《深夜特急の旅-香港編2003》(1)筲箕湾

沢木耕太郎氏の名作『深夜特急』は約30年前の旅行記(?)であるが、何時読み返しても心踊るものがある。香港に住んでいるこの機会に名作の舞台を踏んでみることにする。尚順番はバラバラ、気が向いたときに出かけるスタイルである。

1.2003年7月5日(土) 筲箕湾

(1)トラムの風景

最初は家から近い所で、筲箕湾に行く。沢木氏はセントラルよりトラムで行っているが、今回は天后よりトラムに乗る。ところで何故沢木氏は筲箕湾に行ったかを書いていない。何か特別な興味があったのかと思ったが、トラムに乗った瞬間感じたものは『そうだ、そこが終点だったから』と言う呆気ないものだった。毎日暇に任せてふらついていたようだから、小雨の降ったその日トラムから降り気も無く、終点に着いてしまったのだろう。

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トラムから見る景色は30年の間に随分と変わったことだろう。セブンイレブン、ワトソンズ、マクドナルドなど当時は存在しなかったものが目に付く。北角に新光劇院が見える。建物は建て替えたろうが、30年前もあったはずだ。因みに私は以前ここで一度広東オペラを見た。きらびやかで宝塚を思わせたが、延々5時間も劇が続いたのには驚いた、と同時に飽き飽きしたことを良く覚えている。

もう少し行くと葬儀場がある。香港島で唯一と言われており、いつも葬儀が執り行われている。先日自殺したレスリーチャンもSARS騒ぎの中、ここで葬儀が行われていた。SARSの折は、亡くなる方が通常より多く、3週間から1ヶ月待ちと言われていた。ここも昔からあっただろう。クゥオリーベイの太古プレースなどは新しいハイテクエリアであり、またUnyやJascoのある太古城も新しい町である。英国系のSwireが所有しているが、元々は何だったのだろう。沢木氏はどんな風景を見たのだろう?

(2) 筲箕湾

太古を越えると筲箕湾である。筲箕湾は2つの地区に分かれており、西側を西湾河、東側を東大街という。トラムの終点は東大街である。初めて終点まで来た。非常に簡単な終点だ。ここは東大街の真ん中。道幅はあまり広くない。両側に食べ物屋や雑貨を売る店が並ぶ。海方向に歩いて行くと天后古廟が見える。こじんまりした建物だ。古くはここが中心であった。沢木氏はここを歩いたろうか?特に書かれていない。

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更に真っ直ぐ行くと店もなくなり、海が近くなる。地下道を越えるとそこに譚公廟がある。筲箕湾は古来漁村である。海の守り神として、漁民は譚公廟を崇拝していた。現在は建物も新しくなっており、少々重みに欠ける感じだ。

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廟の先は海。『筲箕湾は小雨に煙って無数のサンパンに埋めつくされていた。』と表現されていた湾には、今も多くの船が停泊していた。但し生活する為のサンパンは数えるほど(それでも何隻かは洗濯物を干していた)、基本的には漁船。偶々天気が快晴であるせいか、沢木氏が描いたうら寂しい筲箕湾は既に無くなっていた。

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なおも先に進むと、船舶修理の小さな店が並ぶ。但し船を修理しているものは多くないようだ。何故なら店先にはバス、乗用車、バイクが多く置かれていたから。店を覗くとそのまま向こう側の海が見える。吹き抜けだ。爺さんが一人、椅子に靠れて眠っている。こんな風景は30年変わらないのでは?

(3) 香港海防博物館

香港海防博物館の表示を見つける。魚の卸売市場の隣。何気なく入り、緩やかな坂を上ると立派な建物がある。入場料10ドル。展示場は何とエレベーターで8階に行き、そこから外へ出て数分歩いた別棟にある。公園のようなところを歩くと大砲が置かれ、弾薬庫などもある。展示場で見ると香港の海防は明代より600年の歴史がある。その最初は倭寇の侵略を防ぐことにあった。続いてポルトガル、そしてアヘン戦争のイギリス。殆ど人が住んでいない時代から砲台は置かれていた。

展示場から外へ出ると湾が一望できる。対岸には鯉魚門がある。どうもここを隔てる海峡が鯉の口に似ており、セントラル、チムサッチュイが鯉の尻尾の形に近いことと海峡の入り口(門)であることから、鯉魚門という名前が付いたらしい。因みに昔行ったことがあるが、酷く観光地化しており、値段も高く、満足できる場所ではなかった。

博物館から戻ると、地下鉄駅近くの野外市場に行く。流石漁村だけあって魚を扱う店が多い。土曜日と言うこともあり、人通りも多い。値段も心持安いようだ。ただ魚はここで取れるのだろうか?疑問がわく。

(4)麺屋

沢木氏が元ペンキ屋の若者から麺をご馳走になる場面を探したが、今や屋台は衛生面で禁止されており、6種類の麺を出す店も見当たらない。仕方なく、天后古廟向かいの利安という麺屋で魚旦魚片麺を食べる。これが抜群に旨い。麺は細いうどんのようで柔らかい。(『白い麺のソバは、味も日本のうどんに似ていて、さっぱりとした塩味のスープによくあった』と表現されている)魚団子と厚揚げの中が魚のすり身といった感じの魚片が載っている。スープはあっさりした塩味で胡椒が加減良く効いている。16ドル。30年前の塩味の利いたスープはこれだろうか?1ドルであったとあるから、16倍か。若者が寝泊りしていたという『ルーフ・トップ』も探してみたが、見つからない。30年は殆どのものを変えてしまった。

元ペンキ屋の若者が明日の日雇い仕事をかたに沢木氏に麺をおごるこの場面、外国への遠い憧れと職の無い現実、何とも言えない悲哀を感じさせる。1970年代前半と言えば、文化大革命で大陸から多くの人が流れてきており、職も減ってきていただろう。沢木氏も数多く歩き回った中でこの場面を書きたくて、筲箕湾を登場させたのだろう。今の香港に重ねられる部分があるのでは?

帰りは地下鉄に乗る。30年の間にトラム通りの下には便利な地下鉄が走る。トラムが地下鉄に、そして人の心も変わっていったのだろうか。

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