など皆無だから、係員が仁川から来たはずだと怪しんで、質問してきたのだ。まあとにかく外国人にとって中国はどんどん不便になっているのは間違いがない。それに物価はもう安くはない。それでも中国に行く理由、普通の人にはないだろうな。

 

運転手は陽気に話し続けていたが、その中国語は訛りが強く聞き取りづらい。ただ今日のハルピンも気温が急上昇して暖かかったことだけは分かった。ハルピン空港から市内は、車も殆ど走っておらず、相当にスピードで飛ばしていたが、それでも意外と遠かった。そして高速道路料金も高く、予約したホテルに着いたら150元近くになっている。今日のホテル、1泊225元だから、明日の早朝もタクシーに乗ると、そちらの方が全然高い。それなら空港で寝てればよかったかもしれないが、あんな小さな空港ではどうにもならない。

 

宿はいつものチェーン店を適当に予約したのだが、老街のすぐ近くだった。何となく腹も減ったので、親切なフロントでお勧めの店を聞いて、夜の街を歩き出す。すると老街のライトアップは見事であり、重厚な100年前の建築物はハバロフスクより輝いて見えた。ここももっと時間をかけて見るべきところだと感じるが、何せ、時間は今しかない。結局お勧めの店は既に閉店しており、その辺の店で食べて、明日は早いのですぐに寝る。

天津・大連・北京周遊茶旅2018(11)即席茶会、開催される

12月25日(火)
即席お茶会

翌日はゆっくり起き上がり、またホテルの朝食を食べた。昨日の疲れもあってか、動きが鈍い。今日は昼と夜の予定があったが、その間は何をするかも考えていなかった。ちょうど昨日のセミナー関係者が微信グループを作ってくれ、写真のアップや感想などが来はじめる。そうだ、今日の午後は、このメンバーに先日案内してもらった茶荘を紹介しよう。そう思い立ち、突然ながらお声掛けしてみた。思いがけず反応があり、今日の午後と明日の午前、2回の即席お茶会の開催が決まる。さすが北京。

 

取り敢えず午前をゆっくり過ごし、ランチの約束に向かう。場所は望京の韓国焼き肉屋。望京と言えば、10年前はコリアンタウンとも言われ、多くの韓国系、朝鮮系が住んでおり、それに合わせて韓国料理屋が繁盛していた。今では地下鉄も開通して、簡単に行けるようになっていたが、訪れるのは10年ぶりだろうか。やはり韓国語の看板は多い。

 

お会いするのは北京在住35年?というAさん。北京で会うのはこれで2度目だが、いつもFBで近況は見ているので、久しぶりと言う感じはない。中国人の奥様、そのお子さん、お孫さんの話から、今の中国の一面が見えてきて非常に面白い。当然80年代の昔話も出てくる。昨晩の交流会メンバーとも大体お知り合いという、北京の超有名日本人なのだ。ご馳走になり、誠に申し訳ない。

 

地下鉄でホテルに戻ると、すぐに茶荘へ行く。バラバラと参加者が集まり、岩茶などを飲み始める。今日の今日なのに、皆さん予定をやりくりしてきて頂いたので、当然ピタリ集合は難しい。それでもお茶飲んで、無駄話しているだけだから、時間は気にならない。このお店も、日本人客を増やしたい、北京の日本人にもっと岩茶や紅茶など、福建茶を知ってもらいたいという思いもあるので歓迎される。

 

全員揃ったところで、会員制の茶空間に移動して、またお茶を飲み続け、話し続けた。こういう会は気楽で有難い。聞く方も、聞きたいことが思い切って聞けて良いのだろう。話はどんどん弾む。皆さん、この付近に住んでいる方が多いので、今後も利用してもらいたい。尚この会員制個室は、全ての部屋がお客で埋まっていた。やはり密会?のニーズは高いということだろう。

 

夜6時過ぎ、外へ出ると零下10度の表示に凍える。今晩は旧知のTさんと会う約束があり、そこへ向かうのだが、地下鉄は不便、タクシーは渋滞なので、2㎞ほどの道を歩いて行く。風がかなり強く、これが何とも寒い。日壇公園の北側にあるロシア料理店、と言われていたが、危うく行き過ぎる。どう見てもロシアっぽくないし、店名がMangoだからタイ料理と間違える。

 

この付近、ロシア人街で、革のコートなど、ロシア製商品が売られていた場所だったが、今はどうだろうか。中に入るとクリスマスムードが漂う。ロシア教会のクリスマスって今日なのか?既に沢山のお客で満員盛況。Tさんの他、旧知のNさん、そして大学の先輩ながら殆ど面識のなかったOさん他と一緒にロシア料理を食べ、ディナーショーを見た。中国人もこのようなショータイムに興味津々なのか。ショーの時間が長いので、あまり話も出来ずに会食は終了。帰りはOさんの車で送ってもらい、寒さなしでホテルに戻る。

 

12月26日(水)
北京を去る

翌朝も10時からお昼まで、第2回即席茶会を行う。今日も数人が参加してくれ、昨日と同じような感じで、お茶を飲み、話した。もう年末ということで、日本に帰国してしまったとか、バケーションに出掛けてしまった人もいた。もう年の瀬なのだ。休みだと聞いていた店長が突然登場して、自らの好むお茶を淹れてくれた。また北京に来たら、是非立ち寄ろう。

 

北京空港までは、またお車で送ってもらった。今回は本当にお世話になり、気持ちの良い北京滞在となった。誠にありがたい。北京空港は大連のようなサービスはないが、乗客は予想外に少なく、イミグレ、荷物検査共にサクサクと終了した。今回12日前に北京空港に降り立った旅は、ここ北京空港で終わろうとしている。お茶と直接関連の少ない北の地域にも、時々来てみるのも良いかと思う。お茶の歴史、それは探せばどこにでもある。

 

帰りのエアチャイナの機体はとてもきれいで、資金力豊富な中国系の力を見せ始めていた。夜、暮れの羽田に帰り着くと、どこの企業も御用納めなのか、ほろ酔い気分のサラリーマンが沢山電車に乗っていた。日本は平和だというべきだろうか。2018年の旅も今日で終わった。2019年はどんな旅が待っているのだろうか、楽しみだ。