長い時間話していたが、お客が混んできたので外へ出た。Mさんはさっさと歩き出す。向かったのは、何と不発弾処理展示室だった。これは先日宇和島で劇的な再会をしたTさんがカンボジアで行っている活動に通じていた。ラオスにも同じ問題があり、多くの人が苦しんだ様子が展示されている。ただここは午後4時閉館で滞在時間は10分程度だった。公務員の終業は4時で、帰宅が始まるという。昔の中国を思い出す。
Mさんは更に歩いて行く。ちょっと横丁に入ったところにある日本人M女史が経営するラオスコーヒーの店へ。M女史はコロナで日本に帰国中だったが、幸いお店は開いており、雰囲気の良い店内でコーヒーを頂くことが出来た。コーヒーはパークソンより取り寄せているという。パークソンといえば茶葉もあり、店内では茶も売られていた。今度機会があればM女史に色々と聞いてみたい。
店を出たら突然雨に降られる。かなり激しく降り、傘もないのでずぶぬれになるが、乗り物もいない。10分ほど歩いてMさん行きつけの老舗ステーキ屋へ何とか逃げ込んだ。そこでステーキとスープを食べて温まっていると、Mさんの奥さんと義弟が心配して迎えに来てくれた。食べ終わるとまだ雨が降っており、車で送ってもらう。義弟はパークソンの茶畑なども知っており、次回はお茶関係のところに連れて行ってもらいたいなと思う。
8月27日(土)ルアンパバーンへ
午前中は雨も降らず、また散歩に出た。昔泊まったホテルや行ったカフェなどがいくつもなくなっていた。やはりコロナ禍は観光業への打撃がすごい。ワットオントゥで中国系の供養塔を探してみると、その横に日本人の名前が入った供養塔を2つ発見した。この方々はラオスに貢献して亡くなったのだろう。
昼、チェックアウトして目の前のトゥクトゥクと交渉して鉄道駅へ向かう。料金交渉は意外と難航(場所も知らない)、若者ドライバーは行くのを嫌がる。最終的に2日前と同じ100kでお爺さんのトゥクに乗る。ただこのトゥク、かなりゆっくりで、途中客を拾うなど、30分以上かかる。それでもラオスは交渉価格通りに行くからまだよい。
切符売場の営業時間は決められており、ドアは閉まっている。その横のドアは開いていたので、2階に上がり、トイレに入る。トイレ脇には椅子もあり、数人が休息していたので、それに倣う。列車が一日3往復しかないと、待合室にも入れない。当然エアコンは効いていないが、外よりはマシか。
13時半に売場前に戻ってみると既に行列が出来ていた。ただラオスの行列は何となく緩い。人は先を急がない。10分後には売場窓口へ辿り着き、明後日のルアンパバーン‐バンビエン行の硬座、最後の1枚を何とか買うことが出来た。料金は86kとかなり安い。かなり窮屈だろうが、これも経験だ。
今度は荷物検査場が開いた。身分証チェックがない以外は中国式だ。すぐに中へ入ると、だだっ広いだけで何もない。売店もないので、飲み物すら買えない。ホームに停まっている車両を眺めると、中国高速鉄道と全く同じもの。20分前にならないとホームに入れないのもほぼ同じ。中国人はぎちぎちに行列するが、ラオス人にそれはないので楽ではある。
ホームに行ってもどこが何号車かの表示はない。全て係員の誘導に従う。係員はマスクの上にフェイスガードもしている。各車両に乗務員がいて、チケットをチェックするのも同じだ。一等車の向こう、先頭にビジネスクラスがあるのだが、そこへは行かせてもらえず、写真も撮れない。乗車しても高速鉄道と同じなのでワクワク感があまりない。
どうやらタイ人観光客が多い。中国人はほんの少し、後は白人さん。日本人は見かけない。ラオス人も多くはない。きっと二等に乗っているのだろう。スピードは150㎞程度で早くはない。最初の1時間は平地を走っている感じだったが、後の1時間はトンネルが多い。工事は大変だっただろう。停車した駅は帰りに寄る予定のバンビエンだけだった。ところどころに貨物車が停まっているのが目に付く。単線なので、すれ違いで10分近く停車していた。
ちょうど2時間で終点、ルアンパバーン駅に到着した。これまではバスで10時間かかっていたのを考えると画期的だ。この駅の形はビエンチャンと一緒。駅の脇から出ると、駅前には本当に何もない。1段下がったところにミニバンが沢山待機しており、送迎バンがシステマティックに行われているのはとても良い。1人、35k。20分ほどで街中へ行く。ラオス人も同乗しており、途中で降りていく。