香港歴史散歩2003(2)莦萁湾

【ルート2莦萁湾】2003年12月6日

(1)愛秩序湾(Aldrich Bay)

 

MTR莦萁湾駅に降りた。今回は子供2人と一緒だ。半ば無理やり連れ出した。駅のA3出口を出るとバスターミナル。そこは香港開港直後に赴任した英国海軍工兵隊将校アルドリッチの名に因んで命名された。現在は海までかなり距離があるが、当時は恐らくここから海であったのだろう。但しアルドリッチが何をしたのか、何故ここが重要であったのか分からない。いえることは1941年12月17日の晩日本軍がここから上陸し、鯉魚門軍営を攻撃したこと。軍事上の重要拠点であったことは確かである。

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(2)天主教滋幼会修

バスターミナルより南に少し行くと、莦萁湾道と柴湾道の分かれ目に出る。これを柴湾道に沿って左に登る。5分ほど登ると莦萁湾滋幼中学と言う建物が見える。建物の1つにはあのタイガーバームガーデンの胡文虎の記念の文字が見える。何か関係があるのだろうか?更に少し登るとそこに天主教滋幼会修院がある。かなり古い建物のようだ。現在は修道院として使われているようだが、厳かな雰囲気に建物の中に入るのは躊躇われる。庭もあるようだが、木々に覆われておりよく見えない。

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ここは1941年の日本軍侵攻当時野戦病院として使われており、負傷兵が収容されていた。12月17日から18日に掛けて、日本軍は鯉魚門軍営を攻撃する際ここにも進入し、負傷兵の殺害、看護士への強姦、殺害が行われたという。

尚日本軍の総司令官は酒井隆中将。彼は1928年に瀋陽で起こった張作霖爆殺事件時の瀋陽駐在武官、1937年の南京大虐殺時の天津駐在師団長として両事件に関与した人物と言われており、香港側から見れば情け容赦の無い日本軍の典型であったと思われる。

(3)鯉魚門軍営

滋幼会修院の前の道を渡り、更に柴湾道を登ると左側にIsland Gardenというかなり古いアパートがある。かなり規模の大きいアパートで入り口も3つに分かれており、バス停の名前にもなっている。きっと50年代にでも建設されて有名な物件なのだろう。そのアパートの先を左に曲がる。『鯉魚門渡暇村』と言う表示がある。登って行くと反対方向から沢山の観光バスと擦れ違う。どうやら学校のバスのようだ。ここは休日の学校活動に使われていることが分かる。

少し登って下るとそこが渡暇村のようだ。入り口に守衛が立っている。入ろうとすると遮られる。聞くと宿泊客以外が立ち入る場合は一人HK$27を払うこと、又4時半で閉鎖するという。既に時間は4時に近く、また守衛は迷惑そうにしているので、立ち去ることにする。しかし何故入れないのか?恐らく学校活動の場所なので不審者(?)には注意を払っているのだろう。

ガイドブックに寄れば、ここは1845年以降イギリス軍が兵を駐留させ、兵舎が築かれた場所で、見ると20世紀初頭と思われるかなり古い建物が建っている。どうやらこの村の宿泊はこの歴史的な建物を使用するようだ。何となく興味が沸く。何時か泊まってみたい気もするが、又入れてもらえないのだろうか?尚砲台跡は今は駐車場だと言う。

先程触れたように日本軍は12月17日に侵攻し、18日にはこの軍営を占拠したと思われる。そして19日の午前までには、ジャーディン、パーカー、バトラーの主要3山は全て陥落した。この軍営を襲った一隊はそのままパーカー山へ向かったと思う。

(4)西湾砲台とトーチカ

渡暇村に行く道の途中に、トレールの階段がある。ここを登って行けば本日の最終目的地である西湾砲台に着く。渡暇村で追い返された我々は道を引き返し、階段を登る。登って行くと直ぐに渡暇村の横に沿って道が続く。横目に村を見ると確かに年代物の建物である。ここが宿泊場所として使われている。広々とした敷地内は散歩をするにも良いようだ。最後に門があり、トイレを使いたい場合は入れてもらえるようだ。更に行くと舗装された広めの道が続く。子供達は既にバテバテ、ベンチで休む。空気も良く、遠くに更に高い山が見える。これがパーカー山だ。

道を大きく曲がると門の跡が見え、そこを入ると右手に監獄のような建物が見えてくる。現在は鍵が掛かっており、格子戸越しに中を見ると小さな部屋に区切られており、正に監獄のようだが、どうやらこれは兵舎跡か? 登って行くと更に左右に建物があり、規模が大きいことが分かる。

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この一帯は1987年に公園になっており、遊具施設もあるが、その前の看板には『ここは旧軍営であり、不審物は自ら処理せず通報するように』と書かれている。その看板の反対側には、かなり古い木がある。公園にする際に、根元部分を掘り起こしたのか、巨大な根っ子がむき出しで、不思議な感じのする木である。夜など行ったら、さぞ怖いのでは?

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その木の横を登ると、砲台跡に出る。現在は壊れた台が転がっているといった感じでここも保護されていない。確かにここからの眺めは良く、海に向かって大砲を撃つことも可能だっただろうと思う。途中から高射砲が設置されたというから、空爆に備えていたのかもしれない。

但しこの砲台が実際に役に立ったと言う記述は見つからない。恐らくは早々にスタンレー方面に撤退を余儀なくされたのでは?その後に残された一般民衆、病院などが悲劇の対象となってしまったのだろう。砲台跡より更に一段高いところに登ると九龍半島までの全景が見渡せる。この景色を見ながら、日本軍侵攻のことを考えるが、何とも浮かばない。

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