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10年ぶりにソウルへ行く(3)仁川のチャイナタウン

8月27日(火)

3.仁川 中華街

今朝は仁川のチャイナタウンへ行ってみることにした。聞く所に寄れば、地下鉄1号線に乗って途中で1回乗り越えれば仁川に行けるらしい。空港のある仁川とは少し離れているので空港線は使えない。 ボーっと電車に乗ること1時間弱、東仁川に着いた。ここで降りるとよいと教わったが、どこを見ても中華風の建物は見えない。表示もない。駅員に聞くと、『次の仁川駅へ行け』と言われてしまう。後で分かったことだが、東仁川から歩いて行っても行けなくはないが、遠かった。

 

また電車で一駅。仁川駅前には中華門があり、それらしい。これは最近作られた物。チャイナタウンを観光地として発展させるための方策だ。門を潜り、坂を上ると、中国物産屋、中華レストランなどが見えてくる。横浜中華街の小型版のように感じられる。午前中早いせいか、お客は殆どいない。

 

かなり歩いて行くと街が切れ、下り坂に。日清境界線、という場所があった。清末に仁川は開港され、日本も清も租界を設けた。港町仁川には清国人は勿論、日本人も多くやってきたようだ。1884年に日本と清国の境界線を引いた場所がここだった。自国内にこのような境界線があること、朝鮮半島の歴史は重い。丘の上に公園があり、そこから港を一望した。

 

フェリーターミナル

公園から下り、港へ向かう。見た目より距離がある。今日はさほど暑くはない、と言っても8月末。モンゴルから来た身には辛い。ようやく仁川港へ着く。そこにはフェリーターミナルがあり、表示によれば、青島、天津、大連など、中国の沿岸都市と10数時間で結ばれている。やはり中国は近いのだ。

 

2007年頃、青島など山東省を中心に、韓国企業家の夜逃げ事件が何件も報じられた。加工貿易の限界、低賃金、低コスト時代の終わりを察知し、逃げ出したのだが、良く中国側の港で拘束された、と言われている。それはこのルートを使って韓国へ戻っていたのだろう。

 

実は清末も山東から大量の中国人が仁川へやってきた。義和団事件など、国内が乱れ、国を捨てる人が続出、移住先としてこの地も視野に入っていた。そして日中戦争、国共内戦で国民党兵士の一部は朝鮮半島に逃れている。勿論冷戦時代、この航路は閉鎖されていた。中韓の国境正常化がなされた90年代の初め、再開され、チャイナタウンも活気を取り戻したと言われている。

 

ちょうど青島からの船が到着した。観光案内所で中国語を使ってみたが、韓国人が何とか対応してくれた。ここでは中国語は必須。中国人も観光客というより、商売などで来ている人が多いように見えた。中国語の地図を貰ってまた歩き出す。

 

チャイナタウンの台湾系4代目

昼時になり、チャイナタウンへ戻る。港近くにもレストランがあったが、一杯か休みだった。店の前には呼び込みのおじさんがいる。如何にも韓国っぽい。だが彼らは中国語を解さない。どうしてよいか分からない。中には中国語に対して嫌な顔をする人すらいた。これでもチャイナタウンか?と思ったが、もしや横浜や神戸でも同じことが起こっていないだろうか、と考えてしまう。

仕方なく月餅を売っている店のお婆さんに話しかけてみた。すると普通話が通じた。ただこの店以前はレストランだが、今は月餅などを売るだけとなっていた。『親戚の店はあそこだよ』と言われ、1軒の店に思い切って入る。すると案に相違して、中は完全に中華世界だった。何と店員同士が普通話を流暢に話し、おばあちゃんが孫に普通話で話し掛けていた。全く拍子抜けだ。注文した海鮮炒飯は美味しかった。何と自分でコチジャンなどをつけて味を調える。

聞いてみるとここのオーナーは若い華人で4代目だという。出身は台湾と言ったが、どうやら原籍は山東、祖父は国民党系だったようだ。台湾にも親族がおり、横浜にも大阪にも親戚がいる、という。仁川の華人の実態が少し見えた気がした。周囲の客も観光客ではなく、地元の人が多かった。どこか中国の方言を使っていた。

そう、山東と言えば26年前に行った時、地元の人の言葉が全然聞き取れなかった覚えがある。訛りが非常にきついのだ。ただ従業員たちの言葉は非常に標準的であり、最近は変わったのかと思ったが、ここで働いている人は基本的に韓国人と結婚して韓国にやってきた中国人女性だったのだ。確かに韓国で韓国語が不自由では働く所は限られる。なるほど。

帰りにさっきのお婆さんから月餅を買った。手作りだと言っていたが、芋などが入っており、ちょっと独特だった。中秋節を控え、月餅を売り出しているのはどこのチャイナタウンも一緒。ただ日本のように1年中、月餅を売っているところは少ないだろう。

西大門監獄

仁川から電車で来た道を戻る。ホテルへ戻ろうかとも思ったが、そのまま電車に乗り、3号線に乗り換えて、仁寺洞へ行ってみる。韓国の古本屋は仁寺洞にあるはずだったが、今はもう殆どない。韓国の茶の歴史を知るすべを求めたが、ただの観光地だった。昨日も行ったお茶屋さんを訪ねるも、平安さんは不在。

 

Kさんから一度は見ておくのが良い、と言われた西大門監獄を思い出し、また地下鉄に乗る。独立門という駅で降り、地上に上がると、独立門があったが、改修中でよくは見えなかった。1897年に独立の意思を示すために作られた門。パリの凱旋門をモデルにしているとか。手前には清の施設を迎え入れるための迎恩門の柱が残っており、意志が感じられる。

 

そしてその公園内を歩いていくと、高い塀が見えてくる。西大門監獄は1908年から80年にわたって監獄として使用され、日本時代は独立運動家を収監し、拷問などを加えたと言われる場所。独立後も独裁政権が民主活動家を弾圧したという。現在は一般公開され、負の歴史が語られている。

 

正面の古い建物を中心に展示がされており、順路に沿って見ていく。ここで亡くなった人々の写真が壁一面に張られていた。監獄の様子も見ることが出来るが、激しい拷問などが行われたであろうその場に立つとたじろいでしまう。赤子を連れた女性がおむつを替えたり、乳をやるのに苦労している話、単に勇敢な愛国主義者、という面だけでなく、人間、という側面を展示していることに打たれる。


 

敷地の隅には処刑場がある。その前には一本の高い木が立っている。『慟哭のポプラ』とも呼ばれる。刑の執行前にその木に縋り付いて嘆く、その場面を想像すると、なんとも言えない気分になる。日本と韓国の歴史を考え、これからを考えていく上でも、この監獄はやはり一度訪ねてみる価値があると思う。

 

新世界百貨とロッテ免税店

帰りに新世界百貨店に寄る。実は仁川の空港で貰ったパンフレットの中に新世界百貨店に行くとスタバのコーヒー無料という券が付いているのを見つけたのだ。しかもそれは中国語の案内だった。ちょっと覗いてみようと思う。

 

4号線の駅を出て少し行くとその建物はあった。かなり新しいと思ったら2005年に建てられた新館だった。その隣には1930年に三越のソウル支店として建てられた歴史的建造物が未だに現役で使われている。こちらはいかにも三越、という雰囲気の建物だ。高級品ばかり売っている。新館の10階に行くとスタバがあった。券を出すと本当に無料でコーヒーをくれた。これは何となく嬉しい。

 

午後の高級デパートはお金のありそうな奥さん連中がおしゃべりに花を咲かせていた。日本と何ら変わらない風景。免税コーナーもあり、ちょっと探してみたが中国人の団体観光客がいる気配はなかった。スタバ作戦も不発か。中国人はどこにいるのだろうか。興味が湧いてきて歩き出す。

 

実に懐かしい、重厚な建物が見えてきた。旧朝鮮銀行本店、1912年に東京駅などを設計した辰野金吾により設計された。現在は韓国銀行貨幣金融博物館として使われているようだったが、既に時間が遅く閉館していた。

 

更に行くとロッテデパートがあった。そこの前には観光バスが停まり、中国人がたむろしていた。中に入り、エレベーターに乗ろうとすると中国人で大盛況。ようやく乗って9階の免税フロアーで降りようとしたが、何とお客がフロアーに溢れ、かき分けなければエレベーターから降りられない始末。これには参った、というか呆れた。


 

昔は日本からの観光客が多かったこのフロアー。今や完全に中国の天下。化粧品コーナーに群がる女性達、高級腕時計を真剣に眺める男性達、熱気がある。売り子も中国語で話かけて来る。日本人だというと『日本のお客さんはここで腕時計なんか買わない』と。そりゃそうだ、1つ100万円もする時計をソウルで買う人はあまり聞いたことがない。

 

上の階には韓国のりやキムチのコーナーがある。ここへ行くと突然売り子が日本語になるからおかしい。日本人は本当にお金を落とさなくなっている。帰りもエレベーターに乗るのに一苦労。こういう光景を見ると『中国人富裕層の購買力』などと報道されるのだろうが、富裕層なのだろうか、こんなに押し合いへし合いして。庶民としか思えない。

 

ついでに南大門まで歩いて行く。ここも懐かしいが、今はきれいに整備されており、面白味には欠けた。マツタケを売る店が多い。ここにも中国人はそこそこいた。近くの両替所も漢字が目立つ。両替してみるとレートも明洞より良かった。

つくしのホスピタリティ

夕飯はどうしようかと思ったが、一度ホテルに帰り休む。今日はかなり歩いており、疲れたので、近くで済ませることに。昨晩Kさんから『ここは昔からあり駐在員行きつけの店だ』と言われた「つくし」に行ってみる。カヤホテルのちょうど向かいにある。中に入るとお客で満員だった。お姐さんが日本語で『一人?』と聞くので頷くと、席を1つ作ってくれた。何となくビールを頼んでしまう。そこは居酒屋だから。

 

それにしても何となく来たことがあるような気がしてきた。ママに『昔一度来たことがあるようだ』というと、とても喜んでくれ、サービスだと言って、ビールのおつまみを出してくれた。こんなことは日本では今や考えられないだろう。しかも一人で来たというので、話し相手になってくれ、最近のソウルの飲食事情を教えてくれた。

 

この店は元々日本人が始めたが、リーマンショックの頃、帰国してしまい、今は韓国人のみで営業している。お客も日本人駐在員が徐々に減ってきており、今は韓国人サラリーマンが主体。だが『私たちは日本の居酒屋の雰囲気を大切にしていきたい』と言い、それを守ってきている。ただ『昨年から客単価は下がっている』と韓国経済が決して良くないことも教えてくれた。

 

ここは揚げ物が有名だというので、カツ丼を食べてみた。日本で普通に食べるカツ丼と変わりはなかった。量は多かったが。ママは『味はどう?』と聞いてくる。日本人が美味しいと感じる味を保つためには日本人のお客さんの率直な意見が聞きたいというのだ。『私はいくら頑張っても韓国人。味覚は違う』と実に謙虚だ。

 

店内には著名人の来店写真なども飾ってある。2階では宴会が行われていて忙しい。そんな中でもちゃんと相手をしてくれる、凄いな、と思う。記念写真を撮り、後でメールを送る。こんな交流がしたくなる店、しかもほぼ初めて行った店、有難い。

 

10年ぶりにソウルへ行く(2)仁寺洞のお茶屋さん

8月26日(月)

歓迎中国の明洞  

翌朝は遅く起きた。モンゴルの疲れもあったかもしれない。取り敢えず明洞あたりへでも行ってみるかと地図を見てみると、このホテルのロケーションが更に抜群だと分かる。昨日乗った地下鉄1号線は幹線であるが、明洞へ行くには4号線に乗り換えなければならない。ところがこのホテルから歩いて5分の所に何と4号線の駅があった。4号線で3駅行くと明洞だった。昔は時々歩いたが、大体は誰かに連れて行って貰ったので、あまりよく憶えていない。適当に歩き出すと日本人観光客の姿が目立つ。

 

明洞もきれいになっていた。昔はごちゃごちゃしたところ、というイメージだったが午前中のせいか、すっきりして見える。そして観光地らしく日本語の表示も目立つが、それにもまして中国語が多い。4か国語併記の看板もたくさんある。いつの間に韓国はここまで表示を替えたのか。日本のインバウンド関係者は一度視察して、取り入れるべきだろう。

 

それにしても中国の買い物パワーはすごいようだ。銀聯カード使用は当たり前、化粧品店の前では若い女性店員が盛んに中国語で声を掛けている。日本人の影はここでも薄くなってきている。

 

明洞聖堂へ行ってみた。100年以上前に作られたこの教会、韓国にはキリスト教徒は多いと認識しているが、日本時代はどのような扱いになっていたのだろうか。何かの会合があるらしく、沢山の韓国人が上ってきたが、それは全て女性であった。婦人会なのか、それとも男性は仕事でこられないのだろうか。この辺も韓国っぽい感じだ。

 

そのまま北へ向かって歩いていく。昔仕事で通った韓国の銀行ビルがいくつも見えた。今では名前が変わった銀行も多い。これは日本と同じだが、アジア通貨危機時の韓国の衝撃は日本の比ではなかった。ほぼ国が破たんし、全てがひっくり返ってしまった。そこからの巻き返しは逞しい。荒波を乗り越えて今の韓国がある。だがその巻き返しは無理をも伴っている。今後がちょっと心配だ。

仁寺洞の金明湯

そのまま歩いていくと、中国ではお馴染みの味千ラーメンが店を出していた。その隣にはトンカツのサボテンが店を出している。日本の外食産業もかなり入ってきているようだが、この2つが隣同士というのは何となくイメージが合わない。繁盛しているのだろうか。


 

右側に公園が見えてきた。ここの塔は国宝だと聞いたので見に行ったが、完全に囲われていた。傷みが激しいのだろう。なかなか良い雰囲気の模様が描かれており、興味深い。公園には沢山の老人が木陰に腰を掛けていた。なんでこんなにいるのだろうかと思っていると、実に涼しい風が吹いてきた。モンゴルは涼しかったが、ソウルは比べれば暑い。その中で、この場所に座りたくなる気持ちは十分にわかる。

 

そこは仁寺洞の入り口だった。仁寺洞、10数年前、一度だけ行ったことがある。骨董屋街、何となく古い物を売っている店が多いという印象があった。そして韓定食の店が脇道にある。韓国の銀行の人に連れられて、そこへ行ったことがある。

 

だがここも観光地化していた。日本語と中国語が飛び交っていた。私は韓国のお茶についての情報を集めたかった。茶博物館と書かれた所へ行ってみたが、そこは博物館ではなく、茶葉を売る店、そして喫茶店となっていた。韓国茶の歴史など、一遍も出てこない。すぐに店を出てしまった。

 

ふらふらと歩く。すると1軒のお茶屋が目に入った。何となく入る。この辺はフィーリングだ。小さなその店、おばさんが『何を探していますか?』と日本語で聞いてきた。『ウメチャ、ゆずちゃ?』と言われたので、『茶の木の葉で作った韓国のお茶を見せてほしい』というと、おばさんの目が変わったようだ。

 

『英語は出来るか』とその後は全て英語の会話になった。日本語もかなりできたので、不思議だったが、確かに彼女の英語は完璧で日本語より上手かった。『韓国茶の何が知りたいの』というので歴史と答えると、彼女はノートに3つの地名を書いた。『済州島』、これは歴史が新しい。『宝城』、ここは日本時代に茶木を植えた場所。そして『河東』、ここが韓国茶の起源だ、という。地図がないのでどこにあるのか分からないが、取り敢えず頭に入れる。

 

そして出てきたお茶にビックリ。韓国緑茶、といいながら、それは緑茶を数年寝かしたプーアール茶のような茶だった。紅茶もある、ということで、同じ茶葉から作った紅茶を飲んだが、甘かった。200年以上の古樹の葉で作ったという。非常に特別な茶。智異山という山の中に自生しているらしい。そんなところがあるのだろうか。興味が湧く。

 

いつしか店に入って2時間が過ぎてしまった。途中欧米人と日本人のグループが入ってきて、茶を買っていった。店主である平安さんは『分かる人にしか良さは分からない』といいながら、商売の難しさを語っていた。

スユップとコーヒー

昼は某マスコミのYさんに食事に連れて行って貰った。市庁、ここも懐かしい場所だ。昔の定宿はこの近くのコリアナホテル、ちょっと経費に余裕があるとチョスンかプラザ、ロッテホテルに泊まったこともある。全てこの付近だった。市庁は日本時代のものが残っていたが、いつのまにかその後ろに馬鹿でかい建物が建っていた。周囲もすっきりときれいになっている。

 

市庁の裏へ行く。この辺も昔はごちゃごちゃしていたが、今は立派なオフィス街。ビルが立ち並ぶ。西新宿あたりを歩いている感覚である。入ったお店は豚肉の店。プサン料理屋で人気があるという。スープに豚肉を入れ、ご飯も入れて食べる。韓国は牛肉とのイメージが強いが、実は豚がよく食べられている。牛は豚の2倍の値段はするので経済的な理由もあるが、豚が旨いと言う理由もある。

 

食後にコーヒーを飲みに行った。この辺も日本的な対応だ。ソウルには今や急速にコーヒーチェーンが拡大している。大手が5₋6軒あるそうだ。そのうちの1軒に入ると、『ダッチアメリカーノ』という見たこともないコーヒーがある。アメリカーノなのに濃いコーヒーだった。

 

支払いは多くの人がカードで行っている。サインはなぜか機械に書き込む。これでサイン確認ができるのだろうか、とみていたが、確認している様子もない。どうやら形式的なサインだが、その後どこへ行ってもこの機械があるのには驚く。日本では未だにサインを確認せずにカードを返すところが多いが、これは効果があるのだろうか。

 

注文後、席に着く。いつ取りに行くのかと思っているとYさんが持ってきた機械が鳴る。ポケベルである。これで準備完了を知らせる。これは良い方法だ。これなら注文後、席を見つけて座っていればよい。因みにこのお店、イメージはスタバを意識して、ソファーやテーブルなど、様々な空間を用意。居心地の良さをうたっているようだ。

 

本屋と光化門

 

 

Yさんに教えられて、近くの本屋へ行く。この地下の巨大本屋も懐かしい。昔出張の合間によく行ったのだ。奥さんのリクエストで、K-popのCDを買いに行く、でも字が読めない。仕方なく誰かに頼んで読んでもらう。そんなことを繰り返した。今回ここに来たのは日本語の本がたくさんあると聞いたから。韓国の茶の歴史に近づく資料はないかと探したが、残念ながら見つからない。これは結構難題なのかもしれない。だんだん疲れてきたので外へ出る。

 

本屋のあるビルの前に像が見えた。英雄、イシュンシンの像だ。そこを北へ向かうと光化門が見える。更に行く景福宮。李氏朝鮮時代に建てられ、文禄慶長の役で焼失。その後朝鮮総督府庁舎なども置かれた場所。ソウルの中枢だったところだ。青空の下、暑さが堪えてくる。光化門の前に観光客が集まっていた。衛兵の交代が行われている。これには台北を思い出す。風が強い中、韓国らしい生真面目さで衛兵は交代した。さすがに疲れたので、地下鉄でホテルへ戻る。

 

ホテルの支配人カンさん

ホテルへ戻るとフロントにカンさんがいた。このホテルの支配人だ。今回連絡を取った南ソウル大学の安先生に宿泊先を告げたところ、『支配人は教え子だ』ということで、紹介を受けていた。こういう出会いは嬉しい。喫茶ルームでお茶を飲むながら話を聞いた。

カンさんは以前ソウル市内の免税店で部長をしていたが、働きながら安先生について日本語を勉強した。そして縁あってこのホテルに就職した。韓国は90年代終わりから激動を迎え、色々なことがあった。政治的にも常に何か起こっている。その中で一貫して日本人客を中心に受け入れてきている。現在はHISと提携し、お客の70%は日本人だという。

最近は中国人観光客が増えているが、彼らは部屋を汚すし、廊下で騒ぐなど評判がよくない。中国人は受け入れないホテルが実は多い。中国人団体は郊外の決まったホテルに泊められているとのこと。その方がトラブルは少ない。

カンさんは実に誠実な人。昔日本にもこんな雰囲気の人がいたな、と懐かしく思い出す。いや今の日本にもいるのかもしれないが、私が出会わないだけ。97年のアジア通貨危機後、実施的に経済が破たんした韓国では、大きな変動があった。その中で生き抜くためには努力も必要だし、根性も必要だったであろう。とにかく誠実に、そして言葉ではなく行動をとる姿勢、日本に必要なことだろう。

韓国から日本を見る

夜は北京時代にお会いし、その後も交流を続けている出版社のK社長と会った。Kさんは日本人だが、20年以上韓国をベースに活動しており、東京に会社がある。4か国語で本を出版する、というユニークな企画を実行したり、最近はスマホアプリなどで成功しているという。そろそろ完全に韓国に拠点を移すとのことで、韓国にも会社を立ち上げた。凄い。

カヤホテルを紹介してくれたのもKさん。この辺は便利が良い。近くの韓国食堂で夕食をご馳走になる。韓国と言えば日本と並んですぐに酒だが、2人とも飲まないので、もっぱら食べて話す。韓国の経済も心配だが、竹島問題も含めた日韓関係も困ったものだ。そして更には日本そのものが大きな問題。

外から日本を見るととても危うく見える。他国のことをとやかく言っている場合ではない筈だが、政府も政治家も、そして見えない力も、国民の注意を外へ向け、国内の矛盾から目を逸らさせている。これは危険な兆候だ。中国も日本も政府のやっていることはあまり変わらない。

食後、コーヒーショップでコーヒーを飲む。この雰囲気は日本と何ら変わらない。日本と韓国が何かで争うことなど、世界的に見えればとても小さなことだし、あまり意味のないこと。現在の若者は日本も韓国もほぼ同じ行動をとっており、コーヒーを飲みながらスマホをいじる、昔と異なり十分理解し合えるはずだ。

 

10年ぶりにソウルへ行く(1)韓国のホスピタリティに感激

《10年ぶりに韓国を歩く》  2013年8月25-31日

かつて90年代に元勤務先で韓国を担当したことがある。香港駐在ながら年間4₋5回、3年半で15回以上は訪れた街、ソウル。サムソン、現代、LGなど大財閥と仕事をしていた頃が懐かしい。最後に行ったのは2003年のSARS直前だったから、あれから10年が経っていた。

 

『韓国にも茶畑がある』とは聞いていたが、最近何度か具体的な話を聞いた。そして雑誌に書くコラムの関係でソウル行きが現実のものとなった。さて、一体どのように変貌しているのだろうか。楽しみではあるが、既に浦島太郎の心境。

8月25日(日)

1.     ソウルへ

アシアナ航空 人情味あるサービス

前日までの2週間をモンゴルで過ごし、北京経由でソウルへ向かった。今回はアシアナ航空を使ってみた。予想通り?アシアナは大韓航空よりも、エアチャイナよりも少し安かった。7月にLAで事故を起こし、中国人学生が3人亡くなっていたのだから、北京発の便が安くなるのは仕方がないこと。

 

だが飛行機は満員だった。考えてみれば8月最後の日曜日の夕方便、中国人が乗らなくても韓国人は乗る訳だ。飛行機の到着が10分遅れたというアナウンスがある。中国では誤差の範囲内だが、これは日本に近いサービスだろう。ちょっと期待が持てる。

 

離陸して飲み物サービスが始まった。CAは一人一人ににこやかに、そして実に丁寧に対応していた。これまで中国人のサービスに慣れてきていた私には驚くほど新鮮だった。エコノミークラスで、しかも1時間半しかないフライト。突然バタバタと配るだけと思っていたので、その対応は気持ちが良かった。

 

着陸のアナウンスが流れ、シートベルトをしろ、座席を元へ戻せ、というと、皆が一斉に従っている。これも中国では見られない反応だった。非常にきちんとしていて、むしろ日本より整然としている。よく見ると、実は中国人もそこそこ乗っていたのだが、このような反応が機内であると自然と従うようだ。大きな声で騒ぐ乗客もおらず、快適だった。忘れていた韓国のイメージが少し出てきていた。

広い仁川空港

飛行機は定刻に仁川空港に着いた。着陸からゲートまで随分と時間がかかった。更にイミグレまで行くのも時間がかかる。何とも広い空港だ。90年代中頃までは金浦空港しかなかったので、仁川は1₋2度しか使ったことがなく、ほぼ未知のエリア。昔の金浦はイミグレに時間がかかっていたが、今はスムーズ。荷物も速い。

 

先ずは両替をしようと、懐かしのKEB窓口へ。日本円を出すと日本語対応であっという間に両替できた。今日は日曜日で市内では両替できないよ、と書かれていたが、それはお客を誘導する作戦だった。この辺も賢い。あまりよくないレートで替えてしまいちょっと後悔。

 

手に入れたウオンを持って携帯ショップへ。10年前同様、韓国にはシムカードはなく、日本と同様携帯電話を借りなければならない。これは不便だ。しかも一日のレンタル料が3000W、電話を掛けると別途料金がかかるシステム。これは高い(日本とほぼ同じ料金か)。店員の対応は実にすばやくて、時間は日本ほどかからないのが良い。


 

空港鉄道で市内へ

次に市内へ向かう。今回初めて空港鉄道を使ってみる。それにしても空港内の表示は分かりやすい。すぐに駅までたどり着いた。中国ではこうはいかない。空港からは特急と普通があると聞いていたので、迷わず普通電車に乗る。

 

実は前日北京で、ソウル勤務経験のある同窓生OさんからTマネーカードを貰っていた。これを使えば電車もバスも地下鉄も乗れるという。確かにスムーズに乗れた。お金をチャージする機械も日本語や中国語の表示があり、便利だ。

 

そして電車。90年代はソウルで電車に乗るのは怖かった。何しろ韓国語しか表示されておらず、それが読めないと行先の方向すら分からなかった。地下鉄などは乗れないし、地上へ出る出口も分からず困ったものだ。だが、今は完全に違っていた。表示は韓国語のほか、英語、中国語、日本語で表示されており、車内アナウンスも4か国語でなされていた。これなら外国人でも問題なく乗り降りできる。進歩したな、韓国。

 

日曜日の夜で電車は空いていた。韓国人は皆黙々と携帯をいじっている。そうでない人は外国人だろう。分かりやすい。約1時間でソウル駅まで行ったが、料金は僅か4000W。特急でも8000Wだそうだから、日本に比べて何と安いことか。

荷物を抱えてソウル駅

昔はソウル駅を使ったことがなかったのでよくわからないが、今は巨大な駅となっている。空港鉄道から地下鉄に乗り越えようとしたが、駅の端から端まで10分以上かかった。大きな荷物を持って移動するのは大変だ。今回はモンゴルの2週間を含めて計3週間の旅なので、大きなスーツケースを持っている。駅の周辺は暗闇に包まれてはいたが、所々立派な建物が見え、イルミネーションが鮮やかだった。どうも昔のソウルに暗いイメージを持つ私には違和感がある。

 

ようやく荷物を抱えて地下鉄駅までやってきたが、今度はTマネーをかざしても通過できない。おかしいと思い、駅員に身振りで聞いてみると、スーツケースが大き過ぎて反応してしまうらしい。駅員はこともなげにスーツケースを横にして先に通し、私を通してくれた。何だか不思議な思いだった。

 

今日のホテルまでは地下鉄1号線でたった一駅。私は一番前の車両に乗っていたが、降車駅の南営には改札が一つしかなく、ホームをずっと歩く。この駅は地下ではなく地上にあり、ホームから周囲が見えた。何となく古ぼけたホテルのネオン、そこには私の知っているソウルがあった。これだけで私はここが気に入ってしまった。

2.ソウル1

古いが便利なカヤホテル

駅を出ると、そこには昔のソウルの街があった。何となく暗くて、そしてごちゃごちゃした感じ。字は読めないが入ってみたくなるようなレストラン。酔っぱらいの男性。うすぼんやりしたネオン。

 

カヤホテルはそんな中、駅のすぐ近くにあった。実はこのホテル、韓国在住20年のKさんに教えてもらった穴場ホテル。立地が良い割にかなり安い。勿論古さは否めないが、ほかのホテルが軒並み先進国料金になっていく中、有難い。エレベーターに乗ると独特の甘いにおいがした。部屋は洋式と韓国式があり、私の部屋はベッドだった。WIFIも普通に繋がり満足。勿論モンゴルとは違い、お湯も十分に出た。もうそれだけで言うことはない。

 

因みに韓国は日本と電源プラグの形態が異なるが、フロントでいうとすぐにプラグを貸してくれた。これで充電の問題もなかった。フロントのお兄ちゃんは片言以上の日本語を話す。

大衆食堂の陽気なおばさん達

時刻は既に夜の11時。駅の処にパン屋があったが、もう閉店だろうか。何とはなく腹が減り、外へ出る。外へ出るとパンではなく、肉が食べたくなるのが韓国。条件反射だろうか。この南営駅付近には食堂は沢山ある。が、一人で入れそうなところはどこか、ちょっと考える。明洞など観光地には日本語の表示もあり、日本語も通じるだろうがここはローカルエリア。どうしようか。

 

迷っていると、店の前に日本語表示があるのでそこへ入る。だが店の主人は反応しない。『カルビ』と言ってみると、黙って外へ出ていき、ビルの奥の店を指した。そうか店を間違えたのか。奥へ入ると威勢の良いおばさんの声がかかる。こんな時間でもやっている。そういえば日本でも夜遅くまでやっているところは焼肉屋だったな。

 

店のおばさんにカルビ、というと、メニューを持ってきて上カルビを勧める。私は安く上げたいので、豚を頼んだ。するとおばさんは豚なら2人前からと言い出し、攻防があった。私が譲らないと、ビールか焼酎を飲めと勧める。これも断ると商売にならない客だなという顔をした。私はさらにライスを頼む。

 

豚肉は一人前でも大きかった。とても二人前など食える量ではない。よかった、と思っていると、何とライスに大きな鍋の味噌汁が付いてきた。更にはお決まりのサイドディッシュがどっさり。どうやってこんなに食べろっていうんだ、という顔をしていたのか、おばさんがまたやってきて、サンチェに焼いた肉を載せ、味噌を載せ、キムチも載せて包んでくれた。そしてなんと『あーん』しろと言い、食べさせてくれた。

 

何だか不思議な感覚に包まれた。私が黙っていると『美味しいか』と日本語を使ってきた。これしか分からないらしいが、十分だった。美味しいと伝えるとおばさんは喜んで次ぎ次ぎと作り、口に放り込んできた。こりゃ大変だ。味噌汁を掻き込みながら、どこまで食べられるか格闘した。この好意を無にすることはできない、訳だ。最後まで食べたときは死ぬかと思うほど腹が膨れていた。

 

おばさん達は皆ゲラゲラ笑っていた。店が暇なので遊ばれてしまったようだ。それでもこの韓国ホスピタリティ、恐るべし。これが若い女性だったら、コロッと参ってしまう男も多いのではないだろうか。この対応こそ、韓国のソフトパワーの源かもしれない。日本には既になく、勿論中国にはあろうはずがない。その夜は腹が一杯で、あのおばさんの笑顔を夢に見そうで、遅くまで眠れなかった。