香港歴史散歩2003(1)柴湾

先日本屋で『香港市区文化の旅』と言う本を見つけて購入した。何と日本語で書かれており、香港島・九龍各26ルートが示されていた。オリエンテーリングに参加するつもりで、このルートに乗って歩いて見ることにした。『香港に歴史はあるのか』、素朴な疑問である。長く香港に住んでいてもいつも行くところは決まっており実は香港のことは何も知らない、というのが実情であろう。健康と新しい香港発見ため、歩いてみたい。

【ルート1柴湾】2003年11月30日
(1) 羅屋
MTR柴湾駅に降りた。私は香港在住8年になるが、この地下鉄の終点に降りたのは1度しかない。昨年中学の運動会を見に行くため、小西湾運動場に行ったときだけである。柴湾はそれ程印象の無いところである。正直言ってベッドタウン、住宅しかない場所のように考えていた。

駅前に吉勝街という道があった。ほんの少し歩くと公園があり、その向こうに『羅屋』はある。1988年に改修されたこの家は現在香港歴史博物館の分館となっているが、元は200年の歴史を有する典型的な客家の家である。18世紀初頭に現在のシンセンより300人の客家が柴湾に移り住み、各村を形成。羅氏もその1つで客家では村を屋ということから『羅屋』となった。移住した場所は木々に覆われ、耕作には適さず、果樹栽培、養豚・養鶏などで生計を立ててきたという。

1950年代より柴湾は住宅化の波に飲まれていく。客家の家は次ぎ次ぎに壊され、1967年までに全ての羅屋の人々はいなくなってしまった。現在唯一残された1軒を保存している。

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家は小さな入り口を入ると警備員が座っており、パンフレットをくれる。『三間両廊』と呼ばれる三間は中央に居間、右側に寝室、左側に作業場と分かれている。寝室・作業場には屋根裏部屋がある。居間の天井は高い。作業場では脱穀を行うような機械が置かれている。農作業があったことを窺わせる。両廊は入り口の左側にキッチン、右側に物置がある。キッチンには竈があり、食事もここで取る。

客家と言えば、土楼のような城壁を巡らした家屋を想像する向きもあると思うが、香港島に移住してきた人々は中国の伝統的な家屋を守ってきたと言えよう。僅か120㎡の小さな家であるが、一度覗いてみるのも面白い。

(2) 西湾国傷墓地
羅屋からすこし歩くと連城道があり上り坂になる。何気なく見上げると驚いたことに一面墓地が見えた。どうやら中国系の墓のようだ。

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ところで柴湾は何故柴湾というのか?本に寄れば、元は西湾と呼ばれていたが、福建や広東の漁民が水や薪を補給したことから柴湾と呼ばれるようになった。17世紀半ばから客家の移住が始まり、漁業・農業・石の切り出しで生計を立てた。石の切り出し、ここ柴湾は三方を山に囲まれており、石は大量に出たのだろう。墓地が多く作られたのも、1つには石があったからかもしれない。坂の途中には墓石屋もあり、様々な墓石が置かれていた。丁度歌連臣角道に曲がるあたりだ。

10分ほど歩くと軍の墓地があった。記念碑が建てられており、中に入るとあまり多くないが墓がある。墓石を見ると皆戦後亡くなっており、西洋人と香港人の退役将校の墓かと思われる。

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更に3分ほど登ると、右側に西湾国傷墓地がある。ここには第二次大戦中に香港防衛の為に戦死した兵士の墓がある。基本的には日本軍の香港上陸、占領中に死亡した人々である。入り口には経緯が書かれているようであるが、入ることが出来なかった。

道の端から墓碑を見てみる。イギリス人と思われる人々の名前が書かれている。1941年に死亡した人は日本軍の上陸戦で亡くなったのだろうか?1945年のものは、獄中で亡くなったのだろうか?しかし一番心に残るのは、墓碑に名前の無い、無名戦士の墓である。彼らはどの様にして亡くなったのだろうか?墓地の周りにはインド兵やカナダ兵の墓もあるという。我々日本人はこの歴史を心に刻むべきである。

この墓にはカナダ隊のトップ、ローソン准将のものもある。ローソンはイギリスの依頼により1941年11月に2,000人の部隊を率いて香港に入り、香港島の守備にあたっていた。戦死した場所は今の陽明山荘近くの黄泥峡であったという。

(3) 日本軍香港侵攻時の東旅司令部
更に登って行くと10分ほどで石澳道にぶつかる。そこを右に折れて数分行くと大潭道との交差点、所謂大潭峡に出る。そこを柴湾側にほんの少し登ると東旅司令部跡が見える。

1941年12月の日本軍侵攻により新界、九龍は僅か5日で落ち、守備軍は香港島にて戦力を東西2つに分けて防衛。東側はウォーリス准将が率い東旅と呼ばれ、その司令部がここにあった。残念ながら建物は残っているものの、荒れ放題で全く保存されていない。ゴミだらけの内部を見るとイギリスの歴史観が判るような気がする。


(4) 東旅司令部防衛用機銃トーチカ
大潭峡の交差点に戻り、小山の上を見上げるとそこに小さな建物のようなものが見える。ここは交通の要所であり、司令部の背後に当たる為、トーチカが作られた。トーチカは現在苔むしているが、半分埋まったまま前面に2つの窓、側面に各1つの窓を持ち、機銃掃射出来る様になっていた事は分かる。

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背後には煙突のようなものが見える。これは展望塔であったようだ。しかしこんな小さなものでは、日本軍が侵攻した19日には一体ここで何が行われたのだろうか?結局何事も無く、スタンレーに撤退したのでは?そして最終的に12月25日のクリスマスの日、日本は香港を全面的に占領。香港ではこの日を『暗黒のクリスマス』と呼んでいる。

帰りは歩くの止めて、9番のバスで莦萁湾に出る。山道からこれまで歩いてきた墓や小山が良く見える。ここは本当に軍事戦略上重要な拠点であったのだろうか?素人の私には分からない。次回は莦萁湾を歩くことになる。

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