《深夜特急の旅-香港編2003》(2)香港仔

2.2003年7月13日(土) 香港仔(P116-124)

今回は沢木氏が香港編で最後に書いた香港仔に行く。

夜7時半、セントラルよりバスに乗る。沢木氏の頃アバディーントンネルはあったろうか?無ければ島の西側を回ったのだろうか?今はトンネルを潜ると直ぐに到着。30分。やはり終点だ。しかし降りたところはバスターミナル。以前と光景は違っていた。

ターミナルの前は湖南街。あの少女ベティが書いた住所だ。あの場面は心に残る。沢木氏が香港仔を書いたのもこの場面の為だと思われる。当時水上生活者は15万人以上と言われ、香港仔の名所となっていた。ベティ達も幼い頃から日本人等の団体観光客に土産物を売っていたに違いない。観光客はベティの家を見て土産を買う。何とも切ない。

でも観光客が去ると、皆何事もなかったように縄跳びをして遊ぶ。この強さ。明るさ。この名場面の場所も今は唯のターミナル。隣に広い道路が出来、その向こうに綺麗になった遊歩道、海を眺める為のものだが、観光客の姿など全く無い。地元民が夕涼みをしている。小さな船で麺を作り、その辺の人に売っているぐらいだ。

確かに歩き易い。しかし味気ない。レストランジャンボが遠くに見える。ジャンボも80年代はこれぞ香港名所として、何度も来たものだが、今や規模も縮小されたと聞く。何しろ味が良くない、高い。悪い香港の典型例となっては致し方ない。レストランに向かう艀に乗り込む客も数えるほどしか居ない。寂しいがこれは許容されるべき淘汰。70年代には小さな船上で食事を供するレストランは無数にあったろうが、こんな大型のレストランは無かったろう。このレストランが香港仔の最後の輝きであったのでは?

ベティ達の通っていた小学校が気になっていた。かれらはどんな学校生活を送り、現在どうしているのだろう?現在香港仔には小学校が2つしか見当たらない。1つは香港仔大道にある私立カノッサ。隣にはお決まりとなった天后古廟がある。但し現在は改修工事中。どちらにしても校庭は殆どないし、水上生活者の子供達が行く学校とは思えない。もう1つも直ぐ近く、坂を上ったところにある公立学校だが、きっと30年前にはもっと多くの学校があったはずだ。『湾の周りに小さな廟があり、難民集落があり更に歩いて行くと学校がある』となっている。小さな廟は湖南街の直ぐ横にあるので、もう少し先に学校があったのではと想像する。兎に角水上生活者が坂を上って学校に行くとは思えない。

今水上で生活する人々は殆ど見られない。15万人の水上生活者は90年代に出来た政府の『公屋』に吸収された。それは彼らの見ていた夢の実現なのだろうか?それは香港の発展なのだ。だがそう思うと何故か複雑な思いになるのは、我々部外者のエゴであろうか?

沢木氏が唯一選んだ香港の観光名所『香港仔』は、今は静かな1つの町となった。

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