《深夜特急の旅-香港編2003》(3)中環

3.2003年7月 中環(P84-88)

(1)雪廠街と電話
今回は中環。沢木氏は前日知り合った張君を訪ねて中環に渡る。我が職場も中環、そして職業も張君と同じ銀行員(?)の私は昼休みに何度となく、この辺を歩いてみた。

先ずはフェリーを降りて張君に電話する場面。30年前公衆電話は少なかったとあるが、私が最初に香港に来た1980年代公衆電話は沢山あったと思う。但し現在は携帯電話普及率ほぼ100%の国であり、また香港テレコムをPCCWが買収し経費削減を図ったことから、公衆電話は30年前の水準に戻りつつあると思う。(スターフェリーの乗り場付近には何故か今も多くの公衆電話があるが?)

店で電話を借りる習慣は現在でも中国の田舎ではよく見られる光景であるが、これも携帯の普及でその内無くなるのであろう。固定電話を引くこと事態が廃れて行く方向にあるのだから。

話は脱線するが、香港の電話の歴史はここ中環から始まる。1882年に東方電話電力公司が設立され、中環の15戸で使用が始まった。九龍サイドに渡るのは1898年のこと。この東方電話電力公司は雪廠街(Ice House Street)2号(現在のマンダリンホテルの横か?)に事務所を持っていたようだ。雪廠街は読んで字の如し、氷の貯蔵庫があったところ。日本的に言えば『氷室』。尚マンダリンホテルの横などは1862年に埋め立てが行われるまでは海だったと思われる。

1840年代に上陸した英国兵は(アヘン戦争の結果、香港を占領する目的)当地の暑さで熱病などを罹ったが、氷が無かった為多くが亡くなったと言われている。そこで氷を輸入して貯蔵する場所が設置されたわけ。
因みに今でも高熱が出た時、氷で冷やすのが英国式、暖かくして汗を出すのが日本式(アジア式?)。私の子供が入院した際、夜中に看護婦が何度切っても強烈な冷房をつけていき、付き添いの私が風邪を引いた経験を思い出す。

(2)銀行
張君の勤めていた銀行は何処の銀行なのだろう。書いていないのだから勿論知りようも無いが、気にはなる。香港最初の銀行は英国統治の開始直後、1845年に開業した金宝銀行(東方銀行)。この銀行は50年後には倒産したようだが、最初の発券銀行にもなっている。初期の仕事はアヘンの輸入に関する貿易金融というから、時代が偲ばれる。

現在の発券銀行である3行は、香港上海銀行(HSBC)が1865年に開業(その年から発券業務開始)、スタンードチャータード銀行が1859年に支店開設(1862年に発券開始)、中国銀行の出張所が1916年に設立されている。HSBCは最初に中国に進出した外銀としても知られ、上海のバンドには旧上海支店の建物が残っている(1923年建築)。英国系の強い後押しのあったHSBCが中央銀行の無い香港で実質的に中銀の役割を担うことになる。

1970年代初といえば、歴史的には中国の国際社会への復帰(台湾の国連脱退)の時期であり、台湾の中国銀行が名前を中国国際商業銀行という民間銀行に変え、中国側の接収を免れる、というようなことが起こった時期である(戦前の中国銀行は国民党により台湾に移されたが、共産党の新中国も外為専門銀行として中国銀行を設立。この時期各地の台湾資産を接収していた。余談だが現在大陸・台湾双方に交通銀行と言う名の銀行があるが、英語名を変えて対応している。)

何れにしても張君がビジネスマン風の服装をしていたことから、英国系銀行の幹部候補生として就職していた可能性が高い。

(3)陸羽茶室

張君が沢木さんを昼食に連れて行ったのが陸羽茶室だ。1927年創業の老舗。現在も士丹利街にどっかりと趣を残して建っている。但し30年前は庶民のレストランであったところが、現在は一部常連と観光客の為の場所と化してしまった。

約7年ぶりに行って見ると、先ずは昼の飲茶屋のあのごみごみした熱気が無い。テーブルとテーブルの間隔が離され、優雅な昼食を取る場所になっている。店員は相変わらず昔の服装をしているが、それすら観光地の民族衣装のように見える。またメニューを見てビックリ。確かにザラ紙に書いてあるのは同じだが、値段が点心1つHK$25から。何と高いこと。30年前は『点心4つ、肉と野菜の炒め物、魚の油煮、ヌードル、パイで、2人でHK$20(1,200円)』である。現在は点心4つ、焼きそば、パイで3人でHK$390(約6,000円)。

確かに雰囲気は良い。高い天井、レトロな調度品、しかし何かが・・・?

12年前、初めて香港に赴任した際、家内と1歳3ヶ月の長男が合流した翌日最初に連れて行ったレストランがここ陸羽であった。今もある4人掛けのテーブルに座り、ポーレー茶を注文。何故か長男も美味そうに飲んでいると店員のおばあちゃんが広東語で捲くし立て始める。『こんな小さい子にお茶を飲ませるなんて、なんて親だ。子供は白湯だよ。』広東語など分からなくても、意味は通じる。日本だったら、客に向かってなんだ、と言うところだろうが、そのおばあちゃんの飾らない親切に胸を打たれたのであった。この雰囲気がここの良さではなかったのか??今では常連との間でだけ、このような会話が交わされているようだ。

因みに陸羽とは、唐代の人、中国茶の世界では『茶聖』と言われており、名著『茶経』を著している。『茶経』は現在までバイブルとして読まれ続けており、その卓抜した才能が窺い知れる。私も何時か原書で読んでみたいと思っている。

(4)皇后大道

張君と別れて、皇后大道を西へ。キャットストリートへ向かった。私もブラブラ西へ。現在は両側ぎっしり銀行、時計屋、服屋などが並ぶ、きれいな道である。レーンクロフォードの先に石坂街がある。この辺りから、左側の上りにぎっしりと店が見える。野菜市場あり、服を扱う店あり、雑貨あり。沢木氏の書いたものと似た光景が見えてくる。

但し彼が得た興奮が私には無い。廟街でも同じであったが、何がそう違っているのか?やはり客の側ではないか?30年前は皆がここで買っていた。男も勤め帰りに夕食のおかずを丹念に一品一品選んでいた。今はどうか?勤め帰りは皆スーパーだ。買い物に熱気が無いのは当然だろう。

老婆に対する商売が出てくるが、これも今は見られない。私はこの光景を台北の行天宮の前の地下道で見たことがある。老婆が客の老婆に何かを塗りたくり、その後糸を使って産毛(?)を抜いているのだ。見ている方が痛くなる感じだ。

道には新しい風景がある。中環中心(70階建て)、新紀元広場(洋式の広場がある)、そしてエスカレーター。沢木氏はこの付近に興奮して、『キャットストリートなどもうどうでも良くなった。』と書いている。

(5)キャットストリート
この道の正式な英語名はLascar Rowである。Lascarはインド兵、Rowは日本的に言えば長屋であろうか。要するに英国の香港占領後、この場所にインド兵の宿舎が作られたと言うことである。その後1900年代初めには、現在で言う骨董屋街が出現したようだ。古本屋なども多かったが現在は無い。

では何故Cat Streetと言うのか?一説には多くの泥棒が『ねずみ銀貨』と言われる古銭を盗んではこの辺りの骨董屋に売り捌いており、そのねずみ銀貨を吸収していたところから、猫が連想されたようだ。確かに現在でも古銭が多く売られている。

2年ほど前、香港に赴任してきた時に、よくキャットストリートも歩いた。確かに『泥棒市』『がらくた市』といった風情だ。色々なものを売っている。でも、観光地化してしまったこの場所は、北京から来た私にはもう物足りないものだった。
北京のがらくた市場には活気があった。大勢の人がいた。真剣な駆け引きがあった。これが興奮する要因だ。何となく楽しくなる要素だ。国は発展し過ぎると活気を失う。これは成熟とは違うのではないか?今の日本も同じだろう。

因みにこのキャットストリートからハリウッドロードへ上がる階段のような道がある。私はお茶屋巡りをすると何時もここの途中のトイレを使わせてもらっているが、ここをLadder Street(楼梯街)と言う。

ハリウッドロードの少し上には青年会(YMCA)と書かれた建物が見えるが、ここで1929年魯迅が歴史的な講演をしたことで知られている。当時の香港は孫文をはじめ、劉少奇・魯迅等共産党系の人々が香港で活動していた歴史的な場所でもあり、今のSOHOエリアには孫文の興中会の拠点があった革命の場所なのである。

中環から上環はオフィス街の印象が強いが、多くの歴史を含んでおり、歩いてみる価値の在る場所と言える。

 

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