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中国最北端を行く(8)ハルピン2 17時間の列車の旅へ

4.ハルピン2

東北料理は大皿

夕飯はN教授と2人で向かいへ。餃子屋の隣にもレストランがあったので行ってみる。そこは地下になっており、部屋が沢山並んでいたが、その奥に普通のスペースがあり、メニューはなく、自分で見て選ぶようになっている。これは漠河でもそうだったので、基本的に黒龍江省のレストランはこのような仕組みなのだろう。

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野菜や魚が並んでいたが、それほど沢山食えないので、涼皮と鶏野菜炒めを頼む。だがここは東北料理、皿が大きい。これが特徴なのだが、2人ではとても食べきれない。N教授がビールを3本飲んでいる間にお客は殆どいなくなり、店員も休憩モードに入った。ほとんどが若者。会計を頼んでも、担当がいないのか、なかなか持ってこない。若者たちは携帯に目をやり、人の話など聞いていない。全員がゲームをやっていた。

 

 

表に出ると電光掲示板に『点菜員、伝菜員、迎賓員』の募集が出ている。こんな区別があったのか。点菜員は注文を取る人。この役割が一番重要で、お客の要望を聞きながら、如何に高い物を食べさせるかを問われる。頭が良くて愛想がよい子が雇われるのだろう。実際我々を担当した子もそんな感じだった。

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伝菜員は料理を運ぶという一番簡単な仕事。きっと給料も高くはない。迎賓員は入口でお客を迎える係、容姿端麗が条件か。これだけ分業が進むと、給与条件も違ってきており、給与の安い子はゲームなどして憂さを晴らすのかもしれない。

 

2月20日(木)

スーパーと本屋

翌日午前中はハルピンに居るので、スーパーに買い物に。N教授が今晩からの列車の旅に是非ともウオッカを飲みたいということで出掛けたが、スーパーには売っていなかった。昔はハルピンならロシアの物が手に入るという感覚があったのだが。今は儲かる物、売れる物を中心に商売するということか。

 

ホテルのすぐ近くに新華書店があったので立ち寄る。黒竜江省の統計資料などをさがすN教授。毎回の光景だ。私も一緒に黒龍江省の歴史に関する本など探した。この本屋は入口が小さかったが奥行きはかなりあり、どこに本があるのか分かり難かった。

 

お昼は宋さんが同僚の大学教授を呼んでくれ、会食。この教授はロシア関係が専門で、色々な話が聞けた。今回我々が訪ねた漠河、これから行く撫遠は共に、中ロ国境にありながらも、両国関係が希薄な場所だとか。

 

極東におけるロシアは過度に中国を警戒しているので、両国関係は簡単には進まない。中国は現状ロシアから石油を輸入しているが、隙があればシベリアでの権益を伸ばしたい。ロシアもシベリア開発をしたいが、中国を使うと後が怖い。ロシア側はむしろ日本をうまく使って開発したいが、北方領土問題が絡んでくる。難しい状況で、進展がない。

 

地下鉄で東駅へ

午後ハルピン東駅に向かった。昔長距離列車は全てハルピン駅を起点にしていたが、最近はどこの都市でも同じように、東だ北だ西だ、と駅が分散している。我々がこれから向かう撫遠は中国最東端、ということか、列車は東から出る。

 

宋さんは節約を第一としている。これは私のとっては大変好ましいことだ。今回は昨年開通したばかりの地下鉄で行くという。その方がタクシーを拾う手間、渋滞を避け、しかも安いとか。地下鉄の駅までもホテルからそう遠くない。実に便利だ。

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駅は出来たばかりということできれいだし、またちょっとおしゃれな造りとなっている。鉄道駅の南駅から東駅までを結んでいる。切符の自動販売機は故障しており、係員から買う。4元。30分ぐらい乗っていると東駅に着いた。ここも比較的新しいのだろう。

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17時間の列車の旅

かなり余裕を持って出発したため、駅ではかなりの時間があった。我々は軟臥という一等寝台なので、専用の休息室があり、そこへ入る。そこには他の列車の乗客も含めて既にかなりの人がいたが、皆大きな荷物を席に置き、また3席分に1人が寝そべっており、座る場所が見付からない。すると駅員が大声で『荷物を卸せ、場所を空けろ、皆で座れ!』と命令口調で言う。日本の駅員なら至極丁寧に慇懃な態度を見せるだろうが、それでは誰も言うことを聞かない中国。このくらい言ってようやく席が空く。

 

外の混雑はこの部屋の比ではない。まるで26年前を彷彿とさせるような混み具合で、乗車のかなり前から長い列が出来ている。そして次々に列車が発車していく。それでも人は一向に減らない。

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いよいよ我々の番が来てホームへ人がなだれ込む。急がなくても席は決まっているのに、と思ったが、中には席の無い『無座』の切符を持っている人もいるのかもしれない。列車は27年前満州里へ行くために乗ったものとほぼ同じだった。緑の古ぼけた車両が何とも懐かしい。ただ中には一両が上下二段になっている車両もあり、そこが新しかった。

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我々の軟臥は4人部屋。実は参加表明が遅れたMさんはこの切符を手に入れられず、飛行機とバスを乗り継いで撫遠へ向かっている。ということは誰か知らない人が一人来るのである。その一人はオジサンだったが、上の段に登り、下りて来なかった。

 

中国最北端を行く(7)漠河 最北端の北極村へ

2月19日(水)

最北端の北極村へ

翌朝は宿泊客もいたようで、ビュッフェの朝食であった。と言っても出ている物は、粥とマントウ、トウモロコシなど。それでも広い宴会場で食べる方が部屋で食べるよりははるかに良い。

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そして今回の主目的である北極村へ向かう。北極村は漠河から60㎞離れたロシア国境の村。中国最北端の村という売り文句で、観光地化されていると聞き、どのようなものか見に行った。一昨年整ったという一直線の道。まさにこの村の為にできたようで、曲がりがない。雪が積もる両脇、きちんと雪かきされて快適なドライブだった。

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北極村はテーマパークではあるが、その面積は相当に広い。とても歩いては回れない。我々以外に何組か、中国人観光客が来ていたが、全て車で移動し、ポイントで降りて写真を撮る。札幌雪祭りのような雪のモニュメントがあり、黒龍江に沿って、置かれている。

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一番のポイントはやはり河向うにロシアを見ること。勿論河は一面氷ついており、向こう岸まで歩いて渡れる。河の中間近くまで行くと『この先国境線、旅行客は停まれ!』との表示があるが、時々その警告を無視して、線を越えて、向こう岸まで行く中国人がいるらしい。『この10年で10人ほどが撃ち殺されている』と説明されると、何といってよいか分からない。

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如何にも中国人らしい、ともいえるが、向こう岸には何もなく、誰もいないように見えるので、つい行ってしまう気持ちも分からなくはない。しかし実際にはロシア側には見えないように歩哨がいる。彼らはどこに潜んでいるのだろう、いつ中国が大量の人民を送り込んでくるか分からない、双方命がけだ。

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北極村は『中国でオーロラが見える場所』としても売り込んでいるらしい。冬はともかく夏は見ることが出来るのかと地元の人に聞いてみたが『生まれてこの方、殆ど見たことはない』という答え。オーロラを見ることはそう簡単ではないらしい。しかしそうなるとこの村を観光する意味はどこまであるのか、ちょっと疑問。

 

帰りに金山の跡にも行ってみる。ここは1860年頃金鉱が発見され、ゴールドラッシュが起こったところ。この時期は清国が弱体化し、ロシアに押されていた時代。金鉱により、人口が増え、国境の守りにもつながったらしい。李金庸という人物が顕彰されているので、彼がこの領土を守ったのかもしれない。この時期、山東あたりから多くの移民が出始めている。ここまで来たかどうか分からないが、とにかく人口の移動は重要な要素だと思われる。

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漠河、最後の昼飯。皆で美味しく食べる。小魚のフライが特に美味い。この北の果てで魚が美味いとは。やはり来て実際に見てみなければわからない。でも前回モンゴルに行った時もセレンゲで食べた魚の燻製はとても美味かった。刺身を食べようとしなければ、その土地ごとに、美味しい魚料理はあるということか。

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黒河経由でハルピンへ

そしてとうとうお別れが来た。ギリギリの時間に空港に行ったが、まだゲートは開いていなかった。基本的に便数が少ないので、みんなギリギリに来て乗る。まるでバスのようだ。飛行機へは歩いて向かい、タラップを上がる。漠河は僅か2泊3日だったが、何となく感慨深いものがある。

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フライトは着た時とは逆ルートで、黒河経由で戻る。行きは機内に閉じ込められたが、帰りは早く着き過ぎたようで、待合室へ。と言っても何があるわけではないが、ここで乗る乗客の到着を待っている。飛行機に戻る時、でっかい夕陽が沈んだ。

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ハルピンに戻ると、とっくに日は暮れており、夜になっていた。また3日前の道を同じホテルに戻る。ここに大きなスーツケースを預けて、起点として活用している。だが今日の部屋はなぜか狭かった。

 

中国最北端を行く(6)漠河 農林業の現状は厳しい

大火災のあった街

部屋で暖を取っていると、ドアがノックされ、朝食が届けられた。何と宿泊客が少ないため、朝食ビュッフェは開かれず、食事が部屋に届けられてきた。マントウに茹で卵、とにかく暖かいものを腹に入れたかったので、夢中で食べた。体力の消耗には食事も有効だ。

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それにしても泊まっている人が殆どいない。何故こんなところにホテルを作ったのかと思ったが、このホテルは杭州で訪ねたことがあるホテル集団の所有だった。ここだけではなく、海南島などリゾート地に物件も持っていたが、この北の果てを投資先に選んだ理由は分からなかった。勿論夏はそれなりに人が来て、採算は合うのだろうが。

 

朝食後にホテルを出た。先ずは松苑と言われる公園に行く。ここには松林が茂っているだけだが、なぜ来たのだろうか。実はここに漠河の歴史が詰まっていた。1987年5月、大興安嶺一帯では大火災が発生し、何とここ漠河はこの松林を残して、街ごと全焼してしまったという惨事があった。

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何故この街が整然と作られているのか、その理由も良く分かる。古いものは全て焼けてしまったからなのだ。そして歴史の偶然か、まさにその火事の時、私はハルピンからロシア国境の満州里を目指して、鉄道に乗っていたのだ。車掌から火事の話を聞いても、正直ピンと来なかった。そんな大規模な火事がある、ということを日本しか知らない私には理解できなかったのだ。

 

その後宋さんの親戚のお世話で県庁を訪問。副県長さんと会う。まだ比較的若い官僚だが、中国では普通。日本が年寄り過ぎるんだ、と思う。しかもジャージ姿で親近感が持てる。勿論突然訪問したこちらが悪いのだが、それでも会ってくれるところが良い。

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この地域の産業は残念ながらあまりなく、ロシアとの往来も意外なほどないということが分かる。続いて商務局も訪ねたが、商務というものがあまりない。外資系企業を誘致するなどという発想もあまりないのだろう。ロシアとの貿易を聞いても、『ほとんどない。あるのは木材だけだがそれも・・』という感じ。書店に行っても統計資料すらない。

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昼は清真火鍋屋へ。これもあっさりしていて美味しかった。ただ真冬の漠河、野菜は決して多くはない。きくらげ、豆腐、などが入ってくる。スープの味は良く、寒い中ではとても温まる。

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農林業の現状

午後は昨日周囲だけ回った家具工場へ行く。宋さんの親戚のオジサン、なかなかの実力者で、案内を買って出てくれた。『大興安嶺神州北極木業』という会社の子会社が、この家具工場の名前。何だか大仰な名前だが、やはりこの辺の木材を使って家具を作る会社だった。

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オフィスは木目調の立派な造りだった。だが責任者に話を聞くと、『今年からこの辺の木を切ることは法律で禁止された。ロシアから材料を入れるのも苦労している。先行きは不透明だ』と暗い表情。確かに安い材料と加工賃でやってきた工場にとって、既にコストは高くなり過ぎなのだろう。

 

次にブルーベリー飲料工場へ。野生のブルーベリーを使っているということで、農業関係のMさんは興味津々。正直ブルーベリーが野生で生えていても、それを産業化するほどとれるとはとても思えない。だがこの工場では季節性の強い野生のブルーベリーを集め、飲料を作っているという。Mさんの商売から見えれば単位未満だし、安定性もないというが、野生のブルーベリーの質は高い。

 

ここではキノコを使った菌茶というのも作っていた。正直味は、うーん、であるが、様々な工夫はされている。生き残るには何でもしないといけない。漢方系飲料、健康には良いということだったが、その効果はいかほどか。

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また広い敷地には立派なログハウスがいくつも建っていた。夏の間泊りに来るお客の為に作ったらしいが、これはとてもよさそうに見えた。是非夏に来て泊まりたい。いや、冬でも室内が温かいのであれば、何もしなくても滞在していたいような雰囲気を持っていた。こちらの方がビジネスになるのでは?これも木材が調達できなければ作ることはできないということか。

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実は案内してくれたオジサンはこの付近で林業を行う林場と呼ばれる生産集団の責任者の一人だった。林場というのは、昔の人民公社のようなものか。この街の林業が変わっていくということは林場の役割が変わるということであり、そこでは働く人々の仕事に大きな影響があるということ。

 

この林場では、新たな試みとして、きくらげ栽培を始めていた。余っている土地の倉庫を使い、きくらげを育てている。きくらげなら室内栽培であり、温度管理などを行えば、育てられるらしい。とは言っても基本的には春から夏にかけて、外で作るようで、その枠組みが途中まで出来ていた。

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この事業は街の事業であり、500万元を投資して、きくらげやキノコを栽培し、林業からの転換を図るというもの。オジサンは責任者として、この事業に賭けるという。うまくいくことを願っている。夜はオジサンが地元料理に付き合ってくれた。親戚に大学教授がいる、というのは何かと便利。今後ハルピンで相談する相手が出来たと喜んでいた。

 

中国最北端を行く(5)漠河 零下37度 早朝死の彷徨 

3.漠河

客のいないホテル

車で市内へ。特に何もない道を行く。すぐに街に入った。街が異常にきれいで、街並みが揃っている。何だか不思議だ。この辺ではいいホテルだという金馬飯店に入る。確かにいいホテルだったが、人気は全くない。

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直ぐに昼飯へ。N教授が『魚が食べたい』というので、頼んでみたが、これがなかなか美味い。氷を割り、その下を泳ぐ魚を釣ってくるのだという。脂が乗っていた。熊の肉も出てきた。この辺でも珍しいらしい。豆腐も美味い。この北の果て、食事には問題がないことが良く分かってホッとした。辺境ではあるが、ここには少数民族はいない。ロシア人もいない。純粋な漢民族の街なのである。

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食後、先ずは鉄道駅へ行った。ここは中国で一番北にある駅だという。一日1便が通るらしい。貨物駅としてそこそこ機能しているようだが、正直景色は寂しい。ここからロシアへ繋がっていれば貿易なども生まれるのだろうが、残念ながらこの先もう1つの駅で途絶えている。漠河の位置づけが、ロシアではなく、中国国内に向いていることを示している。

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家具工場突撃

石炭を積んでいる場所へも行ってみた。未だに石炭の採掘はあるが、価格が大幅に下落しているので、採算は合っていないように思われる。夕暮れ時、黒々とした石炭が積まれている光景は異様。雪も積もっており、下は凍っていて滑る。

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運転している宋さんの親戚に『この辺に企業はないか』と聞いてみたが、うーんと首を捻る。そして、そういえば、という顔で車を進める。車はランドクルーザーである。そして暗闇の中、工場の前に着いた。いきなり中へ入れろ、というと、警備員がどこかへ電話し、『既に工場は閉まっている。車で回るだけならよい』ということで、1周した。木材が積まれており、どうやら家具工場らしい。この辺で切り出された木材で家具を作る、ということか。

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夜はとても静かなホテルで熟睡する。そして翌朝の夜明け前を狙い、5時半に起床。いよいよこれまで体験したことのない、寒さの中に踏み出してみる。

 

2月18日(火)

零下37度 早朝死の彷徨

外へ出るとまだ暗い。そして思ったほど寒くはない。勿論ダウンの上にオーバーコート、下にはズボンの上にオーバーズボン、靴下を重ね履き、そして足先ホカロンも入れて完璧な服装だった。

 

『夜明け前が一番寒い』という言葉通り、息は白いを通り越して、メガネは曇って見えない。デジカメは最初の10分で電池が凍結、動かなくなる。大通りには結構人影があるが、どうやら全て観光目的の人だ。地元の人は敢えてこの時間に外出はしない。

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20分ぐらい歩いて行くと、かなり疲れてきた。Mさんからは何度も『20分歩いたら、戻るのにも20分かかることを計算して歩いてください。ハルピン氷祭りに来る日本人に何度言っても守らずにヘロヘロになる人がいます』と言われ、分かっているつもりでいた。それでも人間は、頭でわかっていても『もう少しは大丈夫』などと思ってしまうもの。

 

戻ろうと思った時には、既に頭の思考が止まりかけていた。今来た道をただ戻るだけなのに、ホテルの場所が分からなくなる。周囲の人は外から来た人で聞いても分からない。体はどんどん疲れてきて、頭はどんどん重くなる。道はシンプルなのに、間違ってしまう。N教授が言う方向が正しかったのだが、冷静な判断力もなくなっていた。

 

歩き疲れてホテルにたどり着いた時、既に50分が経過していた。完全に時間オーバーだった。私はまだよかったが、N教授は『もう少しで死ぬかと思った』と声も絶え絶えだった。特に足先がやられていた。急いで足先ホカロンをつけると、血の気が戻ってきた。北京でHさんに教わったこと、これがどれほど役に立ったことか。先達は必要、ということだ。

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デジカメも壊れたかと思ったが、暖かい部屋の中で徐々に回復してきた。完全に電池が固まってしまったようだ。人間もカメラも、これだけ寒いのは想定外だということ。改めて自然の怖さ、寒さの恐ろしさを体験してしまった。

中国最北端を行く(4)ハルピン プロペラ双発機で行く

2.ハルピン

アレンジなし 波乱の幕開け

ほぼ定刻にハルピンに着いた。ハルピンへ来るのは何と27年ぶりだ。当然空港のイメージも違っている。というか、そもそも全く記憶がない。空港には宋さんが迎えに来てくれた。宋さんは黒龍江大学で日本語を学び、その後日本にも滞在するなど、日本語は流暢だった。A大にも3か月滞在したご縁で、今回のアレンジをお願いしていた。

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車の中で今回の旅程の話になったが、何と宋さんは面談などのアレンジをN教授がするものと思っていた。完全な勘違いであった。だが私などは、アレンジが無くても行けばよいと思っているし、N教授も、何か手がかりでもあればいい、というスタンスだった。勿論宋さんはここから猛然とアレンジを始めた。でも地元ハルピンならまだしも、自分も行ったことがない場所のアポを取るのは大変だ。

 

ホテルは空港から30分ぐらいの、黒龍江大学の近く、宋さんの家の近くに取られていた。我々は明日から飛行機に乗って他の都市へ行くので、ここは都合がよい。ホテルはかなりきれい。今回は費用の関係でN教授と相部屋をお願いした。大変助かった。

 

飛行機で夕飯が出なかったため、近所に食べに行く。ホテルの向かいの餃子屋さん。東北の水餃子はいつ食べても美味い。この店のオーナーは最近日本に旅行に行ったとか。『何しろ日本はどこへ行ってもきれいで驚いた』と。現在の気温は零下15ぐらい。北京より10度以上低いが既に色々と着込んでおり、それほど寒く感じない。と言ってそれほど長く外を歩いたわけでもないが。

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2月17日(月)

空港へは旅行社の無料サービスで

今朝は漠河へ行くため、空港へ。ハルピンの天気は良いが、冬のせいか、空気はかなり悪い。石炭で暖を取っているのだろうか。昨年ハルピンでもPM2.5騒ぎが起こり、3日間ほど前が見えないほどの事態となり、学校閉鎖や交通機関の乱れがあったと聞く。もし今日飛行機が飛ばなかったら、どうなるのだろうか?

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宋さんが迎えに来てくれ、車で空港へ。この車、何とチケットを購入した会社よる送迎サービスだとか。これは有難い。旅行会社は普通の白タクを使い、客を送迎している。今回我々のチケットはかなり高かったため、このようなサービスが付いたのだろうか。

 

空港は乗客でごった返していた。我々が乗る航空会社の名前がすごい!OKエアーは聞いたことがない。何とかカウンターを見付けてチェックインする。まだ出発には時間があったので、レストランに入る。どこの空港でも同じだが、こういう場所の料金はべらぼうに高い。一人最低消費は58元。お茶一杯も58元。だがビールは30元しか取れないので、N教授に他にも頼むよう命令が下る。スイカの種、これも30元?すごい。

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そこへもう一人の参加者、ハルピン駐在のMさんが加わる。企業駐在員だが、N教授との関係もあり、今回自らの駐在する黒龍江省内ながらまだ行っていない場所なので参加したらしい。我々が行く場所は商社の駐在員でも行かないような場所だと分かり、益々興味が湧く。

 

プロペラ双発機で

いよいよ搭乗。まだ雪がかなり残る空港を歩く。今日乗る飛行機は50人乗りのプロペラ双発機。プロペラは久しぶりだ。座席は2人ずつ、荷物の収納スペースは狭い。CAのお姐さんも厚手のコートを着込んでいる。乗客はほぼ満員。皆どこへ行くのだろうか?

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空は快晴で青い。上空へ上がると気持ちほどの光と雲が広がる。そして下もよく見える。雪や氷がうっすら見える田畑。こんな風景がずっと続く。1時間後、黒河へ降りる。ここで半数以上の客が下りた。黒河はこの付近の中心都市、商売などもあるのだろう。私も降りてみたかったが、すぐに出発ということでタラップを降りることも写真を撮ることもできなかった。そしてまた客が乗り込んできた。黒河から漠河へ。観光だろうか?

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更に1時間強で漠河へ到着した。とうとう中国最北端へやってきた。天気は晴れ、眩しいほどに明るい。雪が光を跳ね返す。空港にはかなりの雪が残っている。空港には宋さんの親戚だという若者が待っていた。宋さんが若い頃、同じ地域に住んでいたらしい。30年ぶりだと言いながら『一目でわかったよ』と手を握る。ここからドラマが始まる。

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中国最北端を行く(3)北京 ウイグル料理を堪能

2月15日(土)

ウイグル料理

今日は朝から馬連道へ。馬連道といえば普通はお茶市場へ行くと思うのだが、実は違っていた。ここに新疆の兵団レストランがあるという。面白そうなので後輩のKと出掛けることに。ところが地下鉄で現地に向かっている途中、短信が入る。『体調が悪いので昼は勘弁を』ということで、一人で突撃。

 

北京も地下鉄が沢山出来てきたので、どれに乗ってよいか分からない。が、以前は地下鉄では行けなかった馬連道の近くまでは電車が通っている。地図で確認して行ってみたが、ちょっと乗り間違えて、かなり歩く羽目に。よく知らないと北京は広いので要注意だ。

 

兵団とは日本でいえば屯田兵。中国建国後、新疆に引き続き駐留した軍隊で、平時は農業などに従事する。新疆でのその規模はかなり大きく、ある街では街の行政と同じ規模であったりする。今や漢族の新疆政策にも関わっているかもしれない。

 

レストランは兵団大廈の1階にあった。そしてきれいであった。イメージはちょっと違う。兵団は北京に不動産を持っていたのだ。ただ店内には人影がなかった。時間が早過ぎてまだやっていなかったのだ。ウエートレスが一人いたので聞くと、座っていていいという。特に急いでいないが、一人で長居するような場所でもなさそうだったので、ラグメンを頼み、食べて出てきた。

 

休日なので開店前から人が来て、注文を開始。皆、串羊肉を頼み、美味しそうな料理を頬張っている。勿論一人で来ている者などいく、家族か友人とだった。子供たちもいる。楽しそうだ。確かに兵団のイメージとはちょっと違う。一応本格的な新疆料理として、この辺では有名なのだろう。

 

お茶でも見ようかと思って、メインビルに入る。ここは10年以上前に時々来た場所。今ではこのビル以外に6‐7の茶城があるらしい。それ以外にも周辺には沢山の茶荘があり、どこに入ってよいかも分からない。メインビルも殆どお客は歩いていない。今日まではまだ正月気分、中には店を閉めているところもある。

 

2月に紅茶の会でお話することを思い出し、正山小種を見て回る。このお茶はイギリスではラプサンスーチョンという名で今でもファンが多いが、中国人にはあまり好まれない。何故ならこの茶の特徴は、松の木で燻して作るため、その煙のにおいがきつい。そこで最近紅茶を飲むようになった中国人向けに、この燻製を弱くして茶を作っている。

 

この茶城を歩いていても、現在では中国人向け正山小種しか見つからない。何故ならこの方が売れるし、また作るのが簡単だからだ。現在の中国の茶作りでは無理して面倒はしない。ようやく匂いが強い茶を発見したが、値段はかなり高い。手間がかかっているので仕方がない。今はそんなものだ。

 

それから国貿3期まで戻り、マスコミ関係者S氏と会う。彼は精力的に活動しており、仕事の他、別の勉強、本の出版など、あまりの忙しさに疲れ果てていた。偶には気分転換もいいのでは、と夜の新疆料理会食に誘った。

 

夜は西二環路外の新疆レストランで、同窓生と会食。そこに有名ライターC氏も合流、更には道に迷いながらS氏も到着。皆で美味しい新疆料理を堪能した。昼間のうっ憤を晴らした形だ。このレストランもお客にウイグル人はいなかった。

 

2月16日(日)

文革運転手

今日はハルピンへ向かう日。午前中は原稿整理などをして過ごし、昼は昔馴染みのOさんと食事。彼女とは留学時代からの腐れ縁だが、その息子レオが大きくなっているのにビックリ。まあ5年も経てば当たり前か。ずっと中国にいるレオだが、中華料理よりはハンバーガーなどがいいらしい。そこはアメリカンとのハーフ、それもいいか。

 

ホテルへ戻り、タクシーで空港へ。市場の前から拾ったのだが、運転手がとても親切。運転席の横のライセンスを見ると、名前は『文革』。やはり1966年の生まれだという。彼は言う、『生まれた年から色々なことがあった。そしてタクシーの運転手になったが、いいことはあまりない。それでも生きているからまあいいか』。さすが文革氏、言うことが違う。

 

空港でN教授と落ち合った。そしていよいよハルピンへ。エアチャイナを予約したつもりだったが、搭乗してみると、大連航空と書いてある。エアチャイナの系列なのだろう。ただサービスは違っている。食事は出ずに、パンだけが出た。

中国最北端を行く(2)北京 動かなくなったPC

ホッカイロ

夜は雲南料理のお店へ行く。カメラウーマンのSさん、ライター兼編集のHさん、胡同に住むライターTさんと一緒に食事をした。このメンバーは、実はある雑誌に寄稿している仲間で繋がっている。これも面白い。

 

私がこれから厳冬の黒龍江省へ行くというと、Hさんが『私も以前取材で漠河に行ったことがある。零下40度の中、トナカイを見に行って寒かった』という。えー、こんなところに私がこれから行こうとしている場所を知っている人がいた。さすが多彩なメンバーだ。実は昨日の夜、この漠河について初めて検索した。すると『現在の気温零下41度』とあるではないか。寒いとは思っていたが、想像を絶する。そして私は、それに対する服を持っていない。

 

Tさんは友人にもらったというオーバーコートをわざわざ持ってきてくれた。これをダウンの上から着るとよいらしい。そしてズボンはスキーに行くオーバーズボンの購入が必要だという。実は私はスキーをしたことがなく、全く思いも付かなかった。なるほど。

 

そしてHさんは『ガードすべきは足の先』と。食事後、セブンイレブンに連れて行ってくれ、足先を温めるホカロンを購入した。勿論通常のホカロンも合わせて購入。今や北京でも簡単にホッカイロが手に入る。素晴らしい!今晩の会合が無ければ、漠河で私はどうなっていただろうか?必要な人は必ず現れる、私の座右の銘?

 

2月14日(金)

PC壊れる?

朝起きてPCを立ち上げようとしたが、うんともすんとも言わない。電源も入っている。何故だ?ここで壊れたら、黒龍江省はどうなる?頭に色々なことが過る。どう見ても北京で直さなければならない。2₋3の友人に電話してみたが、とにかくどこかに持ち込み、チェックしてもらうことだ、となる。

 

そして思い出した。北京で日本人相手にPC修理をやっている会社があったことを。どこにあるんだっけ?と考えてみたら、なんとなんと、今泊まっているところから見えるところにオフィスがあるではないか。これは『そこへ持ち込め』という啓示に他ならない。

 

いくらぐらいかかるだろう、そもそも治るのだろうか、などと考えながら9時過ぎに行ってみる。受付の女性は日本語を話したが、私の症状を見てすぐに専門の人を呼んだ。彼は私のPCをちょっと見て、すぐに装着されたバッテリーを取り出し、また入れた。すると何のことはない、ちゃんと立ち上がるではないか。

 

日本人の女性が『たまにあるんですよ。フリーズですかね』と笑いながら言う。そしてお代は要らないとも。全てが杞憂だった。だが知らなければ何も解決できない世界。彼女に聞いてみると『最近間違いなく北京の在住日本人は減っている。そして企業からの受注も減りつつある』と。中国でのビジネス、皆厳しいことが分かる。環境のせい?反日?それとも?

 

秀水

何事もなかったようにホテルにPCを置き、秀水に向かう。ここは15年前屋外の露店商が並ぶ場所だったが、その後ビルの中に露店を押し込めた。特に偽ブランドで有名。日本人は眉をひそめるが、安くて何でも揃う、という点では便利この上ない。いつも多くの外国人、特に値段交渉の厳しい韓国人と甘い欧米人が来ている。

 

1つずつは実に小さな店が何百軒も連なっており、売り込み競争も激しい。若い女性の売り子が歩いているとどんどん声を掛けて来る。どの店が良いかはフィーリング、というか、彼らの底値さえ大体分かれば、どこでも大差はない。先ずは欲しい商品を見つけ出し、大体の値段を理解した上で適正な料金で買う、ということになる。

 

オーバーズボンは北京でもあまり履かないらしく、なかなか見つからない。何とか見つけると、薄目と厚目がある。零下40度というと厚目を勧められたが、果たして履く機会があるのだろうか。念のためにひとつ購入。それと帽子は必須。これも1つ購入。

 

ランチは建外SOHOへ。日本食レストランオーナーTさんの店で食事。この店、以前は日本の中華屋さんが入っていたが、そこを居ぬきで借り、結構成功しているらしい。素晴らしい!だが我々の話題は北京でもなく、中国でもない。マレーシアなど東南アジア。北京10年で飽きてきたTさんにとってアジアは次の大きなフィールド。さて、どうなるだろうか?

中国最北端を行く(1)北京 朝からチェックインできるホテル

 

《黒龍江省散歩2014》  2014年2月16日-25日

 

本当は新疆ウイグルへ行くはずだった。これまで大学の先生と2年間で3回のウイグル調査をしており、今年は本の出版すら予定に入っていた。だが、新疆情勢はかなり動いており、昨年夏もモンゴル訪問に切り替わっていた。公式に訪問することは難しい。

 

『今回は別の所へ行きましょう』ということで選ばれたのが、何と黒龍江省。しかもその最北端、ロシアとの国境に厳冬期の2月に行くと聞いて逡巡した。だがそれも経験、と思い直し、今回は完全に観光気分で出掛ける。

 

それにしても常夏のバンコックからロシア国境までの温度差は大変なもの。果たして体がもつのか、この歳で体験といってもちょっと危険だった。先ずは北京でトランジットして、体を慣らすことに。

 

2月13日(木)

1.北京

午前8時半にチェックイン

体を慣らすのにバンコックから夜行便?と思ったが、いつものことで仕方がない。いつもは北京で降りずに朝の便で東京へ行くのだが、今回は朝6時半に入国した。あまり早く行ってもどうせホテルのチェックインは昼頃だと思い、ゆっくりイミグレを通り、電車で市内へ。今回は三元橋の如家というチェーン店を選んだ。三元橋には空港線の駅があり、便利だと思ったのだが、何とこの駅は実に不便で、周囲へ行くにはぐるっと回らなければならない。

 

如家も地図上よりはるかに遠かった。ある社区の中、古いホテルを改造したような構え。朝8時半に入っていくと、何事もなかったようにチェックインできた。これは実に有難い。これで夜行便の疲れを癒せる。日本のチェーンホテルなら、チェックインは午後4時から、と言われそうだが、他のアジアはそんなことはしない。部屋が空いていれば客を入れる。それが顧客サービスだ。

 

この如家、予想以上に清潔で必要なものは全て揃っている。WIFIも遅くない。2月の北京は零下の気温ながら、ここは暖かい。お湯の出も問題ない。熱いシャワーを浴び、ベッドに入るとすぐに眠れた。やはり歳だ。

 

昼頃、起き上がる。今度は腹が減る。その辺を散策すると昔を思い出す。実は15年前はここからそう遠くない場所に住んでいた。近くに行ったことのある中国料理屋もあったが、一人で入るには量が多い。そう思って三環路に出ると、昔懐かしい日本食レストランがあった。月山、入ってみると昔と何ら変わらない。恐らくは値段もそれほど変わっていないような気がする。定食38元。

 

店の雰囲気も働いている人の雰囲気も変わらない。北京はここ数年で大きく変わったと思うので、まるで時間が止まったかのようだ。以前は日本人経営だったと思うが、今はどうなんだろうか?

 

張さん

それからバスに乗り、茶葉市場へ。久しぶりに張さんの店へ行く。馬甸橋にある福麗特中国茶城、ここには2007年から通っている。張さんとは紹介されて知り合い、北京時代の我が家のお茶会には殆ど来て頂き、お茶を入れて貰った。その頃出産もあったが、赤ちゃんを連れて、大きく荷物を持って参加してくれたこと、有難かった。

 

この茶城、他と違うのはお茶専門ではない。1階には骨董家具屋があり、そして熱帯魚屋もある。何故この2つが並んでいるのかは分からないが、実はこの2つにはお互い関連性がある。2007年頃から北京の不動産市場は高騰し、家を買う人も増えていた。家を買えば家具を買う。お金持ちは骨董家具を買うケースもある。もう一つ買うもの、それは水槽と熱帯魚。これは主に風水などの影響があるが、熱帯魚がドアの向こうにある家、それは彼らの憧れだったかもしれない。とにかく北京の住宅事情を見る上で、この市場は実に参考になった。

 

張さんの店は毎回行く度に、配置が換わっている。店名が変わっていることもある。それでもこの場所は変わらない。それはそれで凄い。この店に来るといつもダラダラしている。それが茶荘というものだと私は思っている。緊張して、いいお茶を探しまくって、そんなことでよいのだろうか?

 

以前買った福建の紅茶が美味しかったが、もう無かった。冬なので緑茶も買いたくなかった。この店は鉄観音が売りなのだが、私は香港の茶縁坊以外では鉄観音も買わない。そんなことでダラダラしてしまう訳だ。冬場の暇な時期、張さんもいくらで付き合ってくれる。私が駐在していた頃に居た日本人は殆ど帰ってしまった、最近日本人の奥さんと子供は北京に住まなくなっている、など世間話が続く。

済南を歩く2013(2)黄河と日本時代の建物

7月16日(火)
趵突泉

翌朝散歩に出る。夏の朝は爽やかだ。ホテルの向かいには泉城公園があり、そこをずっと歩いて行くと観光名所の趵突泉公園があった。済南は泉の街、街中いたるところに泉があるが、ここは公園になっており、観光客も訪れるし、市民の憩いの場ともなっている。

 

園内に沢山の泉がある。済南は別名を泉城というらしい。亀や魚が泳ぐ泉、ボーっと見ているにはちょうど良い。柳がちょうどよく、枝垂れており、絵になる風景だ。万竹園という竹林もあった。公園の中にミニ公園がいくつもある。

 

実はこの公園の中には日本に関するものもある。それが『済南惨案記念堂』だ。1928年5月、日本軍の山東出兵により、この地で中国の外交官など17名が惨殺されたとされる事件。中国ではこの事件を日中全面戦争の序幕、と捉えている。日本の歴史の教科書にも出て来るが、あまり詳しく勉強した記憶はない。因みに日本側は居留民12名が殺害されたため出兵したとしているが、この辺りの歴史は闇の中。中国側は日本軍の占領後、数千人が殺されたとしているようだが、こうなるとどうだろうか。この事件、済南が交通の要所であったことは分かる。

 

お昼前に昨日の旅行会社に行き、再度副社長と会う。今日は済南市の旅遊局の牛副局長を紹介され、歓談する。特に済南・青島などの歴史建築物に詳しい牛さんより、済南に残る数々の日本時代の建築物について聞く。ここ済南には戦前数千人の日本人が居留しており、領事館を始め、何と高島屋まであったというから、青島ほどではないが、重要な場所だったことが分かる。

 

因みにここで山東の日照緑茶を飲む。特に特徴は感じられなかったが、牛さん達が急須に持参の茶葉を入れ、湯を注いでも蓋をしなかった所に感心した。やはり緑茶は急須で淹れるものではないのだろう。次回日照を見てみたい。


黄河と歴史遺産

午後はOさんが黄河へ行こうという。黄河、そうかこんなところに黄河があるのか。市内中心からタクシーで20分ほど行くと、大きな河が見えてきた。済南黄河、確かに川幅は広い。ただ昔からここを流れていたわけではないようだ。1855年にこの流れになったとある。


 

平日の午後だが、観光客がそこそこいる。ただ河が大き過ぎて、人がいるようには見えないが、よく見ると浜辺?に見えるような部分で水遊びしたりしている。魚を釣っている人もいるかもしれない。よく考えてみると私は黄河をこれまでに見たことがなかったようだ。長江は三峡下りの経験もあるのだが、黄河は幻だった。断流だ、何だと騒ぎがあったが、今回見てみて、水があることは分かった。これで良しとしよう。Oさんに感謝しよう。

 

それから牛さんに教えてもらった日本が建てた建物を見に行く。Oさんも仕事柄、同行してくれた。済南飯店、そこへ行けばある、ということだったが、見た目はただのホテルだった。ホテルの人に念のために聞くと、裏に回れという。裏へ行って驚いた。そこには何と日本領事館の建物がそのまま残されていたのだ。

 

中へ入ってみると、人がいた。ここを管理している会社の人だという。強い山東訛りでよく聞き取れないが、元々領事館は1918年に作られた。これは第一次大戦時の青島占領後の処置だろう。その後、1928年に済南事変で一度焼かれたが、1939年に再建された。目の前にあるのはその建物だった。解放後、毛沢東をはじめ、劉少奇、宋慶齢など多くの共産党幹部がここに泊まったという。

 

建物の中はそれほど傷んでおらず、当時の雰囲気を残している。むしろ少しきれいにし過ぎたようだ。今後レストランにでも使うのだろうか。2階に上がると毛沢東も泊まったという寝室がそのまま残っていた。そこの窓ガラスは当時のままだという。うーん、相当な観光資源だと思うのだが、どうなんだろう。

 

外へ出ると建物の横に庭がある。その向こうはビアガーデンになっている。まだ時間が早いので、営業はしていないのだが、こんなところで夕暮れ時にビールでも飲むといいだろうな、と思う。領事館時代はここでガーデンパーティーが開かれたかもしれない。他にも2号楼や事務所など、昔の建物が多く残っている。

 

済南飯店を出て、歩いて行く。この付近はやはり、旧市街地。古い建物がいくつも見える。教会もあれば、今は博物館になっているところもあった。済南は本当に雰囲気のある街だな、と感じる。

 

そして最後に探し当てたのが高島屋の跡。高島屋がこんなところにあった、ということが信じられないが、当時は日本軍の占領地の景気は良かったのだろう。大連や天津にも百貨店は進出していたのだから。ただ気になるのは高島屋のHPなどに戦前中国に進出したことなどは書かれていないこと。何か後ろめたいものがあるのだろうか。この建物は交差点の角にあり、立地は良かったのではないか。現在は何と建物の正面に入口が見付からない。一体何に使われているのだろうか、と近所の人に聞くと、何と『公安』だった。写真を撮るのも遠慮した。

中国人上司

帰りは夕方の帰宅ラッシュにぶつかり、タクシーは捕まらず、バスでホテルに戻る。ホテルからまた出て、夕暮れの街を歩く。そこは昔の路地を観光化したような場所。狭いスペースにたこ焼き屋や寿司屋などの屋台が出ており、大勢の人で賑わっている。でもなんで、寿司。勿論て巻き寿司や海苔巻だが、済南の人々はかなり好きなようで、何軒もあった。

 

そして夜はOさんの上司と部下と一緒に食事をした。その場所は香港系企業が開発した大きなショッピングモールの中。ユニクロとMUJIもしっかりと店舗を構えていた。魚を丸ごと煮た料理が登場。皆で思いっきり食べる。

 

普段は上海に居るOさんの上司は、何くれとなく話し掛け、巧みに部下である中国人の愚痴や疑問をかぎ分けて、誉めたり宥めたり。中国の上司の仕事は部下と仲良くして仕事を進めること。日本とはかなり違う。また彼は日本に関しても相当に詳しく、日本企業とも多くの取引をしてきていた。『中国人は元々日本を知らない人が多いが、日本人でも中国を知らない人が増えている』と嘆く。そして『日本人は何でも謝り過ぎ。あれでは中国に対して過去を謝罪した、と言っても誰も信じない。日系企業に勤める中国人は自分の上司が毎日10回以上、電話に向かって「すみません」と言っているのを聞いているのだから』なるほど、全くだ。

 

食事を終えると彼らはカラオケに向かった。上司はきっとカラオケでも部下の愚痴を聞くのだろう。それが重要だ。それが上司の仕事だ。勿論部下も上司との関係を重視して、食事にも付き合う。昔は日本もこうだったのではないか。日本のシステムは確実に崩れている。

 

7月17日(水)
黒虎泉

翌朝もホテル周辺を散策。すぐそこに黒虎泉と呼ばれる泉があるということだったが、そこは川が流れており、その川辺の各所に泉が湧いていた。これはなかなか壮観。観光客も柳の下を歩いているが、地元の人々は泉の水を汲みに来ている。中には水着を着て、温泉のように入っている人、体を洗っている人までいる。

ここが市民の憩いの場、生活の場であることがよくわかる。そしてこのような場所が市内の中心にある街、済南は古き良き中国を残していると言える。だが、開発の波はきっとこれからこの泉たちをも襲うだろう。その時、市民はどうするのか、その辺が中国の次のステップを見る材料ではないかと思う。

その他にも古き良き町並みには残っていた。北京の胡堂のような狭い路地、小川を眺める老人、ここにも泉がある。観光地でもなく、ただただ昔を残している。中国はこれからどうなるのか、そんなことを考えながら歩く。

そしてホテルに戻り、チェックアウトして駅へ。来た時駅にはあんなにタクシーがいたのに、ホテルの前にはタクシーがいない。昼前はタクシーが捕まり難いらしい。ちょうど乗客を降ろす車を見つけ、何とか乗り込む。が、この女性ドライバー、あまりに訛りが強くて何を言っているのか、ほぼ分からない。

山東と言えば26年前に行った烟台、青島でもほぼ言葉が聞き取れずに『中国は本当に広い。そして上海でいくら勉強しても、他の都市で使えない』を実感したことを思い出す。最近はテレビなどの発達で、若者は標準的な中国語が話せるが、この辺りの年配者、村から出てきたような人は、未だに標準語が使えないと分かり、懐かしいような、困ったような。

駅に着くと、すぐに北京行の切符が買える。相変わらず便利。ただ高速鉄道の新駅はどこも同じような形でだだっ広いのは不便でもあり、またつまらない。そんなことを考えているとあっという間に北京へ戻っていた。中国の発展スピードは速いが、できれば古き良きところも残してほしい、それは部外者のしがない望みであろうか。

 




済南を歩く2013(1)山東省の省都は済南だ

《済南を歩く》 2013年7月15-17日

 

東京からバンコックへ戻る途中、北京でストップオーバーした。北京では経済小説家Kさんのお供をしたが、3日ほど時間が取れた。どこへ行こうかと思っていると、最近音沙汰の無かった大学の同級生Oさんから『4月に山東省済南に転勤になりました』というメールを貰ったことを思い出す。何となく寂しそうなメールだったので、激励の意味を込めて行ってみることにした。

7月15日(月)

1. 済南まで

山東省と言えば青島が思い浮かぶ人がいても、省都が内陸部にある済南である、と知っている人は多くはない。最近ではなぜか薄熙来事件の裁判が済南市で行われ、ちょっと注目を集めた程度。私も一度も行ったことはない。ただ27年前、上海に留学してすぐの国慶節に列車で北京へ行った時、通過した記憶がある。この列車は17時間ノンストップで走っていたが、唯一貨物の関係で停車したのが済南だった。

http://hkchazhuang.ciao.jp/asia/china/mukashi01beijing.htm

朝北京南駅へ行く。27年前と違い、北京には駅がいくつもでき、高速鉄道が開通している。今では北京―上海は5時間程度で結ばれている。その中間に位置するのが済南。今回は高速鉄道で行ってみる。南駅までは地下鉄が繋がっているので便利。駅で切符を買うと30分後の列車に乗れる。ああ、何というスピーディーな。中国の進化が実感できる。駅には吉野屋まで出店しており、どんどん日本の駅の風景に近づいているような気がする。


そして高速鉄道に乗りこむ。満員の乗客。これが1時間に何本も走っている。列車は田園風景を見ながら進む。そして2時間強、あっという間に済南に到着する。済南西駅、高速鉄道の為に新たに作られた駅で真新しい。

2.     済南
ホテルまで

駅から市内までかなり距離があると聞いていた。タクシーに乗るほか方法はない。タクシー乗り場へ行くと、何とタクシーが溢れかえっていた。運転手はみんな、移動するのに、自分のタクシーを押している。エンジンをかけずに燃料を節約するためだ。

 

タクシーに乗り込むと、駅の周辺までタクシーだらけ。この街はまだ発展途上だな、と直感する。市内で客を待つよりここで待つ方が距離は稼げる、ということだろう。だがこれだけ多いと、客があるのだろうか。運転手は『正直2₋3時間待って客を乗せられれば良い方』と諦め顔。確かに10数キロ走っても40元程度。これを1日2往復しても商売にならないようだ。

 

市内に入っても高い建物はあまりなく、むしろ昔懐かしい中国の都市、という雰囲気が出ている。街の真ん中のホテルにチェックイン。ロビーはきれいにしているが、部屋は古めかしい。部屋からOさんに電話すると『会社の近くまで来て』と言われる。なぜ会社ではなく、近くなのだろうか?

 街中道路工事

ホテル前からタクシーを拾い、行き先を告げたが、『その道は工事中で行けない』と断られる。Oさんから回り道の方法を聞いていたので、それを告げると『それなら行ける』と。何とか客を運ぼうという考えはないのか?しかし走ってみて分かった。工事だらけで進まない。運転手が『相乗りさせてもいいか、収入が苦しいんだ』という言葉に思わず頷くほど。しかし残念ながら相乗りの客を見つけることもできず、何とか目的地に着いたのだが。

 

そこは大きな道のある交差点。だが、その大きな道、済南市内のメインロードの1つ、は全面改装中で、全く通行できない。山東省の省都が今頃、こんな基本的な工事をしていることが信じられない。中国は広い、そして沿海部と内陸部などという簡単な区分けでは説明がつかないことが多い。高速鉄道が開通して、済南はようやく開発が始まったらしい。『中国には経済の時差がある』を実感する。

 

Oさんが向こうからやってきた。北京で分かれて以来、5年ぶりの再会か。彼のオフィスはこの大通りに面しているが、今は歩いて行くしかない。先ずはランチに行ったが、そこは20年ぐらい前の北京を思わせる社区の中にある小さなレストラン。きつい山東訛りの従業員に餃子を頼む。とてもいい感じだ。餃子もうまい。元々餃子と言えば山東だから。


こんなところに日本通が

オフィスに戻る。ここは地場の旅行会社。日本語が出来る人がいるというので話を聞きに行く。するとこんなところにこんな人がいるのか、と思うほど、日本語が達者で、しかも私より数段日本のことを知っている。写真もプロ並みの腕前で、日本各地で撮った写真を見せてくれるがただただ驚くばかり。この会社の毎年のカレンダーの写真にもなっている。

 

山東のお茶事情も聴く。やはり日照の緑茶が取れる程度。隣の河南省などともあまり関係がないようだ。出してくれたお茶も福建省の紅茶だった。『緑茶は来年の春に日照へ行って飲んだらどうだ』と言われ、もっともだと思う。

 

なんだかんだ話していると夕方になり、Oさんの上司の上海人と一緒に夕飯を食べることになる。この季節はザリガニだろう、と連れて行かれたのは、おしゃれなレストラン。ピアノまで設えてある。外では豚や鳥を焼いているので、そのギャップもまた面白い。済南のエンゲル係数は異常に高い、というのは本当だろう。

 

上海人Lさんも30年にわたって旅行業界で活躍、日本語も達者で『日本と日本企業の弱点』を明快に説明してくれた。特に日本は謝ればよい、すぐに『すみません』というが、それは『中国人には謝っているようには聞こえない』という点が、今の日中の感情的な面を助長しているように思う。

 

そして夜ホテルに戻ると衝撃のメモが置かれていた。済南は面白い。

⇒ http://www.yyisland.com/yy/terakoyachina/item/5810